「君たちはどう生きるか」感想(ネタバレ)

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スタジオジブリ最新作(原作脚本監督:宮崎駿)「君たちはどう生きるか」観た。

序・私のジブリ歴

人並にジブリは好きだし観ている。最高傑作は「もののけ姫」、でも一番好きなのは「魔女の宅急便」、殿堂入りは「トトロ」と「ラピュタ」と「紅の豚」、「耳をすませば」もかなり好き。漫画版「ナウシカ」はFFⅦやカラマーゾフの兄弟と並んで世界人類表象文化史上の最高峰。

だが……(ここからは否定的言辞を含む。自分が好きなものをくさされていい気がするものではない。よって、ジブリファンの方、宮崎駿の悪口なんか聞きたくないよという方、ここでご退場ください)
今からしばらく「茨木のり子」が流れますので、そのあいだにご退場ください。

自分の感受性くらい 令和版~あんちょうす編~

ぱさぱさに乾いてゆく心を
あんちょうすのせいにはするな
みずから水手にて油きり行っておいて

気難しくなってきたのを
あんちょうすのせいにはするな
品川のしなうす店にて「あんちょうす無いよ」言われても

初心消えかかるのを
あんちょうすのせいにはするな
そもそもが ひよわなイワシにすぎなかった

アッチューガ、アンショワ、アンチョヴィー
ばかものよ、自分で守れ
おい、ばか 守れ
自分の感受性くらい

というわけで牙を剥く。ここからは皆さんの大好きなものをめちゃめちゃにくさすし、新作映画のネタバレも容赦なく行う。


私が初めて劇場で「新作」としてジブリ映画を見たのは「千と千尋の神隠し」(01年)だったが、これはフィルモグラフィーでいうと「もののけ姫」(97年)の次作にあたり、「もののけ」が大変な怪作だったので、大いに期待して、事前に謎のイメージアルバムなるものまで聞きこんで臨んだが、劇場で大変な失望を味わった。虚実皮膜が魅力だったのに、少年少女の成長物語を口実に異世界または機械(マシーン)を描きたいだけのおじさんになってしまった。以後の作品(ハウル、ポニョ、風立ちぬ)も一応見てるが、全く評価しない。かつて亀山郁夫が村上春樹は村上春樹を模倣しだしてつまらなくなったと言っていたが、それは宮崎駿にこそ当てはまる。けだし「もののけ」までの諸作品で宮崎の天才性は枯渇した。あとはその残り滓を優秀なスタッフが磨きに磨いて商品にしている。

「君たちはどう生きるか」感想①時系列

はじめおもしろく、やがて鼻白み、色々と疑問が残った。総合評価:駄作。

同名の本は遥か昔に読んだことがあって、でも映画はそれと全然ちがう話だと聞いていて、であれば「君たちはどう生きるか」という問いは41年生まれ・御年82歳の宮崎老人のある種の「遺言」なのだろう、それなら見届けたい、というテンションで入った。

リアリスティックな戦争描写からのスタートに不意をつかれ、タイトルコールで期待値が爆上がり。遺言が聞ける!とわくわくした。主人公・真人少年の男ぶりOK、継母なつ子の美人ぶりもnice、疎開先の「お屋敷」の壮麗さfantastic。上々の入り。

そしてそこからの、青鷺と塔をめぐる、虚実皮膜(虚構と現実のあわいを縫うストーリーテリング)、マーヴェラス。最高にぞくぞくした。これは傑作!!の予感にふるえた。

だが、それも、なつ子を追うて森へ入り、異世界編に突入するまでのことだった。まず塔に入る、塔で青鷺との決闘が演じられる、ここまでが異世界のいわば玄関口で、ほんで塔の床に吸い込まれていってそこから本格的に異世界(下の世界)が始まるのだが、この下の世界に入ってった瞬間に興味索然とした。あーあ、がっかりだ!入っていった!もうこっからは異世界の話だ! 以後は出てくるもの出てくるもの既知であった(もっとも、その描き方は美しい)。なんでも知ってる魔法使い、味方になったり敵になったりするロキ的アンビギュイティ@青鷺、助けてくれる火の少女、悪い鳥、呪す紙の人型、手を伸ばすのだが届かない、光る石の洞窟、奇妙にディテールのない黄金色の光にみちた空間、触れると死ぬ粘体の海嘯、世界崩壊、少年と少女・きみは右へわたしは左へ。

ほんで、極めて簡素なエピローグ。「戦争が終わって2年後、私たちは東京へ戻った」それだけ。少年の成長譚という建前のためには、せめてもう少し、この異世界体験が少年にとって何だったのかが最後に描かれて然るのじゃないか。困惑。続いてジブリ映画の主題歌が単なるポップスであるという困惑。そして最後に、トレードマークの「おわり」の文字が出ないことへの困惑。

