先日ドストエフスキーの「白痴」という小説を読んだ。何か見たり読んだりして心が動いたら、きちんとどこかに書きとめておきたい。そのための修練を積んでいない私には論文だの評論は書けない。でも中学生のふりして「読書感想文」を書くことならできる。
前置き
どういう人がそれを読んだのかということについて一言しておきたい。何丘(私)はドストエフスキーに関して玄人である。言うて本当の専門家からしたら素人に毛が生えたくらいのもんだが、大学では一応ロシア文学なかんずくドストエフスキーを専攻したということになっている。そんなわけで「白痴」は当然既読であった。通しで読んだのは多分3回、他に評論における引用部を読むなどの形で部分的な読み返しは数知れず。ちなみにミローノフ主演のドラマ「白痴」(2003)も見た。
だが学校を出てしばらくしてむしろドストエフスキーのことが嫌いになり、10年ほど一切から遠ざかった。それを久しぶりに読み返す気になったのは、ことし2021年がドストエフスキー生誕200年、没後140年の記念の年だからだ。(1821年生、1881年没)
そうゆうわけで2021年6月25日に読み始めて、7月2日に読み終わった。新潮文庫、木村浩訳。
なお、今日は何ページ読みましたという報告をTwitter上でしていた。
今日の読書
— 何丘@オデッサ(ダーチャ) (@nanioka_odessa) June 25, 2021
『白痴』上巻165頁まで。懐かしいこの感じ、10年ぶりくらいの再読。白痴は最初からいきなり面白い。 pic.twitter.com/tq6gyzG89w
ちなみになんでこんなことをしたかというと、ドストエフスキーが重厚難解ということで嫌厭されがちで、それなりに本を読む人の中にもなぜかドストエフスキーだけは怖くて手が付けられないという人が多いのを知っているので、まぁたしかに長いけど毎日ちょっとずつ読んでけばこうしてちゃんと読み終わりますよと、一種の模範を示す目的でやった。布教のために。そんなことをする義理もないのだが。もと露文生として記念の年を盛り上げる一種のノブレス・オブリージュを感じたのだ、としておこうか(バカを言え)
ドストエフスキー「白痴」100字であらすじ
端的に言ってドストエフスキー「白痴」てどんな作品か。100字くらいで言い表せられないものか。試してみる。
19世紀ロシアの青年男女による熱愛三角関係ドロドロ大格闘のち大破局。一種の精神疾患者で生活能力は皆無だが無類に善良な青年ム(白痴と呼ばれる)、無学で不細工だが情熱一兆度のロが、絶世の美女ナ・フを取り合う。
101字。こんなもんだろ。さいしょ「19世紀ロシアの上流家庭の青年男女による悲恋の物語……」と書いてみて、いやそんななよなよしたものじゃない、過剰だ消尽だ焼盡だドストエフスキーだろうが、と方針転換、ロゴージンの熱度は「一兆度」(ゼットン)とした。
ちなみに「ム」とあるのはもちろんムィシュキン公爵、「ロ」はロゴージン、「ナ・フ」はナスターシャ・フィリッポヴナのことだが、これは単なる字数の節約でなくて、大江健三郎のなんかの小説……たしか洪水はわが魂に及びの中でこういう略称が行われていた、そこから借りた。
ドストエフスキー「白痴」読書感想文
さて書いてみようかい。一般に読書感想文は原稿用紙5枚、すなわち2000字だそうなので、それに合わせる。制限時間は1時間と決める。スタート。
ドストエフスキー「白痴」を読んで ドストエフスキーは若い頃よく読んだ。だが2014年のクリミア併合以来(そのとき筆者はモスクワにいた)ロシアについて愛国的調子で語られる言説一切を唾棄するようになり、必然的にドストエフスキーも嫌悪の対象となった。いろいろ考え合わせるとその前の2012年にはもうドストエフスキーを読むのをやめていたはずで、結局最後にその筆端に触れてからまず10年は経過していることがわかった。というわけで「白痴」、10年ぶりの再読である。 読み始め、実に嬉しい、懐かしい感じがした。そうそう、これこれ、この感じ。独特の文体なのだ。訳文の個性でもあるのだろうか、妙な言い方になるが……ひらがなの多い文体。実際ドストエフスキーは早読みできる。見かけページ数が多くて重厚長大なのだが、またこんなこと言っていいのだろうかと恐れ多くもあるが、「ムダなことばが多い」ので、ここはいいやと思うとさーと目の走速度が上がっていって結構飛ばし読みをしてしまう。もちろん難しい箇所だとか、滋味掬すべき箇所もままあり、そういうときは熟読モードに入るのであるが……。