バイリンガル3歳児の子育て戦記

その他

花のドレスでチャ・ツ・ネ。

【関連記事】
子育て日記(22年8月~23年4月にかけて不定期更新)
なに丘、子育て十戒(子育ての基本方針を10か条にまとめた)

2週間の里帰りでバイリンガル均衡は是正されたか?

8月末~9月半ばまで太郎の生まれ故郷であるウクライナ・オデッサ州に帰省した。

帰省の目的の一つは、3歳のまる一年間を日本で過ごしたことで大きく日本語優勢に傾いたバイリンガル(両言語)の天秤に、ロシア語への適切な加重によって均衡をもたらすことであった。

2週間はロシア語漬けであった。義父母はよくしゃべる人たちだし、いろんな客が訪れてロシア語での会話が展開した。とりわけ着いて最初の一日に私が体調を崩したので(今思えば義母に毒を盛られた?はは)丸太のように寝てばかりいる私の魅力がみるみる減じていき、私の存在が唯一の発動契機であるところの日本語への需要もぐんぐん下がっていくのを看取して、くはっ、しめしめ、これでよい、おべろ!おべろべろべろべろ!……と、思っていた。(→「絵日記」参照)

だが。滞在も後半~終盤になると、私への愛着が盛り返して、義父母には気の毒な場面がたびたび出来した。義父母と何かしていてもその場に私がいてしまうと(なるべくいないように努めてはいたのだが)お父ちゃんお父ちゃん、と日本語で私に話しかけてきて、義父母のロシア語での問いかけや話しかけをことさらに無視して私と日本語で会話しようとする。言ってる内容を私とか妻が義父母向けに通訳するのは造作もないが、「それをロシア語でおじいさんに言いなさい」と本人に促しても、面倒がって応じない。

2歳までの2年間は日本語の方が完全に劣勢であったので(※太郎はオデッサで生まれて2歳までオデッサで暮らした)、義父母の饒舌を非常に苦々しく思っていた。日本語のレベルで絶対にロシア語に後れを取らせまいぞと孤軍奮闘していた私である。ある時期まで赤ちゃんの身体は100%、ママの身体から分泌されるものでできている。同じように、2歳までの太郎の日本語は、私の口からその耳が浴び、耳からその脳髄に滴り落ちるもののみで100%構成されていた。このストラグルにおいて義父母は、好敵手であった。打ち勝つべき宿敵であった。「俺は好きじゃないが、お前は相当すごい奴、胸糞悪くなるくらいだ……よくやるよ!」と宮本浩次みたいに毒づいて、闘っていた。

その宿敵に、今や憐れを催すわたくしだった。脅かされる!と思う瞬間はなかった。最初の丸太と寝ていた一日だけ、こりゃ食われるかと思った。あとは一度も。がんばれロシア語、がんばれ!と思って、義父母と太郎の交流の場から身を隠していた。

やはり3歳の1年間は、決定的に重要だった。日本で過ごした3歳の1年間で、日本語はある種、絶対的な地位を、太郎の中に確立し得た。この1年間を太郎は日本で過ごし、図書館にいくらでもある日本語の魅力的な本たちに触れ、公園で日本語で子供たちと交流し、ついには保育園に入って、1日の多くの時間をそこで過ごすようになった。

とはいえ、今度の帰省は、ロシア語にとって大きなインパルスにはなった。義父母の努力は全然ムダにはなっていない。行く以前よりは(こうして戻ってきた今も)格段に家庭内でのロシア語での発言が増えている。日本では入手困難なロシア語図書も大量に仕入れてきたので、毎晩ママと読んでいる。夜伽はもう完全に私はお呼びでない。

結論として、この2週間の帰省で、バイリンガルの均衡はだいぶ是正されたと言える。日本語の強度も確認された一方で、ロシア語の方もだいぶ補強された。

何より、「ロシア語が十全に機能する空間がこの世に存在する」ことを(多分それを忘れていた)太郎が改めて体験したこと、これが大きい。日本で生活している分にはロシア語はなんというか生活の必要に直結しない、趣味の言語である。だが、それは日本にいるからだ。違う環境にいけば全然事情が変わってくる。ロシア語が(あるいは日本語が)二等の言語ということはない、ただ環境によって、多数派の言語であるかないかが変わるだけだ。ということの触知を、太郎は得たと思う。たぶん。それが一番の財産だ。

