映画と音楽、あとYouTube。何か見たものについてどうとか語ることの練習の場。ポリゴン(演習場)。あるいは、単に備忘の録。
※課題:舞文曲筆NG。率直に、簡潔に。
【映画】ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー
スーパーマリオのCGアニメ。わりに最近、映画館でやってたやつ。飛行機の小画面で見た。長時間移動で子供の寝てるまに自分も寝ようとしてなんか寝られず映画なにあんのかなーと見てたらあ・これ見たかったやつやーとて。そんなシチュエーションにはうってつけだった。疲れない、長すぎない(90分)、ちょうどよいエンタメだった。
とはいえ劇場で大画面・大音量で観たら満足度は5割増しだったろう。
アメリカ・ニューヨークのブルックリン地区に住むイタリア系移民ファミリーのマリオ・ルイージ兄弟(配管工)というリアルな設定から物語は始まる。しょっぱなマリオがパルクールを見せるがまぁリアルな範囲のそれで、この閾値内に収めるのかなぁと思いきや、ふしぎな土管から異世界(私たちにおなじみのスーパーマリオの世界)にワープして、そこでピーチ姫を先達に超絶ジャンプ技を習得していく。
舞台がNYであることとそのパラレルワールド性が最近みた『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を彷彿とさせた。
終盤舞台はもとのリアル世界に戻るのだが、マリオやルイージを追って異世界の住人たち(クッパとかキノピオとかノコノコとかドンキーコング)もリアル世界に押し寄せて溢れかえる。でもキャラ画のタッチはリアル世界も異世界も同じなので、そこで世界がぐちゃっと混ざっちゃう感じは、ちょっといやだった。クッパの火炎放射とか超絶アクションとかは異世界のほうで完結してもらって、ピーチ姫(もともとリアル世界の住人だったという設定)だけリアル世界に連れ帰ってマリオと結ばれてハッピーエンドという終わり方が月並みかもしれないがきれいだと思った。
なんで私は自分が鑑賞した作品について何か語るという場合にその(私見で)だめなところ、個人的にいやだったところばかり語ろうとするのだろう。
おもしろかった。原作(ゲーム)ファンへのくすぐりが全編横溢していて、そうそうこれよこれ、これがマリオよ!!と微笑がこぼれること再三。ちなみに私のマリオ歴はファミコンの①初代マリオと②マリオ3、スーファミの③スーパーマリオワールドに尽きている。だから(自分がやってない)マリオカートのシーンになるとてきめんに感興が落ちた。ちなみに世界観の基礎になっているのはニンテンドー64の「マリオ64」だと思う。この作品は自分ではやってないが兄たちがやってたので知ってる(兄たちがそれをやりだすころ私は文学青年になってしまった)。あと、マリオとは別に、スーファミのドンキーコング(1~3)は私もばっちりプレイしている。だけにドンキーコングは思い入れのあるキャラクターなのだが、スマッシュブラザーズとかそれこそマリオカートとかは通過してないので、マリオの世界とドンキーコングの世界が当たり前に交叉混淆してしまうのは、個人的には、歓迎できることではなかった(まぁ仕方ないか、と甘受した)。
要は、たぶん、マリオをやってればやってるほど、楽しめる作品だった。だが私くらいのマリオ歴でも十分に楽しめた。
クッパの造形が見事だった。あまりに強く、底抜けに邪悪で、しかし愛くるしい。推せる。ピーチ姫への恋心を歌ったピアノ弾き語りが最高だった。玉置浩二が歌ってんのかと思った。こんなやつがピアノを弾く(巧みに)という事実に驚きそして萌えた」ランキングでリオネル・メッシとわが義父と並んでクッパがトップ3を占める。
せりふ回しも軽快でよかった。キレがあった。これはもともと日本語版を作って、それを英語とかに訳したのだろうか、それとも逆?逆だとしたら、非常に巧みな翻訳だと思った。
おすすめ度:☆☆★☆(ゲームのマリオを愛した人は必ず見るべき)
