カミュ「ペスト」読書感想文

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読書感想文を書いてみる。高校までは学校でしばしば書かされたが、大人になって研究者にも評論家にも翻訳家にもならずそれでも本は読み続けている私のような人間は、今ひとたび「読書感想文をかく」という美しい伝統に回帰してみるのがいいと思った。

どんな状況で読んだか

初読だった。カミュは「異邦人」だけ。新潮文庫。
2021年7/24~26にかけて読んだ。ダーチャのBBQ炉で手羽を焼きながら読んでいた。
この間、世間では東京オリンピックが始まっていた。

ちなみにTwitterで読書の経過報告をしていた。

カミュ「ペスト」100字であらすじ

感想文をフルサイズで書く前に、どんな話か100字でまとめてみようか。

死病ペストの蔓延で外界から完全に隔離された街。死はあまりに非情・無差別に百もの命を日に日に刈り取り飽きるところを知らない。人間がその前に圧倒的に無力である災厄を前に医師は。神父は。それぞれの闘いを描く。

101文字。下手だなー、こういうのは。だがこれも練習だ。やってりゃそのうちうまくなるのかもしれない。実はこれで相当時間をかけてしまっているのだが到底100点満点とは言えないだろう。文庫の裏表紙にあらすじ書く人まじ尊敬する。

カミュ「ペスト」読書感想文

さて本番。基本的に読書感想文は原稿用紙5枚、つまり2000字だそうなので、その尺に合わせて書いてみる。あまり推敲し過ぎないように注意しよう!悩んで悩んで、結局書ききれずブログ記事として公開できないとなったら最悪だ(私にありがちなパターン)。私は大人だ、ふつうに忙しい、こればっかりもやっていられない。よし決めた、制限時間は1時間だ。1時間以内に書き切る。

