バイリンガル2歳児の言語能力

オデッサ/ウクライナ/ロシア

自分の子供が自分にとって外人であるというのは寂しいことだ。だから当然、私は太郎に日本語を教え、妻は太郎にロシア語を教える。最終的に彼が少なくとも2つの言語を操る人間になることは確実なのだが、その途上、2歳現在の彼の言語能力はどんなものか。

前置き⑴家庭環境

まず太郎と私たちを取り巻く環境を素描する。

どこ住んでる

ウクライナのオデッサ市に住んでいる。ここでは人たちはふつうにロシア語を話す。

なんでオデッサに住んでるかというと、妻の実家があるから。妻にとって快適な環境で最初の子・太郎を迎えるために、3年程度を年限に移住した。

私(何丘)はどんな奴

私はふつうに日本人で、日本語を話す。一応高等教育を受けた人間だから、それなりに国語を操れる。

また、私はロシア語を解す。今のオデッサを含めロシア語圏に6年半住んでいる。学生時代の座学から数えて、歴だけでいうと15年近い。

妻はどんな人

ロシア語の母語話者である。ただし日本語を解す。日本在住歴3年。日本語学習歴15年。N1保有。

家庭内の言語は

夫婦の会話は8割方、各人が自分の母語で喋る。つまり、私の日本語の質問に妻はロシア語で返し、妻のロシア語の質問に私は日本語で答える。

それだけでいくと太郎の耳に入るのは日本語ロシア語半々ということになる。だがここに義父母というファクターがある。私たちはほぼ毎週末を彼らと一緒に過ごすので、この点は見過ごせない。

妻の両親はどんな人

義父母は両名ともロシア語話者だ。ともにソ連時代末期に高等教育を受けたインテリで(インテリという言葉の重みは日本と当地では比較にならない)、重要なことに、非常に饒舌である。

義母はゴリゴリの文学少女でトルストイアン、プーシキンだのチュコフスキーだの膨大に諳んじており、ソ連時代の民謡・童謡・歌謡曲にかけては人間ジュークボックスだ。
義父はキエフ工科大卒の無線技士で要するに理工系だが一口話(アネクドート)の語り部で、警句と冗句と口喧嘩の達人である。

この二人と囲む食卓では爆発的に言葉が躍る。その席では当然私もロシア語を喋る。太郎がそれを聞いている。

前置き⑵親の希望

こと言語能力に関して、子供にどんなふうに育ってほしいか。

日本語とロシア語がともに母語であるバイリンガルに育ってほしい。それが私と妻の共通の願いだ。母語というのはそれで思考する言語であるとか聞く、それが同じレベルで二つあるというのがどういう状況なのか、正直私にも妻にもわからない。まー厳密な話はいい。とにかく自然の情として、妻も私も、自分の母語が彼にとっての「外国語」「第二言語」にならないでほしいと願っている。

ちまたでは英語を幼児に教え込むのが流行ってるとか聞く。悪くないことだと思う。英語の国際的地位はまだ50年くらいはふつうに保つ気がする。だから英語の力を養うことは、子供の将来への大きな贈り物になるだろう。そのうち私たちも英語のことを考えると思う。でも今は、とりあえず英語は二義的な問題だ。

ウクライナ語はどうなんだ、というツッコミもあろうかと思う。なるほど私たちの現住地はウクライナであり、妻も義父母も基本的にウクライナ語を解す。だが正直、それをぜひ太郎に身につけさせたいとは、別に思わない……かな。いずれ機会があればもちろん知って悪いことはないだろうが、私たちの中の優先順位でいくとウクライナ語は英語よりもなお低い。

言語能力①概況

さて、太郎のことばの発育は、今ざっとどんな状況か。

太郎は2歳になる。今は言葉覚えが非常に盛んなときだ。つまり、どちらの言語も他方に遅れさせないことが極めて重要なときだ。そう私たちは感じている。

正直、今の時点では、ロシア語が圧倒的に優勢だ。

単純にインプットの量の問題なのだと思う。日本語には口(くち)が一つしかない。だがロシア語は無数の口で鳴っている。太郎少年の愛する4人の一番身近な人間、パパとママとじぃばぁのうち、パパの言葉で話す人はパパだけだ。残んの3人までが同じ言語で話す。その同じ言語がまた路上で公園で商店で交響している。だー・い・に・とーりか(しかも話はそれだけでは済まない)。

まぁとにかく概況でいうと、ロシア語が圧倒的に優勢。私も相当がんばってるつもりなのだが、全然及ばない。まだまだガンガンがんばる所存である。てことで以下の各章で、ロシア語と日本語それぞれの言語能力の発育具合をつぶさに見ていこう。

