ウクライナの港町オデッサに引っ越して2年。すでに5か所に住んだ。ある日本人が外国の街でどのように住まってきたか、住まっているか。その記録。
※この記事は40秒で読めます
一口に言うと
何丘は19年の夏にオデッサに引き越して、まずその夏は団地に暮らした。次の秋~春は街で暮らした。続く2度目の夏は団地とダーチャで暮らした。んで秋~春は再び街に住んで、今この3度目の夏は再び団地とダーチャで暮らしている。
とこう一口に言っても何のことかわからないと思うので、順を追って説明してく。
団地・街・ダーチャ
まず地理的な説明をぱっぱっとする。私のいう団地・街・ダーチャを地図の上に位置付けていく。
そもオデッサってどこ
まずウクライナという国がある。西はすぐヨーロッパ、東はすぐロシア、南には黒海。
その黒海に面した港町がオデッサだ。(赤ピン立ってるとこ)
この縮尺だとウクライナの都市としてキエフ・ハリコフ・オデッサの3都市だけ名前が表示される。この3つが人口100万人以上の都市だ。
ウクライナにたった3つだけ存在する100万都市、うちの一つがオデッサである。これだけ確認して次に行こう。
「街」および「団地」の場所
下に示すのはオデッサ市の地図だ。右の青い領域は黒海。
これをざっくり3つのエリアに分ける。
3つの赤丸のうち真ん中が、観光名所「ポチョムキンの階段」やオデッサ港を擁する市中心部だ。これがいわゆる街である。
で、上下の丸が、私が団地と呼ぶエリアだ。団地には歴史的価値のあるもの・観光に値するものは何一つない。ただのベッドタウン。
それぞれの赤丸の中におおよそ30万人が住んでいる。で3エリア足し合わせてオデッサ市全体として100万の人口がある、という具合。
「オデッサ州」というものもある
そのオデッサ市をとりまいて、オデッサ州という領域がある。広義のオデッサだ。
上の地図で赤く塗られた領域がオデッサ州、黄色がオデッサ市。んで、
私たちのダーチャの場所
青ポチのあたりに私たちのダーチャがある。ダーチャというのはまぁ、「別荘」みたいなことだ。
そこはもはやオデッサ市ではないのだが、オデッサ州内ではある。
以上で団地・街・ダーチャの位置関係がわかったこととしよう。私たちは2年間この三者をグルグルしていたわけだ。以下、時系列に沿って、住まい遍歴をお話する。
19年夏:団地
2019年夏、私たちはまず団地(посёлок)に住んだ。こういう四角いアパートが立ち並んでるのが団地だ。
ソ連時代の末期に建てられた灰色のハコの群れ。風情も何もない。
先にも言ったが、ひとつの団地にはオデッサ市民100万人の3分の1が収まっているので、それなりの人口規模である。当然そこには学校があり病院がありスーパーがあり、生活に必要なものが一通りそろっている。だが文化はない。
団地にないもの
・文化
・情緒
・ヨーロッパらしさ
・祭
・ミュージアム
・観光名所
なんかえらく団地をクサしてるようだが、では何で何丘は、最初のすみかをそんな団地に求めたのか。―—答えは簡単で、妻の両親がそこに住んでたからだ。ウクライナ移住はそもそも妻の最初の出産を(&子育ての最初の時期を)妻の親元ちかくで送るためだった。
正確にいうと全く妻の両親と同居ということでなしに同じアパートの違う住戸だったのだが、ともかくも19年秋、子供が3か月になるまでそこに住んで、それから街へと移っていった。
19年秋~20年春:街
街には全てがある。文化があり歴史がある。いくつか写真を紹介しよう。
↑ポチョムキンの階段。映画「戦艦ポチョムキン」のベビーカーのシーンはあまりに有名。
↑オペラ座。「ヨーロッパ」て感じ。
↑霧の夜の石畳の道。こういう風情のあるホコテンの目抜き通りもあり。
とまあ、これがいわゆる街である。
ウクライナはヨーロッパなので(栃木県を首都圏に含めていいならばだが)せっかくヨーロッパ住むならこういう文化とか歴史が薫るエリアに住んでみたいと思うのは人情だ。というわけで繰り返しになるが、19年の秋、子育てがある程度軌道に乗ったタイミングで、私たちは街に移った。
具体的にいうと、私たちはこの家に住んだ。↓
築100年くらい、帝政時代の石造りの建物の一室。ポチョムキンの階段だのオペラ座だのへは歩いて10分という、中心も中心だった。
これは20年1月、何丘実父を日本から呼び寄せたときの写真だ。初孫をあやしている。というのはどうでもよくて、室内の様子を伝えたかったのだが、室内をただ写した写真というものがなかったので。
