ウクライナの夏休み

ウクライナの戦争

妻の郷里であるオデッサ州の某村にひと夏里帰りした。その日記。(※完結済み)

期間:2024年7月14~22日(移動日含まず)
登場人物:私、妻、太郎(4歳児)、義父母、義兄

※渡航の経緯については「盗む」の記事参照

7月15日

ウクライナは異常な暑気に見舞われている。これ書いてる今は15日の正午だが玄関の水銀柱は38度を指す。オデッサの緯度が北海道・稚内と同じであることを思え。

わたしの当地入りは昨14日昼で、妻と子に遅れること七日。この時間差は、妻としては帰郷するからには二週間くらいはゆっくりしたい、が私は仕事をそんなに休めない、それで妻と子を先に行かせる(帰りは一緒に帰る)という選択をした。

妻と子のウクライナ入りの日の前日にゼレンスキーがオデッサを電撃訪問していて、ゼレの陸上の移動経路と妻らの動線が重なる可能性があり、その日は大変に気を揉んだ。また、私の到着は本当は一昨日の夜のはずだったが、飛行機の遅れでイスタンブール一泊を強いられた。が、これらの話はいったん措こう。

当地で一昼夜過ごしてみてのわたしの感想は、ウクライナは順調に壊れていっている、というものだ。落日の哀愁を覚える。昨年の夏の帰郷時に当ブログに綴った「夏休みの日記」で、ウクライナに来て自分はむしろ平和ボケした、と逆説のようなことを言ったが、今は到底そんなこと言う気にならない。

電気は、本当に全然ないらしい。昨日は夕方6時から9時まで停電。そのあと、深夜1時から3時まで停電。で今日は、朝7時から昼の12時まで停電である。

事後的にではあるが、停電が始まると、この停電は何時まで続きますと電力会社のテレグラムでは発表されて、ちゃんとその時間に停電が明ける。粛々と行っているという印象。それが哀しい。

異常な暑さで、子供が外で遊べない。わたしたちのダーチャには広い庭があり、それが自慢であり、そこで気持ちよく遊んだり昼寝したりするためにこそ帰郷したはずが。ずっと部屋遊びで、子供は退屈している。その点も去年と全然ことなる。

あと、これは何の関係か分からないが、村の自慢のアルテジアンスカヤ・ヴァダ、井戸水が、水質悪化したらしく、そのままは飲まぬがよろしと言われている。義父母が大量に買い込んだペットボトルの水を飲んでいる。これも滅びの兆候と感受される。

これほど電気のない夏が、またこれほど暑いというのは、一面で、天の神さまの悪意が怨めしく、他面では、寒さよりはまだ暑さのほうが命を奪わない、きたる冬のために、予行練習ができていると思えば、必要にして有用な試練と言えるか、とも思う。

最後に、写真を何枚か。

↑母家(おもや)と、義父がこのかんに造成した立体世界地図

↑義母がこのかんに製作した昆虫壁画と、ねこのカズャーヴァ

↑入り日。隣の区画は久しく耕作放棄地、以前はデルフィニウムが群生してきれいだったが、今は雑草が生い茂り、その綿毛がこっちの区画に飛んで迷惑

↑外ペチカ。手羽焼くと猫が集まる。人間の食べ残し部分、軟骨とか、を猫が食べる。よく似た(薄汚れた)白猫の、どっちかがカズャーヴァで、どっちかが娘のファソリカ。あと一匹、私の嫌いな茶猫のクースャがいる。

空襲警報はまだ聞かない。妙なものだ。各種テレグラムによれば朝と昼に発令されているのだが。さっきはオデッサにイスカンデルか何か飛んできたらしい。州単位で鳴らしてたのを、もう少しきめ細かに鳴らし分けるようになったのか。あるいは単に村の防災スピーカーがいかれたか。

ひどすぎて今は言いたくないようなこともある。そのうち書くと思う。

来るんじゃなかった、この旅は失敗だ。とか思ったり、露への憎悪はいよいよ深い。とか胸に呟いてみたりして、自分の感情を持ち扱いかねながら、子に近づけば愛を、義父母がくれば愛想をふりまいている。今が自分の幸せな状態だとは思わない。

7月16日

暑い。いま朝9時で37℃。

電気については全くお話にならない。昨15日は、まず早朝1時から3時まで停電、そのあと朝7時から昼の12時まで停電、午後は4時から10時まで停電、で日付が今日16日に切り替わってからは、実に1時から6時まで停電していた。「ロシアの狙いはウクライナ人のジェノサイドであって、それ以外ではない」というウクライナ側のナラティヴに、今更ながら得心がいく。

私は暑いので有名な埼玉・熊谷の産であり、そのことから、一つには、あまり人の暑いというところで暑いといいたくないという変な矜持みたいなものがあり、また一つには、実際自分の暑さの標準は人より高い筈であるから、共居・陪在の人の感じている暑さは、およそ自分が感じているそれよりも強いであろうと考えることが癖づいている。

それでいくと、義父母などは北国も北国の人で、酷暑への耐性などあるはずもなく、夏のまさかりでも33度を超えれば暑いと訴える資格がこの人らにはあるし、実際耐え難く感じているだろう。が、言わない。口に出さない。私たちがせっかくやってきたのに、幸せでない、この今がしんどいとは、言いたくないから。

昨日の夕方とか庭の緑陰で女性陣は茶を男性陣は酒をしばきながらトランプしていて、私は暑かった、私が暑いということは、義父母の耐え難さはいかばかりであったか、それでも誰も口に出さないのを見て取って、暗い気持ちになった。「困難にも負けない、ウクライナ人の強さ!」を賛美するべき場面だろうか。とてもそんな気にならない。無理してる人たち。いよいよ糊塗しがたい「平和な生活」。失楽園。過日の幻影にすがって生きる老いた人たち。

