あてどもなく徳積みしている自らを時間の中に見出す。わたくしという現象は明滅する青い有機幻燈とかなんとかミヤケンは言った。やがて無になる全宇宙この大千世界の中の一瞬のまたたきに過ぎぬわが生に、いっしょう(ещё)何であってほしいと願うのか、日々に徳積みをおこのう己である。
scene 1:おじいさんに挨拶する
隣のマンションのまわりを掃き清めている人に朝、でくわすことがある、これに、必ず「おはようございます」という。にこやかに「おはようございます」と返してくれる。おじいさんだ。しばらく見ないことがあって、死んだかと思った。が、そのうちまた現れて、そのとき本当に嬉しかった。
scene 2:守衛さんに挨拶する
私のめしのたねにしている仕事のうふぃつぃ(オフィス)は東京の中心にあって人心は荒廃している。そのビルを守っている人、警備員さんというのか、この人が、入口のところで毎朝姿勢を正して、入構者に「おはようございます!」とあいさつしているのだが、人心は朝から荒廃しており、人らは黙ってうつむいて建物に入ってゆく、だが私は、少々調子っぱずれでも、応分に明瞭な声で、おはようございますと返すようにしている。
scene 3:エレベーターへの同乗を誘う
私らはアパートの上階に住んでいて地上との往還にはエレベーターを使うが、地階から乗り込むときに、周囲に人の気配があれば、というのは、ものかげから人の姿が隙見されたり、郵便受けをかちゃかちゃやってる音が聴こえたりするときは、少しその人のところへ立ち戻って、乗りますか、と声をかける。いいですよ先行ってください、と言われることもあれば、ああどうもありがとう、といって乗り込んでくることもある。私の観察では、とくに年配の人に、日本人の奥ゆかしさというやつか、エレベーターへの相乗りを敬遠する人があって、自分より半歩先んじる人があるときは、あえて物陰で待機(いないふり)して、次便を待つということをする。だが私は上階なので、私を先にいかしてしまうとその人はだいぶ待つ、それは気の毒と思い、いるなと気取った以上は、声をかけるようにしている。
scene 4:優先エレベーターを使わない
ベビーカーとか用の優先エレベーターと書かれていればこちらがベビーカーでないときは駆動しない。
東京の三鷹というところに住んでいて一番近くの大きい街は吉祥寺である。吉祥寺には東急百貨店がある。6Fにおもちゃ屋、7Fにニトリ、8Fに本の紀伊国屋、RFには青空ひろばがあって、子育て世帯は重宝、うちらもよく使う。エレベーターが3基ある。うち2が連動というのかシステムを共有していて、おーい俺(わたくち)を上階へ連れて行ってくれーと念じて単つの△ボタン押せば、その願いは両方の籠に届き、どちらか先にきた方が私を乗せていってくれる。残りの1基は独立していてそれに乗りたければそれ専用の△ボタンを押さねばならない。私はこれを押さない。なぜならその1基は、車いすとかベビーカーとかの専用のやつだから。
あまり当然のことで、こんなものを徳のひとつに数えるなと言われそうだが、無視して優先のやつに乗る優先権なき不届き者が多い。そもそも吉祥寺東急のエレベーターは待つ。知ってる人は知っている、B3から10Fまであり各階テナント充実(3Fが密かにアツい!)、それでいて籠3つ(優先除けば2)で回しているので、かなり待つ。今日も太郎とそこ行って、地階で△押したが、5分は待った。でも優先は押さなかった。ただじっと待ちながら、ああ、徳を実践しているなあと思っていた。