(その意味では、イスタンブールの空港で一晩と4時間過ごしたこと、そのことも地味に太郎の滋養になったかもしれない。「自分に全然理解できない言語がある」ということをちょっとでも体験できた)

――9月18日

私は詰めすぎる

じいさん謹製のおもちゃで遊んでいて何か思うようにいかないことがあり、そのおもちゃのことをなじりだした。「これはだめなおもちゃだ」とか「こんなおもちゃ要らない」とか。私「そんなこと言うなよ、せっかくおじいさんが作ってくれたんだよ」←このように宥めるのだが私の出方が甘いので子供が図に乗る、そのおもちゃを手で叩きだす。物に当たるな・人をぶつなは昔からかなり厳しく言っていることで、だから子供もいきなり本気で叩くのでなくなんとなく私の様子を窺いながら甘噛みから始めるのだが、ここらで止めとかないといけないと思い「親の忍耐を試しているのか。いい加減にしないとそろそろ怒るよ」と脅迫した。したら子供、垂直的エスカレーションというやつで、とっさにクッションを手に取り、私に向かってふりかぶるようなそぶりをした。その機先を制して私「クッションを投げつけるのか。そんなことしたらどうなるかわかるな」とまた脅迫。したら子供、わーっと泣きながら明後日の方角へ駆け出した。走り出した先にたまたまママが現れたので泣きついた。お父ちゃん、お父ちゃんと言いながら。

可哀そうなことをした、と思った。私のしたことは何か。子供の意図を看破し言表してその行動がもたらす帰結を予告して抑止した。そのやり方がいかにも冷酷で隙がなく、子供の主観としてはすべてお見通しで出口なし、巨大な掌の上で思惟と挙措のすべてを見透かされてしまって「解決不可能性による内破」を迎えるしかなかった。じゃあどうすればよかったのか、というところまでの考えはないが、このやり方はとりあえずだめだと思う。子供をこのように追い詰めるのはかわいそう。私の方が言葉を知っていて上手にものが言えてえしまうのは仕方ないことだが、強いものは弱いものに優しくあれ、いじめんな。(9月13日)

〇と△の違いはな~に?

きのう親子3人でほっつきあるいてたら子供が急にロシア語で「いぬとねこ、には、ちがいがある。ねこは『みゃお』となく、いぬは『がふ』となく」と言い出して、これは見事、ひとまとまりの思考を適切な言葉で最初から最後まで言い表した、そしてこの遊びは、定番化できるのではないか? して、楽しみながら思考力とか言語力を育てられるのではないか? と思い、私(日本語)と妻(ロシア語)が交互に、では問題、車と自転車の違いはなーに? とか、窓とドアの違いはなーに? とか聞いていった。

で、太陽と月の違いはなーに? との私の設問に対する太郎の回答が見事だったので、全文を引用する。

「たいようはあさにぴかーっとひかり、つきはよるにひんやりとひかる」

――9月12日

パニック一番よくない

うちの子はパニックに陥りやすい傾向がある?

ケース1、あまり行かない児童館に先日行ったら退館時間にメロディ(退館を促す館内放送)が流れて、子供はそんとき遊んでたおもちゃをかなぐり捨てて「ああ閉まっちゃう閉まっちゃう!」といって立ち上がり、ダッシュで出入り口に向かった。私は身の回り品などあったものだからちょっと出遅れて、ほんでタイムラグ10秒ほどで玄関に着いたら子供は泣いていた。「おとうちゃん、閉まっちゃうよー」と言って。スタッフの人もどーしたどーしたって感じ、私はぼっちゃんを抱き上げて「ほら、誰も急いでないでしょ、みんなゆっくり歩いてるでしょ」と指摘する、実にその日は利用者が多く、大人も子供もそれなりにいっぱいいた。のんびりまったりムードの中、ただ一人恐慌をきたしていたわけだ。

