Twitter活動の記録(12/5号)

その他

Twitter活動を一週間単位で振り返るということをしている。今回は11月29日~12月5日の週。

※凡例:画像クリックで当該tweetにとべる

自分のtweet

自分のtweetを振り返る。これには2つの意義がある。⑴自分のtweet歴を展示しとくと日記のかわりになる⑵基本的に戦略戦術方法にうとい怠惰漫然慣性の人間なので、立ち止まって振り返ることで「自分のtweetのクセ」とか「何のためにTwitterやってるのか」とか「どうすればもっといいねをつけられるか」をやっと考えられる。

ロシア語アニソン百選という10月だかに始めたやつ、相変わらずやってる。59曲まで来た。年内に100曲完走したい。ひとつの「いいね」もつかないやつもあり、えーこれいい曲なのにな、と思うのは、それは完全に私のプレゼンテーションがまずいのだ。うまくやりようがあるのだろう。のだろうが……のだろうが、のだろうが。

ここで唐突に「私」という一人称がいやになった。今回は「俺」でいく。

ノコギリワニのやつはいいねが5つもついた。こういうケレンミのあるやつの方がウケるのかな。いいねが必ずしも「聞いたよ」「聞いて、良かった/気に入ったよ」ということを意味しないのだろうが。でも、なんか、恩を売る?ために無条件に(中身をよく見もしないで)機械的にいいねを付す人がいるのを知ってるので、でもそういう人がこのシリーズにはわりとそういうふるまいを自制してくれてるので、基本的にこれらのいいねは実を伴うものだと思っている。

今週一番いいねをつけたtweet。正直、いいねはほしいのだ。いいねが多いと嬉しい。リツイートされるといいねが増える。より多くの人の目に触れるから。私のtweetは目立たない。私は絵文字を使うのも下手だし、文章もなんか妙なクセ・臭みがあって、写真も何の技術もないし、プレゼンテーションがまずい。おまけに多分tweetをする時間帯とか、色々ツボを押さえられていないのだと思う。だから私にはリツイートされることが要る。リツイートされることで⑴リツイートする人の「これは優良コンテンツである」というお墨付きがつく⑵当該tweetを目にする母数が爆増する。

だが8人もにリツイートされて35件しかいいねがつかないことをもっと哀しむべきなのかもしれない。

そもそも、しかし、こいつは、そんなにいいねをつけてもらえるようなtweetではない。逆に、あれっこんなものがそんなに面白いですかと思った。このtweetの何がいいだろう。説明もすごい不親切だし……やはり青空に白亜の建造物という画がいいか。ポチョムキンとか弧状列柱とかワードが強いか。「晴れた日に親子3人でお出かけしました」という、「私」を見せてるところが良かったか(私は私を隠しがち……おっと、「俺」)。

おそらくはその全部なのだ。総力でやっと稼いだ35件。「いいね」の含意はそれぞれなので、人が「いいね」をしたくなる(つけしてしまう)理由、つまり「ひっかかり」「フック」が、複数種しかけられていると強いのだ。少なくとも私のような徳も人望も可愛げもない人間は、ひとことぶっきらぼうに呟くだけではだめ。言葉数と画力を多角的に多面的に発揮しないと。「この点は興味ない/むしろ嫌いだが、この点はわりと好き」と相矛盾する要素を内包していてさえ構わない。後者の理由で人はいいね押す。

だがこういうことを書いていると自分がいいね乞食のように思えてきて空しい。究極的にはどうでもいい(いいねの数など)とも一方には思ってたいが、まぁ思っていなくもないのだが、のだが、のだが……

これは印象深いtweetだった。前からやらなくちゃと思ってたこと、街に出る機会があればやろうと思ってたこと、コルジノワさんへのイリフ=ペトロフレポート。自分への約束を半ば果たした。

何がどう印象深かったかというと、第一に、一種の公開書簡であり、具体的にコルジノワさん個人に宛てたtweetであることが明示されていて、しかもこんなにスペシフィックなテーマなのに、こんなにたくさん「いいね」がついたことがwonderだった。いいね10件といや私のアベレージである。なぜこれがそれに達する?

