盗む

オデッサ/ウクライナ/ロシア

1

駅に自転車をとめて鍵をかけないと高い確率で盗まれるという認識である。手痛い経験もある。傘を盗む・自転車を盗む人たちの国、日本。モラル底辺の国だ。国際スポーツ大会で試合後ゴミを拾うから俺たち民度の高い国、という自慢話を聞くたび「は、傘を盗み、自転車を盗む連中が」と冷笑する。

私自身は、傘も、チャリも、盗んだことはない。窃書は罪ならず、と言いますが、本を(またその他を)万引きしたこともない。基本的には、それは、悪果がこはいからである。確証的な完全犯罪であれば、それをしない理由はないであろう。

私の品性は、たぶん、一般的な日本人より、なお一層下等である。なるほど目に見えた盗みは行わない。だが盗み的思考は染みついて常習している。

たとえば今わたしがモスクワに渡るということを想像してみる。出張を命じられたとする。私はいやだ。テロリストどもの(つまりは、自分が道徳的に許せない人たちの)巣窟に足を踏み入れたくない。だが小心者の私は、上司に行けと言われたら、それを断れないかもしれない。果たして7年半ぶり、モスクワに渡った。さてそのとき、私は、モスクワにおけるその日一日の仕事のあと、商店でビールをあがない、これを飲むだろうか。「いや、露の戦争税収に一コペイカだに貢献したくない」といって、これを拒否するか。だが、次におもうのは、「私がこのひとびんのバルチカをあがなうことで国庫をうるおす一コペイカが、いったい何の物の数だろうか。それよりは、私が疲れたのんどをうるおすことで、私が得るもの(満足)の方が、大きいのではないか」つまり、ビールを買うことで、この国に「与える」よりも、この国から「盗み取る」分量の方が、多いいのではないか、そう考えて、私はビールを買う気がする。せめて、バルチカ(露国産)でなく、バドワイザーを。私はこういうものの考え方をする。思考の傾斜がはなから盗人的なのである。

これらは精神の内部で完結する劇であり、外部世界に痕跡を残さない(金銭と物品の交換、という、偸盗的でない形式をしか録さない)。完全犯罪である。それが完全犯罪であるとき、私はいくらでも盗む。

ラスコーリニコフというやつは、この人間的次元での完全犯罪を、自分はできるはずだし、やっていいはずだ、と思い、考え詰め考え詰めて、いややはりどうしたってそうとしか考えられぬ、これは絶対に完全犯罪であるから、人間的次元での裁きは行われ得ない、であれば、やっていいのみか、むしろ、やるべきだと思い、殺人をおかした(3人)。ところが、かれ自身おもいもよらぬことに、なされた仕事を、人間的次元でなく、神の次元で裁く、そういう審級が出現して、非常に苛まれ、追い詰められたあげく、うながされて、自白した。神の審級で裁かれて、その耐えがたさに、人間的審級まで後退して、そこでの裁きを甘受することにしたのである。

ドストエフスキーはいわゆる四大長編の第一作である罪と罰でそういう二重審級の劇を描いたあと、最初から人間的審級というものを無視して直(チョク)で神の審級に挑み、そこで勝利を収めようとする、キリーロフ(悪霊)だのイワン・カラマーゾフ(カラ兄)だのという、思想的怪物を創造した。(これら怪物に比べれば、スタヴローギンなど、人間的次元での無罰性の謳歌に終始して、しまいローヂャ青年と同じに神の審級から不意打ちを食らって倒れた抜け作であった)

私のうちに、これらキリスト教の神が血肉化しているとは到底考えられないから、私が直面する可能性があるのは唯一、人間の審級であろうと思う。だが、こういう(私のような、不信心な)人間を不意打ちしてこそまことかしこむべき神のみわざであろう。そう考えて、そのかみ、例のロシア語劇団で、ドストエフスキーと格闘していたころ(20年も前になる!これじゃ坊主も死ぬわけだ――No wonder why the priest is dead(Benjamin Clementine))、私は神の審級を召喚するために、まず人間の審級を突破せねばと、陋劣な完全犯罪をたくらんだ。裁く神、それも人間の女に受肉した(ソフィヤ・マルメラードワ)神に、会いたくて。