「君たちはどう生きるか」感想②世界の基本構造

現実世界の時空は第二次世界大戦末期。戦争の影は色濃い。主人公・真人少年の父親(その声をキムタクが演っている)は軍需産業に関わる工場を経営しており戦争特需で大いに潤っている。戦争成金。田舎にとんでもない屋敷を持っていて、いま家族でそこへ疎開してきた。屋敷の広間に自分とこの工場で作った戦闘機のコクピットのキャノピー(ガンシップの風防――王蟲の目!)を運び込む様子も描かれる。

だがそういうのが描かれるのは最初の4分の1と最後ちょろっとだけで、大半は異世界探幽である。この異世界と、現実世界の、対応が問われる。宮崎の主たる関心がとにかく異世界を描いてそこでイメージの万華鏡を展開することであったなら、ではなんで大枠として時代設定が戦争の時代である必要があったのか。

異世界のなりたちについて分かっていることをまとめる。まず現実世界と異世界の境界になっている例の塔であるが、あの塔は「いろんな世界にまたがって立っている」そうだ(はて…?)
そんで、ばばあ連が真人の父に語ったところによれば、塔の正体は「御一新のころ」宇宙から飛来した隕石あるいはUFOみたいなものらしい。それを異能の大叔父がリノベして今ある形の塔になった。大叔父は塔へ閉じこもり、万巻の書を読み、ほんで終いには、宇宙からの飛来物に何事かを学んで、いわば異星の超文明とのコラボレーションによって、異世界を構築した。ほんでその内部に自らを幽閉した(現実世界の視点からは、大叔父は神隠しにあった)。異世界の最深部で大叔父のかたわらでたゆたってる石的なやつこそ、その宇宙からの飛来物のコアなのだろう。

御一新、つまり明治維新のころに、外部からやってきたものと内部にあったものが共同で作り上げたものが、いま崩壊しかかっている、というと、まぁ単純に考えれば、近代化のアレゴリーである。したら時代設定が近代化の一つの重要な側面である軍国主義に瓦解をもたらした太平洋戦争末期になってることもまぁ整合的。クソつまらん解釈だけど。

異世界の維持のためには、積み木みたいな白い石(たしか13個)をいい感じに積み上げて、積み木の塔を建ててないといけない。だが、大叔父が昔に建てたそれはもう崩れかかっていて、新たに別の誰かが来て、そいつがそいつなりの塔を建てる必要がある。ただし、その新たに来る者は、大叔父の血族でないといけない(血で飛ぶの/いいね、あたしそういうの好きよ)。その後継者に真人が指名されるのだが、真人はそれを拒む。そうして異世界は崩壊する。

そのことによって、日本は敗戦した? いやいや、因果関係として、それは無理があるだろ。符号はするが、因果関係にはなり得ない。「すずめの戸締り」では地震という現実世界の現象を異次元空間におけるミミズたちの暴威とリンクさせていたが、自然現象については因果関係を仮構できても、現実世界の歴史の推移に関しては、さすがに無理。そこには多くの自由意志もつ人間が参与してるわけだし、第一、異世界の構築以前にも、異世界の崩壊以後にも、現実世界は存在した/するのだもの。

では、異世界と現実世界は全く別個のものであって、少なくとも前者が後者の大勢に影響することはないのか。

その場合は、逆に、異世界の崩壊など、知ったことかである。どうでもいいものを長々と見せられていた、ということになる。ああ、これではもたない、崩壊する、崩壊する!……とわたわたされても、いや、知らんし。現実世界の我々に関係ないのであれば、それを一大事みたいに言われても困る。

「君たちはどう生きるか」感想③氾濫する過去作のイメージ

登場人物はみなジブリ顔だった。当たり前だ。スタジオジブリとは宮崎駿が描くような人物の絵をいっぱい描く工場だから。開幕劈頭、ジブリ顔の少年がすごいスピードでだだっと建物の下階から上階へ階段を駆け上がるのを見るだけで、「移動速度はっや!ジブリ!」と嬉しくなる。

いかにもジブリな瞬間の数々。今回も過去作からの引用がいっぱいだった。ジブリがいっぱいコレクションだった。

・美しい人間が醜い生き物に纏いつかれる ←蟲使いの蟲とナウシカ(漫画版)
・ばばあがいっぱい ←ポニョ
・ばばあが若返る ←ハウル
・青鷺 ←ジコ坊
・わらわら ←こだま
・異界の少女(実母の過去の姿) ←ナウシカ(アスベルにとっての)、サン、シータ
・光る石の洞窟 ←「耳をすませば」ラピスラズリの洞窟、「ラピュタ」ポム爺
・外壁を伝い登る ←ラピュタ、千と千尋
・終局、少年の深い洞察の言葉で破邪(「その石には悪意がある」)←ナウシカ、千尋

過去のモチーフの反復再登場には3つのケースがあると思う。①宮崎老人の意識的なセルフオマージュ(セルフパロディ)②スタッフの宮崎老人への忖度ないし大衆への媚び③宮崎老人のオブセッション

