ロシア人には日本語が難しい vol.3:時制

その他

わたくしの妻はロシア人なのだが

先日こんな質問を受けた

・分からないときは人に聞きました
・分からなかったときは人に聞きました

どちらが正しいか?
また、どのように使い分けるのか?

その過去が「点」か「面」か

まず、どっちも正しい

※私の個人的見解だ。そう、本シリーズは、日本語上級者である外国人の「根本的な質問」に普通の日本人が四苦八苦しながら答える・・というものである。
vol.1 →「うちで踊ろう」それとも「家で踊ろう」?
vol.2 →「カタカナで<ヒ>て書いてみて?

んで、ではどう違うのかということなんだが、

「分からないときは」の方は、「分からない」ので「人に聞く」という個別的な経験があったことを語っている。

「分からなかったときは」の方は、「分からなかった」ために「人に聞いた」ある一定の期間があったことを語っている。

分からない~の方は「点的」過去

「分からないときは人に聞きました」

これはつまり、分からないという状況が偶発的にあった、ということ。
基本的には分かる・できるという中で、まれに「分からない」ことがあり、そういうときは人に聞いた。

いわば、過去視がピンポイントである。点的である。

分からなかった~の方は「面的」過去

「分からなかったときは人に聞きました」

こっちは、分からないという状態が(そう、状況状態!)慢性的にあった、ということを言っている。
分かる・できることもないではないが、基本的には「分からない」、そのために「人に聞く」ということが繰り返される、「そういう時代があった」。

そう思うと、後者については、次のように言った方がより自然な気がする。

分からなかったときは人に聞いていました

このとき話者には過去がある広がりをもったもの、面としてイメージされている。

例文

いくつか例文つくって上記の説を検証してみようや。

⑴ オリエンタルラジオの中田敦彦です、どーもぉ!視聴者さんからこんな質問をいただきました。「(ユーチューブ大学で)いろいろ難しい本を扱うと思うんですが、この本について動画とる!と決めて頑張って読み込むんだけど、どうしてもこの章が分からない!中田の知性をもってしても分からない!と、そういうときはどうするんですか?収録の刻限が迫っている、観覧も集まってきている、でもこの章のこの部分の内容だけがどうしても噛み砕けない、そういうときどーするんですか中田さん!?」こんなご質問をいただきましたーねーありがとうございます!えー私くしの答えは明快でございまして、えー『分からないところは、飛ばす』。

ダメだ、この例文は全然。主文が過去時制であるときに副文の時制がどうなっているかが問題なのに。

⑵ 自動車整備工になったばかりの頃は何をどうしたらいいのか全然分からなかったので、でも分からないからって皆さん忙しいときに私だけ隅っこでうじうじ手をこまねいていたら人間が・腐る、人たちが・私を・見る目が腐ると思って、「分からないときは即・聞く」の精神でやってましたね。つまり換言すると「右も左も分からなかった入社したての頃は、何しろ人に質問しまくっていました

私はなんと例文を作るのが下手なのか。例文の中で話者に「換言」などさせるとは。

この例文だと、過去には「分からなかった」が、現在では「分かるようになっている」ことが暗示されている。
これは、これ式の構文の特性なのだろうか。

⑶ イタリア旅行行ってきた。道分からないときは人に聞いた。

ここはやはり、「道が分からなかったときは」とは言えない気がする。
そのように言う奴がいたら「こいつ、日本語ヘタだな」と思うような気がする。

「道が分からない」という状態が一定期間続いたのではなくて、
「道が分からない」という状況が偶発したのだろうから。

⑷ イタリア留学してきた。最初、イタリア語うまく出てこなかったときは、英語使わせてもらってた。

別に、同じ事を、「うまく出てこないとき」というふうに、状況に焦点を当てて言うこともできた。

が、このように「出てこなかったとき」というふうにすると、のちのちイタリア語がスラスラ出てくるようになったときとの比較において、そうでなかった「ある時期」「ある状態」が示されている感じがする。過去視が面的、とこれを言うのだ。



という感じでどうだろう、妻よ。納得していただけただろうか。

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