というのは全部前置きで、

私は、盗めるのではないかと思う。今の状況で、一週間くらい。

この夏も、オデッサにかえる。

これについて妻と長い長い交渉があった。私はむろん、今のウクライナに、子供を連れて帰れるわけがない、という、皆さまにとってわかりやすい、立場であった。で、私として一番不可能なことは、私が危険だと思う場所に子供が行っていてそこに私がいないということだから、行くなら私も含めて一家全員で行くことになる。したら私の仕事はどうなりますか(私、会社員なんですケド)。ほか、あらゆるアーギュメント。

だが結局は、私らは行く。行くことに同意したからには、それはもう、私の決断である。

ふしぎなものだ。行くと決まって、もうaviaチケットもとってしまうと、もう、大丈夫さ何事もないさ、としきゃ思えない。問題なし、この状況から、一週間の旅と快楽を、盗みとれると。

2

実は昨年の夏もオデッサに帰っている。当ブログ「夏休みの日記」ご覧のこと。

今回も、みそは、「オデッサに帰る」とは言いながら、オデッサには足を踏み入れない、ということである。ポチョムキンの階段だの世界遺産の旧市街だの、また義父母の本宅だのあるオデッサ市には立ち寄らず、全日程を、オデッサ北郊40キロ、オデッサ州内の某村で過ごす。

昨年も私は帰省に反対した。昨23年の夏といえば、ウクライナ軍のいわゆる反転攻勢(私の言い方では、領土解放作戦)の帰趨が注目されているときで、ウクライナ軍のそれは多分成功するであろう(そうであってほしい)、しかし、成功すればするだけ、露の反・反転攻勢も、陋劣と暴虐の度を深めるであろう。要は今エスカレーションのフェーズだから、ウクライナに行くべきではない…というのが私の主張であった。

今回も、同じようなことを言った。露の腐れゴミ企図=ハリコフ再侵攻が引き金となり、西側とくに米が自身の供与した兵器でウが露本土を叩くことにゴーサインを出し、実際に叩き始めている、これに反応して露は病的なレトリックを繰り返している、いまに米供与の長射程砲で露の死活的標的を叩いて撃滅し甚大な損害を与えたとする、したら露は報復と称して何をしてくるか。要はいまエスカレーションのフェーズだから、ウクライナに行くべきではない、と。

だが、「同じことを昨年も言ったではないか、来年も同じことを言うのではないのか、再来年もその次の年もそう言うのではないか、そうして私たちは永遠に帰れないのではないか」、と妻。「万一それでオデッサが露に支配されでもしたら(仮令それで平和になったとしても)、呪わしい露のオデッサになど絶対に行くものかといって、あなたは行かないのであろう」と泣く。

対して私はいう。昨年は、そうは言っても、結局のところ、帰郷に同意したではないか。私を交渉の余地なき頑迷ナル地蔵爺、stubborn kinda fellaなどとおもいめすな、私は可話であり、変わり得る、説得されることができるような人間だ。なにか私が、私ひとりが悪意をもって、皆さんの(というのは、妻だけでなく、妻の両親の)悲願の実現をブロックしているかのようであるが、確認したい。悪いのは、戦争だ。そうだろう。恨むなら、ロシアを恨んでほしいのだ。私でなく。戦争さえ終われば、それは帰れるさ。問題などあるものか!(この下線のところは、去年は言えなかった。それが毒としてわが体内にずっと残留していた。今年は、言えた)

あと(もうひとついう)すまんけど、去年帰れたのだから、それでよくないか? 去年わたしは妥協した。身を切るような妥協であった。そこを汲んではくれないか? そんな毎年帰りたいものか? (激して)母としての責任は! あなた自身がまるで子供みたいにおうち帰りたいおうち帰りたいと、それはエゴイズムではないのか!

