十四(8)

死と戦争

年初にオデッサの義母が逝去した。脳卒中。義母の死は戦争とは何の関係もない。戦争がなくても人は死ぬ。第二の母の死に私の世界が壊乱したあの日々に脳裏に去来したいくたの言葉のなかにこんなひとつがあった、いわく、「平和な時代に死なせてやりたかった」。

だがすぐに激しく首を横に振った。こんな考えは、それこそ、ウクライナにかかわるあらゆることを戦争と結びつけようとする、恥ずべき牽強付会であると。「こんなもの(戦争)は私たちの家族に、愛に、生活に、幸福に、指一本触れることはできない」と気丈にふるまった、義母の明るい笑顔に対する冒涜であると。

生と戦争

義父の悲傷は深甚であった。私たちは義父を日本に呼んだ。3月の2週間、義父は日本で過ごした。やれ都心だ、江の島だ、秩父だと、あちこち連れ回した。

義父は趣味で映像を作る。日本で撮った大量の写真や動画を繋ぎ合わせて、全10話からなる日本旅行記を制作、1話できるごと、私らに送ってきた。その制作作業がこのかんの義父の無聊と寂寥を慰めたわけだ。最終話が送られてきたのはつい先日のことである。内容は、滞在の最終日、私ら家族4人と義父で半日井の頭公園に遊び、私と乳児Rは家に残り、妻と幼児Lと義父で成田へ。私は自らが立ち会わなかった成田の別れの場面に映像で際会して落涙禁じ得ず。またすぐ会いたい、すぐまた来てほしい、と切なく願った。そのことを昨日、ビデオ通話で、義父に伝えたら、なんとびっくり、私がオデッサに住んでた2年半のあいだに義父がその実母を亡くすということがあったのだが、そのときにも涙を見せなかった気丈な義父が。「私もすぐ会いたい、会って抱きしめたい」と声を詰まらせ。

義母の死と戦争は何の関係もない。戦争がなくても人は死ぬ。だが残された義父の涙に戦争は関係ある。ダーチャの庭の木の葉も散り林檎の収穫も終わり、日はますます短く水銀柱の目盛りはますます低く、いやでも聞こえてくるのは、今日はどこそこの変電所が破壊された、今日はどこそこで何列(1列=4時間)の停電、迎えるはウクライナ独立史上最悪の冬、との報。その展望の暗さと不安に、義父の寂しさが関係ないはずはない。

戦争がなくても人は死ぬ。戦争がなくても人は転んで怪我をし風邪をひき、巨細の不運にも遭う。その人たちのうえにもひとしなみ、戦争は暗い影を落とす。その人たちからもひとしなみ、露侵略軍は、ともしびとぬくもりを奪っていく。

R、私の光

義母が肉眼で見ることかなわなかった私たちのふたりめの子、R。もうすぐ1歳になる。

義父が日本を立ち去ってからビデオ通話で義父と義父が今やその孤独のあるじとなったダーチャ(郊外別邸)の庭を背景に見るたび、今すぐそこへ行きたい!ウクライナへ、オデッサへ、ダーチャへ、帰りたい!と強く願うようになった。私らは戦争が始まって日本へ避難的に引っ越してからも毎年夏にはオデッサへ帰っていたが、帰郷を主導したのはいつも妻とその両親であって、私はいつも厭々・渋々だった、侵略と攻撃への恐怖と不安から、ウクライナは私と家族の肉体の赴く先として、嫌悪すべきアドレスであった。だが義母の死による私の精神の破壊の奇妙な果実として、そんな障壁は瓦解した。あの22年以来はじめて、ウクライナへの望郷の念を、それも強烈なそれを、私は掻き立てられた。

それで、今年(2025年)は、義父が日本に来たのだから、来年は、私たちが、ウクライナに行くのだろう。そうしてその次の年は、義父がまた日本に来る。そんなふうになるかなあ、できるといいねと、そう妻とも話していた。

だが、その後の経過はどうであろう。米の愚王が剛腕もてワンチャン年内にウにさしあたりの平和をもたらしてくれるという希望は深い落胆にかわった。ウの防御は薄くなり露の攻撃は厚くなり、いまや一晩にウ上空を数百の露ドローンが飛ぶ。

翻ってR、わが光、もうすぐ1歳になる。この子をウクライナの空の下に置いてみる。連夜、数百のドローンが飛ぶ。その唸り(原チャを思わせるというモーター音)、サイレン、爆発音。この想像に私は耐えられない。

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