カミュ「ペスト」を読んで

 疫病蔓延の世界を描いた名作で今こそ読むべし教えられること多し、みたいにカミュの「ペスト」のことが言われているのを耳にしていて、では今こそ読むかと実家から送らせた。読み始めはなるほど、新型コロナウィルスによるパンデミックの現今の社会状況に照らして分かる分かる、同じ同じ、という点がいろいろ目について楽しかったのだが、中盤以降はそういう読み方を放棄した。結局、全然違うので。片やペスト、死病である。発病したら薬石甲斐なく数日以内にまず間違いなく死ぬ。人口20万の街で一日100人が男女老若を選ばず10か月にわたり死に続けるのである。今の私たちはそれほどの地獄に生きているだろうか――否ぜんぜん。時空の異同も決定的だ。「ペスト」の舞台は20世紀なかばの欧州の一地方都市であり、悪疫の発生と大流行によって街は完全に封鎖され、外界から隔絶される。片や現代、21世紀のコロナ禍は、市境も国境もやすやすと越え、あっというまに世界全土を覆ってしまった。
 読み終えて思うのは、この作品は今こそ、そして今だけアクチュアリティを持つような、また読むことによって時代や社会がよりよく透視できるようになるという即効性の効能をもつような、一種のビジネス書・教養書などにとどまるものでは決してなく、人間存在、世界また神について本質的な議論を含み、また魅力的な人物と珠玉の場面をふんだんに抱え、それらを香気高い文体の中に結晶させた超一級の芸術品であって、読むのに時代を選ぶものではない。むしろ人生において二度でも三度でも読み返すべきものである、ということだ。(私は10年後の再読をすでに予約した)
 私の印象では作品は後景と前景の二層構造。後景すなわち<地>をなすのは、社会とか民衆・群衆といって名指せる、類としての人間である。今のコロナ禍の世界のアレゴリーを本作に見いだしたい読者はこの類としての人間の変容の過程を楽しむであろう――いわく「新たな日常の確立」。一方の<図>をなすもの、つまり前景に展開するのは、特別にスポットライトを当てられた6人ばかりの人物の、あい交わり又交わらぬ物語である。私の興味は読み進めるほどにこの後者の方に移っていった。つまり私はこの6人ばかりの人間たちに恋し、その織り成す場面場面に釣り込まれていったときに、もうこの小説を単に現在の社会状況のアレゴリーとして読むことをやめたのである。
 けだし思い出されるべき人物がおりまた場面があるということが小説のひとつの価値である。たとえば今どんなエピソードが思い出されるか。まず子供の壮絶な死の場面。悪疫との出口の見えない絶望的な闘争の中で医師らは血清の開発に成功、これに光明をみた。第一号の試験投与が名家の子息に対して行われる。ペストにかかった以上はどうで死ぬ、試す価値の十分にあることだった。今夜が山というその一夜、私のいう6人の主人公のうち4人までが臨床して経過を見守るなか、少年はなるほど数時間か、通常より長く生きた。そのかわり、その延長された生の時間を、無間の苦しみにのたうった。カミュはその絶命への過程を仮借なく、フルサイズで、ノーカットで描く。ここまでむごたらしいものを語られざることを語るを身上とする文学といえどもそうよく描くものではない。そのあとで主人公の1人である医師とまたの1人である神父とのドストエフスキー的対話がある。医師はいう、神がいる、そしてすべてのことに意味があるなら、このひとつの死も必然だというのか、否! 少なくともこの子ひとりには罪はなかった。子供がこれほど苦しんで死ななければならない世界を、自分は絶対に肯定できない。一方の神父もまた、今こそ信仰が試されているのを感じる。この理不尽な死の運命にどう神意を見いだしたらいいのか。それが「非合理ゆえにわれ信ず」の信仰告白へと続いていくのである。
 またの場面は、例の医師と、その相棒(やはり主人公の一角)との、つかのまの平和の夜の海水浴。この医師の相棒という人物は……途方もない人物で、私は一読でこの底深い人物を汲み尽くすことができなかった。この人は元来ペスト発生時たまたまこの街に逗留していた旅客であって、富裕で体力知力に優れた一種の高等遊民、ライフワークの「観察と記録」を続けながら、かつての活動家としての経験を活かして草の根の互助団体を自ら組織してまわり医師・市当局の防疫をサポート、いつか例の医師氏の最も信頼するパートナーとなった。その2人がある静寂の夜に高台の家の二階の露台で親しく語り、人生の秘密を分かち合い、どうだろうか、今夜ひと夜はあたかもペストなどないかのように、このまま裏の浜まで降りていって、夜の海で泳がないかい。いいね合点。そうして二人の男が晩夏のぬくい夜の海に入るのである。(その翌日からまた待ったなしの闘いがはじまるのだ)
 他にも幾多の場面、人物、幾すじもの物語が、それに思いを馳せるという愉しみを私に残した。それは明らかに、私が本気でそれと事を構えているとはいいがたい我らの時代の疫病とその社会への反映に類似した何かを作中に見いだすことのトリビアルな悦びにまさるものだ。今では私はこの作品は今読んでこそ面白いという惹句さえ信じない。いつであれとにかく読み、また繰り返し読むべき傑作であった。

2152字。規定の字数をオーバー、その時点で失格。また、所定の時間もオーバーした。誰にも邪魔されないひとつづきの1時間を確保するのが難しかったので隙間時間にちょこちょこずつ書いたが多分よくて2時間はかかっている。
内容は、なんだか今読んでこそ面白いみたいな見方をムキになって否定することに紙幅の半分、もう半分は単に印象に残った場面を書き写してるだけで、全く何がしたいのか分からん。最終段落は指示詞「それ」をそれそれ乱発して意味のとりにくい悪文だ。だがもう直さない。

補足

感想文に書ききれなかったことを欄外(ここ)に自由に書き連ねてみる。

・文体

文体が好きだった。訳もたぶんいい。「ペスト」に先だってドストエフスキーを2000ページ読んでいたので(生誕200年の記念の年ということで白痴と悪霊を立て続けに読んだ)コントラストが激しかった。ドストのべったりした思わせぶりでもったいぶった極めて散文的な結晶力の弱い言語に対して非常にイメージ喚起力の強い効果的な比喩、おしゃれな言い回し、難しいことを少ない言葉で端的に言う感じ、起こるべきことが起こるぞ起こるぞの思わせぶりなしに端的に起こる感じ、何しろ簡潔で端正でおしゃれだった。私は影響されがちなので読書感想文の文体もそっちに寄ったかもしれない(似ても似つかぬわ!か?)