(この書いた通りの順番で議論が行われたわけではない、数か月、何次かにわたり、大変疲弊する話し合いがあり、そこでのトピックを、思いつくまま抜き出しているに過ぎない)

私と妻には2016年「原契約」というものがある。2016年8月、オデッサで、結婚式をあげた。そのとき妻の両親に、基本的に私たちは、これから、日本に住むつもりだ。日本は遠い。日本に住んだら、今みたいに(※そんときモスクワに住んでいた)、頻繁には会えないであろう。だが約束する。年に一度、おそらく夏期には、妻と両親が会えるようにする。――そういう約束で、私は妻を日本に連れて行った。約束通り、2017-2019の日本生活では、毎年夏に1か月、妻をオデッサへ帰した。

2022年、露のウ全面侵略→全面戦争で、この原契約は、失効、いや、一時停止した、というのが私の認識であった。

だが妻の認識はそうでもなかったみたいだ。戦争。だが、オヤ?帰れるではないか。では、帰る!そういう約束だったでしょ。もちろん、子供も一緒にね。

(――書いていて、やはりフェアではないな、と思う。より多く、私のがわに読者の共感を寄せようと、無意識に努めている。私が語っているのだから、私の印象が有利になるように、私は筆を運ぶ。自然な流路。だが、繰り返す、私は結局、帰郷に同意したのだから、むしろ、上に連ねたような私の側の主張とやらは、今の私の立場にとっての「反対意見」なのである)

永遠に分かりあえない(だから、最大限の尊重を要する)ことは、「人によって、ふるさとへの想いのたけは、異なる」ということだ。妻は、なつかしの故地にかえりたい、そうして、そこで両親に会いたい、という想いが、私より、とても強い。その想いは、私には、はかり知れない。共感は不可能だ。私なんかモスクワに4年いてその間一回も日本帰らなくて平気なくらい薄情な奴なのだもの。こういう感覚は人によって全然ちがう。妻は多分人一倍、望郷の念…故郷との精神的な/魂の結びつきが強いのだ。

3

ここまで、ムダに詳しく、妻との交渉の過程を紹介してしまった。それはもうよして、今のこと、そして、これからのことだけ書こう。

情勢はむろんウォッチしている。が、盗める気しかしない。一週間、行って、盗んでくる。必ず帰ってこれる。

なるほど外務省の渡航情報では依然としてレベル4、全土まっかっかである。だが(古い読者はご存じ)私は気にしない。こんなのは、よく知らない人たちが、もっとよく知らない人たち向けに言ってることに過ぎず、べつだん取るに足りない。こちとら、桁違いに細かい解像度で地理を見ている。

経路・旅程については、昨年と同じ。ウクライナに旅客便は一切飛んでいないから、第三国経由になる。イスタンブール(トルコ)経由、キシナウ(モルドヴァ)まで飛ぶ。キシナウの空港には義父の車が来てくれている。それに乗って、オデッサ北郊40kmの村へ。そこで一週間くらす。オデッサには一切足を踏み入れない。

キシナウから国境まで2時間、国境でどんだけか待たされて(不明)、国境から村までは40分くらい。帰りも同じルートで。去年もそうしたし、2022年3月のエクソダスのときもそうした。踏み固められたる道である。

この動線上に、軍事的な標的になりそうなものは一切ないという認識である。少なくともこの2年半、ここらで何かが攻撃を受けたという話は聞かない。私らの村そのものも、こちらは確実に言えるが、この2年半、全くの無傷であり、かつ、およそ軍事的な標的になりそうなものは皆無である。(この点がまさに、行くの行かぬのの交渉史において、行って然ると主張するがわの、論拠であった。「ウクライナは戦争してるけど、村は大丈夫だから!」)

知った道を車で40分で、隣国に逃げられるというのは、たしかに、地理的な強みである。「(これまで何も起こらなかったし、何かが起こると考える理由も見当たらないから)何も起こらないであろう。何かが起こったとしても、起こったあとから逃げたって間に合う」という二重の安全がある、と言われると、なるほど強い。

