なに丘、子育て十戒

その他

なに丘はな古と申します。自分の子育て方針みたいなものがなんとなくこうはっきりしてきた感じがあるので書き出してみる。(子供は3歳、男児)

掟一、バイリンガル均衡たもつ

太郎が父の言語である日本語と母の言語であるロシア語を高いレベルで両立できるようにとは相当気を遣っている。人生最初の2年はロシア語環境だったのでロシア語が優勢だった。その間は父(私)が孤軍奮闘して、なんとか日本語のレベルを維持していた。その後日本に移住して、保育園なぞにも通いだすと、当然に日本語が優勢になった。家にいるときママが相手でも日本語で通そうとするようになった(「ママは日本語を解す」ということが分かっているので)。それでママ氏はとても傷つく。傷ついてばかりもいられないから、色々な工夫をする。ロシア語の友達を積極的に作って、交流させるとか。東京某所のロシア語学校に週一で通わせるとか。私が家にいない時間帯を故意に作ってみるとか。親子3人の時間帯は原則ロシア語を公用語とするとか。

掟二、めちゃめちゃに話しかける

たぶん私は常軌を逸して子供に話しかける親だと思う。保育園の送り迎えのときもチャリで10分の道のりずーっと喋っている。子供は後部のチャイルドシートにいるので運転中は互い前向いてつまり目と目を見かわさないで会話してるが、信号待ちのときは基本的に私がサドルから降りて子供に向き直ってなんか話す。余命宣告された人みたいに寸暇を惜しんで話しかけている。話すことは実際いくらでもある。嘱目のものを指呼することに始まり、昨日あった面白かったことを一緒に思いだすとか、今日帰ったら何しようかにしようみたいな話とか。ほんで子供にもいっぱいしゃべってほしくて、なんか気づいたこと指摘したりとか自分の経験(その日保育園であったこと等)をお話したりということを強く奨励している。

掟三、めちゃめちゃにスキンシップとる

「欧米化ですか」と訝しがられるくらいにほっぺにちゅーとかすごいする。だってぽちょぽちょなんだもの。太郎がぽちょぽちょなのでほっぺとかあごとかすごい触りたい。うしろだきの状態から右手でぽちょぽちょする場合は手相の「て」の字の横棒あたりを顎にあてがってぽちょぽちょすると指先で左頬・掌底にて顎と右頬の全3か所を同時にぽちょぽちょできるのでお得。だっこするのもすごい好き。体重14キロ、まだまだ全然持てる。いつか持てなくなる日が来るのが悲しい。

掟四、映像を見せない

あまり世の人の共感を得られなそうなやつ。原則的に動画視聴を禁止してる。うちにはテレビがない。YouTubeも見せない。依存と習慣と恩寵、3段階説をとっている。映像に「依存」するのは最悪。「習慣」化すら避けたい。だが「恩寵」としてなら与えてもよい。つまり、発動の条件が子供に不可視である形で、ときどきだけ映像視聴の機会を与える、これはOK、むしろ励行。それで過去に、長いのでいうとトトロとキキとポニョを各一回。短いものだと、昔のトーマスとか、あと図鑑に載ってる魚たちの動く様子とかをちょいちょい。ソビエトアニメ(チェブラーシカ、ブレーメンの音楽隊、くまのプー等)は結構いっぱい見ている。映像には教育的価値がある。魅力がある。魅力はしかし、ありすぎる。相対的に薄味である、読書とか、野の花とか、会話とか、そういうものの魅力をまずは十分引き出せるようになってから、より味の濃いものに進んでほしい。

掟五、キャラクターものを買わない

アンパンマンのおもちゃは我が家には一つもない。ポケモンもない。キャラクターものは避けている。食べ物でも道具でも本でも、選択肢から積極的に排除している。理由は2つある、と言っていいかなぁ(ふんわり)。第一に、なんでもないもののパッケージにキャラの絵かいて付加価値でございっつって子の親に高く買わせる手法が好きでない。そんなあこぎなビジネスに乗りたくない。アンパンマン(びしっ。指さす)てめえだ。てめえのことを言っている。第二に、これは特にポケモンだが、やたらにキャラクターの数を増やしてその名・図像を収集することに子供の情熱を吸着する、その術中にはまりたくない。同じく名前に淫するならポケモンでなく恐竜とか昆虫とか現実に存在する(した)ものの名に淫してほしい。では家にキャラものは全くないのかと言われるとそんなこともなくて、トーマスのパズルはあるし、黒猫のジジのぬいぐるみもある。チェブラーシカもいる。各世界からワンアイテムずつくらいなら集まってきていても問題はない。そうだな、あるひとつの世界(アンパンマンならアンパンマン)に閉じこもってほしくない、という感じか。その点、自らのユニヴァースへの囲い込みの力が強そうなアンパンマンとかポケモンを特に強く警戒している。わがやのおもちゃ(集合名詞)には、太郎が自由に・主体的・創造的に再構成可能なマルチヴァースであってほしい。