ケース2、お昼に泡風呂を張った。うちの風呂は狭いので子供は一人で入っておもちゃで遊ぶ。「お風呂の後はあわあわの身体を流さないといけませんよ」と言っておいたら、ふだんなら親がシャワー浴びせてきれいにするところ、自立心を発揮して、自分でシャワーを浴び始めた。うちのシャワーはよくある単純なやつで、栓を上げるとシャワー・ 下げるとカラン。太郎はシャワーヘッドをホルダーに固定した状態で、ちょろちょろ水量でシャワーを浴びてたのだが、「もういいよ、きれいになったよ」と私がいうと(※私は浴室の入り口に立って監督していた)、シャワーを止めようとしてハンドルを……下に下げるべきところ、誤って上に上げてしまい、シャワーの水量が最大になった。そこで太郎はパニック☆パニック。「おとうちゃん、おとうちゃん!うわあああ!!」もはや現実(栓)から目を背けて泣き出す。「落ち着いて。レバーを下げてごらん。そしたら止まるから」。何度か言ったらやっと聞いて、レバーを下げたらこともなし、水は止まった。

弱すぎないだろうか。

容易にパニックに陥りすぎではないか?「パニック一番よくないよ」と言うのだが、伝えるメッセージ合ってるだろうか。二つはもしかして全然別個の問題なのかも知れない。また、幼児として普通のことなのかもしれないが。だってパニックよくないじゃん。大岩が転がってきたとき、また車が走ってきたとき、冷静に脇によけてほしい、そこパニックになって道筋の真ん中に立ち尽くしたり、大岩または車と同じ方向にしかしより低いスピードで走って逃げたりとかしたら死ぬじゃん。

とりま私らにできることは、私ら自身がいかなる時にもパニックを起こさないよう気を付けることだ。冷静に、落ち着いて対処すれば、大抵のことは解決可能である……そう態度と行動で示し続け、その背中に学ばせること。ほんでまぁ、「パニックよくないよ」「大丈夫大丈夫」「なーんにも怖いことないよ」と言い続けること、かなぁ。(8月27日)

いじめ(その萌芽形態における)

ドラマ君という子がいて、太郎と同じく3歳、同じアパートに住んでて保育園も一緒で、よく遊ぶ。「親友」という言葉に一番近い。

その子とちょっと問題的(かもしれない)な状況になっていて、園長先生に相談した。

どうもドラマ君は、保育園で、手下を束ねて、うちの太郎に嫌がらせを行っているらしい。

気になる場面①これは先日の保育参加で私がこの目で見た光景。給食のときに、太郎と真昼君が同じ島、隣の島にドラマ君がいて、太郎はお利巧に全品目バランスよく食べていたのだが(私の手前ということもあるか)、ドラマ君は全然箸に手を付けず、ふざけたさ満開で、「ねぇ真昼君、真昼君」とささやき声で呼びかけ、「ねぇ真昼君、こんなポーズして」と、色んなポーズをとり、真昼君にマネさせる。真昼君をある種、操り人形にして遊ぶ。果ては、「真昼君、ぼくが名前をいうから、ポイってしてね」と謎のゲームを始め、「〇〇ちゃん」「〇〇くん」とクラスの子の名前を言っていく。真昼君は呼ばれた名前を、「ん~~っ、ポイっ!」といって、なんか打ち捨てるようなジェスチャーをする。ちょっと気持ち悪いような遊びだ。うちの子も呼ばれた。「太郎くん」。太郎はドラマ君にその名を呼ばれて真昼君によって「ポイっ」と捨てられた。太郎は食べることに集中して全く意に介していないように見えた。

(これを間近で見ていた太郎の親・私。私は別に注意もしなかった。注意するかどうか微妙なラインだった。全く無邪気な感じでやってるので。ドラマ君がふざけたがりなのは知ってたし、苦笑はしたが、まぁ他人の親が出る場面でもない感じだった。ちなみに先生は(2人いる)、違う島にかかりきりになっていて、この場面は関知していなかった)