↑プラム

↑洋梨

↑庭のプール、子は毎夕あそぶ、昨夕は私と義父と三人で入った

↑わたしのねこ、カズャーヴァ。16年夏に私と妻がここで結婚式したとき子猫だった、その春の生まれということは、いま8歳のおばあちゃんだ。生きていてくれてありがとう、また会えて嬉しいよ。

いま10時、また停電している。偉大な歴史、神聖なる皇帝、無謬の軍隊、ウクライナの土地とそこに住む人々の「ナチズムからの解放」。

7月16日②

1時から6時まで停電、10時から14時まで停電、19時から?時まで停電。

夕方また子と義父と三人で庭のプール。水鉄砲とか水中サッカーで遊ぶ、すごく楽しい。プールから上がって8時半くらいか、このくらいからようやく一日の良き時間が始まる。晩ご飯は庭の四阿で。義母のご馳走と義父のワインと。

↑鮭の包み焼き。超絶美味

↑地下蔵。義父が庭のぶどうから作るワイン。毎年200リットルほどできる。

が、きもちよきはずの夕飯は、最後、ものすごく気持ちわるい感じで終わった。わたしのちょっとした質問への義父母の回答が政治的色調を帯びて白熱し、その内容を私が腹に据えかね、心の斧をふりかぶったが、打ち下ろすことを自制し、かわりに示威的に離席した。

おもやに戻った私を義父が訪ねた。義父ならまだ話がわかる。あれだけ長広舌をふるいながらその中に某国への言及が一度もないのには驚き入りました、という皮肉から始めて、私の観点というものを少しは開陳してみたが、そのあと怒涛とまくしたてられ、結局わたしを慰めにきたのか喉から口に詰まった思想の藻のようなものをただわたしの前に吐き散らしに来たのか。議論に弱い私は終盤沈黙し、義父は去り、その後長らく、今(これ書いてる今はすでに翌17日朝6時半、電気ない)に至るまで、頭の中で義父への反論をロシア語で作文している。

もうここへは来たくない。楽園は失われた。来年の夏は、「盗む」の記事に書いた理由で、たぶんそもそも、来るという話にはならない。だが、戦争が続く限り、再来年もその次の年も、帰省の話が出来したら、それを擦り潰すよう、自分は全力を尽くすだろう。

滞在はまだ数日ある。もちろん私は、善き隣人としての顕れを、せいいっぱい演出する。笑顔と愛想。会話への積極的参加。楽しんでいる!という感じ。ああよかった、あいつ、楽しんでいる!そういう外観。外観は内実の充填を呼ぶので私はそのとき本当に楽しんでいる。

この不幸は、賢さのあまり愚かになった人間の末路、という感じがする。

7月17日

今次の渡航の前史を綴った記事「盗む」はホント書き散らしだったので最低限体裁を整えた。

いま、ウクライナ時間の18時前。気温は依然として38℃。絶賛停電中。17日はまず朝6時から9時まで停電、で13時から20時まで停電。

The Economistに「電力の半分失ったウクライナ:冬が迫る」との記事(УП)。23-24年の冬は18ギガワットまで出力を回復してなんとか需給をバランスさせたがその後3月からの露の一連の電力網破壊テロで総発電量は9ギガワットに半減。ウクライナ社会は電力欠乏に順応し、中小企業や商店は自分の電気は自分の発電機でまかなっていると。

うちも発電機がある。今この時間も絶賛稼働中である。

このお陰で、クーラーもつけられる。基本的に不自由ない。

が、都市部の集合住宅には、こんなものは置けない。義母の妹家族は地獄だそうだ。このクソ暑い中、一日の大半電気がなく、エアコンも扇風機も使えない。

うちに関しては、インターネットも問題ない。どういうからくりか知らんが、停電あるなしにかかわらず、ネットは常に使える。

困るのは水である。村の水道事情は、給水塔ちうのがぽこぽこ立ってて、そっから各戸に水が配給されるのだが、その水の配給に電気が必要。だもんで、電気が止まると、水が止まる。こればかりは発電機でどうにもならない。

が、うちは、一定量の浄水をタンクに溜めてるほか、天水とかもろもろ備えがあって、水の供給が止まっても、一応はなんとかなる。が、不便ではある。何しろ電気があるときにもろもろする。

電気があるときに可能なすべてのことをして、電気がない時は、なんとかやり過ごす。第一の課題はサヴァイブ、その過程で少しでも多くの快を盗むこと。

異音に敏感な人達、ポポイ(悲哀)。

ウクライナへきて平和ボケしていないかと言われれば、してはいる。情報は、治安について、ウクライナ空軍とオデッサ州知事のテレグラム、情勢について、ウクライナ・プラヴダとオデッスカヤ・ジーズニ、電気については、ДТЭКサイトを、3時間に一回くらい見ている。

義父母との関係は良好である。ロトに興じた。そういうテーブルゲームがある、チェーホフのなんかの話に出できたと思う。義父とは昼からワインを飲んだ。酒は万薬のBOSSとかキケロが言ってた、そう思う。義母のボルシチは亀のスープよりうまい(とてもうまい)

さて、プールに入るとする。

7月17日②

20時までのはずの停電が19時で終わってくれて、それから1時間のうちに急激に状況が好転し、幸福度が上がった。まず子と義父と日課のプールに入った。ちょうど日が陰り気温が33度まで急落した。風も吹き出した。人心地。生き延びた!

