鬼滅だエヴァだでアニメ映画の話題がアツい。そんな中「千と千尋の神隠し」を見た。
何で今ごろ千と千尋だよ、と言われそうだが、別に何ででもない。昔一人で見たジブリ映画を妻と二人で見る、ということを先日からやっていて、その一環で見た。
見て心が動いたので語りたくなった。だから書く。
序
何丘はジブリファンだ。「もののけ姫」までは各作品5回くらい見てる。
でも「千と千尋の神隠し」以降の作品は苦手だ。「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「風立ちぬ」は劇場で一度見たきり二度と見返してない。
だが妻はロシア人のくせに「千と千尋の神隠し」を4回くらい見ているという。その妻が私に面白いんだから是非見よう、と誘った。
実際わりと見直した。
千と千尋の神隠し、あらすじ
要するにどんな話か、100字でまとめるとしたら。
少女千尋が異界に迷い込んで出られなくなり「脱出」と「豚にされた両親を人間に戻す」を目指して異界の温泉施設「油屋」のスタッフとして働く。ハクという川の神の助けを得て父母を人間に戻し脱出に成功した。(97字)
別に国語のテストじゃないので二重回答が許される。ちょっと別の感じでもう一回100字まとめしてみよう。
人間の少女千尋は魔女湯ばあばに「千」と名前を変えられ、神々のための温泉旅館「油屋」の下働きにさせられた。でもハク・坊・カオナシら強力キャラに愛されたのとあとちょっとの勇気と誠実さでなんとか乗り切った。(100字)
「なんとか乗り切った」て何んだよって話だが。100字まとめって楽しいね。
千と千尋の神隠し、好きな点
いいな、好きだな、と思った点をまとめます。
◆ふんいき
世界観というのかな、油屋を中心とした異界のあの怪しい感じ。「めめ」とか「生あります」とか謎の看板も含めて、ディテールとか色彩とか通りゆく背景キャラとかそういうもの全体でかもし出す雰囲気がよい。
◆神々の風呂、という設定
劇中で圧倒的な存在感を誇る強大な魔女「湯ばあば」だが、あの世界の最強キャラというわけでは全然ない。湯ばあばの経営する「油屋」は神々のための温泉旅館であって、その神ひとりひとりがもしかしたら湯ばあばより強い。いや強さはともかく、格が上である。彼らは語らない、皆ぬぼーっとしていてヴィジュアル美しくもないが、賑やかで精彩ある油屋スタッフたちも彼ら神々の前には奴婢であるに過ぎない。湯ばあばさえ客にちゃんとかしずく。へりくだる。そのことが作品世界にだいぶ奥行きを与えていると思う。単に精霊妖魔人外の浴場とすることもできた筈だが、神々のための湯と位置づけたのは、設定として見事。
◆水没した世界
異界は実は油屋のテリトリーの外にも広く広く続いていて、雨がふるとその全部が水の下に沈む。美しい光景だ。土手のうえの線路も水面下1mくらいに沈んでいて、その上を(青い空と青い水のあいだを)電車がすーっと走っていく景色は幻想的。
◆魔法の描写
魔法の描写がいい。たぶん劇中最初に使われる魔法は、ハクと千尋が最初に橋を渡るときぴょーんと飛んでくるカエルに対しハクが使う「動いてるものの動きを止める(遅らせる?)」術。地味だけど良かった。ほか、湯ばあばが格天井スレスレをごーっと飛翔して千尋に詰め寄る場面、白竜と化したハクを「ただの紙」があんなに苦しめる恐怖感、いろいろ良かった。
◆スカイダイビングの場面
銭ぃ婆のもとから油屋へと帰るとき白竜ハクの背中で千尋が「あたしあなたの本当の名前知ってるかもしれない、あたし昔川に溺れて助かったことあるの、その川の名は、その川の名はね、琥珀川」と言った瞬間ぱりーんと白竜の全身のウロコが剥がれて(「目から鱗」)ハクが「なんとかかんとんか・コハクなんとかの守」という自分の本名を思い出して、ふたりしてスカイダイビングしながらやっぱり昔からの知り合いだったんだね私たち……と感動している場面、なんか涙が出てしまった。
千と千尋の神隠し、嫌いな点
※個人の感想ですよ。めっちゃ主観的です。
好きな人は、好きなもののことをクサされるといい気持ちがしない、というのはすごく分かるので、読みたくない人は次章へ飛んでください。
◆キャラが好きじゃない
好きなキャラがいない。まず千尋:顔の造形が好きじゃない。離れ目すぎる。もうすこしふつうに可愛くて良かったのじゃないか。キキのように。あと華奢すぎる。走り方がダサすぎる。サツキみたいに力走してほしい。次ハク:声優が好きじゃない。滑舌が悪すぎる。湯ばあば:醜怪すぎる。カオナシ:「あ…あ…」の声が好きじゃない。神々:醜怪すぎる。千尋の父:筋骨隆々しかも脳筋、生理的に受け付けない。千尋の母:異常に冷淡だ。
いろいろ言ったが千とリンのペアをキキとウルスラのペアで対比するだけで十分かと思う。
◆異界突入が唐突すぎる
もうちょっと千尋はどんな子なのか、家族関係はどうなのか、というのがあってからの異界じゃないのかね。そんな簡単に門をくぐったらそれだけで異界に入れてしまうだろうか。異界への入り口ってそんなぱっくり誰でもいつでもwelcomeな感じで開いてないと思うんだが。何か分かりやすく禁忌をおかすとか、少女の心の特殊な状態がなんつうの異界と共鳴?してトビラが開いてしまうとか、条件立てを揃えるべきだったのじゃないか。トトロのように。つまり異界入りの必然性が見えないのだ。異界を描くのに尺を使いたいあまり話を急ぎ過ぎてると思う。
◆少女の成長物語?