おっと、てかこれを先に言っておくべきであった。太郎はどうやら既にしてバイリンガルである。この世に2つの異なる言語があることを認識している。すなわち、パパの言語(パパだけに通用する言語)と、それ以外の言語。パパと話すときとそれ以外のときとで、彼なりに切り替えを行っている。

言語能力②ロシア語

ロシア語の語彙が一体いくつあるのか、数えあげることはもう不可能だ。100や200ではきかないのではないか。彼の今好んで使う言葉を思いつくまま挙げてみる。とりま名詞。

дедушка(じいちゃん)бабушка(ばあちゃん)книжка(ご本)наклейки(シール)яблочко(りんご)бегемот(カバ)чебурашка(チェブラーシカ)крокодил(ワニ)обезьяна(猿)стиральная машинка(洗濯機)пожарная машина(消防車)трактор(トラクター)бетономешалка(コンクリートミキサー車)...

見ての通り、3音節、多いと4音節くらいの単語を苦にもしない。

また驚くのは、これら名詞を格変化させられることだ。文法というものがすでに構造化され始めている。

маму люблит(ママが好き)дедушке дать(じいちゃんにあげる)на бегемота сел(カバの上に座った)на машинке едет(車で移動中)с папой пойду(パパと出かける)...

これら表現にも見られる通り、動詞もかなり語彙が多い。

ただ、動詞の人称変化については、まだ文法的には理解できていない様子だ。

не хочешь(イヤだ:二人称)любит(好き:三人称)оторвал(剥がした:男性過去)тащит(引く:三人称)починил(修理する:男性過去)покушали(食べ終わった:複数過去)пописал(おしっこした:男性過去)покакал(うんちした:男性過去)дать(与える:不定形)читать(読む:不定形)

上記は彼のよく口にする動詞の一部だが、多分この通りの変化形しか知らない。だからしばしば滑稽に響く。自分のことなのに「(お前は)イヤだ」「(彼は)好き」と言ったり。

これは、単純に聞いたまま覚えるからこうなる。「Не хочешь?」つまり「(お前は)イヤなの?」と二人称で聞かれるので、「Не хочешь.」つまり「(お前は)イヤなの。」と二人称で答える。(正しくは「Не хочу.」つまり「(ボクは)イヤなの。」と一人称で答えるべきところ)

滑稽つながりでいうと、大人が使うような感嘆詞とか定型句とかをそのまま(わりと適切に)用いるので、クスっとくる。

Батюшки!(おやまあ!)Как же так!(んなアホな!)Вот он!(そらそこにそれが!)Вон они!(そらあこにそれらが!)

完結した文章も言う。意味もちゃんと分かっている。たとえば先日ひとり遊びの中でこんなこと言ってるのが聞こえた。

Чебурашка пропал.(チェブラーシカいなくなった)Пропал чебурашка.(いなくなった、チェブラーシカが)Гена пошел искать.(ゲーナが出かけた、探しに)Гена искать пошел.(ゲーナが探しに出かけた)

語順を変えながら、一語一語確かめるように、これだけのことを言ってのけた。他にもいろいろなことを言う。もうそんなことも言えるのか(しかも文法的に正しい!)と驚かされる。

あとすごいのは、チュコフスキーの童話を相当程度覚えていることだ。ばぁばの薫陶のたまものである。

Муха, Муха — Цокотуха,
Позолоченное брюхо!
Муха по полю пошла,
Муха денежку нашла.
Пошла Муха на базар
И купила самовар:
«Приходите, тараканы,
Я вас чаем угощу!»

↑ハエのツァカトゥーハ(Муха-Цокотуха)の冒頭部分。この分量を立て板に水で誦するわけではないが、最初の二行くらいはひといきに言ってのけるし、そのあと「Муха по полю?」と水を向けると「пошла」と続けるし、どうも全単語配置をガチで覚えているらしい。

↓ゴキブリ大王(Тараканище)の冒頭部分もほぼ憶えているようだ。

Ехали медведи
На велосипеде.
А за ними кот
Задом наперёд.
А за ним комарики
На воздушном шарике.
А за ними раки
На хромой собаке.