家の前の道路で、子供オンザキックボード。

ばんはん、義母のおはこのペチョーナチヌィ・トルチク、すなはち、牛のレバーのケーキ(左)。げてものとおぼしめすな、わたしは内臓系全般だめなのだが、義母のこれだけは昔から食べられる。今回は大量のディルとゴルゴンゾーラチーズを使った豪華版。激ウマ。

おもやの二階の卓球場(兼、宇宙博物館)で義父とピンポンした。卓球はダーチャの主要なアクティビティのひとつだが、ここまで暑すぎて出来てなかった。わたし、三戦三勝。

夕食後、望遠鏡で月を見た。

こういう写真を見れば、妻の(特に、子を連れての)帰郷への固執も、少しは理解してもらえるかと思う。ダーチャは地上の楽園である。戦争されなければ。空襲警報さえ鳴らなければ。停電や断水さえなかったなら。

このような懲罰に、ウクライナの人たちは値しなかった。このような「解放」を、ウクライナの人たちは必要としていなかった。

ロシアという国がある。片手でウクライナの人たちの生活を根絶やしにしながら、もう片方の手でイランだの北朝だのと握手し、上海協力機構サミットだのに出かけて、国際舞台におけるいっぱしのプレイヤーであるかの顔をしている。

露の双頭の鷲の、片方の相貌は、どす黒く皺くちゃで目ばかり爛々と赤く、明らかに醜怪な魔物なのだが、もう片方はヒアルロン酸注射でツヤツヤ、首には蝶ネクタイをつけている。この顔を押し出してくる。わたしたちの無関心の隙に、露のこの顔が増殖する。わたしたちの無関心は露の復権を助ける。

人は、2年半も続けば、それは慣れる。無関心にも無感覚にもなる。慷慨し続けること、不許し続けることには、心の努力が要る。

許していけないことを許さないこと。露の行いつつあるおぞましきわざを直視すること。とがなくしてかく苦しめられているウクライナのために、何ができるかを考えること。

いずれも言うは易し、行うのはいかにもたいぎなことだが。

けさのカズャーヴァ。昨晩はあずまやで長くこいつを膝抱きしていた。わたしのねこ。いずれ死ぬ身。ねこってどうしてこんなに死の想念と近しいのだろうか。猫を抱いてると死のことばかり考える。

これ書いてる今は18日の午前11時、電気は7時から止まっている、13時まで回復しない。発電機がどるどる唸ってる。発電機と貯水あるので不自由しないと昨日書いたが、不便がないかと言うとそんなことはなく、例えばいまわたしは、朝から排便を我慢しているし、シャワーも本当は浴びたいし、洗濯もしたい。ちょろちょろなら水は出る。ちょろちょろしか出ない。

発電機は命をつなぐ。うちの発電機は日本製である。冬に向けて発電機をウクライナに送る。その原資は、冬のイルミネーションを今年は行わないことで作る。それがなくても私たちは飢えも凍えもしない。あんなものはなくたって構わない。過ぎた贅沢だ。全国の商工会の、冬場のイルミネーションのための予算を、ウクライナ越冬支援、具体的には、発電機の購入と発送に充てる。全国というと話が大きすぎる。では手始めに、わが三鷹で。ウクライナ避難民を都内区市町村で二番目に多く受け入れている、はからずもウクライナのよき隣人となった、三鷹で。

というのが基本的なビジョンだが、わたしの眼高手低のひどさは古い読者ほどよくご存知である。誰かわたしのけつを叩いてくれ、ほら、さあ、ほら!

7月18日

暑気

今日は上裸と決め込んで、家うちでも庭に出ても海パン一丁で過ごした。まともな神経の人は義母の目とかもう少し気にするのかもしれない。

昼過ぎ玄関の水銀柱が40度を指した。壊れ過ぎだぞ世界! だが13時半、状況を一変させる快事が。むらくも、雷鳴、驟雨。きけば7月入ってはじめてのまともな雨降り。それから半時間のうちに、気温は一気に24度まで下がった。雨は偉大である。シーンを席巻する!

一番水を食うのは灌漑である。村のどの家もかなり広い果樹菜園を持っており、果樹菜園は喉が渇く。雨が降らないと土を濡らすのに人らは大量の水を使う。パイは限られており、ゆらいシャワーの水はちょろちょろとなる。ところへ雨が降った。人らは庭に水まくのをやめた、りんりんと銭投ぐのをやめた。したらシャワーも水勢増しました。雨は偉大! この雨で、村全体でいったいどれだけの節水になったか知れない。

電気

停電もこの日はだいぶマシだった。7時に始まったそれは13時まで続くはずが、11時に前倒しで供給再開。そのあとずっと電気があって、18時に停電。これも、22時まで続くはずが、21時に明けた。エンジニアたちのプロフェッショナリズムにひたすら頭が下がる。

停電について少しく解説する。停電は全国的な発電量不足を背景に各地域3時間くらいずつ順繰り止めていく計画的なもの。ゆえ、一応は、この地区はこの日何時から何時まで止めます、という予定表のようなものが公表されている。が、現実は全然その通りにはいかない。停電は突然始まる。毎正時の跨ぎ越しが都度緊張のときである。たとえば17時、来るかなと思う、が、来ない、17時1分になっても電気が来ている、それならつぎ18時までは大丈夫である。さて18時が来る。来るかな。来た。電気が止まった。したら我々は、ДТЕК(電力最大手)のサイトを開く。

したら、上のように、「お宅さんの地域は、18時に停電が始まりまして、22時まで続きます」という案内が出ている。このときはじめて市民はその後の行動計画が立つ。

ふつう、約束は守られる。第何正時から第何正時まで、きっかり停電が行われる。ときに今日のように前倒しで停電明けとなる。今日のは気温の低下で人らがエアコンとか使わなくなったことで負荷が軽減されたものに違いない。