一応本作は要するに何の映画なのかということでいうとジブリ映画の伝統に連なる「いじいじ少女が幾多の試練と出会いと別れを通じて少し強くたくましく成長する話」ということになるだろう。でも、どういう少女がどう成長するかをもう少し具体化してくれないと、その「成長」が漠然すぎないか。やっぱ異界遊歴の「前」と「後」をもっと厚く描く必要があったんじゃないの。これだけだと単に異界を描きたいだけの作品に終わってると思う。
◆えんがちょって何
窯爺の言う「えんがちょ」って何。縁を切るみたいなジェスチャーですか。悪縁をチョキン、ですかね。こういう慣行がかつて日本にあったんだろうか。昔見たときも何だこれここ粒立たせるとこちゃうやろと思って白けた。
◆汚いもののシーンが汚すぎる
腐れ神が汚すぎる。これほど露骨に汚い(そして臭い)ものをまんま汚く描かれると、見てる人はシンプルに不快だと思うんだが、それはどうなんですか。冒頭の毒々しい食い物と豚変化もちょっとグロテスクすぎて小さい子が見たらトラウマだろう。またカオナシの爆食もバーサクも、ちょっとどうなんだろうというくらいにどぎつい。
◆主題歌の持ち腐れ
「いつも何度でも」超名曲だと思うんだが、もっと作品本体に有機的に組み込めなかったか。エンドロールでこの曲流れたとき唐突に感じたんだが。詞の内容と作品の内容がどう響き合っているのかも理解できない。
考察①名前
「名前」がキーアイテムであることは明らかだ。千尋もハクも湯ばあばに名前を奪われることで油屋の虜囚となった。千と千尋の神隠しとは「神隠しにあった千ががんばって千尋に戻る話」、言い換えると「名前を奪われた千尋が名前を取り戻す話」だ。
「名」の民俗学
昔「地獄先生ぬ~べ~」で読んだんですけど、人はみな戸籍名の他に「真の名」を持っていて、通例それは本人にさえ知らされない。「真の名」が書かれた紙は実家の土蔵の奥とかに大切にしまわれている。なんでかというと、「真の名」はその名の持ち主の霊魂と直結していて、それを知られるとその人は容易に操られてしまうから。……というエピソードがありました。
あとでまた述べるが、「千と千尋の神隠し」には民話とか神話に頻出の象徴装置がいっぱい登場する。よく知らんが(よく知らんのかい)名の呪術性というのもひとつの文化人類学的主題で、ものの名前はそのものの本質につながっているという考えは、古来各地にあったのである。たぶん。(多分かい)
湯ばあばと神々の「名前」戦争
前に言ったが油屋は神々の湯で、湯治客は「お客様は神様です」を地で行っている。最強感ありありとしている湯ばあばさえ彼らに仕える身分である。あのぬぼーっとした客たちは一人残らず、湯ばあばを頂点とする油屋格付けピラミッドのさらに上空・雲の上の存在だ。その神々に認められ・愛されることで結局まるちゃんは……おっと千尋は、油屋における地位を高め、果ては解放されるのである。
ところでハクは? ハクは特異な存在だ。ハクは川の神だから、本来ただの魔女である(神ではない)湯ばあばより格が上である。つまりどちらかというと客側の存在だハクは。なんで湯ばあばの手下になってこき使われてるのか。
それはやっぱり名前を奪われたからだ。名前さえ奪えば湯ばあばは神さえ使役できるのである。ハク以外にも何度かそういうことには成功してそうな感じだ(ハクが傷ついたとき「そいつはもういい捨てろ」とわりとゾンザイだった)。
逆に神の側からいうと、油屋で自らの名を名乗るのは危険である。だから多分、神はここでは名乗らない。腐れ神が「よきかな~」いうて成仏……もとい退場していったときも、「あれはさぞかし名のある神だったに違いない」と湯ばあば呟いていた。神の名がわからないことはここでは普通のことなのだ。
その論理でいくと湯ばあばが名前を言えているカオナシは、やはり神ではないナニカなのだ、ということになるか?
