ドストエフスキー「悪霊」読書感想文

見たものについて語る

ドストエフスキーの「悪霊」を読んだ。それなりに印象豊かな読書だったが、読んでから1か月のあいだに、どんどん忘れていってしまっている。このままだと読まなかったも同じことになる。忘却に抗して書いとく、読書感想文を。

前置き

どういう者がどういう流れの中で読んだかを先に書いておく。

まず私は学生時代に一応ドストエフスキーを一通り読んだ。先に書いた「白痴」読書感想文の方に自分のドストエフスキー歴(?)を詳しめに記した。

この「悪霊」に関しては、たぶん過去に通しで2回読んでいて、今回が3回目になる。10年ぶりの再読だ。

再読した理由はというと、10年に1回ドストエフスキーを集中的に読み返す1か月をもつという大江健三郎の言を服膺したということと、あと何より今年2021年がドストエフスキー生誕200年の記念の年だったので。

私には大作家のこれほどきれいな周年に巡り合うことは自国でオリンピックが開催されることよりも「一生に一度あるかないか」の僥倖に思われたので、「ドストエフスキー生誕200年記念読書」と称して、代表作の「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を相次いで読み返すことにした。

なお、今日は何ページ読みましたという進捗報告を、Twitter上で行っていた。

エモノは昔から読みなれている、新潮文庫、江川卓訳であった。

ドストエフスキー「悪霊」100字であらすじ

「悪霊」は長い小説だが、ごく手短に言ってどういう話なのか。100字で言ってみる。

ある地方都市の下層中層上層に破壊主義を蔓延させて風紀を乱し秩序を壊し、果ては炎と血の中に「悪のカリスマ」を召喚しようとする悪霊憑きの青年のマスタープランが、当のカリスマ氏の辞退で道半ばにして破綻する。

100字。結局なんのこっちゃ分からんか。ごめん。

ドストエフスキー「悪霊」読書感想文

さて、では書いてみる。中学の読書感想文は一般的に原稿用紙5枚=2000字に収めることになっているようなので、私もそれにならう。あと、なるべく1時間以内で書ききる。書きたいことは基本的に一つだ、即ち「回生せるシャートフ」について。