散歩

夕方、妻と村内を歩いて回った。写真を数葉。村の雰囲気感じていただければ。

ことさら何もないところを選んで写真を撮ってるわけでもない。東西南北どっちを向いても大概こんな景色である。およそ飛び道具を飛ばして破壊するに足るものは何もなさそうだ、というわたしたちの見立てを納得してもらえるだろうか。敵にとってミサイルは高価だしシャヘドだってタダではない。「無意味」「無価値」のバリアがこの村を守っている。大丈夫この村には何も飛んでこないさ、この村は永遠に安泰さ、へらへら。露の狂気が一段と亢進して、その軍事目標が「ウクライナの畜牛のジェノサイド」にでもすり替わらない限りは、はは。

爆音

気温はその後も30度より上がらず、雨降ったし風は吹いてるし電気はあるし最高じゃん、わたしもかれも庭に出っぱなしで、20時か四阿(あずまや)で夕餐がはじまり、やれカツレツだチーズだ庭穫れ野菜のサラダだ、ワインをストローで鯨飲し、たいへんきもちよく出来上がりかけ、「最終兵器彼女」のちせの言いぐさではないが、ああもう私の人生には気持ちいいことしか残っていないんだ、と思ったところへ、20時40分空襲警報、その数分後に爆音。

子供はひとりもう食べ終えていて四阿にすぐ隣接する義父造営の屋外恐竜パークで遊び呆けていた。十分に大きな怪音であり村の夜は静澄、子供の耳や脳にもその音響は届いたはずであるが、世の中にある各種の突発音(拙者の放屁とかネ)の一つとして処理された模様、全く無反応なまま恐竜フィギュアと遊び続けた。大人たちの第一の反応はおっぱである。恐慌はない。ただ「おっぱ〜」といって少し黙る。これをお読みの皆さんも同じ状況に際会すればオッパが口をついて出たに違いなし。一秒後、各人各様に、時間が解凍される。わたしはかたわらのスマホをとりて、そそくさと各種テレグラムで情報を探る。妻は一家随一の情報通である義兄(オデッサ市臨海部に住む)に情報もとんむ。義父母は、村の安全を盲信しているかれらは、今この食卓における第一の課題は平和ボケにっぽんから来て戦禍に耐性がない婿(つまり私)の不安を除去することだと察知して、「おそらく〇〇村(ふたつ隣の村)であろう、あっこには軍事施設があるからな、わたしたちの村には軍事施設はない、わたしたちの村は大丈夫だ」とかことさら恬淡に言って、話頭を転じにかかる。

わたしになにがてきたであろう、いや、何も。

少時のち空襲警報は解除された。起こるべきことが起こり終わったのだ。義兄によれば市内でも爆音聞かれた由。のちの報道によれば、イスカンデルが撃墜された。被害については特段報道がないから、たぶん撃墜は事実だろう。おそらくは、どっかオデッサと私らの村の中間あたりの上空で、敵ミサイルが撃墜された。これ以上詳しいことは永遠に判明すまい。

自分にできることがなにもなく、また起こるべきことは起こり終わったのであれば、あとはもう気持ちを切り替えて、よいべのいこいを盛り立てるべきであった。だが、わたしの気分は完全に暗黒に落ちてしまった。たべかけのものをそれ以上食べつづけることもなく、そそがれたワインだけあふって、すいませんがと席を立ち、家うちに戻って、いつまでも悶々と考えていた。何を考えていたか。Мы находимся в радиусе их действий. どう言い繕ってみたって、ここ(この村、私たちの暮らし)は連中の軍事行動の半径の中なのだ。こんなところに子供を連れてきてしまった。これは大人たちのエゴイズムでなくてなんだろう。義父母、妻、この人たちの生きる現実は、わたしとまるで異なる。この人たちの(私から見れば)歪んだ現実感・情勢観、誇張された安全神話などに、私は耳を傾けるべきではなかった。

わたしに何ができたであろう、いや、何も。――いや、ひとつある。そもそもここへ来ないということ。

あとで妻が来て問うた:(爆音のことで)ここにいるのもういやになっちゃった? 酔余の勢でつい本音で返した。「最初の日からうんざりしている。もう二度とここへは来たくない」

7月19日

うちのダーチャは幅18×奥行90m、義父母が2000年に1000ドルで購入し、以来手づから家を建て水道電気ネットを整備し植樹し開墾し灌漑した。

↑母家の二階から庭の奥側を眺む。柵向こうはひとんち(放棄地)

庭のあちこちに談話場(беседка)と呼ばれる座るところ・くつろぐところがあり、そこで無為を営むのがダーチャ暮らしの至上の悦楽である。オセロしたりチェスしたりклаберыしたり、何もしない。茶ぁ飲んでだべる。猫を膝に乗せて、子供が遊んでるのを見ている。

まさにそういうことをしにきた。19日はそれができた。魔の暑気が去ったので。空襲警報も鳴らず。停電は、19時から23時まであったが、まぁまぁまぁ。

チェス。わたしの黒馬と暗黒女王が白野を蹂躙してるとこ。ひひ

子ォが、義父母の造営した、なんちゃって日本庭園の、なんちゃって富士塚のとこで、恐竜フィギュア(義父が粘土で製した)で遊びおるのを、ただ眺めている

外ペーチカに火を起こすと猫が期待して集まってくる

しゃしりく(串焼きマンガ肉)。くら、さ、た!倉田紗南。これを庭どれ野菜と自家製アジーカと義父ワインでpH調整しつつガッツむさぼる。亦たのしからずや。

ダーチャというのは一般名詞で要は別荘のこと、別荘もちというと日本語の語感としては金持ちみたいだが、購入金額みてお分かりのように中産階級に十分手の届く贅沢である。都市部に本宅・郊外にダーチャを持ち二拠点生活している人はウクライナでは珍しくない。一種の典型的なライフスタイルと言える。