・名前

同じくドストエフスキー、てかロシア小説と比べて、なるほど人名は簡潔だ。リウーにタルーに、グラン。めっちゃ短い。こちとらレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキンにパルフョン・セミョーノヴィチ・ロゴージンにナスターシャ・フィリッポヴナ・バラシコーワである。何丘(筆者)はロシア語に多少明るいのでロシア人名ならばカタカナ表記から原語のつづりをほぼ復元でき、ときには語源に見当をつけることさえできるのであるが、フランス人名はリウーときいてもタルーときいても綴りも何も全く浮かばない。語源などもってのほか。

・有能と誠実の祝典

「ペスト」の世界で、市当局はちゃんとしてる。状況の変化をみて有効な手立てを適時に打っているという印象だ。6人の前景人物たち(実際には名前と顔を付与された人物はもう少し多いのであるが。リウー、タルー、グラン、コタール、パヌルー、ランベールのことを指している)も皆、有能で誠実で善良である。ここに理想化がある。現実は多分もっと醜い。たとえば21世紀の現実のコロナ禍において、どの国どの街の当局が、これほどに実効的でありえたか。人間も小利口さは増したかもしれないが心根の方はどうだろう。

・実存主義

読んだあとで思い出したのだがそういえばカミュといえば実存主義であった。カミュで唯一読んだことのある「異邦人」もそれを読んだ学生のときそうゆうもの(実存主義を形象化したもの)として受け取っていた。実存主義とは何か。かますぞ。私に言わせればそれは、過去からの切断……今の今まで連綿とつづいてきた関係と因果の列をこの「今」の名において切断し、全く自由で新しいもの、何の理由もなくただそこにあるもの、力と可塑性そのものとして、わが意識と身体を発見するという、契機。一種の視法であり、体技。これに価値を置く立場だ。
そのように思い出してみると、「ペスト」の舞台設定もまさにそうした契機に有利なものになっている。ペスト禍に見舞われた都市は時間的にも空間的にも孤立した。空間的は見やすいとして、時間的にというのは、つまり昨日までの日常を規定していた諸関係がご破算になって(コタールの自由)、もはや昨日までのようには生きられない、いやでも今・ここから新たな生をつかみだすしかない、そういう立場に追い込まれるということ。で、そういう立場に追い込まれた人が、どのように生の態度を決定していくのか、その6通りのやり方が、6人の主人公によって示されていると見ることができる。

・つくりものとしてのできばえ

本作はフィクションである。実在する街が舞台だが、その街で実際にペストが流行したという事実はない。またそもそもペストは欧州にとって中世期の病であって、作中の20世紀人たちも「はぁ?ペスト?この時代に?」と戸惑ったのである。
つまりは一から十までカミュという人が頭の中で考えたことなのだ。カミュは、いまこの街でそれが起こったらどうなるかを、思考実験して、①類としての人間がどう変容してくか(あるいはしないか)、また②個人たとえばこうこうこういう個性をもった人間がその街にいたとしてそいつがどう変化していくか(あるいはしないか)ということを考えだし、考え抜いたのである。
でまたその後者、つまり6人の主人公の選び出しが見事だ。20万人の中でなぜこの人物に特に名前と顔が与えられスポットライトが当てられねばならないのか、たとえばコタールだとかグランだとかについて、はじめはピンとこなかった。だが読み進めていくほどに、いかに見事に選び抜かれた6人であったかがわかる。境遇・身分・思想信条の異なる6人の男たちが、危機的状況の中でそれぞれに実存の「型」を示すのである。(そもまず職業柄、市の隈ぐままで足を運び、実見し、報告することが可能な医師という人を主人公兼語り手に据えたのが適切至極)
実際あとがきを読むまで私もこれは本当にあったできごとを実在の手記をもとに書いたのではないかと疑っていたものだ。一人の人間にこれほどの物語を仮構することが可能だとはまったく驚くばかり。そら40代でノーベル賞もとるわ。

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