②については、個々のシーンのゼロイチをすべて宮崎がやってるわけではないと思うので、大体こういうものを描きたいという大綱が示され、それをどう具現化するかというときに、当該場面の担当者が「過去作の〇〇ふうにこれを描くと老人は喜ぶだろう/観客は喜ぶだろう」と忖度して、結果それっぽい場面ができあがるケースはあろうと思う。

③の宮崎老人のオブセッションというのは、たとえば、異世界(下層)入ってすぐのとき、水平線上に廃帆船の列が現れる、「紅の豚」の飛行機の墓場、また「ポニョ」の船の墓場のイメージの再登場だが、これは多分、他界とか彼岸というものへの宮崎駿の固有のイメージ、業として・性として、繰り返し立ち返らざるを得ない固定観念なんだろうと思う。

他にもたとえば、「老人」を描くことへの、宮崎翁の執念。珠のような少年少女(ときに幼女)を主人公に据える一方で、あらゆる作品に必ず一人はしわくちゃばばあを登場させる。ワンピースの尾田栄一郎、キングダムの原泰久、オッサンを描くことが好きな作家はままいるが、宮崎が描くのはドルク皇弟だの湯ばあばだの、超ド級の醜怪である。極めつけは「老婆と美少女は往還可能である」(ハウル)という、奇妙奇天烈なモチーフ。このあたり、精神分析の好個の材料という感じがする。

「君たちはどう生きるか」感想④謎が残る

謎一。なんで鳥なん?

鳥ってなんだろう。鳥の意味価、象徴価って何。
青鷺というチョイスは良いと思った。和の感じだし、どこにでもいるありふれた鳥で、でも姿に異様なところがあり、常に一定程度離れた距離からしか観察されず、身近だけれども神秘的ということで、現実と幻想を架橋する存在としてちょうどいい。
だが異世界がああまで鳥で溢れているというのは?しかも、たった二種類の鳥。ペリカンと、インコ。なんでそのチョイス?全然わからん。あとあの鳥の王って何。

謎二。真人はなんで自傷した?

転校初日にからまれて喧嘩してぼろぼろになった帰り路、石を拾い上げて頭ガツン叩いて自傷するのだが、あれはどういう心理ですか。わからない。物語的にも、どういう狙いがあってそのことを起こしただろう。あの異世界体験の全てが主人公の病んだ脳髄の見せた幻覚であったという解釈の余地を残すために? いや、希代のクリエイター(宮崎)の畢生の大作が夢オチというのはさすがに。
創傷は生々しい。それがなければ完璧な美少年の、歴然たる欠損。あのいたいたしい傷を終始観者は見せられている。異世界冒険に併走してずっと疼痛が伏流している。はて、あえてそうした意図とは。
物語の最後(戦争が終わって2年後)、もう髪はすっかり生えそろっている。たぶん傷痕は残っているのであろうが、少年は外見上、美の完全性を回復した。

謎三。なつ子はなんで森に入った?

継母なつ子はなんで森に入っていったろうな? 物語では継母と息子、二人の人間が個別に異界に入っていくのだが、真人に中心化された語りの豊穣に対して、なつ子の「もう一つの物語」の方は極くひっそりとしている。なつ子は黙って入って、黙ってそこにいて、黙って出てくる。
そもそも真人は二人の母の影を追って異界に入っていったのだった。真人の一度目の塔への接近は「亡母に会えるかも」という思いに駆られてのもので(青鷺がそう教唆した)、二度目のときは明確に「継母を探し出す」ことを目的にしていた。なつ子にも何かそれに類する動因があったか?

結果的に起こったことから逆算すると、要するに真人のほうの物語は、亡母への執着を断ち切り、継母を新たな(真の)母として認めるための旅、そういう成長譚として読める。対応して、なつ子の方も、愛する男と実の姉の子(※真人の二人の母は実の姉妹。つまり真人の父は、妻を亡くしたあと、その妹と再婚した)という微妙に愛しにくい存在をついに愛するようになるまでの物語、というふうに解せる。構造的にはそういうことになる。そうすると、あの塔、また異世界は、例の大叔父の血統に連なるものが何かしら心のひずみを抱えたときに知らずいざなわれる逃避の場・兼・試練の空間なのだ、ということになる。

が、そういう映画なのだと言い切ってしまうには他の要素が多すぎるし、だとすれば叙述が下手過ぎる。釈然としない。

跋:私たちはどう生きようか

結局、なんだろう、私たちは問いを突き付けられたのでしょうか。82歳の老人から。「君たちはどう生きるのか」と?

さしあたり私としてはこう答えるしかない。「すいません、ちょっと問いかけが回りくどすぎて、何を聞かれているのかわからないです」

わからなかった。だが、画的にはそれはきれいだったし、一定、おもしろかった。以上。


なお、わたくしはだいぶ映画音痴で、映画について何か語ることに慣れてない。あと、本作については既にいろんな人が考察とか書いてるんだろうけども、一切見ていない。だけに、独自なことを言ってる可能性もあるが、頓珍漢なことを言っている可能性も大いにある。

異世界に入ってすぐ出てきた糸杉の森のイメージは、明らかにベックリンの「死の島」だった。

おわり

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