掟六、タブレットを与えない

HMKC、反面教師的な場面をしば目にする。事例:市のプール教室におにいちゃんが参加してる様子を窓越しにママ氏が見ている、その足元で妹ちゃんがタブレットでアニメを見ている。私はこれに「意義あり」。妹ちゃんはママと一緒におにいちゃんがプールしてる様子を見て応援でもすればどう。ママ氏「ほら、にぃにが〇〇やってるよ」とか、指摘して、50分くらい会話してられるのではないのか。タブレットは役に立つ。それが必要な場面というのも多々あると思う。親一人がワンオペで家事とか在宅勤務とかしなくちゃいけないときとか。でも、そういう喫緊の必要性がない場面で、安易にタブレット渡すのはどうなんだろうな。コミュニケーションの機会を積極的に失いにいっていないか。子供と電車乗ったらとりま子供にはタブレット持たす、みたいな親もよく見るが、うーん、必要な場面かな。車窓見て色々指摘しあえばどうかなー、とか思っちゃう。

掟七、怖いもの/嫌いなものを作らない

私の観察では、子供の世界にはもともと怖いものとか厭わしいものとかはそんなにない。この世に怖いものとか嫌なものは存在する、ということを、子は親から学ぶ。他者から伝えられる。だが、そんなこと伝えなくてよくないか。知らないでいられるならそれに越したことはなくないか。というわけで、某所にて食用昆虫を食べる機会があったとき、子供がひょいぱくひょいぱく食べるのを、私はさもふつうのことのようにノーリアクションで見ていた。ここで「げっ」とか否定的反応を見せると、子供は「あ、そなの?(昆虫って厭わしいものなのね)」とひとつ学んでしまう、「わろきもの」のフォルダを富ましめてしまう、それは無用のことだ、というのが私のたちば。といって私は何も、DJ社長みたいにごきぶりを生きたまま食べられるような人に子供になってほしいわけではない。ただ、本人がなんとも思っていないところへ、わざわざ「嫌いなもの」を作ってやることはなくないか、と思うわけ。同様に、良い子にしてないと狐にさらわれるよとか、なまはげがくるよとか、「A」がきて首刈るよ、とか、そういう「恐怖をテコにした訓導」という昔ながらのやり方も、うちでは一切使わない。ないものまで持ち出して子供を怖がらすのはかわいそう。

掟八、子供の親に連絡先を聞く

これはぶっちゃけ、今はやってない。だがかつてやってた。ほんで今後またやるかもしれない、というわけで「掟」入り。何かというと、公園とかで子供がその場限りのお友達と遊ぶことあるだろう、それですごく相性がよくて相互に化学反応が見られて、ほんで親の子供への接し方も共感できる感じだったら、また会うために親とLINE交換する。ほんで約束し合ってまた遊ぶ。そうしてできた親トモが、最大時5人いて、今日まで残ってるのは2人。夏は暑すぎるのでしばらく公園遊びは控えているが、秋ンなってまた公園で遊びだして、この子はいいなと思ったらまたスカウトするかもしれない。子どもの幼馴染候補を(誰知ろう運命、この中の誰かが20年後幼馴染になっている)ね。

掟九、言葉は重い

どの親も苦労するポイントと思うが、風呂と歯磨きは毎日寝る前に必ずしなければならない、が、それらは遊んだり本読んだりすることより相対的に面白くないので、子供には大概ヤブサカなイベントである。いかに気持ちよくその気の進まないことへと子供を赴かしめるか。うちがわりとやるのは、月並みだが、約束をさせる。〇〇を5分やったらお風呂行こうね、とか。あるいは自分で「流れ」を提示させる。どういう流れにする?と水を向け、「〇〇して、××したら、お風呂入る」とか言わす。だが、往々にして、いざ〇〇と××が完了し、お風呂の段になると、ぐずぐずしぶって抵抗する。これがケースA。ケースB:ものを投げる・ママをぶつなどの我が家の禁則事項に触れたとき謝らせる/もうしないと約束させるのだが、同じ過ちを犯し続ける。ケースC:パパと遊びたい気分のときママが来るとМама, уходи!(ママあっち行け)とか厳しい言葉で斥けて人を傷つける。これらは見る人によっては全然別個の事象であり個別に教え諭すべき事柄なのであろうが私の目には本質は一つなので、同じ一つのフレーズを繰り返すことになる。すなわち、「言葉は重い」。あるいは、「言を左右にするな」。これをもう昔っから繰り返し言っている。