さてでは、太郎のこれほどのロシア語力はどのように培われたか。2つのファクターがことに重要だ。①義父母、②ムリチク(ソ連アニメ)。

義父母の薫陶

先にも述べたが義父母はマシンガントークの人だ。もともとお喋りな性格だし、加えてもうひとつ彼らにとっての衝迫となっているのは、私たちが「太郎のウクライナでの子育ては3歳までで、そのあとは日本に移る。学校教育も日本で受けさせる」と公言していることだ。

義父母とて思いは同じだ。自分の孫に自分の言語で話してほしい。孫が自分にとって「外人」になったら哀しい。……この切なる願い、たぶん一つの国一つの言語で完結した人生を送る人には共感が難しいだろうと思う。

ムリチク(ソ連アニメ)

ロシア語にはもうひとつ強力な武器がある。ムリチクмультик、ソビエト時代に国費で量産された良質の短編アニメーションの存在だ。

↓その筆頭はチェブラーシカ(Чебурашка)

↓ブレーメンの音楽隊(Бременские Музыканты)

↓プロスタクワシノ村の3人組(Трое из Простоквашино)

他にも名作は多数ある。これらを太郎は夢中になって聴く。おっと、そう、アニメを見せるのではない、ポータブルスピーカーを鳴らして「聴かせる」。

うちは映像はある年齢まではなるべく見せない方針だ。ましてタブレットやスマホを持たせるなどしない。でも実際、私たちにも仕事があって、集中して事に当たりたい時間帯があって、そのとき子供がスピーカーで物語でも聴いていてくれると親としては助かる。

その意味でムリチクは非常に好都合だった。十数分尺の一話完結で、歌や音響効果があって楽しい。もし日本語にもそうした視聴覚教材があるなら喜んでそれを聴かせるが、寡聞にして知らない。そこで専らムリチクに頼る。いきおい太郎のロシア語がのびていく。

言語能力③日本語

太郎の日本語の語彙については私がほぼ完全に把握している。まず彼が自家薬籠中の物にしている名詞を思いつくまま挙げていこう。

動物:ねずみ、りす、かえる、てんとうむし、へび、はち、でんでんむし(かたつむり)、きつつき、こうもり、ねこ(にゃーにゃ)、いぬ(わんわん)、かに、ぞう、むし、とり、さかな、きつつき、ぶた、うま、うし、にわとり、やぎ、くま、きつね、りす、ふくろう、かば…
食品:ヨーグルト、ビスケット、牛乳、りんご、ぶどう、いちご、すいか、みかん、バナナ、パン、パスタ、肉、スープ、にんじん、コーヒー…
:扇風機、冷蔵庫、椅子、机、本、シール、クッション、枕、シャボン玉、靴、帽子、ギター、マンドリン、ピアノ、パソコン、ボール、ピンポン玉、汽車、車、タイヤ、ぶらんこ、シーソー、ブロック、ガラス、箱、石、葉っぱ、石鹸、シャンプー…
体の一部:目、鼻、口、耳、髪の毛、ほっぺ、首、手って、おへそ、ちんちん、おっぱい、足

※聞いて分かる言葉でなく、実際に彼が口にすることのある言葉を挙げている。

これらの名詞のほとんどはロシア語でも言える。だが逆に、ロシア語で言うが日本語では言わない言葉は結構ある。

動詞に関しては、ロシア語に比べて日本語は格段に劣勢である。

座る/座った、寝てる、飲み終わった、食べ(語幹のみ)、持ってき、行っちゃった、走る、取る、おしっこした/してない、開けろ、ぶたない、痛くしない、いじめない…

せいぜいこのくらいだ。この活用形でだけ言う。

気づいたことは、ロシア語は動詞が非常に耳に立つ言葉で、日本語は動詞の聞こえが弱い。まず語順から言って、ロシア語は(欧語の例に漏れず)動詞は文の最初とか二番目にくることが多く、一方の日本語は述語の位置は文末と決まっている。また活用の複雑さというファクターもある気がする。ロシア語とて人称また時制で活用するのだが、日本語ほどには変幻しない(文法的な説明は私には難しいが。。)。とにかく自分で喋っていて、この動詞を覚えさせたいなと思って頻回に言い聞かせるものの、言うたびに活用形が異なっていて、これじゃどの形を覚えりゃいいんだか分かりゃしないよと自分で呆れるのだ。

では日本語は何が耳に立つ言語か。やはり言われる通り、オノマトペだ。擬音語・擬態語。実家とSkypeしててもうちの親どもは二言目には擬音語をいう。実際この種の言葉は、太郎においても、日本語の方が圧倒的に勝っている。

さて太郎は、日本語ではまとまった文章はまだ喋らないが、長めの定型句をいくつか持っている。

あっち行っちゃった、帽子かぶってない、靴履いてない、うちわ持ってない、鼻が低い

帽子だの靴だのは、『だるまちゃんとてんぐちゃん』という絵本から覚えた。パパ(私)が「だるまちゃんの特徴はなぁに?」と問うとこの4ヶ条をたてつづけに述べる。(パッシヴな語彙としては「特徴」という語も知っているわけだ)


とまぁ、日本語の語彙は、ざっと以上のような具合。

では、そんな太郎の日本語能力はどのように養われているか。さしあたり①パパ②パパ以外の人間③トトロの三者でやっている。

パパ(私)

