秋の高尾山(子連れ/赤ちゃん/ベビーカー/紅葉)

その他

紅葉が見頃というので高尾山へ。子供(6歳と1歳)と私と嫁ち。11月中旬。

今年は紅葉が汚い

心なしか今年は紅葉が汚い。街でその印象だったが、山でも同じだった。蚊もいるし、熊も出るし、自然の逆襲だ。ヒトはもうもみじの美しさに値しない。

トイレに行く

出かけたのだものトイレには行かなければならない。妻は薬王院と山頂の間のどっかでトイレした。そんな並ばなかった由。「駅だのてるつだの、公共施設に、女子トイレを、もっと。」運動の何丘は賛同者である。ろこつな男女不平等である。便器の数を増やせ。男女同数かどうかは問題ではない。げんにどこいっても女性のほうが並んでいる。この不平等を是正せねばならない。明白な社会課題だ。

子供は出がけにトイレしてけっきょく下山までトイレしなかった。いま考えれば、よくなかったと思う。

赤ちゃんは、山頂で一回おむつを替えた。私らはモラルとデリカシーがないので、おむつ交換室(というのか)的なのは使わず、ビジターセンター内にあったのかもしれないが、ただ野天でおむつ交換した。

私は、子供と同様、下山まで一回もトイレしなかった。

ケーブルカーか、リフトか?

山頂まで登る手段が三つある。徒歩か、ケーブルカーか、リフトか。ケーブルカーのほうが列が短い。見かけ上リフトのほうが列が短いが、ゲートくぐってから長いのである。

私と子ども(6歳。当時5歳)は昨年同じ時期に紅葉狩りで高尾登山したときリフトつこたので、今年は皆でケーブルカーにした。朝9時時点、10~15分くらい待ちだった。どうということなし。

時間帯

11月半ばの日曜日、朝9時ごろだ、高尾山口に着いたのは。紅葉シーズンなので、既に人は多かった。だが上述、ケーブルカーの待ち時間は、さして恐ろしいこともなかった。下山したとき、午後2時過ぎだが、列はもっと長く、表示によれば、ケーブルカーで30分、リフトで50分待ちだった。恐らく、11時とかそんくらいがピークだったのではないか。早ければ早いほど良いということだ。当然か。だがサン・ピエトロ大聖堂では逆のことを言われた。

ベビーカー(山の下)

ケーブルカーのりばでベビーカーを預けられる。500円。畳まなくても預けられそうな感じだったがうちのはらくに畳めるやつなので「畳んだ方がいいですか」と聞いて「はい、できれば」と言われたので畳んだ。預けずに、ベビーカーごとケーブルカーにのる選択肢もあると思う。禁じれらたことではない筈。げんに上でベビーカーの人見た。ケーブルカー、混んでるっちゃ混んでるので、はばかられるっちゃはばかられるが、別に、必要なら、ベビーカーごと乗っても、いいと、個人的には思う。だが、混んではいるし、それによって2人ほどが次便に回される(7分間隔で出てる由だったので、7分待つ)。他人2人ほどを7分待たす覚悟で、必要なら、ベビーカーごと乗ってもよい。それが是認される状況は、色々とあると思う。

ベビーカー(山の上)

仮にベビーカーごとケーブルカー乗ったとして、

ケーブルカーの上の駅が標高470mくらいで、山頂が630mとかそんくらいだから、登っていくのであるが、ひとつの大きな節目である、薬王院というお寺までは、問題なく、ベビーカーで行ける。舗装路である。

そっから先は、多分、階段しかないんじゃないかなぁ。多分、そう思います。

別に山頂まで行かなくても、薬王院までの道筋で、だんごも食えるし、紅葉も見られるし、いい景色も見られる。子連れファミリーが、ベビーカーごとケーブルカー乗って、薬王院までだけ行って、景色みて紅葉狩りして、団子食って帰ってくる、全然ありだと思う。

食事(お昼ご飯)

いつから言うようになったんだ、「夜ごはん」て?「晩ご飯」もしくは「夕飯」だろうが?なんだ「夜ごはん」て。夜食のことか。いやいや、午後6時とか7時とかのメシを、今の人は「夜ごはん」というのである。

あと、あれもやめてくれ。自分の高校生時分を振り返って「学生時代は~」とか言うの。テレビの人とかがよくいうてる。学生というのは大学生のことを言うのだ。中学高校は生徒というのだ。高校生のときと言いたいなら「高校生のとき」と言えばよい。

昼飯の話である。高尾山の昼めしの話。

高尾山の下の町、つまり、京王線の高尾山口駅から、高尾山の登り口(含む:ケーブルカー&リフト乗り場)までの道すじに、そばやかなんか、ごはん食べるところがいくつかある。そこで食うもよし。あるいは、ケーブルカーないしリフトで登っていった先にも、いくつか食べるところがある。でもそういうところは混んでいるし多分高いしよく知らないがたいしておいしくもないだろう。おにぎり握っていくのがよろしかろうと思う。