こんな具合に、自分が徳として実践しているらしいことを見出して、見出しては記録していこうと思う、百件くらい集まったら記事を閉じる(更新を終える)。
これらのことをしているから自分は高徳だ、と誇りたいのではない。私はむしろ悪人である。美徳(もとい、微徳)百件をゆうに打ち消す無数の腐敗・不徳・悪徳を日々に慣行している(たとえば、いま私は、三鷹市立図書館の本を7冊、延滞している。私はしょっちゅう本を延滞する)
わたし個人への評価などどうでもいい。だが、これら(ここに書くような)徳のタネ、徳の芽、それ自体には、価値があると思っている。ここに書くようなことが、人に採用され、世によりよく行われるようになれば、社会とか、世界は、ちょっとだけよくなるかなぁと思っている。子供たちの未来のために、徳のアイデアを(Samenを)撒いておきたい。記事の動機はそんなところ。
scene 5:スーパーで、レジ打ちの店員の手業を、凝視しない
スーパーで籠いっぱいの買い物をレジに持っていく。店員はバーコードを読みながら籠Aから籠Bへと商品をうつしかえていく。籠Aは私が店内を練り歩きながらこれ買おうこれ買おうとぽいぽい放り込んでいったもので乱雑の極みであるが、店員はこれを縦のものは縦、横のものは横、軽いものは上、重いものは下と、きれいに整序して籠Bに収納していかなければならない(日本だなぁ、と思う)。私はその手際を、しかし、見ない。ように務めている。見られるとプレッシャーかなぁと思う。ときには整序にまごついたりやり直したりすることもある、そのときに客がガン見していたら、嫌だろう、よそ見していてくれた方がいいだろう。
※これがウクライナだったら、私はむしろ、レジ打ちの手元を、ガン見する、同一商品二度打ちしていないか目を光らせる、かつ、レジが終わって、レシートが手渡されたら、その場で、レシートを読むそぶりをする。買ってない商品が登録されていないか、不当に高く請求されていないか。それで間違いを指摘したことも何度かある。うっかりミスかも知れないし、わたくしする意図があったかもしれない。日本ではまずそういうことはない、と思っている。日本では、疑うくらいなら、騙された方がいい、とすら思っている。
scene 6:スーパーで、レジ打ちが女性であれば、重い籠は、手添えしてスライドする
うちは牛乳のみが多い(私も妻も太郎もよく牛乳を飲む)ので一度の買い物に牛乳2、3本が含まれていることが多く買い物かごは大抵重い。女性に重いものを持たせる/扱わせるべきではないというのが良くも悪くも7年だか8年だかの外国生活で染みついているので、レジの女性が、①籠A(前項参照)を手元に引き寄せる、②籠Bを支払機へと送る、この二度の籠動かしをするとき、私が手添えして、主に私の力で籠を動かす。
これで店員が実際に助かっているのかは確証がない、確証というのは、ありがとうございますと言われるとか、謝意の明示を受け取ったことはほぼない。微かすぎて認識すらされないヤツか。
scene 7:食べ物を買ったとき「いただきます」という
これはしているなぁと気づいたのは、私はたとえば弁当やで弁当を買う、肉やでコロッケ買う、牧場でソフト買う、要するにすぐ食べられる状態のものを買うとき、お金払って、商品渡されて、ありがとうございましたと言われたあと、「いただきます」と言っている。すぐ食べるのでない(うち持って帰って食べる)ときもである。いわば、商品と貨幣の記号的交換(文明)を、「たべものをもらった/これをたべる」という次元(野蛮)へと送り返している。柄谷行人の交換様式の四象限でいう何であろう、様式CからAへの退行?