今回私は、せっかく10年ぶりの再会なので、前なら速読してしまっていたような箇所もゆっくり読みたい、なるべく1日の読量は100ページ以内に抑えて、じっくりねぶるように楽しみたい、と心に決めてかかった。 さて冒頭。長距離列車の二等客車から物語は始まる。主人公2人の邂逅――ムィシュキンとロゴージン。第3の主人公であるナスターシャ・フィリッポヴナの名もここで出てくる。いい導入だ。じたい面白く読め、かつこれから起こるだろうドラマに期待も抱かせる。ドストエフスキー作品には始まりのつまらないものがあるのを知っているので、白痴はいきなり面白いなと、古い読者は大喜び。 列車が目的地に到着し、長い長い一日が始まった。ドストエフスキーはつめこみ癖のある作家だ。ある人が喋り始めたとなるとそのひとつのカギカッコの中に無限の言葉が、ある場面が持ち上がったとなるとその場面に無限の登場人物が、ある一日が始まったとなるとその一日の上に無限の事件が、つめこまれでは止まない。相次いで生起する3つの場面――エパンチン家での美人三姉妹との茶話、イヴォルギン宅でのむさい男どものガチャガチャした騒動、傾城の美女ナスターシャ・フィリッポヴナのご自宅お誕生会。婚ずるの婚ずらんの、いくらの金がどこへ動くの……果てに札束が暖炉にくべられ、女は男と逃げていく。第一部・完。数百ページを読み終えて、これが全部たった一昼夜のできごとであったかと呆れ返るのである。 さて、続く第二~第四部について、私にはあまり語りたいことがない。あまり楽しくもない読書であった。相変わらず婚ずるの婚じないの、男2人と女1人の三角関係。ふつう三角関係というと1人を2人が取り合う。だがここで行われるのは、2人の男による1人の女の「押し付け合い」だ。なぜなら男Aは男Bを愛し(※友愛の愛)また女なしにはBが破滅することを知っており、他方のBは自分が女と結ばれれば女がそのために破滅すること、並びに女の破滅を避けるためには女がAと結ばれるしかないことを知っているからである。そのくせAもBも絶望的に女を愛しているのだ。当の女はというと、女はAを絶望的に愛しているのだが自分がAと結ばれるとAが破滅することを知っており、それよりはBと結ばれて自分が破滅するのを至当と観じ、そのために一方ではBを愛する努力(無学のロゴージンに読書を教えるけなげなナスターシャ)、他方ではAに自分を思い切らせるためにわざわざ別の女を呼び込んで三角を四角に拡張しようとする。(これでもだいぶ単純化している) こうした関係のすべては、私が楽しく読んだところの第一部、あの「長い長い一日」にほとんど決定していた。あの日、宿命の糸はいちどきに引き上げられ、糸の各結ぼれ先の劇的な衝突、核反応があり、以後の各章はその核反応による創傷でぼろぼろになった若者たちの、関係清算へのどろどろの努力があるばかり。私は読んでいて、ただに疲れた。 「白痴」は若者たちの物語だ。ドストエフスキーは20代半ばの青年を好個の素材として繰り返し小説の主人公に据えたが、とりわけこの「白痴」は青春小説の趣きが濃い。私も学生時代はまだ、三角関係だとか、他人との交渉に自分の破滅だの救済だのがかかるという感覚にリアリティがあった。だが今の私は30代半ばで妻と子がいて、愛か死かというような人間関係など外のどこにも持っていない。名作は読み返すたび新たな発見というが、ことこの作品に関しては、明らかに10年前の方が読めていた。私はこの10年の間に、「白痴」をわがこととして読むための条件を失った。そしてこの失ったものは、今後の人生で取り返す見込みがほぼない。 というわけで、私が人生で「白痴」を読み返すことは、おそらくもうない。私にとって完全にアクチュアリティを失った作品だ、ということがわかって、寂しく本を閉じた。
ほぼ2000字ちょうど。所要時間はなんだかんだ3時間くらいかかったと思う。白痴単体というよりはドストエフスキー作品って概してこうだよねみたいな話が多くて、第一にその知ったかぶりがハナにつくし、第二に、やっぱり白痴の感想文というからには白痴についてもっと書くべきではないのか。なんか文字数のかけどころが色々間違ってる文章な気がする。だがもういい。
拾遺
感想文に書ききれなかったことを余白(ここ)に書いてみる。
お金
お金の話がいろいろ出てくる。誰には何ルーブルの資産があるだとか。それを今の日本円に換算してみようと考えた。といって、何も考証を行うというのではない、そんなめんどくさいことはしない。あくまで小説の中の記述を手がかりに考える。