先ほどの「ひっかかり」理論でいうと、このtweetこそひっかかりなさの極致だ。どう見ても、イリフ=ペトロフに興味がありまた十分に詳しく、ロシア語に明るい人にとってしかこのtweetは価値がない、でそんな人はTwitterの海原ひろしといえどもコルジノワさんしかいない。正直DMにすべきか迷った内容だ。これになぜいいねがつく? 含意が読めなくて当惑。というのも、一部の人については私はいいねの含意が読めるようになっていると思っていた。でも、「なんでこの人がこれにいいねつけるんだろう、この人ロシア語しらないのに、多分このマイナーなソビエト作家のことも知らないだろうに、そして恩を売る/恩を返す(帳尻合わす)ために内容度外視でいいねを付す人でもないはずなのに」といういいねがいくつかあって、私はその人のいいね基準への理解を修正する必要に迫られたのを感じた。ひとつの抜け道は、その人は単純に私がある特定個人のためにわざわざ現地情報をレポートした、その「親切心」そのものへの評価としていいねを押したのではないかという理解だ。(だがどうでもいい)

第二に、これに続いてコルジノワさんとやり取りがあったが、そこでの私の態度はまことに反省すべきものだった。私は在住者であるという位置エネルギーに帯電して一種エラそうに、ある種の高みから、ものを言った。こんな態度はクソだ。なるほど私はマーラヤ通りの現状を知っている。だがその「知ってる」ことが、当地を未訪で、遠くにありてあれこれと夢想しているコ女史のその思い描きに、いかなる意味で優越してるというのか。文学徒にあるまじきふるまい。自分などよりコルジノワさんの方がはるかによく「知っている」のだ。恭謙にてあれ。

これはわりと自力でとった14いいねという気がする。私は3つの「ひっかかり」を用意した。「みかんておいしいですよね」「へー、ロシアもみかん食べるんですね」「1キロ200円、やっす!?」この3経路でいいねが獲得できるだろう、と。ロシアって実はこうなんですよ(私はウクライナ在住なので「ロシアらへん」という言い方になるが)という話はわりと響く。自分的にはもう当たり前のことになってしまってあえてことあげするに足りないと思われることも、取り上げてみれば結構ウケがいい、との手応えがある。逆に、「玄人」になってしまった私が、玄人的に面白がることは、一般の人にはマニアックすぎておもしろくない。いや言い換えよう、玄人とはえらそうだ。ロシア語やロシア(らへん)生活にかんしてすっかり「じじむさく」なってしまった私。(「じじさびて」でも可)

数えてみると、11/29~12/5の週は、23件tweetしていた。1日あて3件強。かなり少ない方だったと思う。

他人のtweet

自分の「いいね」履歴を振り返る。いま見返してみて、自分が「いいね」を与えたtweetの大半は、たしかに「いい」と思って「いいね」を押しただけのことはあって「いい」のだけども、明日には忘れてその後一生忘れたままでもまぁ構わない。でも中にはぜひ覚えておきたい有益情報とかもある。そういうのをここに展示していく。

本と映画の話

この本ちょっとほしい。子供もしかしたら楽しいかもしれない。動物図鑑は持ってるが、これはこれで面白いかも。何より私が(俺が)読みたい。あまり寿司というものを食べない半生だったので、寿司ネタに弱い。カンパチとかハマチとか聞いてもピンとこない。実地に食べるのはどうしたって日本に帰ってからとして、在外中にちょっとその準備をしておくのもいいかも。(でも多分買わないな)

イスクラ?の新しい本『ノスタルジア喫茶』ですと。「ソ連の全共和国の市販菓子とおやつレシピを網羅した、とてつもない労作」ふーん。自分では買わないが、図書館で借りて眺めたい。1年後くらいに帰国したときに。

「巨匠とマルガリータ」岩波文庫の表紙が、岩波さんかなり攻めた。どこか(モスクワ?)にリアルに存在するグラフィティなのだろうが、ものすごく適切だし、また勇気がある。でも本国もしくは外国のアイデアをパクったかもしれないね。