おにぎり握っていくのが面倒であれば、京王線の「高尾山口」駅降りてすぐのところに、簡単なコンビニがあって、そこでおにぎり買っていくのもよい。あるいは、駅からケーブルカー/リフト乗り場に至る道筋に、おいなりさん屋さんがあって、そこでおいなりさん買っていくのもよい。

お握りを、どこで食べるか?(あるいは、高尾山の山頂とは、どんなところか)

私らは山頂ひろばでお握りを食べがちである。だが山頂には人がうじゃうじゃいる。これって楽しいんだろうか、と今回、思った。おにぎりを食べていて、これは私が早起きしてにぎったおにぎりだよ、おいしいのはおいしいが、海苔の上から山の空気のふとんをかぶせてそれごとほおばれていますか。もみぢの山でおにぎりを食う。そのよさを、ちゃんと味わえていますか。それが味わえるような環境ですかはたしてこれは。人が多い。座るところに困る。とっつき見つけた空いてる石のうえにとりあえず座ってまぁここがあるからここで食べようかと食べ始めた。違くないか? もっとひらけた、駘蕩とした、紅葉がよく見え、または眺望のいいところで、静けさと、こずえをわたる風と、ぽかぽかひだまりを、感じながら、食べるのが、山のおむすびの、本来あるべき姿ではないか。

その意味では、こと高尾山にかんして、山頂は、お昼を食べる場所として、正解ではない。では、正解はどこなのか。高尾山では、どこで昼飯食べるのが正解なのだろう? 教えてくれ、ツウの人!

稲荷山ルートで帰る

たしか、稲荷山ルートといったと思う。この山頂ひろばから、直で帰るくだり道である。それで帰った。

つまり、赤ちゃん(乳児、1歳)と、幼児と、私と、妻、この4人で、のぼりはケーブルカーでいき、くだりは歩いて帰った。

歩いて山を下りるとき、下り方(ルート)は、3とか4とかあって、私らのこの稲荷山ルートというのは、去年も私と幼児のふたりで歩いた、すでに踏み固められた道(既知の道)であって、ビジターセンターの人によれば、目安の所要時間は、1時間20分である。私らは(特に後述の事由により)ゆっくり歩いて、2時間かかった。

稲荷山ルートの美点は、もくどうが続いていて歩きいいことである。もくどう? 木の道、木道、人間がこしらえた木の階段が、ずっと続いている、それですごく歩きやすい。もっとも、それは前半(最初の3分の1)だけで、あとは山道なのだが、3分の1でも快適に降りられることは大きい。山のみどりのただなかを歩いていくのも楽しい。たまにきずなのは、ひらけた景色(眺望)に乏しいことと、あと、後半のほう、高速道路と並行していて、車の音がうるさい。これはしかし、気にならない人には、気にならないはずだ。

赤ちゃんどうした

ベビーカーは持って上がっていない。赤ちゃんは、腰巻のベルトに座らせていった。黒ベルト、とうちでは呼んでいる。抱っこ紐、の簡易バージョンということになるか。うちの赤ちゃんは赤ちゃんのとき(今よりもっと赤ちゃんだったとき)から抱っこ紐が嫌いで、だがこの腰巻の黒ベルトはすごい好きでねえ、私がこれ巻くと乗せてくれ、連れてってくれ!とすがりついてくる。赤ちゃんの重さを腰で受け止めるので持ってるこちらも疲れない。重宝なアイテムである。

稲荷山コース歩いてる途中で赤ちゃんがこの腰巻の上で沈(チン。眠ること)してしまったので、以後、寝てる子を前抱きしながら極めて緩徐な歩調でくだっていった。くだりはゆっくりなほど脚いわす。明日はわたし定めし筋肉痛。だが、私は、幸せだった! 赤ちゃんは私のふとんである。Akachan, you are the futon of my heart.こう繰り返しながら、ぽかぽかするかみのけにほほを寄せながら、ゆっくり歩いていった、なるべくゆっくり眠らせてあげたかった、森の眠りを、姫よ、人は、森の眠りを眠ることなんか、人生に何度もない。森の中で人に抱かれて眠ったことがありますか。こればかりは長く生きればそれだけチャンスがあるというものでもなく。もう人生に二度とないかもしれない。フィトンチッド?だっけ?みたいな言葉も脳裏に。

JR高尾駅お前どうした?

ところでJR高尾駅お前どうした? エレベーターが無い。京王線との連絡を、私らは大人2人だし男手あるしするから、一人が赤ちゃんを抱えもう一人がベビーカーを抱えるかたちで、あるいは私が赤ちゃんの乗ってるベビーカーを赤ちゃんごとかついでく形で、階段でも通行できる、だが、ママと赤ちゃん2人のときは、これ一体どうするのか? JR側としては、他社線への乗り換えなど知ったことかということだと思うが、げんに多いのだぜ中央線で乗って来て高尾で乗り換えて一駅だけ乗って高尾山口に行く人。高尾山に登りたいという中央線沿線住まいの人のニーズは無視か?