これが「微徳」かと言われると、どうであろう。私の気分としては、然り、微徳なのだが。
むかし、学生時分だ、Y山と、どっかのコンビニ入って、どうせアイスかなんか買っただろう、万札で支払って、お釣りに五千六千七千八千九千円と、サツを目の前で数えて渡された、私は一言「たしかに」と言ってそれを受け取った。したらY山、「その『たしかに』て、いいね」と言ってくれた。私の記憶では、「たしかに」のこの用法は当時マイブームだったが、Y山に褒められてから、へんに殿堂入りしてしまって、逆にこのフレーズを使わなくなった。それが輪廻転生して、いま「いただきます」になっている。
scene 8:老人たちに子供を見せる
下の子は愛嬌がよく笑顔がかわいい。甘やかされて育っており人を信じ切っている。他人がほほえみかけるとほほえみかえす。他人が手をふるとこちらも手をふりかえす。
近所に老人ホームと老人専用の病院がある。その大きい窓からいつも老人(たち)が外を見ている。私が下の子と散歩していてそこを通りかかるときは、窓のほうへ寄る。老人たちに子供を見せてやっている。窓ガラスごしにほほえみと手ふりの交換が演じられる。おそらくは、長くない老い先の、つかのまのひだまりに。
scene 9:すみっこ譲る(声を出す)
電車で、自分が座ってる前に、ピンク札もしくは赤札つけた人が立ったら、席を譲るのは当然である(その席が優先席であると否とを問わず。言うまでもないことだ)。自分はもういっこ、これを言いたい、自分はそうするし、人もそうしたらよいと思うこと、それは、自分が車内のどっかすみっこのとこに場所を占めて、壁によっかかってラクしてるときに、ベビーカーの人とか、あるいは、それこそ妊婦さんとかきたときは、場所かわりましょうか、とか、すみっこ来ますか、とかいって、そのすみっこの場所を譲る。座れないまでも、よっかかってられるとラクだ、あるいは、ドアがあくたび人を通すために動かないでよくてラクだ、ということは、ある。善意の人でも、単にその発想がないために、それを言い出さない(代わりましょうか、と申し出ない)ということがあるように思う。ここで大事なのは、ジェスチャーでなく、代わりましょうかとかなんとかを、ちゃんと声に出して言うことだと思っている。したら、周囲の人に、ここに一人、ただ立ってるのがしんどい人がいますよということが、つたわり、ワンチャン、誰か立って席を譲ってくれるかも知れない。そういう展開になったことも、過去にあったような気がする。
私は人なかでそんなふうに咄嗟に声を出すことができる。そういう身体をしている。これも、しかし、天与のものというよりは、ふだんからやってるからできる、ということだと思う。やればだれでもできることな気がする。
先日こんなことがあった。三鷹の駅構内で、大荷物のあんちゃんが通った、その荷物は多くの部品から成っているのだが、そのうちのひとつ、かなり大きめの部品が、がこんと外れて、地に落ちた、ようであった、あ、落ちましたよ! と誰か発声した、それは、中学生くらいの女の子、母親とつれだちていま駅のホームに向かうところ、しかしあんちゃんの耳に、この親切な女の子の声は届かず、あんちゃん果たして、改札くぐって行ってしまった。女の子は、見てみぬふりをしなかったのは偉かった、鰓方、という苗字であろう定めし、だがかのじょには肺活量が足りなかった、gutsが鍛わっていなかったのである、そのために、その親切は目的を達せなかった。私は併せて、この娘の母親の責任ということを思った、娘のそのせっかくの親切心を、自分が補完してやることもできたはずだ、娘の出せなかった大きな声を、かわりに自分が出してやることで。そして無論、この場面における私の責任ということも思った。そういう場面で咄嗟に大きな声が出せるそういう身体を具備しているよ平生から鍛えているからね、とかさっき言ってなかったか、この野郎?! 私の言い訳はこうだ:①私は迷った、ロシア語なら「まらどい・ちぇらヴぇーく!(若い人!)」と声をかけるところだが、日本語ではこの場合どういうのかと表現に迷った。②私は待った。ここはこの中学生くらいの女の子が自力で解決するところだ、あるいは、それがだめでも、母親と込みで解決するべき場面だ、と思った。つまりは、ひとのこの親である身で、この一つの場面を、他人(大荷物あんちゃん)の救済がかかったそれというより、子供の教育の機会というふうに見てしまっていた。のかなぁ。いずれにしろ一瞬のことだったので、「間に合わなかった」。そういうこともある。微徳の失敗。てか、「多くの部品から成る荷物」て何。