2つの数字に目をつけた。①ロゴージンが町中の高利貸を巡って一日でかき集めた10万ルーブル。その札束をそっくり燃え盛る暖炉に放り投げるというナ・フの蛮挙が人たちに恐慌を引き起こし、また人たちにナ・フの発狂を疑わせたところの10万ルーブルである。②「ガンカのいくじなし」ことガーニャ・イヴォルギンは、ナ・フ嬢によれば「たったの3ルーブルのためにワシーリエフスキー島まで逆立ちで歩いてく」守銭奴である。いや四つん這いだったか。お金の力に弱い人をどこそこまで逆立ちだか四つん這いで歩いていかせるために、日本円ならいくら必要であろう。
と考えて、仮に、「数字を3333倍」ということで自分を納得させた。ガンカのいくじなしは鼻先に万札を1枚ピラつかせればそうさな吉祥寺からお台場まで上半身ネクタイ一本で歩いてついてくる。そしてナスターシャ・フィリッポヴナはそんなガンカにこれ見よがし、暖炉に3億円の札束を投げ込んだのである。そら悲鳴も上がるよさ。
訳文
ドストエフスキーは岩波文庫と新潮文庫とあと今なら光文社古典新訳文庫版があってそれぞれ訳者が違う。私は昔から新潮文庫で読んでるので今回もそれで。木村浩訳。
で、学生時代はそんなことを思った記憶もないのだが、今回読んでみて、訳文の生硬さが目についた。同じ語尾が3回4回繰り返すとか。また前後の文脈とあわないように思える箇所もあって、誤訳が疑われた。自分もこの間ロシア語の力だけはつけたのだから、そんなこというなら自分で原文を調べてみればいい。そう思って先日、ロシア語の「白痴」を古本で購入した。いま読んでる「カラマーゾフ」(やはり新潮文庫)が終ったら読んでみる。
逆に10年前より読めるようになった部分
「感想文」に書いたように、私は作品への共感力を失った。とはいえある部分では理解力は増したのだ。たとえばイヴォルギンときいてその名が鳥のиволгаからきていることが分かる程度にはロシア語に、またロシアのレアリアに通じた。当時の語学力ではベロコンスカヤから白馬という意味をとることさえできなかったと思う。ペテルブルグにも行ったことは無かった。だがそんなことは些細なことである。
ペテルブルグの地霊
これについては研究もあることだろうが語り手の位相というのが特異である。「悪霊」の語り手「私」も妙な具合に半登場人物であるが「白痴」の語り手もいわゆる神の視点の絶対的客観者でなく、物語を間近で実見することのできた実在の人間というテイだ。だがそれにしては登場人物の人生・生活さらには内心に通暁しすぎる。名前も顔もない、物語の登場人物たちと相互に作用することが絶えてない、だが「私」を自称して人格ありげにふるまう、この語り手は何者だろう。
私はたわむれに「ペテルブルグの地霊」と措定してみたい。幻影都市ペテルブルグのうえに生起する事柄ならば恋する女が男に宛てた厳秘の私信さえ一言一句知悉しているが、ペテルブルグ市外の事情はとんと関知しない。主人公たちはモスクワへ行った、だが叙述はモスクワまで追っていかない。彼らのモスクワ滞在中の興味ある生活については、「それについてペテルブルグで行われている噂」という形で読者に届けられるのみである。地霊はその縛せられた土地を離れられないのだ。
ムィシュキン=完全に美しい人間?
感想文を規定の字数(自縄自縛だが)に収めるためごっそり丸ごと削った段落がある。そのままコピペしてここに残しておく:
この序盤に関して、改めてムィシュキンという人の造形の異常さが目を引いた。有名な話だが、ドストエフスキーはこの「白痴」の青年を、キリストにも比せられるほどの「完全に美しい人間」として描こうとした。むしろそのような人間を描くことがこの作品の企図の核心であって、ゆえにこそ小説は「白痴」の題をもつのである。私はここのところが昔から不可解であった。何をもって「完全に美しい人間」? 今度も私はムィシュキンの言葉また挙措を追いながらその中に「完全に美しい人間」を探して、見出せなかった。たとえば、どうして作家によれば、完全に美しい人間は「死刑・殺人(の話題)マニア」という属性を帯びていなければならなかったのだろう。エロスから避かること最も遠く(ムィシュキンは半生を童貞で通している。作中、持病の癲癇が災いして生殖機能が不全であるように仄めかされている)、タナトスと親しむこと最も近い、そのことが「美しい人間」の条件をなすのか。別に私にとっての美しき人を作家のそれと一致させる義理も必要も何もないのだが、作家が何に人間の美を見ていたか単純に理解はしたいのである。
了