何丘マニフェスト

オデッサ/ウクライナ/ロシア

何丘こと私は、ロシアによるウクライナ侵略を全力で非難する。だが一方で、ロシア語・ロシア文化のことは否定しない。私は14年をモスクワで経験した。それでロシアのことが大嫌いになった。ロシアと名のつくもの全てを否定した。でもこの22年を今度はウクライナ側で経験して、ある種の覚悟がついた。私はむしろ、自分に鞭打ってでも、ロシア語・ロシア文化を愛す。

逆説的に聞こえるかもしれないが、ロシアの蛮行を骨の髄まで憎みながら、それでもなおロシア語・ロシア文化への愛を表明することこそ、反戦・反プーチンの実践になると信じる。

プーチンロシアが奉じる「ロシア世界(русский мир)」ドクトリンとは、「ロシアは、ロシア語を話し・ロシア文化を愛する地球上全ての人の宗主国であり、彼らが迫害されているのであれば、既存の国境を踏み越えて『保護』に赴く」というものだ。その実践がクリミア併合であり、今次のウクライナ侵略だ。

だが思う、そもそもいかなる国家も、ある言語・ある文化をまるごと宗主することなどできないのではないか。そんなのは国家の驕慢ではないのか。アレクシエーヴィチの言にならえば、「言語は/文化は、国家よりも偉きい」。

今、ロシアと名のつくすべてのものをロシア国家(ウクライナ侵略の主体)に関わるものとみなし、一律に排斥することは簡単だ。だがそうすることによって人は、むしろ「ロシアと名のつくもののすべてはロシア国家から流出し、またロシア国家へと還元されていく」という図式を、つまりは「ロシア世界」を、肯定してしまう。

いわば、ロシアを否定することで、プーチン(に象徴されるロシア国家)を肯定してしまう。本当は逆のことが行われねばならない。プーチンを否定し、ロシアを肯定すること。

そのひとつの表現が、冒頭に用いた定式だ。一見矛盾する二か条から成るそれ。私は①ロシアの侵略行為を断固非難する。だが同時に②ロシア語・ロシア文化を愛する。そう言い続けようと思う。


とはいえ、同じ「ロシア」の三文字を冠する二つのもの、すなわちロシア国家とロシア語・ロシア文化を別個のものと観念することは、必ずしも容易でない。とりわけ、今のウクライナの人たちにとって。ゼレンスキーの言を引く(露反政府メディア4社による合同インタビュー、露語、3/28)

(2/24日を境にゼレンスキー個人のロシア人に対する関係性はどのように変化したか、との質問に対し)関係は非常に強く損なわれた。ロシアという国に対してはおろか、民衆に対してもだ。ロシアの民衆が依然として政府を支持し続けていることに深く失望し、その失望は、やがて憎悪に変わった。

(ロシア人スポーツ選手のボイコットについてどう思うか、と問われて)我々のこの痛みを君は感じることができない。ならば君は、せめて少しの不快(discomfort)くらいは感じるべきだ。ゆえに、政治に何の関係もないロシア人スポーツ選手が国際的にボイコットされることは、正しい。残念ながら、彼らだって無関係ではないのだ。
同様に、国外に出た文化人、映画監督、ジャーナリスト、こうした人たちが全く無実だとするのも、フェアではない。せめて一度なりと(反戦の)声を上げてくれるのでなければ。SNSで呟くのでもいい、街頭に出るのでもいい。どうせ声なんか上げたって届かない、などと言うのは違う、それはずるい。かしこで人が死んでいる。ならせめて君には不快感があるべきだ。それを理解してもらうためのボイコットだ。

ゼレンスキーはウクライナの少なくない人の内心を代弁していると思う。このような人を前に、したり顔で、言語に/文化に罪はないのじゃないの、「汝の敵を愛せよ」だよっ、などと言う資格が誰にあるだろう。実際に、ロシアと名のつく人・モノ・コトに対するキャンセルまたはボイコットが最も網羅的かつ組織的に行われている場所は、他ならぬウクライナである。