なにしろ日本語には口が一つしかないのでその一つの口で何人分も喋る。お散歩のときに嘱目のものを指呼。ブロック遊びしながら物語。本を見ながら語り聞かせ。本は日本から三か月にいっぺん船便を送らせている。いま手元に日本語の本は……30冊ほどあるだろうか。

私は本に書いてる文字を読み聞かせるということはほぼしない。それでは到底間に合わないし、私の口の中には言葉がけっこういっぱい繁ってるので、挿絵を見ながらいろいろ喋る。

パパ以外の日本人

週一で日本側のじぃじ&ばぁば(つまり私の実父母)とSkype交信している。私は本来そう密に親と連絡をとるような人間ではない。だが初孫に全然会えないで可愛そうなことをしているという自覚はさすがにあるので、せめて画面ごしに見せてやっている。

だがこのテレビ会談は、太郎の日本語強化という意味では、正直何の役にも立っていない。やはり画面ごしにただ「会話する」というのはこの年齢の子には無理だ。一緒に何かをする、そのなかでいろいろな言葉をかけてやる、というのじゃないと。大人じゃないんだから。

また先日、同じくウクライナ在住のとある日本人女性を自宅に招いた。これは得難い機会であった。ここぞと日本語で会話しまくり、パパの言語が専一にパパだけの言語ではないこと、それによって意思を通ずる人間が他にも存在することを見せつけて、日本語の株を上げよう。……

しかしながら、意想外の反応があった。太郎は来訪した非パパの人間(その日本人女性)のことを手もなく「非パパ語話者」と弁識し、むしろ彼女に自分の語学力を誇示するかのようにロシア語を使い出した。おい太郎、私らが日本語で会話をしてるのが聞こえないのか。……パパ以外の人間がパパ語を話すという事態を今のところ彼は想像もできないらしい。

トトロ

あと誰がこの環境で日本語を教え得るだろうか。ロシア語にはムリチク(ソビエトアニメ)という強力なインストゥルメントがあった。何かそれに代わるものがあるだろうか。「ちびまる子ちゃん」を流してみる。

でもなんか違うらしい。ムリチクのように熱心には聴かない。それも分かる気がする。なんか密度というか芸術性というか、まぁ私の耳にも、聞くだけだとやっぱあんまり……面白くない。

他にもYouTubeにアップロードされてる各種アニメをかけてみたが、結果かんばしからず。それで、さる手段にてとなりのトトロを入手し、最初の一回だけ一緒に映像を見てやると、これが大いに太郎の気に入った。とりわけ猫バス!🐱

だもんで以後、本人の請願に応じてちょいちょいトトロをかけている(音だけ)のだが、絵で語る作風なので言葉が少なく、正直あまり日本語の勉強にはなっていない。また、やはり長編なので、子供には物語が把握しきれない。場面単位で楽しむ形になっている。ずっと流していると台詞のない部分で子供の興味が他へ移ってしまう。

私は元来この分野に疎いのだが、日本はアニメ大国だそうじゃないか。トトロとドラえもんの間に、中間はないのか? つまり、一話完結で、それでいて短く、その中にたくさんの情報と、願わしくは芸術性があるやつ。要するにムリチクみたいなやつは。

少なくともYouTubeで無料で手に入るものとしては存在しないっぽい。ではサブスクリプションだとどうなんだろう? 正直そのためだけにアマプラだのネトフリだの入っても構わないのだが。ご存知のかた、TwitterよりDMくだされ。

結び

まとめよか。

・バイリンガル2歳児の現在は、ロシア語が優勢、日本語は劣勢。
・ロシア語はママの口からじじばばの口からまた街から、さらにはスピーカーから聞こえてくる。
・日本語はパパの口ひとつからしか聞こえない。今のところ援軍は力弱く、孤軍奮闘の感。

両言語はいい意味で競争の関係にある。たとえば義父母は今孫が自分たちの手元にいるうちにしっかりロシア語の基礎を作っておいて3歳を過ぎたあたりからやってくる日本語の津波に拮抗したいという衝迫にかられているし、一方の私も、たとえば今まだコンクリートミキサーなどという語を教えずに「車」で済ませればいいかなと思えても、ロシア語の方ですでにそれにあたる言葉(бетономешалка)を知っていると知ると、ではとコンクリートミキサーを教えようという気にもなるのである。こうした競争が結果的に太郎の言語野の発育に裨益していると思う。

以上をお読みになって、なんだこの親たちは言語言語と、言語偏重の詰め込み教育をしている鬼親なのではないかと思われる人もあるかもしれないが、実際そんなこともない。今回は言葉がテーマだから言葉の方面のことを語っただけだ。

緑ゆたかなウクライナの田舎で果実と花と猫に囲まれながらのびのび育っています。太郎に祝福を、よろしければ私たちに声援を。

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