では、何かが起こり得るとしたら、それは何であろう。圧倒的な不可知性(戦争の霧)の中で、専門知もない我々であるが、頭の体操だけはしておこう。あだにはなるまい。

これがあったら帰りの飛行機の日を待たずに出国することになるかもしれない、と考えているシナリオは3つあって、一つは、私らの滞在中に、ウクライナが米英供与の長射程砲を駆使してクリミア橋を落とす(あるいは、それに類する何か重大な戦果を上げる)→珍帝が報復と称してウ南部に戦術核を用いる。一つは、沿ドニエストル(モルドヴァ)とウの国境で戦端が開かれる。一つは、理由は何であれ、村もしくはその最近傍が、ドローンまたはミサイル攻撃を受ける。

この最後のものは、これまで起こらなかったし、また起こり得ないとみんな考えているのだが、起こる可能性に常に備えていなければならないことだ。私は、ウクライナで外出禁止時間というものが今も敷かれている(オデッサ州では24時~翌5時)のは、深夜早朝に軍事的に重大な(決して人目についてはならぬ)装備/兵員の移動が行われることがあるから、というのが一因であると理解している。なるほど現在、われらが村に、軍事的有価物と見られるものはない。だが、一夜、ここへ、たとえば村にただ一つある(村で一番大きい建物である)学校へ、部隊司令部が転入してきたら? そしてそれを、インサイダー情報から、FSBが関知して、ミサイルを差し向けてきたら?

これに対する妻らの回答は:何か動きがあれば村の誰かには必ず分かり、村の誰か一人の関知した情報は村のテレグラムで一瞬でほぼ全村民に共有される仕組みであり(寒村×ITなめんな)、その情報網に父母もガッツリ浴しているから、何かが起こってそのあと逃げる間もないという事態はほとんど考えられない。

4

いつもそうだがわたしのブログ記事は本当に文字過多だ。ご安心を、もう結ぶ。本章でこの記事は終わる。

交渉史に回帰するようであるが、さて、どうして私は、あんなに反対してたのに、ついには渡航に同意するに至ったのか。

妻がやはり今年も故郷に帰りたいと言い出したのは露の血塗られた錐でオデッサや後方都市電力インフラがさかんに叩かれていた4月とかで、ひどいひどい、今年こそは帰郷の線はゼロだなと思っていたまさにそのときだったから、私は激怒したものだ。まったく話にならぬ能天気、情勢は少しも良くなっていないのに去年帰って楽しかったから今年も帰りたいとはあまりにchildish、そして、日本での生活を少しでも耐えやすいものにしようという自分の有形無形の努力の全てに対する侮辱と感じた。いろいろ言った。露は冬でなくても後方諸都市の民生インフラを攻撃しうることを証明したじゃないか、そして戦争の足音はいよいよ近い、5月某日、オデッサ市内の義父母本宅のすぐ脇にシャヘドが飛んできて7人が死んだじゃないか、うちの3人は乳幼児!

そのとき私は、求不得苦(苦しみは、求めて得られないことから。)という仏教語を出してきて、帰れる・帰る選択肢があると思うから、帰れないと分かると苦しいのであって、あなたに必要なことは、帰るという想念を、忘失することです。私は、今年こそは、渡航に同意することは絶対にない、だから、諦めてください。と明確・厳格に申し渡した。

だがその後も、たびたび話を持ち出されて、(私がたまに酒を飲んで機嫌よくなっているところへモーションをかけてくるので本当に閉口した)、妻が帰郷について不求(求めず)の境地に至ることは無いのだなと諦めがついてきた。情勢のほうも、オデッサへの攻撃はいささか止み、モルドヴァの選挙は11月だそうなので秋口くらいから露が沿ドニだのガガウジヤだの使って策動するは必至だが今のところは、また、米欧の弾薬供給再開と露本土攻撃許可も効顕の出方は緩徐と看取されて、

「盗めるのかな、おですに立ち入らないこと前提で、一週間くらいなら、問題なく」

と思ったところへ、職場におった私に妻からLINEきて、やっぱり3人でオデッサに帰ろうと言ってきて、つい「いいよ」と返信してしまった。

以上が交渉史である。

私がこの記事を書き出した初発の意図は、読者に、またオデッサ帰ることになりましたよ、と報告することだったのだが(にしては妙な導入部)、はからずも妻との交渉の経緯に記述が集中した、のは、要は愚痴りたかったんだろうな。しんどかったし、誰にも相談する人がなかったので。