ここからふたつの方向へ話を引っ張れる。①露が破壊しつつあるウクライナの普通の人の普通の生活を見よや!わたしの今日のこの写真入りの小ルポルタージュ見てどう思われたか。美しい、守られてあるべき、理不尽に破壊されていいはずがない、尊い一つの生活の姿だとは思いませんか。それをまさに理不尽にむしばみ、破壊しつつある、露と、露の侵略戦争は、憎悪されるべきだ!…という方向が一つ。昨年の夏の帰郷ではまさにこのような結論を持ち帰った。

だが今回、ほとんどこれと矛盾するような思いも抱懐した。②ウクライナは滅びても、この生活は滅びないであろう。何年か後、どういう境界線で戦闘行為が停止し、また何十年後か、この村を含む領域が、いずれの国の施政権下に入っていようとも、それらのことは、この村の人たちの生活に、ほとんどなんらの影響も及ぼさない。よしや、たまたまこの村に、たまたま理由や誤解があって、敵の魔弾が降り注ぎ、わたしらは死に、この村は壊滅しようとも、この村によく似た、ウクライナの無数の小邑で、小さい名もなき人たちの、悠久の無為とルーティンは、続くであろう。プーチンにもポーチンにも、誰にもそれは破壊できないだろう。

この村を、それがウクライナの一部であるからには、戦争と結びつけたいという願望が、私にも、これをお読みのあなたにも、ある。なるほど空襲警報とか爆音とか停電とか断水とか、接面している部分はある。だがそれらは現れとしては、自然災害とか単純な貧しさとかと変わりなく、付き合っていけないていのものではなさそうだ。虚心に眺め渡してみれば、結局のところ、この村と戦争は関係がない、と言える、あるいは、そうとしきゃ言えない。その虚心の発動のためには、しかし、この村もウクライナだ、ウクライナは露に絶賛侵略され中だ、だからこの村も苦しんでいるべきだという、思考の枷を、意識的に取り外す必要がある。

と書いていて、重要な点をスルーしていることに気づく。徴兵である。戦争における家庭の最大の悲劇は男性成分の欠損。この村も多くの男性がすでに駆り出され、第200貨物となって帰ってきている(あるいは帰ってきてさえいない)に違いない。

わたしらの家族で言えば、唯一徴兵される可能性があるのは、義兄、つまり、妻の兄である。その兄がわたしらに会うために、危険をおして、オデッサ市境を越えて、ダーチャに遊びに来た。その話はまた次項で改めてする。

猫のクースャと満月。クースャはもともと義兄の猫。わたしはこいつが嫌いだが、義兄の手前、昨日はいじめないでやった。

7月20日

気温は最高でも32℃とかで風も吹いておりエアコン要らず、これなら日本から避暑に来たとも言えそうであった。電気もかなりあった(停電14〜16時、22〜?時)

↑昼、オデッサの伝統料理というфаршированный судак。すだく、という魚から肉身をくり抜いてミキサーにかけ、魚の体に詰め戻し、それをスメタナで煮込む。

すだく、という言葉は、日本語の雅語で、きりぎりすなどが草陰に集まって鳴いている様子をいう、とその昔義父に教えたことがあり、以来すだくが出ると、必ずそのことをいう。

からし、という魚もあり、それは辛子という意味だ、と昔教えたので、すだくが出ると、からしのことも必ず言う、義父が愛しい。

↑義父と本ンヌを読みをる子

↑義父がいま庭にこんなん建てている、Quiz、これなんでしょな。こどもの本で「100階建ての家」というのがあるが、その100階部を作っているといえば、分かる人には分かるか。星を見る、観望台である。村は夜、満天の星空であるが(大停電の夜はなおさら)、庭の木々のせいで展望が狭められている。これを超えるべく、人工高所を作っているわけ。

ソビエト時代に名門・キエフ工科大で教育を受けた義父母は、当然に宇宙が好きであり、ユーリイ・ガガーリンは永遠のヒーローである。20日の夜も子供を寝かせてから宇宙に果てはあるのかについて議論というか互い知ってることを披露し合った(私からは:①宇宙の遠くを見ることは宇宙の過去を見ることで、宇宙には時間的はじまりがあるのだから、宇宙の始まりを見ることができればそれは空間的にも宇宙の果であろう②空間の外側や時間の始まりの前を想像できないのは単に人間の脳の機能的限界というに過ぎぬであろう)

義兄

義兄は19日の夕方やってきてそのまま泊まり、20日の昼過ぎ街(オデッサ)へと帰っていった。

義兄はアウトドア大好き人間で自転車とオフロード車と酒と煙草とマリ●ァナをこよなく愛する快男児であるが、今は市中に逼塞して地味めに生きている。ダーチャに来たのも実に昨秋ぶりという。

ひとをとるひと、を恐れてのことだ。

ひとをとるひと、があちこちにいて、ひとをとる。某所で人員が払底していて、義兄は肉体的に、最低限その役務に耐える。だが義兄はそのしごとをしたくない。そのしごとは人を殺し、また自分が殺されることを内容に含むから。

オデッサ市から市外へ出る幹線道路上に検問がある。戦前はもちろんこんなものなかった。露工作員の侵入防止が第一(ゆえに市外へ出る車より市内に入る車のほうをより厳しく見る)だが、徴兵忌避者の摘発と赤紙即時交付の場としても機能する。義兄がダーチャに来るためにはこの障害を超えないといけない。