気になる場面②、上記の保育参加のあと、子供は引き続き保育園に預け、私はいったん帰宅し、数時間後に迎えに来た。お迎えは以前は園の玄関までだったが(感染症対策?)、最近は教室の入り口まで親が来ることを許されている。私が教室の入り口に立って「太郎、太郎」と手まねぎすると太郎駆けてきて「あのね、ドラマ君がいやなことする」。私「何する?」「ばーん(手で銃の形をして)ってする」言われて私、教室の奥を見ると、そのドラマ君、にこにこしながら、私らのほうに手ピストル擬して、「ばーん」。

事案③、その翌日、退園後、「今日はドラマ君いやなことしなかった?」と聞いたら、「した」という。「何した?」あのね……。要するに、今度は醤油君を教唆して、太郎のことをハブったらしい。太郎が醤油君とドラマ君と遊ぼうとしけるに、ドラマ君が醤油君に「太郎君にばーんってやって」と言う、醤油君は言われるがまま太郎に対して「ばーん」とやる。挙句に、ドラマが醤油に「太郎君と遊ばないって言って」と言って、醤油が太郎に「太郎君とは遊ばない」と言う。結果、太郎は一人で遊ぶことになったと。

この太郎の直接の証言をきいて、うーん。。。。妻と相談して、これは一応、やっぱ、先生と話してみる案件だなと。他人を巻き込んでる点が悪質、また常習性がありそうな点が問題だと思った。先生がまだ関知してない事象に私らがたまたまいちはやく気づいた可能性もあり、それならば報告すべきだし、また、もし逆に先生方が既にドラマ君の問題的傾向について関知していたなら、少し話を聞きたいと思った。園外でも付き合いがあるからこそ、把握して、距離の取り方など考えてみる必要がある。

結局、園長先生に相談した。①と③のことを詳しく話した(②は省いた)。こちらの要望は⑴太郎が傷つかないようにしてほしい、⑵何があった・どういう方策をとった等について逐一の報告は要らないが、太郎とドラマ君の園外での付き合い方について示唆的な事象が今後もし何かあれば、教えてほしい。

これは”いじめ”の萌芽形態なのだろうか?

正直、そんな言葉は使いたくない。大げさにとらえすぎるのもよくない。ドラマ君はにこにこにこにこしていて、全く無邪気である。ちょっと悪い遊びにハマりかけている。気づいたところで大人がそっと手をうち、それとなく善導是正する。それだけのことだ。

ただし、太郎がこうしたことのvictimになり得る、こうした場合に太郎は自己の快適を阻害するものの打倒のために抗力を用いるタイプではない、黙って傷つくようなタイプである(可能性がある。そうした事例があった)ということは、押さえておく必要がある。

太郎は幼く、人間の善性を信じ切っている。太郎のアンチやヘイトは「人」には向かわない。そういう回路をまだ持っていない。太郎が現時点で既に個々の事由で不快を感じてることは確かだ。だが幼(きことの貴)さゆえに、その事由事由を「人」に総合することは知らない。太郎の世界に「嫌いな子」「悪い人」はいない。弥陀も羨む、全員が救える、済度できる世界。そのひび割れを哀しむ。その日を遠ざけたい。

だから太郎に「ドラマ君は悪い子だからあまり遊ばないようにしなさい」的なことは私からは言わない。なるべくそういうことを言わないで問題を解決していきたい。

一方で、この機会に太郎に伝えそびれたことがある。それは類似の場面で、お前が真昼や醤油のようなことをするな、ということだ。真昼君や醤油君は大人しいタイプで、(こう言ってはその子らの親には悪いが)使われちゃいそうな子である(まぁ現に使われていたのだから仕方ないか)。太郎、お前は使われるな。そんなお前は見たくない。大人しいなら大人しいで結構だが、芯はあれ。その芯を鍛えることは、私らにかかっている。

――8月21日

タイトルとURLをコピーしました