翻って我々日本人には、さしあたり二つの道がある。一つはウクライナへの全面的連帯と称して、「ロシア」と名のつくすべてのものに仮借なき排撃を行うこと。またの一つは、今それをウクライナに求めるのはあまりに酷であるが、私たちにならできること、すなわち、燃える怒りと憎悪の眼差しから、ロシア語とロシア文化をかくまうこと。

私は後者の道を行きたい。

願わくば、多くの日本人に、そうしてほしい。世界の空気は憎悪と敵意であまりに汚れている。赦しと寛容は、それが可能な場所では、きちんと行われてほしい。私たちになら行える。











裏マニフェスト

本マニフェストには3つの狙いがある。

第一に、これが日本で広く賛同を得られたなら、日本に暮らすロシア人が、窮屈な思いをしなくてよくなる。ロシア人だからといって厭な目を、日本にいてまで見てほしくない。彼ら一人一人にdiscomfortを覚えてほしいと語るゼレンスキーを、狭量であるといって非難する気はない。だが私たちがそれをマネする必要もまたない。

第二に、これが日本のみならず、世界に賛同を得られたなら、ロシアの民意に影響を与え、戦争の終結を1ミリでも近づけるかもしれない。「私たちはロシアの戦争を憎むが、ロシア語・ロシア文化を愛する」という一見矛盾したメッセージは、ロシアの世論にいい意味の混乱を与える。西側は自分たちを永遠に爪弾きにし、本当はすごい自分たちを認めてくれない、本当は善良な自分たちを愛してくれない、愛してくれないなら滅ぼしてやる、やられる前にやってやる……みたいな世界観をひび割れさす。核保有国の暴走は内側からの制動によってしか止まらない。であればロシア世論への工作(あるいは宮廷への工作)が決定的に重要な筈であるが、ロシア語・ロシア文化のキャンセルは、その意味で逆効果である。ロシア人の被害妄想……もとい被害者意識はより強まり、西側憎悪はより募る。ここはいわゆる「北風でなく太陽」ではないかと思う。

第三に、最後の望みは、ついにウクライナ自身が、ロシア語やロシア文化への寛容性を回復(再樹立)してくれることだ。今の感じだとウクライナは、戦後ますますロシア系住民にとって住みにくい国になる。私はウクライナによりよい国になってほしい。私にとってよりよいウクライナとは、ロシア語を母語とし、ロシアの優れた芸術・文化を愛する人(ウクライナに、少なくともその一部地域……オデッサ含む……に、決して少なくない)が、それら言語や文化にアクセスする権利を当然に保証されている国だ。

あえていうが、ウクライナでは今度の侵攻とは無関係に、ロシア語・ロシア文化への抑圧が国策として行われていた。私はそれはある種仕方のないことだと思っていた。隣国が「ロシア世界」なる恐るべき拡張主義的ドクトリンを抱懐し、それによって領土の一部(クリミア)を占拠されてしまった以上、「国内にロシア語を喋る奴・ロシア文化を愛する奴がいることが、すなわち我が国の安全保障上の脆弱性である」という恐怖心にかられることもむべなるかな、と。だが、それでロシア語・ロシア文化の抑圧に走ってしまうことこそ、「ロシア世界」の術中という気がする。現にそれが今次の大規模侵攻の理由(の一部)に使われてしまったではないか。むしろ、隣国の「ロシア世界」喧伝を傲然と無視し、クリミアの先例にも関わらずロシア語・ロシア文化への寛容を保っていたらば、どうだったであろうか。その傍目に明らかに困難な決断をあえて行っていたなら、それはロシアの民衆の心を打ったのではないか。


何丘マニフェストとかいって、こんなものが、日本の世論・世界の世論・ロシアの世論・ウクライナの施政方針を変えうるなぞとは思わぬ。だがこれが誰かの目にとまり、その人がこれに想を得て、もっと適切な言葉・もっと効果的な方法で、訴えをなしてくれたら。そう願って拙文を諸賢の高覧に供す。少なくとも自分を含め、ロシア語やロシア文学を学んだ者、公衆にいくばくかなりと発言力・影響力を持たぬでもない者は、この戦争を終わらせるために自分に何ができるかを考える責任を、永久に免れないと思う。責任は文字通り無限である。考えない・行動しないことなど許されない。

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