今回は恩師のN先生(ベラルーシ人)にも相談しなかった。自分に近しい人であるほど、事前に相談してしまったら、万一私らの身に何かあったときに、どうして止めなかったかと後悔させることになるから。自分の親にも言わないで行く。職場の人には、必要な人にだけ話した。一週間の休みを快く許可してくれた。この人らは他人なので、私がおっちんでも良心は噛まない。だから私も話しやすい。

妻との交渉は例によって日露語ちゃんぽんで行われたが、私が戦況観を語る部だけは、全部日本語でやった。ロシア語で話し始めるとその言葉が全部УПを中心とした露語戦争報道のまんま道聴塗説なので、自分でものすごく不快になり、続けられなかった。

私にはたぶん、こうした交渉を一撃で終わらせられる、伝家の宝刀があったが、それは使わなかった。すなわち、21~22年冬のあの孤独な苦悩の全てを乗せて、「あなたたちは露の侵攻を予想できなかったじゃないか。そのあなたたちに未来(村は村だけは、今もこれからも安全であろう、などと)について何を語る資格があるのか」。これを言う道義的権利は私にはある。これを言えばおしまいだ。だが私は言わない。これを人は、私の優しさとも、気弱さともとるがいい。

これも言ってしまおう。ここで何丘から発表があります(ちゃらん!) 私らは秋に台西を待ち設けている。だいにしを。私が交渉史の当初激怒したのはこのこともあった。妻の身体は過去に二度ほど失敗(いいとこまでいきながら、うまくいかなかった)していて、今度も少し”まーとか”の中に異兆があり、慎重に様子を見ていたのだが、こないだの診察で、いよいよ大丈夫だなと確信できた。つわりも収まった。第二子を、秋に、待ち設けています。

それで、来年は、情勢がどうであれ、0歳と5歳を連れてまさか帰れないであろう。であれば今年は、と。それは大きい因子であった。

というわけで、近く、夏の一週間、オデッサに帰ってくる。昨年書いたような「夏の絵日記」を、今年もブログ上でつづるつもり。戦争してる国の内情報告というものを期待されると困る。私は戦争の痕跡を探しにいくわけではない。ジャーナリスティックな興味から、オデッサ市に足を踏み入れてみる、ということも、去年はついしてしまったが、今年は絶対にしない。義父母だのにゼレンスキーどう思っていますかなどとインタビューをする気もない。だが結局は、「戦争してる国の内情報告」として、皆さまには、解されるであろう。実際それでしかないのだもの。

ウクライナまたこの戦争への私の関わりは、極めてユニークであると自認する。こんな日本人は他にいない。そんな私のゲンロンカツドウを評価し、また奨励してくれる方、例のあれをお願いしたい。募金。第二子おめでとうという名目でも苦しくない。内証のことをいうと、いまウクライナに渡るのはとても高くつく。去年は一発70万ふっとび、今年も3人のエアだけで65万である。はたらくおとなははらがへる!と中井貴一が言ってるが、私は基本、職場で持参のバナナだけ食っている。あわれとおぼしめせ。てか、応援メッセージをください。

何丘に「投げ銭」してみる

補遺

1.

太郎は、戦争の爪牙に、少しくひっかけられるだろうか。――基本的には、否(ううん)。日本にいたって、私はそんなこと教えるわけもないのに、保育園で覚えてきて、LEGOで戦車だの作るようになる。戦争だの兵器だのは、そのようにして、私たちの生活に入り込み、私たちの呼吸する大気の中の微量な毒素をなしている。その範疇をこえるような何か入力が一週間の滞在で太郎にあるとは思わない。私らの滞在中にオデッサが空爆される可能性は大いに認める。シャヘドだのイスカンデルだのが飛んできて、それを撃ち落とす(あるいは、にだいぼく、命中する)、そのとき轟音が鳴る。その響きは、しかし、40km内陸のわが村までは、伝わらない。幽かに伝わったとしても遠雷ないし花火といってごまかせる。そのために(明確にその意図で)先日府中競馬場の花火大会に連れて行った。
停電はあるであろう。また、防空サイレンは必ず耳にすることになる。だが、それは前回もあったことだ。なんとでも言いくるめる。日本には日本の救急車のサイレンとか夕方のメロディとかある、それがここでは、このような不快な音なのだ、それだけのことだ(と言って)。

2.