グリントヴェインという酒(グリント・ヴェイン)があって、グリューワインとかいう、一番ふぜいない言い方だとホットワイン。要は葡萄酒の熱燗、ホットでいただくワインである。これを山巓にて、おにぎり食べながら、飲みたいなぁと思って、昨日OKストアで、必須のイングリーディエントである、シナモンを、他のイングリーディエントである、貪欲、羨望その他と一緒に、あがない、「グリントヴェイン作って、水筒で、持っていくことできるけど、どうする?」と人に問うと、日が高すぎる、いくらなんでも、昼の12時にお酒飲むのは、私は、そんなことは、しないよと言われ、私も、では私も、しません。といって、断念した。

だが山頂でおにぎり食べてたらやはり悔やまれて、あーやっぱり持ってくればよかった、お酒飲みたいなぁ飲みたいなぁと思い、売店で、500円で、キリンのショート缶(350ml)を、買ってしまった。美味かった!!

だがグリントヴェインへの未練は残っていて、帰宅後、晩飯のとき、人に、では今、飲みますか、それを?と問うたらウンというので、こしらえた。

【作り方】こなべに赤ワインをとぷとぷ注いでみかんつぶうかべて(林檎、グレープフルーツ等なんでもよし)シナモン(粉でよい)とはちみつを少々、火にかけて、沸騰直前で止める。

ものの5分でできる。久しぶり飲んだ。美味であった。オデッサ思い出す。遠くモスクワも思い出す。

コップにそそがれたその深紅の液体をのぞき込んで心底気持ち悪そうにする子供(6歳)。ぼくは大人になっても絶対にお酒なんか飲まない、きもちわりぃ、と子供なら皆言いそうなことを言う。だが本当にこの子が大人になるころ世の中は変わっていて、酒を飲むというのがいかにも令和な(そのころ「令和」は、令和のこんにちでいう「昭和」みたいな、哀憐混じりの罵倒語になっている)ノリとして莫迦にされているかも知れない。煙草についてこの30年で世の中の常識がドラスティックに変わったように。

・moral
熊が人の世を騒がせる今日、高尾山にも熊が出やしないかと、熊鈴つけてる人が多い、私はもしかしたら彼ら熊鈴りんりんの登山者のおかげをこうむっていたかもしれない、今日あの多い人の中に熊鈴の者が一人だにいなければ熊は果たして現れた(よりによって私らの前に!)かも知れない、

にも関わらず、赤ちゃんが寝て、寝てる赤ちゃん(森の眠り姫)を前抱えしてその甘き眠りを破らぬようにとそぉっとそぉっと足を運んで下山してってるときに、りりんりりんと鈴鳴らして歩く人、私のそばを通るたびに、うるせーな早くどっかいけよ、と胸で悪態ついているのである。それを胸で思うことから実際に言葉や表情に表すことまでは径庭あるとは思うが、この自分勝手(私を益する他者をも憎悪の鞭で打つ!)、これが自分であり、多分は人間であるということ、moralを考えるときに基底とすべき事実。

・子の印象
最近読んだ暇と退屈の倫理学という本(の終章)に一日の生を生きるとは世界の突出(サリエンシー。それは道端に昨日なかったカラーコーンを一つ見つけるというような些細な、しかし無数の、昨日との異同)に脳を傷だらけにされることに外ならず、との言い方を教わって(それはランボオ「季節よ城よ、無疵な心がどこにある」の脳科学的なパラフレーズ)、ああ今日も今日、6歳児の脳みそは、森の小枝の無数の突出にずたぼろに傷つけられたのである。その多くの傷は今まさに子がそこの寝部屋でむさぼりつつある睡眠が癒し、均す。だが深き傷跡(印象)はのちのちの生にまで持ち越す。自身の述懐によれば、今日とりわけ幼な子の印象に残ったのは、森の中にかれじしんが見出した一本の木、その長い枝が光求めて斜めに、そうね、垂直線の多い森の中を、ななめにぐーんと伸びて伸びて、ついには森の外縁すなわち光の届く高さにまで達している、ある長い斜めの枝を持つ、一本の木。

もうひとつは、薬王院の手前、戦没慰霊碑のある小丘の、そこに立つパゴダ(霊塔)と、その前立の、仁王像と二匹(二羽?二人?)の天狗の像。逆順にいうと、まず仁王像を想像してほしい、その両脇に、剣をかかげたからす天狗と、うちわをもった鼻の高いてんぐ、それら銅像の背後に、巨大な白亜のパゴダが立っている。子はそのコンポジションがいたく気に入ったようで、長く見入っていた。天狗の像なら天狗の像、パゴダならパゴダという個物でなく、全部を一体のものとして、見て、感に堪えなかったらしい。すごくいい着眼だと思った。で、私がそのパゴダのことを子供の語彙に寄せてオベリスクと呼んだので、子が「テンゴベリスク(天狗+オベリスク)」という語を造語した。そのセンスも唸らせた。

下山も疲れた様子も見せず自分の脚で降りきったし、体力的にも感受性も、まったく頼もしい。赤ちゃんは可愛いし子供はたくましいし、そう思うと、本当に今日はいい一日だった。 了

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