考察②川の神
映画のメインテーマが少女の成長だとして、サブテーマとして「河川汚染批判」が伏流している。と私は見た。
腐れ神は「名のある川の神」がその正体だった。エボシの軍の毒矢が猪神を祟り神に変えてしまったように、「名のある川の神」は人間の投機したゴミによって腐れ神にさせられてしまったのだ。あの腐れ神のどくどくしさは描き方としてちょっと衝撃的である。つまりそれだけ強い批判をこめたのだ。あなたがたの、もとい私たちのしていることはまさにこういうことなんですよと。
そこで思うのは、川の神ハクが、よし名前を取り戻したのは結構として、油屋を出て人間世界に帰るのはそれは果たしていいことなんですか?ということ。千尋とハクは「また会おうね」と約して別れるのであるが、少年と少女が再会を約して別れるというのはジブリ映画のひとつのパターンだが、今度こそ二人は幸せな再会を果たせないのではないか。
というのもハクの依り代である琥珀川は、千尋の言によれば「埋められてしまった」のである。すっかり埋め立てられてしまったのか暗渠化したのか分からないが、いずれにしろそれで千尋とどうやって再会を果たすというのか。時系列でいうと、千尋は見ため小学五年生くらい、まぁ11歳としよう、その千尋が小さい時、まぁ仮に4歳としようか、4歳のできごとを11歳で覚えていられるものだろうか。まぁ強烈な体験といういことで覚えていることにしよう。4歳のとき琥珀川に溺れた。そのときはハクは琥珀川にちゃんといた。そのあとどこかのタイミングで、なんかだりぃな風呂でも入りいくかつって、油屋に行った(顔に似合わぬじじむさい趣味)。そこでドジ踏んで、うっかり自分の名前を湯ばあばの前で名乗ってしまって、名を奪われ、油屋の虜囚となった。それから数年の間に琥珀川は(ヌシ不在のまま)「埋められてしまった」。
それってかなしいですよね、あなたの……もとい私たちのしていることは、そういうことなんですよと。それが言いたいのかジブリ?
ところで本作には実はもう一本、川が出てくるのをご存知か。冒頭、まだ異界に入る前、「ここ多分バブルのときに開発されたテーマパークの跡地なんじゃないの」つって親子三人歩き回ってるとき、「ここに川を流そうとしたんだねー」とか言いながらちょろちょろした水流を跨ぎ越した。
油屋敷地は人間の地図上ではただのテーマパーク跡地である。そこを流れる人工の小川、そこを新たな依り代とする道がハクにはあるか?その可能性を示唆していたんじゃないのか、ハヤオ? ミヤさん?
