よく言うのだが、何丘は終わっている。そして終わっている何丘の最後の持ち物が日本語である。
日本語を使ってものを考え……(いや、何丘はものを考えないのであった)
日本語を使ってものを言う。それが私に残された最後の可能事だ。そう思ってブログを開設した。
そんな何丘だから、言葉には少しこだわりたいのだ。
どうしても好きになれない、できれば自分では使いたくない言葉というものがある。まとめてみた。
「晩ごはん」いつから「夜ごはん」になったんだ
人は日に三度メシをくらう。
アサメシ、
ヒルメシ、
バンメシだ。
これを英語で言うと breakfast-lunch-supper
ロシア語で言うと завтрак-обед-ужин
女言葉で言うと 朝ごはん・昼ごはん・晩ごはんである。
この晩ごはんがいつから「夜ごはん」になったんだ!?
はっきり言って「夜ごはん」なぞに出る幕ねえんだけど。
晩飯・晩ご飯・夕飯・夕食。宵っぱりで朝まで腹がもたなきゃ「夜食」を食う。間然するところがない。
にも関わらず「夜ごはん」と言ってはばからないのは、私の感覚では(※まともな会社勤めの経験がなく友人が一人もいない何丘@32歳の感覚です)平成改元以降に生まれた世代だ。
彼らには「晩ごはん」のこのBANの音、野卑な破裂音が口に合わなかった。
なら「夕飯」でいいじゃねえかというと、なんだろうね、「夕」のこの優雅で穏やかな時間感覚が、もう時代に合わなくなったのか。
言語は生き物だ。変わるものだ。
わかっている。ただ私には、晩ごはんという口なじんだ言い方があるときに、あえて夜ごはんという若者言葉を使う理由がない。
自分が少年時代をともに歩んだ日本語に、何丘は郷愁と愛着と、ある種の忠誠をもつの。
だから、といいますか。
私と同じかそれ以上の世代の人が「夜ごはん」とか言っているのを聞くと、ハァ? と思う。
迎合してんじゃねえの? その自覚すらなく? お前の言葉、全身ユニクロみてえになってっけど大丈夫?
「見える化」とか気色悪いよ
visualize 可視化。これを「見える化」に言い換える需要はどこにあったんだ?
小中学生には必要のない言葉だ。使われてるのはいずれ会社とかでだ。
大人が使う言葉なのに、字面だけ小学生みたいに簡単になっている。なんだこれは、どういうプレイなんだ?
「昨今の幼児化した、もとい幼い化した大人には、漢語は難しすぎる。易しい化しよう。『可視化』は『見える化』にしよう」
ある日こう徹頭徹尾侮蔑的な民衆観を持つ財界の巨魁とかが呼号したのだろうか。
同音異義の語があり紛らわしい場合に言い換えが行われる。それはわかる。でも「かしか」を何と混同するか。どういう文脈で。
……みたいな次第で、何丘は「見える化」を使わない。もし「可視化」を子供向けに言い換えるなら、単に「(見えないものを)見えるようにする」とでも言う。
「語彙力」てどんな力だよ
若い女、ないし若い男が、
何か問われて、あるいは何か見て・食べて、
心は動いたのだが、口をついて出たのはいつもの汎用形容詞「ヤバい」であった。
そこでツレがツッコむ。「語彙力!」
または自分でツッコむ。「語彙力!」
いや、笑うんじゃねえ。笑うとき歯グキを見せるなセクシーコマンドー部。
第一に、「語彙力!」とさえツッコんどけば語彙の乏しさが免罪されるとか思うな。事物に触れて心が新たな振動を見せたときそれに対応する新しい言葉を探せないということは本当に危機的なことだ。
第二に、「語彙力」てどんな力だよ。どこの辞書にそんな言葉が載ってんだ。語彙が多い/少ないだろ。何にでも「力」つけるんじゃねえよ。
だから人よ、「語彙力あるね」「語彙力がすごい」とかと私を褒めるな。馬鹿丸出しだから。
「と考えます」?偉そうに言ってんじゃねえ
ウェブサイトとか、あるいは仕事のメールとかで、「~~が重要と考えます」とか言う人がいる。
なんか、むかつくんだよね。好きじゃない。
かっこつけてるんだと思う。
あるいは、内心、自分の賢さを誇っているんだと思う。
これが「考えております」だと気にならない。
単純に「思います」がいっそう好ましい。
でも仕事のメールで「思う」はどうかと思うんだろうな。何丘は「思う」で通すよ。終わってる何丘に考えも何もないんだから。
「マウントをとる」とか言ってマウントとった積もりかよ
なんか最近すごいよく聞くんだけど、「マウントとる」。
えーと、マウントを取る、マウンティング、英語で mountingですか。
動物が自己の優位性を示すため、相手に馬乗りになること。
Wikipedia
流行ってるのは、これを「心理的な馬乗り」の意味で使うことだ。
人のこと小バカにしたり、揚げ足とったりして、自分が相手より知性とか人間性とか道義において優れている、上位である、ことを誇示しようとする。これを「マウントをとる」行為と称して批判する。……ことが流行っているらしい。
※えっと、マウントを取ることが流行っている、と言っているのではなく、ある種の優位性誇示行為を「マウントを取る」という言葉で言い表すことが流行っている、と言っています。
でもなんか、そういうの見るたび思うんだけど、
アンタそれ、「マウントとる」て言いたいだけなんじゃないの?
思うに、ここで起こっているのはこういうことなのだ:
心理的に馬のられてタコ殴られていた弱い奴らが団結して、「この行為を『マウントをとる』行為と呼んで批判することにしよう!」と取り決め、否定的なニュアンスでいっせいに言い始めた。
そうすることで馬のられてた奴が馬のり返した。「マウントとる」という言い方の発明(てか再発見)によって、マウントの取返しが起こったのだ。
もちろん「マウントとるとか言ってる奴はそうすることでマウント取り返してるだけ」とか言うこの何丘も、そのように言うことで自らマウントを取ろうとしている。
別に取りたくもないのに、である。「マウントを取る」みたいな言葉を使って何か言う限り、その構造から逃れられないのだ。
だから私はそもそもこういう言葉を使わない。なるべくこういう闘争に参加をしない。