ドストエフスキー「悪霊」を読んで

 ここ何年か、自分はもうすっかり終わってしまった人間であるという感覚を抱えて生きている。
 かつては自分も多く感じ・考え・もの思うものであった。そのころ自分はドストエフスキーを読んでいた。
 そのドストエフスキーを10年ぶりに読み返すということを始めた。生誕200周年にかこつけて。「白痴」からはじめて、今度は「悪霊」を読んだ。
 今度の再読のテーマは、慎重に読んで、何ごとか見つける、何ごとが見つかるかを己で試す、ということだった。「名作は読み返すたび新たな発見が」というではないか。何か新たに琴線に触れるところがあるはずだ、私のこの10年の経験がそうさせる。
 一方の身構えとして、逆に自分に不要の部分、無関係の部分は、はっきりそうと言う。大古典だからといってむやみに有難がらない。よくも悪くも大人になって、今では自分もひとつの人格だから、NOと言える読者であるはずだ、言えるならそう言うべきだ。そのように心を鎧った。
 それで「白痴」を読んで、ショッキングなことに、このたび新たにふるえた琴の弦など一本もなかった。「大人になった私」によれば、この作品はまるごと、いまや自分に関係のないものだった。「読み返すたび新たな発見、だから名作は定期的に再読すべき」との説の逆――すなわち、ある作品にはそれを読むに適切な人生の時期というものがあり、それを過ぎると、今更にそれを読む意味などは全く失われる、そう寂しく結論した。
 ところが今回「悪霊」を読んで、再逆転が生じた! 私は今では名作の繰り返し読まれるべきことを再び信じる。それは物語も終盤になってのことだった。シャートフという脇役がそれをもたらした。
 シャートフは、例の悪霊――秩序の破壊(と新世界の建立)という考えを人たちに吹き込む悪霊――に憑りつかれた一人で、その象徴たる道徳超越者・美貌の青年スタヴローギンに惚れ込み、自ら破壊活動に手を染めるのだが、自分と同じ悪霊つきどもの余りの乱脈ぶりに、しだい嫌悪を催すようになる。とりわけ活動家どもが、スタヴローギンを「悪のカリスマ」として完成させるためにその戸籍上の妻を葬るという暴挙に出るに及んで(その女はシャートフのよき友であった)、かつての同志たちを官憲に売ることを、すなわち密告を決意する。一方の活動家連中は、その密告を恐れ、また「殺人の共犯となることで仲間内の結束を固める」という天才組織者ピョートルの思惑もあり、シャートフの暗殺を企図する。密告か、死か。――その折も折、シャートフを一人の女が訪ねてくる。
 女は名をマリヤという。シャートフが外遊先のスイスで出会いその場で結婚、2週間だけ新婚生活を送ってすぐ別れるという、それ自体既成の道徳を嘲弄するような茶番劇をともにした女。彼女は身重であった。今か破水という状態だった。
 シャートフの子でないことは明らかだった。ふたりが別れたのはもう2年も前である。本当のことをいうと、どうしてシャートフの子なのものか、それはマリヤがスタヴローギンとの間になした子なのである!
 そうした事実に関わらず、シャートフはここで劇的な転回を迎える。ここまで劇中、常に胸に一物奥歯にも一物、もっさり黙ってくぐもり顔であった男が、やにわに饒舌、くるくる立ち回って女のご機嫌とりに努め、言いそやす――あの2週間の結婚生活、あれが実は形だけのものでもなんでもなく、いかに真率な愛の日々であったことか。そうして今、こうしてあなたと再会できた以上は、私たちが再び、今度こそは永遠に結ばれあうのだということを、いかに確かに私が知っていることか!・・

箸休めに一曲どうぞ。Stevie Wonderで「I Believe When I Fall In Love With You It Will Be Forever」。

Stevie Wonder – I Believe (When I Fall In Love)
 ・・ここでシャートフに起こったことは何か。悪霊が落ちたのである。思想の問題に明け暮れた数年間、ついに得られなかった<よき生>へのイメージが、在りし日の女と再会することで、一挙にシャートフの目に開けたのだ。
 ああ、この感触は、私も知っている! と膝を打った。自分の人生において、この感覚に私もたしかに触れたことがある。ある人と再会することは、常に、その人の中に預けておいた自分自身と再会することだった。あるいは、その人の中に封入しておいた、かつての時間と。私は終わってしまった人間だ(と私は思ってほとんど絶望しているのだ)が、そこにまだ活路があるかもしれない。私の救いは未来からでなく、むしろ私じしんの過去からくる、それも他人の形で。私の<よき生>を預けてある誰か他者と再会することによって、私はなお回生することが可能かもしれない。・・
 そのとき、読み捨てた「白痴」までが、新しい光で照明された。シャートフに起きたのとほとんど同じことが、「白痴」においてイヴォルギン(父)に起きていたではないか。法螺吹きイヴォルギン、すっかりタガの外れてしまった人間、自己疎外の極北すかんぴん、この男がエパンチン家の美人三姉妹を前に、「大昔、まだ幼いお前たちのことを、よくあやしてやったものだよ」と例のごとくうそぶいてみたところ、姉妹のひとりが叫ぶのだ。「思い出しましたわ!あのときのおじさん!本当に可愛がってよく遊んでくれました、私たちもおじさんのことが大好きでしたわ」。冗談から駒、今度ばかりはうっかり自分でも忘れていた本当のことを述べていたのである。そのときイヴォルギンは魂の震撼を覚える。「生涯にたった一度だけ(うっかりにもせよ)真実を口にしたことによって」彼はすっかり呆けてしまう。道化のウロコがぼろぼろ落ちて、ウン十年ぶりに「人間」へと立ち戻るのだ。
 考えてみると、他人と会うことでその他人の中に預けておいた自己(の時間)が引き出されるという構造は、より微細な規模で、ドストエフスキー作品の中に無数に反復している。そのように言い当てることは10年前にはできなかった。
 また、思えばこうしてドストエフスキーを10年ごし再読していること自体が、この手に馴染んだ新潮文庫の中に封入していたかつての私の<よき生>を引き出す試みであると言える。以上のような事柄に思い至ったときやっと、なぜ私が今ドストエフスキーを読んでいるのか、今自分がどうドストエフスキーを読むべきかについて、ひとつのイメージが得られたのだ。