それで、わざわざ義父が車を出して、市内で義兄とそのチャリを積み込み、検問の少し手前でこれを降ろして、義父は車ごと検問通過(義父は60オーバーなので問題なし)、義兄はチャリで幹線道路を外れた村落通過ルートを通って、何や某所で合流、というトリックを、行きも帰りも演じた。つど、心配している義母と、せから義兄の嫁はんに、無事通過したよと連絡して。

市中における、ひととりと、その回避の実態を、義兄に聞いた。かいつまんで言うと、何しろ子持ちだろうが障害持ちだろうがしゃにむにつかまえて駆り出している。自分はもう車は乗らない。スーパーで水だの重いものまとめ買いするときのほかは。チャリも、以前のように、街なかとか海沿いだとか、無目的に乗り回す(※私も参加したことあるが、徒党組んで、信じられないスピードで、今は世界遺産となった石畳の旧市街やら、海と街を隔てる海食崖の中腹を爆走する)ことはしない。そもそも外出は、時間を選んでいる。ひととりがどこに出没しているかをリアルタイムで報告し合うテレグラムチャンネルがある。これを見て、いま安全と思われるタイミングで、用向きの範囲でのみ出歩く――。

このテレグラムチャンネルについては前から話に聞いてたが、聞けばその実態は驚くべきものであった。いわく、ひとかりの出現情報を交換し合うこんな明らかに徴兵忌避を目的としたチャンネルがウクライナドメインで存在することはウクライナの保安当局として看過できない、即時BANする。そこで、いま皆が使っていて、いちばん信頼性がある(最新の実情を反映している)とされるのは、ロシアドメインのチャンネルである。むろんこのチャンネルの存続にはФСБ(露保安庁)が関与しているであろう。ウクライナ軍の人材払底は露にとり好都合だから。で、これに対してウクライナ当局は何したか。露の当該チャンネルと瓜二つのコピーを作り、そこから偽情報を発信したり、発信された情報の裏をかく動きをして、情弱男性を市中でひっつかまえることをはじめた。まさに情報戦争。ウ露の情報戦争のこの側面は寡聞にして聞かない。

ではあんたはんに残った唯一の楽しみはさしずめ娘はんということになるかね、と問うたら、まあそうだ、という。義兄の子煩悩は音に聞こえている。今回うちの太郎への接し方を見てもそれはよくわかった。義兄の子(わたしの姪ということになる)は1歳半。戦争が始まってから生まれた子である。名はジャヴェリン。嘘。さくら、と申す(嘘)

義兄2

私は凡庸に、即時停戦と和平合意が理想ではあるが、ウクライナの将来にわたる確証的平和と公正の実現のためには、露がある程度軍事的にも打ち負かされることが必ず必要だという考えから、ウクライナ軍を応援している。西側によるウクライナへの軍事支援も歓迎するし、ぜんたいに、ウクライナ軍が質量とも増強することを願っている。

が、これはシンプルに矛盾であり立場の不徹底であろうが、わたしは義兄が軍隊に取られることを望まない。義兄が戦死してウクライナが勝つより、義兄が無事でいてウクライナが負けるほうが、ずっといい。

義兄は巨漢なので三人でプールに入るとさすがに狭く、義兄と太郎、わたしと太郎で交代で入った。義兄は「シャークアタック」「コンクリ板倒壊」といったダイナミックなわざを繰り出し太郎を大いにエンターテイン、これは娘さん楽しいだろうな、俺もこんくらいできなきゃだめだな、と参考になる。

おもやの二階で義兄とピンポン3戦して全敗、が、めずらしく、わたしの歴史的勝利まであと一歩のところまでいった。何十回戦ってるか知らんが、一回も勝ったことがない。

わたしはこの義兄が好きだ。折り合いも良い。少量のしかし珠玉の、よき思い出を共有している。

とはいえ、かりそめの兄弟ではある。他人といえば他人。2年半住んだウクライナも他人だし、4年半住んだロシアも他人だ。

もっと言えば、私でない時点で実の親だって他人であり、死んだってどうということはない。わたしの死は全宇宙の滅亡だが、その余のものは、妻が死のうと子供が死のうと、わたしの宇宙の中に生起する小事象にすぎない。

いろんな身も蓋もなさのレベルがある中で、人は、どのレベルにかに自己を定位して、そこに生きる。わたしは選ぶ。わたしはこの義兄を他人とはしない。わたしはウクライナを他人とはしない。わたしの生はウクライナの運命と無関係ではない。

義兄3

庭の四阿で差向い、義兄の情勢観を親しく聞いた。かなしいかな、それはまたしても、わたしのもっているそれと全然違った。認めよう、こういう考え方が、ウクライナ社会の中に、相当な力をもって広がっているのだとは。すなわち、「なるほどロシアが侵略してきたのは不快なことだ、戦争は悪いことだ、だがその原因はどこにあったのか、結局はマイダン非合法革命、それを裏で糸引いた米欧だ、諸悪の根源はここにある、ウクライナ政権は汚職で腐りきっている、戦争は彼らのビジネスなのだ、ウクライナ指導部はわざと緩慢に戦争に敗北しようとしているとさえ思える、気の毒なのは塹壕の兵士たちだ、戦場の現状はひどいもので、戦術も何もあったものではない、竹槍突撃だ、だからこそ人が足りない、ボディが、わかるか、ボディが足りないのだ」…

