フォア文庫 愛蔵版『石の花』(バジョーフ作)という本を読んで、その内容をまとめた。理由があってそれをしたのだが、その理由はもう消滅した。ふつうに、とある本の内容紹介した文章として、もしその本に興味があるなら、以下読んでください。
『石の花』どんな話か
20世紀の前半にバジョーフつう人が書いた少年少女向けのファンタジー小説。ロシアのどっか田舎の村が舞台で、その村には鉱山があり、採石とか石細工とかがその村の産業なのだけども、鉱山には「銅山(やま)のあねさま」と呼ばれる人外の美女がいて、彼女に魅入られ彼女が司るパラレルワールドに迷い込んだ奴は軒並み人生を狂わされていく。
私が読んだ『石の花(フォア文庫 愛蔵版)』には二つの話が収められていた。ステパンの話とダニールシコの話。それぞれ前後編になっている。順に見ていこう。
ステパンの話(前半)
村の若い採石夫ステパンが山でうたたねしてたら例のパラレルワールドに迷い込み、そこで出会った「銅山のあねさま」に3つの試練を与えられる。
試練①お前の上司に「息が臭い」と直言しろ。この試練はすんなりクリア(上司は怖いが石の姫はもっと怖い、ということで)。
試練②お前はお前の婚約者を裏切って私と結婚しろ。これは「それだけはできない」と断った。断ることこそ正解だった。クリア。
試練③もう私のことは忘れろ。――これだけはできかねた。例の婚約者と結婚してしばらく幸せに暮らしてたのだが、ある日ステパンは失踪した。のち鉱山で輝石を握りしめて死んでいるのが見つかった。
ステパンの話(後半)
ここで主人公が交代する。ステパンが残した妻ナスターシャおよび娘タニューシカの話になる。ステパンは妻のナスターシャに置き土産を残していた。「銅山のあねさま」から譲り受けた輝石の装身具一式だ。これはナスターシャ自身には似合わなかったが、娘のタニューシカには驚くほどよく似合った。タニューシカは母に似ず肌が浅黒く瞳が緑色で、絵に描いたような美人であった。
家計が傾きついに一家は亡父の残した輝石の装身具一式を売り払うことになり、実際それは高く売れたが、買った貴婦人にも着こなすことはできなかった。誰かこれをよく着こなせるものはいないかと領主が探したところ、もとの持ち主であるナスターシャ一家の娘タニューシカのことが口の端に上り、着せてみると実によく似合う、そうしてその娘の美しいこと! 領主はタニューシカに結婚を申し込んだ。タニューシカは条件を出した:「首都サンクトペテルブルクの皇帝の宮殿にある孔雀石の大広間で皇妃さまに会わせてくれるなら結婚します」。
それで実際にサンクトペテルブルクの宮殿に上るのだけども、タニューシカは①領主が約束の時間に待ち合わせ場所で待っていなかったこと②はじめに通された部屋が孔雀石の大広間でなかったこと③自分が皇妃を見るのでなく皇妃が自分を見るという体裁での邂逅であったこと、に謎に立腹し、ぷりぷり怒ったまま孔雀石の壁の中へ入っていって消えた。
タニューシカはどうも「銅山のあねさま」の分身であったらしい。あとに残された領主は発狂した。ほか、関わった何人かが不幸になった。
ダニールシコの話(前半)
さっきと同じ村が舞台ではあるが話は連続していない。今度は孔雀石を使っていろんな細工物を作る石職人たちの話。
こんどの主人公はみなしごのダニールシコ、人呼んで「はらぺこダニールシコ」。ロマンティックな少年で、野に遊んでは虫とか花とかを飽かず観察してる、歌うたったり笛吹いたりしてる。この子が村一番の孔雀石細工職人のとこへ徒弟に入ってみると、驚くべき審美眼と腕の良さ呑み込みの速さですぐに出藍し逆に親方に指導を行うようになった。
ダニールシコは今や村一番の石工として領主の注文も受けるようになり複雑精妙な細工物も図面通り正確にこしらえてみせたが、やがてそれにあきたりなくなる。芸術家としての自我の目覚め。自分が作りたいものはこんなんじゃない。自分の愛する自然界の動植物のような「生きている」石、石だけどまるで生きている、そういうものを作ってみたい。
そんな一念で習作に打ち込んだり良い石落ちてないかなと山を歩いてたら、迷い込んでしまうのだ、「銅山のあねさま」の聖域に。石の草木がゆれ石の花が咲く、石だけでできた魔性の美の世界。
束の間の幻想が破れ、現実世界に帰ってきたダニールシコは、工房に置かれていた自分のかつての「最高傑作」を槌で破壊し、婚約者カーチャをほっぽって、失踪したのであった。
ダニールシコの話(後半)
