ロシア人には日本語が難しい

その他

何丘の妻はロシア人なんだけども、日本語がすごい上手だ。
(それに甘えてわが家の公用語は日本語である――何丘がいかに終わっているか


それでも時に基本的なことを質問してくる。あまりに基本的すぎて、何丘も回答に窮する。

でもがんばって答えてみる。これはその記録である。

「が」と「は」

「が」と「は」の使い分け。これについては何丘の中では答えが出ている。

⑴ 田中 が 人間 を 作った

⑵ 田中 は 人間 を 作った


前者の「が」は、「作った」のが「田中」であることを示している。
後者の「は」は、「人間を作った」のは「田中」であることを示している。

「は」は常に「に関して言うと」に置き換えられる。主語というより話題の提示なのだ。

ゾウは鼻が長い

ゾウに関して言うと(話題の提示)、鼻が(主語)長い(述語)。この「は」と「が」は交換不可であり、「ゾウが鼻は長い」と言えるような文脈は存在しない。

(この考え方はたしか金田一春彦『日本語』(岩波新書)で学んだ)

「で」と「に」

疑問

次のうち、自然なのはどちらか?

⑴ 車をそこに停めてください

⑵ 車をそこで停めてください

どちらも自然だと思う。場面しだいだ。

何丘はなぜか、
⑴ については、車の「外」にいる人が運転手に指図している場面を想像した。
⑵ については、車の「中」にいる人が運転手に指図している場面を想像した。

たとえば、タクシーの運ちゃんに、もうすぐそこですから、ここから先は路地で車が入りにくいですから、「その自販機のところで停めてください」。このときは「で」である。まぁ「に」も言うとは思うが。

一方、町はずれのケーキ屋さんに乗りつけたのだが、駐車場がどこか分からない。窓あけて問う、どこ停めたらいいですか。店員こたえて「あすこに停めてください」。このときは「に」だ。「で」じゃない。

これはどういう使い分けなのだろうか。何か合理的な説明はあるか。

回答

回答⑴ 運動感の有無

まず思ったのは、話者のイメージの中に「運動感」があるかないかで、「に」「で」が使い分けられているのではないかと。

「車をそこに停めてください」と言うとき、それを言っている人は、車が「そこ」へと動いていった挙句に停まる、というふうに、動的にイメージしている。イメージの中に動的成分が含まれている

一方、「車をそこで停めてください」と言う人の頭の中では、もう車は停まっている。停まっている状態(未来完了)の車をイメージしながらこの台詞を言っている。

……という気がするんですが。
ちょっと別の例文でも検討してみるか?

⑴ バンクシーは思った。「ここに描こう」

⑵ バンクシーは思った。「ここで描こう」

前者を言うとき、バンクシーの頭の中には、頭の中の観念が手と筆先を伝って目の前の壁に描出されていくという、動的なイメージがある気がする。

んで後者を言うとき、バンクシーは、描くべき場所を求めてさらに移動することへの否定、を強く思ってる気がする。他ならぬこの場所に踏ん張る、という静的なイメージがある(気がする)。

回答⑵ 動作の完結性

一方、こんな説明も思いついた。

自己完結的でない動詞(他動詞)のときは「に」

自己完結的な動詞(自動詞)のときは「で」

例えば、「ここに描こう」との発言に対し、ひとつ突っ込みを入れるとすれば、「描くって、何を?」であろう。
対して、「ここで描こう」に対しては、「誰が、そう思ったの?」が率直な疑問ではないだろうか。

星野源「うちで踊ろう」

「踊る」が自己完結的な動詞だから、「で」なのだ。

目的語を必要としない。何を踊るかは問うところではない(どんな踊りを踊ってもいい)。

安倍には安倍のダンスがある。誰にも文句を言われる筋合いはない。重要なのは彼がうちでそれをした、ということだ。

そう考えると、最初の「車を停める」の例文は、やはり不自然なところがあった。

⑵ 車をそこで停めてください

これは正しくは次のように言われるべきである。

⑵ 車そこで停めてください

先に見たように、「は」は話題を提示する。

この例文では、「で」の機能によって、「停める」が自己完結性の高い動詞であることが示されているため、「車を」という目的語はもはやそぐわない。
むしろ、「車に関しては」「車について言いますと」という意味で、「車は」としたほうが自然だ。

これが車中の会話(タクシー等)なのであれば、「停める」が車に関して言われていることは明らかなのだから、
単に「そこで停めてください」というのが、いっそう自然である。

回答⑶ 方向と場所

いや、もっと単純に説明ができる。

動作が行われる方向を示すのが「に」

動作が行われる場所を示すのが「で」

バンクシーが壁に描く。動作が行われる方向。
バンクシーが街角で描く。動作が行われる場所。

車をそこに停める。動作が行われる方向。
車をそこで停める。動作が行われる場所。

明快。



……なんだ、たったこれだけのことか?

では何を長々、語ってきたんだ俺は?
やっぱり何丘は終わってんのか? もうダメか私は?

「家」と「宅」

妻(ロシア人)が何丘に問う。「いえ」と「うち」てどう違いますか?

私は答えた。同じです。

うちで踊ろう

家で踊ろう

どっちも全然あり得る。

それでも違いがあるとすれば①

「いえ」の方が男性的で、「うち」の方が優しく柔らかい。かもしれない。

「うち」には接頭辞「お」が冠せられうる……「おうち帰りましょうね」
「家」には「お」はつかない。

それでも違いがあるとすれば②

英語には「house」「home」の区別があって、前者は物理存在、後者は概念である。
町にhouseは無数にあるが、私のhomeは一つだけだ。

一方、日本語の「家」「うち」は、ともに、英語の「house」「home」どちらの意味も含んでいる。

ただし、「house」つまり建物のみを指したい場合、人は「家」を使う。「うち」とは言わない。

廃屋を指して「壊れた家がある」と言う。「壊れたうちがある」と言うのは文法違反である。

このことを次のように言ってみよう。

「家」と言うとき、話者の関心の矢は建物の表面で止まりうる。

「うち」と言うとき、話者の関心の矢は、建物を貫いて必ず内部まで届く。

「家」は空虚で構わないが、「うち」には Geist が必要だ。廃屋を指して「壊れたうちがある」と言う人は、暗に「せめて座敷童なりと居る」ことを含意し、もって彼の世界観を露呈している。


以上で完全に説明し得たように思う。
あー、疲れた。曲でも聴くか。

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