私のユニークな立ち位置、について。私は自分の乏しい体験を誇る気はない。22年2月24日をウクライナの一生活者として経験した。この戦争の最初の2週間をウクライナで生きた。それだけだ。爆撃から逃げ惑ったとか身内が死傷したとか、そんな事実はない。その後、日本に逃げ延びてからの私の歩みも、うっすらとウクライナ(避難民、保証人、支援…)に関わり続けてはきたが、誇れるようなことは何もない。だが私は、自分の経験を、矮小化することもまた、しまいと思う。私の閲歴が私に強いる道義的責務というものがもしあるのなら、甘んじてそれを引き受けたいと思う。
たとえば私は、先日のドニエプル爆撃(7月3日、8人死亡)で、Meduzaのタイムラインにこのような見出しを見いだし、

「『飛んできた、怖いよ、神様!』ロシアのミサイル攻撃、ドニエプルへ。目撃者の動画」とある。記事の中身まで見なくても、こういう見出しをただ見るだけで、胸が締め付けられ、しばらくは身動きもままならなくなる。何か飛んできた、怖いよという、その人の、その現在へと、急激に心的な同化が起こる。こういう反応を私に強いるのは、ほかならぬ、あの二週間(そして、それに先立つ数十日)の、自分のウクライナでの体験なのだろうと思う。いわば、わたしは、戦争の魔による、平和な生活の捕食、その瞬間を、現場における想像として、徹底的に経験した。そのわたしの経験は、日本人として極めて稀有なはずで、そのわたしだからこそ持ちうる言葉の力によって、戦争のおぞましさを語ることが、わたしの責務ではないかと思ったりする(思いながら果たさぬ阿呆)

3.

オデッサ帰省交渉with妻が4月とかに始まって、それから今日までにあった政治イベントのひとつに、ウクライナ平和サミット(6月15-16日)がある。あれからこっち、「平和」という言葉をきくことが増えた。ウクライナは数か月後(未定)といわれる次回の同サミットに露が参加することを今や排除していない。トルコのエルドアンやハンガリーのオルバンによる「仲介役」を目指した動きも活発化。
わたしはウクライナがあんなに注力していた平和サミットの意義がよくわからなかった、今もよくわかっていないが、あのサミットにいみじくも「平和」の名を冠したことで、為政者たちの無意識がいかさか変色した、すなわち、平和平和と言ってるうちに、その自らの言葉に影響されて、為政者たちが平和についてより多く考えるようになった、と考えてみたとき、なんかものすごく感動してしまった。言葉が平和を近づける、言葉が戦争の終わりを近づける。そんなことがあるとしたら涙だ。政治も外交も経済制裁も一切が無力と考えられているこの状況を、言葉、この最も無力に見えるものが、変えるとしたら。

それで、妙な企画を考えた。
このブログに、ひとつの記事を立てる。「一千万字」と題する。何でもいいから一千万字かく。そうしてその一千万字をもって、戦争の惨禍をあがなう。
念頭にあるのは、お百度参りとか、千羽鶴とか、お遍路とか巡礼とか、そういう、とにかく決められた数・行程を無心でこなす、願掛けというやつだ。「これ(この大変なこと)をする。完遂できれば、願いがかなう」そう宣誓して、そのことを行う。すると、完遂したあかつき、何かの神が降りてきて、願いをかなえる。

多少は困難な、人がきいて途方もないなと思うようなことでなくてはならない。だから十万字でも百万字でもなく、一千万字とする。内容はなんだっていい。別にウクライナとか平和とかのことだけ書いていなくてもいい。

ばかげた企図には違いないが、数を供犠して霊験を召喚するというのは、日本人には馴染の感覚なのかもしれない。いわく、感謝の正拳突き一日一万回(ネテロ会長)。いわく、ジャンプシュート2万本(桜木花道)。この、数、というものを、にするという感覚。

というわけで、オデッサから帰ってきたら、一千万字を書き出してみる。約束す。

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