2500字。

ひどいものだ。言いたいことはシンプルだったのに、げんに妻に「こういうことを書く」と口で説明したときはサラッと言えたのに、ごぢゃごぢゃした記述、字数はオーバーするし、時間もいったい何時間かけてしまったかわからない。だがもういい。下らないことに(あまりに長くてこれじゃ誰も読み通してくれないだろうと思って)読書感想文に間奏曲までつけてしまった。

拾遺

2000字の規定を破って2500字も書いておいてなんだが、書き漏らしたことが結構ある。欄外(ここ)に箇条書きで記していく。

翻訳

「白痴」は読んでてこれ訳文ひどいんじゃないかと疑っていたのだが、「悪霊」は逆によかった。江川卓。生硬とか悪文とか誤訳じゃねえのとか思うことは一度もなく、むしろ「ここ日本語カッコイー!」と思うことが多々あった。脱獄囚フェージカに白い歯が「ぞっくり並んでいた」この「ぞっくり」なんか、原文がどうだったのか逆に気になるが、まーすごいセンスだと思う。

作劇の見事さ

「感想文」からごっそり割愛した段落をそっくり(ぞっくり)下に掲げる。「悪霊」の全体的な感想、とりわけ「作劇の見事さ」について語った部分。

 (※「白痴」を読んで幻滅した、)そういうことがあっての「悪霊」だったので、まず人物の魅力・珠玉の場面の連続展開が私にとにかくもう目茶目茶に読む喜びを与えてくれたことを慶賀した。何はなくとも読み物として抜群に面白い。「悪霊」は冒頭がつまらないというのが学生時代の私の周りのドストエフスキー読みの間で定説だった(いわく「はやくスタヴローギンを出せ!」)が、今回読んでみるとそのステパン先生伝も十分に面白かった。概してステパン先生、この「父の世代」の良心みたいな人物が、私には好ましかった。1000ページの物語の中で彼がどう変化していくか、思えばその軌跡も実によく描けているし、その果ての家出~「民衆」の発見~その懐に抱かれての死というくだりも、実に見事な転調であると思う。
 そう、作劇の見事さ。それが大変に目に立った。出すべきところで出すべき人物を出してくる。さんざ話に上った2人の主人公ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーとニコライ・スタヴローギンがはじめて現在時制に登場するのは物語も300ページを数えた頃だ。おおよそ話を知ってて読むからだろうか、「ついに登場か、それも2人同時に!」と胸が熱くなる。謎めかしと仄めかしで読者の緊張と期待をよく持続させ、たえず新たな事件が起こり続ける、またその規模も大きい。その点「白痴」と対照的だ。また「白痴」に典型的な、一つの場面に人物・思想・事件をやたらと詰め込む弊がここではよく避けられ、作中ほどよく所が変わり、ほどよく時日が経過する。

キリーロフ

若い頃はこの「お茶のキリーロフ」がお気に入りだった。その人神論を深長なものに感じて、スタヴローギンとの対話の場面を何度も読み返した。だが今回は、やはり慎重に読んだことは読んだのだが、わりとすみやかに「自分に理解不能で、また理解する必要のないもの」のカテゴリーに入れた。感想文にしるした「身構えとして、逆に自分に不要の部分、無関係の部分は、はっきりそうと言う。大古典だからといってむやみに有難がらない。よくも悪くも大人になって、今では自分もひとつの人格だから、NOと言える読者であるはずだ、言えるならそう言うべきだ」の一例。