掟十、毎日何かしら新しいことを

とはいえお金もないからヘリコプターに乗せる等のことはできないのであるが、乏しい中でもなるべく毎日新しいことを、と心がけている。妻は工作のアイデアの、私は私でお出かけ情報の収集に余念がない。ロシア語でいう新しきものとは忘れられし古きものの謂なり(Новое – хорошо забытое старое)の伝でいえばしばらく遊んでいない遊びないし玩具ないし絵本は彼にとっては新しいものである。それも含めさせてはいただきますが、まぁ実際に、太郎は生まれてこのかた全ての一日が新しく面白いものであったと思う。明日も私は連れていく。新しい言葉、新しい思想、(そして変わらぬ愛と信頼)、明日も明後日も際限なく届け続ける。

これからの課題

ここに並べた十戒は多分一年後にはアクチュアリティを失っている。げんに一年前の自分は全然ちがう十戒を奉じていた。

掟一のバイリンガルの件だが、日本での生活が続き、また深まるにつれ、ロシア語にとってはますますシビアな状況となる。さしあたり私の役目は(引き続き)太郎の日本語力の牽引、および、妻による太郎のロシア語力の牽引のお膳立てだが、まー状況を見て色々手を打っていくんだろう。どうなるかわかんない。1年後には両輪軌道に乗って高次安定を達成しているかも知れないし、派手に脱輪・大破してるかもしれない。

ちなみにバイリンガル(ロシア語と日本語の)の完成形としてひとつイメージしてるのは、「プーシキンと宮沢賢治をそれぞれ原語で十全に味わえる」状態である。会話において誰も彼がネイティヴであることを疑わないということは当然として。一方で、「ロシア語と日本語を完璧に使いこなせる人材は稀少であろう・食うに困らないであろう」みたいな打算はほぼ無い。私なら日本語への、妻ならロシア語への、愛、それひとすじでやっている。日本語は私には楽しい。幼児で手にしていまだに遊んでいる唯一のおもちゃが日本語だ(あのおもちゃこのおもちゃとおもちゃおもちゃで面白いんぞ――中也)。逆に私は長年やってるロシア語についてどうしても越えられない壁を感じていて、妻は妻で日本語の壁に直面していて、その壁を越えられないつらみもよく知っている。その壁の向こう側に行けたらどんなに豊かであろう。そんな悲願・夢・あこがれを子供に託している。

とはいえ俗人だから、社会的有用性ということも月並みに考える。英語やっとくと将来有利だよなぁ、とか思ったりしている。

掟四、映像を見せない話は、これは正直、どうなんでしょうかね。いま試みにテレビ欄を見てみると、明日8月17日いちにちだけでも、「生きものたちの地球『オーストラリア カンガルー跳ねる島』」「ブラック・ユニバース『宇宙に抱かれる特別な夜』」「驚き!地球!グレートネイチャー選 火山が彩るカラフル大地〜中米・コスタリカ〜」「ダーウィンが来た!『東京で復活中!絶滅危惧種コアジサシ』」(いずれもNHKBS、30分番組)と、見せたいものが目白押し。そんならテレビくらい買ったらよさそうなものだが、そこはそれ、「味の濃いもの」への依存が怖い。依存の前段階としての習慣化も怖い(’Cause sleep is the cousin of death)。とか言いながらふた月後にはちゃっかりTV買ってる気もする。

「親のエゴ」。

上に長々述べてきたことをそういう言葉で片付けられると傷つく。だがそういうものでしかないような気もする。外にやり方がありますか。逆に、何が人間の価値であり美質であるかについて自分に一定の確信があるときに、その自らが価値とし美質と見ることへと子供を全力で導かないことこそ、なんか真摯さに欠ける子育てという気がするけどな。

やがて子供の自我が全力でこれと真逆のことを価値としたときにそれもやむなしと認める覚悟を自らのうちに育てながら、その日までは、自らが価値とすることへと子供を全力で導く。そんなようなことをしている。していく。

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