ちなみにどうやって見つけたかというと、olxというウクライナ版メルカリみたいなサイトがあって不動産も扱っている。
↑ この画面で絞りこみできて、まず賃貸か分譲か、戸建てかアパート/マンションか、エリア・価格帯・広さ・階数など指定できる。
するとまぁこんな具合にずらずらっとリザルトが出るので、良さそうなやつ見繕って連絡して、内見して、んで決める。
さて、住まいに不満はなかったのだが、やはり古い建物なので壁だのどこだのにあちこち訳の分からぬ穴があいていて、そのいずれか(あるいはすべて)がゴキの世界へと続くいわゆる「ゴキの穴」であり、春先ゴキブリが頻々と出現してどうにも手に負えなくなったので・・これはもうハイハイを始めた幼児と一緒に暮らせる環境ではないなと見切りをつけた。街の暮らしを畳んで、いったん妻の親元へと退却することにした。
20年夏:団地&ダーチャ
妻の両親はオデッサ郊外にダーチャを持っている。ダーチャとはWikipediaによると「ロシア・旧ソ連圏で一般的な菜園付きセカンドハウス」だ。
ダーチャといってもいろいろなのだが、うちのに関しては、暖房性能の関係で冬は居住に適さないけども、夏は最高の別荘となる。だのでもともと義父母は夏になるとダーチャと団地に週替わり交互に住むみたいな二拠点生活を楽しんでいた。ゴキブリ禍で街を追われた私たちは(※ちなみにコロナ禍もあり)団地とダーチャのうち「そのとき義父母がいないほう」に週替わりで住むというとても有難い条件を利用させてもらうことになった。
↑ 母家の二階からの眺め。離れ・菜園・果樹園などが見えている。
「別荘」と言うと葉山とか軽井沢とか金持ちの贅沢って感じがするが、「ダーチャ」はもっと庶民的で、汗とか土のにおいのするものだ。うちのダーチャの歴史をいうと、まず1999年、ごく普通の勤め人&主婦である義父母が、幅18m×奥行90mの土地を、わずか800米ドルで購入。ほぼサラ地だった。それから20年の歳月をかけ、ほとんど独力で家を建て、ガスを引き水を引き電気を引き、果樹を植え花を植え、最後にWiFiを完備させた。そういうものとして上の写真をもう一度見返してほしい。
2020年の夏、私たちはこのダーチャで多くの時日を過ごした。世界はくだんの疫病騒ぎでめちゃくちゃなことになっていた。私たちは図らずも「自己隔離(самоизоляция)」する形になった。この夏、街へは全く寄り付かなかった。
20年秋~21年春:街
鈴虫が鳴かなくなると夏は終わりである。団地とダーチャの往復生活に切りをつけて、例の「ウクライナ版メルカリ」olxで再び街にすまいをみつけた。こんどは海に近いエリアだ。
このころTwitterにハマりだし、毎日のように海の写真を投稿していた。実際週8くらいで海に降りていた。ビーチまでは歩いて10分の距離だった。
雪の日も浜に降りた。マイナス20℃の日も。
海は毎日ちがって毎日あたらしいのだった。私は海に恋した。
ちなみに住んでたのはこの家だ。
↑ボロく見えような。中はよかったよ、リノベしていて。
11月から5月までちょうど半年いて、まったく何の不都合もなかったのだが、もともと半年の契約だったし(よくある)、夏は例の団地とダーチャのかりぐらしが可能なので、ありがとうございました、また次の秋冬お世話になるかも知れません、つってごく円満に大家と別れた。
21年夏:団地&ダーチャ
そうして今、2021年夏も、団地とダーチャの二拠点生活を送っている、というわけだ。
ダーチャにいるとき、Twitterの私のユーザー名は「何丘@オデッサ(ダーチャ)」となる。
団地にいるとき、Twitterの私のユーザー名は「何丘@オデッサ(団地)」となる。
まとめ、今後
つうわけで改めて、
19年の夏にオデッサに引き越した何丘は、まずその夏を団地で暮らした。次の秋~春は街に住んだ。続く20年の夏は団地とダーチャで暮らした。んで秋~春は再び街に住んで、今この21年の夏は再び団地とダーチャで暮らしている。
移住はそもそも①出産および②子育ての最初の数か年を、妻にとって快適な環境すなわち故国の親元ちかくで送るためだった。今のなんとなくの予定では、子供が3歳になる頃に私たちは日本に帰る。すなわち私たちは向こうあと1年くらいはオデッサで過ごす。
おそらく21年の秋、私たちは街にまた部屋を見つけて住むだろう。22年の春までをそこで過ごし、夏が来ればそこの生活を畳んで、みたび団地とダーチャで暮らすのだろう。そうして秋が来るころ、私たちは日本に帰る。
なんとなく、そういう計画だ。