こんな話ばかり聞いていて、わたしは、なんだろうな、いろいろばかばかしくなってくる。安全のための情報収集と称するネット巡回、テレグラム発信とかメディア報道とかを読むのも。わたしが耳近く聞く近親者の肉声は、これら文字の言葉を圧倒的に相対化する。文字の言葉は文字の言葉で今日も威勢がよくやいのやいの言っている。もう知らんよ、どうせ俺はウクライナ人じゃねえよ、あと一日で日本に帰るのだし、もうあんたら勝手にやってなさいよ、と思えてくる。

でも、ここでもまた、選択なのだと思う。

現地の人が言っているのだからそれが真実、局外者に容喙の余地なし、というのは簡単だが、わたしは知ってる、全然こうではない語り方があることを。この人らが故意にか意図せずか語り落とす事実の系列があり、そちらをより心に近く、私は感じる。わたしの経験、わたしの見聞きしてきたこと、わたしの感性がそうさせる。

わたしは依然として、次の立場を堅持する:露の侵略はいかなる理由によっても正当化されず、全体としてウクライナは自国と世界秩序のために戦っており、西側はこれに正当な助力をしている。わたしはわたしの愛したモスクワを監獄におとしめたプーチンを憎む。わたしはわたしの愛するオデッサを、村を、ひいてはウクライナを、ミサイルで攻撃するロシアを憎む。

義兄4

晩に義兄と、わたしの持参した清酒を飲み交わした。義兄はトスト(乾杯の辞)の名手、妹家族の勇気ある渡来に乾杯だとか、うまれくる新たな命に乾杯(※わたしと妻にこの秋第二子が生まれる)とかと、気のきいたこと次々言う。聞くと、うんなるほど、そういう理由があるならば、飲まないわけにはいかないよねと、わたしたちは杯を重ねる。私と義兄は日本酒の、義父母はワインの。

で、3回目の乾杯のときに、ではわたしからひとつ、とわたしがしゃしゃって、「平和のために」と一言申した。

各人それぞれの想いに一瞬しずみ、ほんそれ、と言って、静かにさかずきを打ち合わせた。ほんそれ、それな、うん、それな、と口々に(ロシア語で)言って。

平和のために。これは、さしでがましいようだが、ぜひ、わたしの口から言いたかったことなのだ。

わたしが皆さんと異なる政治的ポイントオブビューを持っていることは皆さんも知っている。だが、ひとつの点でわたしたちは一致できる。こんなのはだめだ。こんな状態は続くべきではない。ミサイルがとんでこない、シャヘドが飛んでこない、戦場で殺し合いが行われない、殺し合いの戦場に若者が駆り出されていかない、当たり前の日々を。平和を。平和を。平和を。

ウクライナの空に平和を。

夕方の散歩で、空、高ない?と問う妻、俺もそう思ってた。といってぱしゃり。ウクライナに平和の空を。Мирного неба!

7月21日

出立の日。子連れで大変な道のりである。どきどきしている。

3時間半か4時間かかけてキシニョフへ。そっからイスタンブールまで空路1時間。イスタンブール空港で3時間待って、イスタンブールから東京まで11時間。

基本的にこの記事はもう書き終わった。書ききれなかった内容を帰国後少し書き足す。

本記事になんらか教えられることあった、考へるヒントになった、また、この何丘という書き手には、いささか見どころがある、と思ってくれる方、投げ銭くれるととても嬉しい。メッセージには帰国後返信いたします。

何丘に「投げ銭」してみる

では。

7月22日(出国の日、旅の総括、語り得なかったこと)

三鷹の陋屋に帰り着いたのは7月22日の22時44分。まことしんどい道のりであった。ドアツードアの移動時間は26時間、このかん私と妊婦は睡眠時間よくて累計1時間半、子供だけは計9時間くらい眠った。

●旅の総括

旅の総括1。今回の旅に私はパソコンを持っていかなかった。何丘ブログは更新する意志があったが、スマホでなんとかなるやろと。実際、なんとかなった。パソコンを持っていかないと、その充電器も持っていかなくて済むので、すごい鞄があく。それで、義父母へのおみやげをリュックに詰め込めるだけ詰め込んでいった。善意の爆弾を満載して飛来する、そういうテンション。荷物の実に9割以上がおみやげであった。

旅の総括2。4つの飛行機を乗り回したが、私はムダに身長が高く(180ある)、座席がとても狭くて苦しくて眠れない。足がふたつでなく四つに降りたためたら、また、足が取り外しできたら、どんなにかいいのになぁ、と「哀れなる者たち」みたいな幻想をした。せつない夜は熊を抱いて眠る。そう、映画、そこで映画。行きは「バービー」と「リバー、流れないでよ」、帰りは「偉大なるギャツビー」を見た。「バービー」は思った100倍社会派でめんくらった。Kenたちが亜空間に転移して群舞するシーン(その転移の瞬間から、群舞の冒頭まで)が素晴らしすぎて、そこだけ何度も繰り返し見てしまった。

「リバー」は、くるりの主題歌のMVを見ていて、ええなあ、見たいなぁ、と思っていたが、見逃してしまっていた。

演技がざーとらしくて見ていられない、という邦画の通弊を免れず。そうはせんやろ・そうはならんやろ、のオンパレード。逃避行のシークエンスは楽しかった。女の子かわいい。
「ギャツビー」は、ギャツビーの初登場シーンを中田敦彦が激賞していて、前から見てみたいなと思っていた。原作は読んだことがあるので、思い出しながら見た。すごいよかった。ディカプリオの演技に感服。水も滴るいい男、という言葉は以後この人のものになった。エンドクレジット、エグゼクティブ・プロデューサーにマイメン、Jay-Zことショーン・カーターが出てきておいおいと思った。