ニコラス

ニコライ(スタヴローギン)のことを母親がフランスふうにニコラスと読んでいるとあるのだがそこはNicolasと書いて「ニコラ」ではないのか。と思ったがロシア語でНиколасと書いてあるのであれば訳者としてはニコラスとするしかないか。だが終始違和感があった。

全然関係ないのだがニコライニコラス怒らすと怖スと呟きながら本項を書いていてふと、殺すというかわりに壊すという人がいたら怖いな、と思った。うしろから羽交い絞めにされた人がふりもごうともがきながら「殺す!あの野郎、ぶっ殺す!」と言っている、そのせりふを「壊す!あの野郎、ぶっ壊す!」とかえてみると狂気の度が深まるな、と思ったのだが本当に全く悪霊とは関係がない。

有名な修道士をからかう場面

有名なユロージヴィの修道士を観察しに(コケにしに)新人類こぞって近在に出むく場面、ちょっとした挿話で、読んでそういやこんな場面あったなとやっと思い出したが、ちょっと好きだった。昔読んだときはここスタヴローギン参加してなくていいだろう(スタヴローギンの無駄遣い……スタヴはここぞでだけ使うべき)と思った記憶があるが、別にあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし分かるプレイをここでも楽しんでいるのだと思えばふつうにありだった。「カラマーゾフ」の予告になっているような場面だ。

スタヴローギンの告白

ここも用心しながら読んだ。あまり事大に取り過ぎないようにと。「告白」それ自体は力のあるものだが、それに続くチホンとの対話は気に入らなかった。ノンヴァーバルのチャネルでの応酬が激しすぎる。心理の変幻が微妙すぎて、正直ついていくのしんどい。それから、この章は作品の不可欠の一部か否かと考えてみて、なるほどこれなしにはスタヴローギンの自殺が全くとってつけになってしまう、だがこの章はある種語りすぎてしまっていて、これがあることによって作品の芸術的価値はむしろ減ずる、と感じた。

男たちの小説

「白痴」の雰囲気を作っているのは美女たちだと思う。エパンチン家の三姉妹とナスターシャ・フィリッポヴナ。この4人の世に稀なる美女のおかげで、作品の印象がなんとなくホワイト、なんとなく花柄。一方の「悪霊」には、美人という美人はほぼ出てこない。メンズの世界である。んで私の色感でいうと、この作品は黒い。(いま思ったが、タイトルのせいか。白痴が白いのは単に白という字が入ってるからか。当てにならんこった)

悪霊

悪霊というのは、感想文にも書いてるが、道徳否定、風紀紊乱、秩序破壊、死ね死ね、虚無主義(ニヒリズム)、こうしたもののメタファーで、これら各種の悪霊にとりつかれた人たちが町を席捲し、町中が一時期悪霊にとりつかれたような騒ぎになる、その中で火事が起きたり殺人が頻発したりする。

今回の読書では、これが「各種の悪霊」と「それに憑かれた人たち」の物語なのだということは、はじめからしまいまでかなりはっきり見えていた。ところが、私の記憶では、昔日の読書で、悪霊が何のメタファーであるか、聖書のエピグラフが作品本体とどう有機的に連関するのか、理解に苦しんでいた(だから悪霊は難しいという印象を抱いた)気がする。まったく不可解だ、こんなに見やすいことなのに。見えなかったのか、当時の私には? まさか私の読解力がこの間に向上した・・のか?(およそあり得ぬこと)

最後のtweetに添付したのはクロード・ロランの「アシスとガラテア」、スタヴローギンの夢見る「黄金時代」だ。

【関連記事】
感想文シリーズ第1弾:カミュ「ペスト」読書感想文
第2段:ドストエフスキー「白痴」読書感想文
第3段が本記事「悪霊」読書感想文

コメント

タイトルとURLをコピーしました