考察③オマージュ
至るところにジブリ過去作へのセルフオマージュが見られた。見てていろいろ「あ」と思った。悪く言えば固定ファンへの過ぎた目配せ、あるいは宮崎駿老境の自己愛。良く言えば、それまでの集大成。
全部列挙するのは無理だが今思い出せるものを挙げる。
【キャラ】
すすわたり ⇐ すすわたり(トトロ)
窯爺 ⇐ ドーラの飛行船の整備工(ラピュタ)
腐れ神 ⇐ たたり神(もののけ姫)
【場面】
冒頭、車でお引越し ⇐ トトロ冒頭
ずんぐりむっくり神とひとつエレベーターに乗合す千尋 ⇐ トトロ雨ふりバス停
水没世界 ⇐ ラピュタ
水の上を歩く人 ⇐ 漫画ナウシカ皇弟昇天、映画ナウシカ「その者青き衣を纏いて」
神々の百鬼夜行の感じ ⇐ 平成狸合戦ぽんぽこ
カオナシの暴走 ⇐ 首無しダイダラボッチ鹿神の暴走
巨大構造物の外壁を危なっかしく伝い歩く ⇐ ラピュタ
自分の名前が分かった瞬間に覚醒 ⇐ 漫画ナウシカ「汝が名はオーマ」
他。
考察④民俗学
何丘は文学部卒なので文化人類学とかちょっとかじった。99%は忘失したが、それでも見ていてちょいちょいセンサーが反応した。本作はけっこう露骨に民話・神話から道具立てを借りている。ちょっと指摘してみる。
◆トンネル、橋、門
トンネルくぐるとか橋渡るとかいうのは神話・民話で異界への越境を示す象徴によく使われる。
◆禁忌をおかす
するなと言われたことをあえてすることで災厄を呼び込んでしまう。千尋の再三の制止にもかかわらずパパ氏が暴走して山道を走り、警告するかのように立ってた異教の神像も無視してトンネルを抜け、果ては(あるまじきことに)置いてある食い物を無断でガッツガツガッツガツ貪り食った。
◆食べると染まる
その世界のものを食べるとその世界の者になってしまう。手元の絵本(ロシア民話)にもそういう話あります。「魔女に捕らえられたときは魔女のすすめるものを食べてはいけない。食べたらそこの住人になってしまい出られなくなるから」。千尋も親に釣られて豚足食ってたら手もなく豚化していただろう。また異界に入って最初に食べたのがハクの握った害意のない(特別に清められた?)白米であってよかった。そして油屋のものを3日食べることで千は「人間のにおい」が消えた。
◆招かれると入れる
それまでカオナシはなんとなーくぼーっと外に立ってたが、千が障子を「ここ、開けときますね」つって事実上「招待した」ので、中に入ることができた。カオナシが入ってきたとき湯ばあばは「何か変なものが入った」と感知した。つまりカオナシはそれまで油屋に入ったことがなかった(入ることができなかった)のだ。cf. 藤崎竜「屍鬼」。
◆名前を知られると呪縛される
さっき言うたやんな。
◆アイテムゲット→アイテムつかう
腐れ神を退治したらお団子がドロップした。強いボス倒したら強い剣が手に入るというRPGの世界観だ。ネクラでゲーマーな千尋は(いや、知らんけど)「すごいやつからもらったんだから多分すごいものなんだろう」とRPG的感覚で団子を大事にとっといて、ここぞで使った。実際見ててあれっと思ったのだ、誰か訳知ったやつが「おーその団子はすげーアイテムだぞ!」とか教えてくれたわけでもないのに、千尋は使いどころをちゃんと心得てるげだった。まずハクに半分使う → 悪い呪いの虫を吐き出させることに成功。次、暴走カオナシに使う → なんか弱体化することに成功。RPGのノリを分かってたことが千尋に有利に働いたのは偶然ではない。実はRPGの世界観の原型は神話だから。
◆謎をかけられる
親を人間に戻して自分は油屋を出ていく、という千に対し、最後の試練が与えられる。豚が5頭引き立てられ、この中から「お前の両親を見分けろ」という。この謎かけというのがまた神話の道具立てだ。オイディプス王。しかし、その中に両親がいないことが、何で千尋に分かったのだろう?
◆振り向いたらアカン
最後、トンネルを出るまで振り向いたらいけないよ、というのは、これは明らかにオルフェウス=エウリュディケー神話類型。日本でいう古事記のイザナギの冥府下りだ。神話だとしばしばダメなのに振り向いちゃうのだが、千尋は振り向かなかったから無事出られた。その横顔は「もう撮れ高は十分なはずだ」と語っていた。
跋
見たものについて何か語る、の練習として以上書いた。
参考文献なしで書いてるのでいろいろ間違ってるかもしれない。逆に、何も見ないで書いてるからこそ余り人が言わないようなことを言えている可能性もある。
「千と千尋の神隠し」、今回わりと見直した。わりと面白かった。
でも、よくある質問、「ジブリで一番好きな映画なに?」と聞かれたときに、ベスト3には入ってこないと思う。ベスト5にも入らない。
いわゆる「上が詰まってる」のである。もののけ姫、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、ラピュタ、耳をすませば。このあたり(神6)の牙城は崩せない。
単純に「千と千尋の神隠し」に出会うのが遅かったんだと思う。よくある古参ファンの固陋と排他。先に出会ったものにほれ込んでしまった結果、後のものを受け入れられなくなった、それだけのことだろう。見どころの多い、いい映画なんだと思います。