旅の総括3。庭のプールに毎日入った。ひどい日は3回入った。以上、総括。

●語り得なかったこと

語り得なかったこと、について。ほんの少し語る。

これは村で撮った写真である。村は一度もミサイルだのシャヘドだの飛んできたことがない(だって飛ばして破壊するようなものが何もないのだもの)、というのが義父母や妻の安全神話の最大の根拠であった。だが昨年の秋にこの施設はシャヘドで破壊されていた。村にもシャヘドは飛んできていたのだ。

義父はそれを私に知らせていなかった。私はその義父のいう「安全」を、もう信じない。

私はこの光景を初日に見た(写真を撮ったのは最終日、帰りがけ)。キシニョフから義父の車で3時間、積もる話でずーっと盛り上がっていて、さて村に入った、その直後、この光景に出くわした。「これは?」「ああ、別に。夜中にドローンが飛んできた、それだけだ」
ここに何があったか私はもちろん覚えていた。燃料タンクだ。写真の円筒は基部にあたり、この上に丸いタンクが乗っていた。たのしき車内トークはただちに終了。以後は私の、某国への二三の呪詛と、義父への二三の詰問、あとは暗黒の沈黙。мы находимся в их радиусе(私たちは奴らの射程範囲内)という言葉はこのとき生まれた。

この施設の所在地は、同じ村でも村外れ、私らの家とは対角、それなりの距離であり、爆風もおよそ私らの家には及びそうにない。とはいえ、爆音はすさまじかったであろう。よく燃えたことだろう! 村の夜は赤く染まり、人らの狂騒、消防車、続く攻撃への不安。そこへ太郎を置いてみる。想像はもちろん、その景色、その夜のなかへ、太郎を置いてみることを強いる。

その攻撃が行われた晩、義父母は村にいなかった。街(オデッサ市内)の本宅にいた。「村で攻撃されるとしたらそこ(燃料タンク)だろうとは思っていた。一番良かったことは、それが起きたのが、私たちのいないときであったということだ」と義父。この一言は多くを物語っている。お義父さん、それって、こういうことにならないですか。つまり、それが起きるのが、太郎が村に滞在しているときである可能性もあった、と。

この出来事は3つの経路で私の心理を蝕んだ。第一に、このうつくしき村に、敵の鉄蝿が侵入した、この村の上空を(私らの家の上を)飛行し、そうして着弾したという、事実そのものからくる、甚大な不快。第二に、とはいえ大した施設ではなく見えた、村外れにぽこっと丸いもの、私の見慣れた秩父市立図書館裏の燃料タンクとサイズ的にもそう変わらない、それが破壊された、ということは、そこまで小さい対象にまで敵の攻撃は及んでいる、敵のウクライナエネルギーテロはそこまで徹底したものである、という認識からくる、青ざめ。

第三は、義父への失望である。私は見誤っていた。こと安全と安心に関して、義父の私への報告は誠実であると思っていた。そこまでして(私と)孫を招き寄せたかったのだ。

このように、今回の村での生活は、衝撃的なスタートをきった。ここで得た不安と不快、そして恐怖を、滞在中くりかえしくりかえし反芻していた。本記事のすべての記述の基底にそれがあると思ってくれたらいい。

来夏、つまり2025年の夏、私らはダーチャに里帰りしない。これは状況とは関係なく、自動的に排除される選択肢である。私らはいま4歳児をひとり抱えて片道26時間かかるような旅をしたわけであるが、同じことを0歳児と5歳児を抱えた状態でできるわけがない。

だが2026年より先も、もし戦争が終わっておらず、その外観のひどさが今と同程度であったら、私が帰郷に同意することは、おめでとう、いよいよ絶対にありません。知れ、虚偽に等しい沈黙は、私を絶対的に硬化させる。安全と安心という意味で、妻も義父母も、私の話の相手にはならない。よほど違う世界に住んでいるということがよく分かった。説得を試みよ。いよいよ私は言うであろう、「2022年2月の侵攻をあなたたちは予測できなかった。そのあなたたちに将来(の安全)について何を言う資格があるか」

●出国の日

最終日、義父の車で村を発ち、4時間半かけてモルドヴァのキシニョフへ。その車中に義母の姿はなかった。身重の妻にはスペースが必要で、義母は巨体である。娘や孫との時間を最後の一滴にいたるまで絞りつくしたかったに違いないに、同乗を辞退された。

ダーチャの玄関先で、義母と別れの抱擁をした。

どういうわけなのだろう、政治的には私の仇敵とさえ言える義母であるが、この義母とのお別れが、私にどうしようもなく涙をもたらす。

次オデッサにくるときはきっと平和になっているよ。きっと平和に。もうモルドヴァなんか経由しなくていい、飛行機だって直接飛んでくるよ。ここへ来るということがどんなにしんどい決断だったか分かるよ。でもそれも今回がきっと最後だよ。平和が来るよ、今に必ず。平和が……。

こう書いていても涙が出てくる。私は義母のことが憎くなんかない。私は義母を愛している。義父のことも義兄のこともむろん愛している。だが、私の立場とか主張というものからすれば憎んでしかるべき義母という人に、これほど純粋な愛を感じるということに、人間性の光を見る気がする。私という歪んで汚れた人格の奥底にさえ宿っている、人間性の光。(神の審級……。)

人は、憎みたくなんかない、愛したいのだ。愛することこそ喜びであるような生き物なのだ。私は色々言う。いろいろ思い、いろいろ書く。わるぐちを書くのは楽しい。憎悪や義憤は人を快活にする。だが真の喜びは、愛からこそくるのであろう。

(だがそれを、ロシアやロシア人について私が言えるようになるのは、まだ先の話だ)

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