もちろん「巨匠」が文庫に入ったのはことほぐべきことだ。また当然のことだ。しかしこれで日本の読書環境で、水野先生訳は、異なる出版社で3バージョン存在することになったわけか。私の在学中は集英社の世界文学ギャラリーしかなかった。で、私と同じように、水野訳の「巨匠」が読みたくてこのバカでかい高い本を買ったという人が多いと思う(そうして余禄としてハルムス等々にであうのだ)。その後、旧世代のインテリア向きの世界文学全集(ゆえに重厚が好まれ、当然のように函入りである)のアンチテーゼとしての池澤夏樹個人編集の新世界文学全集の刊行が始まり、そこに「巨匠」も採用されるに至って、おそらく先の集英社版はそれが買われる理由の本質的部分を失い、実際相当に販売冊数を減らしたはずだ。そうしてとどめの岩波文庫。隔世の感がある。しかしそう言わず、私もこの岩波文庫版を買い求めよう。改訳されてるかもしれないし。何より……表紙がいい。

「クナシリ」という映画。絶対見たい、てか(その存在を知った以上)これを見ないで何か言うということが難しくなる。困るな、なんとかして見れないものか。

クリスマスの話

西欧各都市はもうクリスマスモード全開らしい。

ランスってどこ、フランス? ARINA姫はルクセンブルクの人だが。

モスクワ・赤の広場もご覧の通り満艦飾だ。青空スケートリンクもオープンしてる。

オデッサもショーウィンドウにはちらほらツリーが出現してるが、市庁舎前広場とかポチョムキン階段上とか大聖堂広場とかオフィシャルなやつはまだ気配もない。正教会暦(2週間遅れ)だから遅いんじゃないのってか。でもモスクワこの通りバリバリ新年祭モードやん。

ウクライナの話

ヴィニツァのことやなんな。……と思って今見てみたら、日本語ウィキペディアの表記がこれなんかい。

ウクライナ語原音に忠実なのかもは知れないが、不快指数の極めて高い文字並び。「ヴィニツァ」で足るを知っとけ。ともかく、ロシェンプロデュースの噴水ライトアップとは恐れ入った。すごいな。

今のキエフ、ということかな。かの地はもう雪か。真っ白に塗りこめられた街に教会の黄金の屋根のそこだけ色彩が灯っている感じ、たしかにいい景色だ。

圧倒的な成績。私がこれまで三度経験した「バズり」と性質が異なる。そう、キエフやオデッサのごときマイナーな場所でも、圧倒的な写真の一枚で、ここまでいくのだ。私もいつか狙って……もとい、果たしてみたい。これは「いい」バズりだと思う。こういう種類のバズりならいいフォロワーも増えるだろうし(←→私みたいなバズりだと糞みたいなフォロワーがつく)、いい意味で草の根のシンパシー醸成に資せる。

圧倒的な一枚の写真。それを撮ろう。来年の宿題だ。

それ以外の話

まず在外邦人に衝撃が走ったあのニュース。

この週強く印象に残った話題。「オムロン株」(と妻と呼び慣わしてる)が出てきてビビって日本政府が鎖国政策発動、発給済みの外国人ビザを無効化。はじめ私(ら)は、今直接に帰国の予定もないので、対岸の火事みたく思ってた、「なんかTwitterで在外民が憤慨してるよ」と他人事みたいに妻にも話してたのだが、このスイス在住のまぐさんの一連のtweetみてこれはマジで具体的に人を不幸にするし、私ら自身がもしちょうどいま帰国のタイミングであったら死ぬほど怒りを覚えて烈火のごとく運動したであろうし、そうでなくても(現にそうでないように)、この前例は重い。つまり、こんな糞みたいな政策が生まれ、是認されるような岸田日本、いや岸田でなくともニッポンであることが、これで証明されてしまった。「1年後くらいに帰国する」未来が遠くなる。人間の分断がまのあたり行われている。私がもし今の半分の年齢であったら、コロナをめぐるこの一連は、確実にトラウマになっている。人生観と世界観にとっての病である。

次、ペットショップで犬猫を販売することの是非。

要するに、オーストリアでは久しくペットショップでは犬猫は販売されていない。フランスでも2024年からそうなる。日本はご案内の通り普通に犬猫が売られてるわけだが、やはり内々にそういう議論があったりするんだろうか。

ちなみにわがウクライナでは、バリバリ売られてるし、ウクライナ版メルカリことolxにもふつうに出品されている。試みに「秋田犬」акита инуで調べてみる↓

数字を4倍するとおよその円換算になる。

カテゴリーも「犬」「猫」「魚」「鳥」「家畜」…とバッチリそろってる↓

今回ラスト。

「座高の測定」が廃止されたそうだ。本当に、あれ何の意味があったんだろう。いや、だから、意味がなかったのか。意味は、なかったのか。

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