ここでまた主人公が交代する。ダニールシコに去られた許婚のカーチャが主人公となる。カーチャは女だてらにダニールシコのかつての工房に入って石細工を始めた。不思議な加護があって鉱山に入れば決まって恰好の石が見つかり、ちょっと加工すればすぐ売り物になった。そうして日銭を稼ぎながらダニールシコが人間界へ、自分のもとへ帰ってくることを信じて待っていた。
ある日いつものように鉱山に入ると、例の人外魔境に迷い込まされた。「銅山のあねさま」と対峙して、カーチャが放った一言は「あなたは恋敵よ!」。まぁ本人に聞いてみましょうとて、石の姫はダニールシコを引っ立てる。「さ、私とこの子、どっちを選ぶの?」ダニールシコの答えは意外であった。「もちろんカーチャ」。
とっくに死んだと思ったダニールシコが帰ってきて村の人たちは驚いたが、たばこ吸ってるダニールシコの姿を見て「幽霊なら煙草は吸うまい」と安心した。そうして二人は幸せに暮らしましたとさ。
このあとに短い後日談がある。ダニールシコとカーチャは8人もの子を設けたが、悪い領主が年貢を倍増さしたこともあり生活は苦しかった。そこで息子の一人でダニールシコの衣鉢を継ぐミチューハっちゅうやつがやっぱり石細工でひとかどのものとなり家計を支えた。彼が石細工の奥義を体得するに際してはやはり例の「あねさま」の手引きがあった。だがミチューハがそれで幸せになったかどうか微妙なところだ、彼は無慈悲で傲慢な領主を殴って気絶さした挙句出奔した。でも時を同じくして村の若い可愛い娘が一人いなくなったちゅうことだからどこかでよろしくやってるのだろう。――完
『石の花』解題
書かれたのは20世紀前半だけど話は農奴制の時代(~1861)なので、勝手放題でしばしば理不尽な注文とか取り立てをする領主と、そのもとで一生懸命働いて日々を暮らしている村人たち(=農奴たち)の二種類の人種が描かれているが、書き手は明白に後者に寄り添う。前者の描かれ方は醜悪もしくは滑稽である。農奴ということは今日でいう基本的人権のない一種の奴隷ということだが、とはいうものの、彼らが農奴であることを(読者に)思い出させるのは領主ら支配層との接触面においてだけで、そうでない大半の時間は、活力にあふれ光彩にみちた全き人間たちである。笑いがあり愛があり芸術さえある生活。
農奴と領主という二つの社会層が対置されるだけだったら詰まらんかったろうけども、この小説にはもうひとつ、石の姫のつかさどる石の世界というパラレルワールドがあって、これが「農奴と領主」の双方を含む人間界全体を相対化している。石の姫は人間にときに恩恵をもたらし、ときに災厄をもたらす。魅入った人間から家庭を奪い幸福を奪い、ときに生命さえ奪う。
この姫に男が正気を狂わされたあとには、決まって残された女たちの生活回復の奮闘がある。この女たちにとって石の姫は「恋敵(こいがたき)」なのであった。
人間相互間の階級差などひとしなみにする石の姫を触媒に物語は思わぬ遠方(高所)へと読者を連れていく。帝都サンクトペテルブルク、その孔雀石の間、皇妃なんてものまで出てくる。僻村から帝都へ、のダイナミズム、ゴーゴリ「降誕祭の前夜」を想起させる。
何丘と『石の花』
ここは本当にどうでもいいことだが、何丘はかつて所属してた学生劇団の番外公演で「石の花」をやったことがある。私が脚本書いて演出して、出演もした。取り扱ったのは上でいう「ダニールシコの話」の前半部だけ。狭義の「石の花」はこれのみを指すのだと思う。私はダニールシコの親方の役をやった。芸術至上主義の観点から、ダニールシコの出奔をごく肯定的に描いた。ハタチの自分には地上の女カーチャなどどうでもよかった。
この記事を書いた経緯
なんでこんな記事書いたかというと、もともと自分が出るイベントの宣伝のためだった。
2023年1月28日に2022年度早大露文会秋季公開講演会というものがあって、そこで南平かおりという人が「バジョーフ作『石の花』をめぐって――日本の翻訳者たちはどのように作品と向きあったのか」と題する講演を行った。こちら
で、この終了後に、特別追加講演というものがあって、そこで何丘が30分ほどオデッサについてしゃべった(こちら)。これを聞いてほしく、でも一応こちらとしては本編講演に蛇足くっつける形でオマケ講演させていただく立場なので、宣伝する際には「できれば本編講演の方から続けて聞いてください」という言い方になる。そのときに、本編講演たってなに、石の花、知らねえよ! と多くの人はなるであろうから、では「石の花」について解説する記事を書こうと。一種の義務感から書いた。ふつうそんなことはしないと思う。まぁ自分の気のすむようにした。