【映画】ラース・フォン・トリアー、レトロスペクティブ
ラース・フォン・トリアーの新作(『キングダム エクソダス〈脱出〉』)公開を記念して各館でレトロスペクティブ(回顧上映会)やってる。それで2本見た。『アンチクライスト』と『ドッグヴィル』。
アンチクライスト
中年夫婦、夜中に子供が窓から転落して死亡したのだがセックスしていて気付かなかった。なんでセックスなんかしてたんだ……と自責の念にかられて鬱病になる妻と、それを癒すべく奮闘する夫(プロの心理療法士)。
ここまでは上の予告編でもわかることで、ここからはネタバレになるが、
見てくとだんだんわかってくるのだが(ちょっとずつ分かるようにしていく展開が見事)、女は実はせっけす中に子供が窓から身を乗り出し転落していくさまを視認していた。だが止めようともしなかった。また女は、それを亡くしてかくまで深い鬱森にさまよっているところの愛児に、永らく虐待を働いていた。いやがって泣く子供に編み上げ靴を左右逆に履かせ、検死ではじめて明らかになったところでは、子供の足には奇形が残っていた。
セラピストの世界では、身内を治療するのはご法度とされる。だが夫氏は妻を誰よりよく癒せるのは自分だと、自ら妻の治療にかかる。この映画には(冒頭転落死する幼児、また、最後に出てくるモノたちを除き)夫と妻の2人しか出てこない。また、セラピストの世界では、てか常識的にもそれはおかしいことだが、治療者と患者がセックスしてはいけない。だが患者は治療者に男根による癒しを求め、治療者もこれを拒みきれない。度重なり犯される禁忌。
果ては患者と治療者は、人里遠く離れた山小屋(エデン、と呼ばれる)に自らを幽閉してしまう。傷ついた心を自然が癒す、というのが治療者の考えだったが、それが最悪の悪手であったことがのちわかる。Nature is a church of Satan、自然は悪魔の教会であるという奇語を呟く女。げに女こそは反キリスト=悪魔である、と作者ラースは言いたい(問いたい)ようだ。して森、自然こそは、女の本来の魔性が開花する磁場であり、触媒であると。鹿・狐・鴉という3種の使い魔の加護を得た女は、極めて凄惨な方法で男を迫害するのだが、最後には男が女を殺害することに成功、自らを森から解放しようとするのだが……そのとき、山を無数の顔のない女たちが覆い尽くし、描かれないが、多分男は、果たして里に降りることはできなかったのでしょうな。
女+自然=反キリストという公式は私の世界観とは全く相容れないものだが、たしかに森とか山に対して人間がもつう根源的畏怖みたいなものには触れている、と思った。映画館から自宅への帰り道、森っぽいところを通るのだが、ちょっとやっぱ怖かったもん。
※今知ったが、女を演じたのはシャルロット・ゲンズブールか。セルジュ・ゲンズブールの娘。セルジュ・ゲンズブールはハリコフ生まれのユダヤ人で、その母親はオデッサの人である。
ドッグヴィル
これは二回目。昔モスクワでロシア語字幕で観た。
巨大な倉庫にチョークで線を引いて最低限のセットを立て込んで「村」を作って映画を撮った。いわば芝居の映像化。奇抜なアイデアだが、村の閉鎖性(隔絶性、固有宇宙性)の表現として適切。また、息苦しさとか出口のなさを伝える一方で、リアルにロケハンしていたらどぎつ過ぎたであろう生々しさ・泥々しさをある種緩和し、抽象化・寓意化・普遍化する効果もあげている。んで役者の演技がすばらしいのと叙述が非常に巧みなのと、そうはいっても小道具とかカメラワークとか照明とか、芝居の枠を超えた(映画的な)成分が多彩なので、全然飽きさせない。
で、このドッグヴィルが最終的に焼き滅ぼされるのは覚えてたんだが、それがどのように行われるかは忘失していた。見て、これはいただけないと思った。一家惨殺、一村鏖殺、この間に私も人の子の親となり小児への暴力に対する嫌悪感が増したのと、またブチャについてしこたま逞しくした想像がオーヴァーラップして、見てられなかった。作り手の「スカッと」が観客に押し付けられていると思った。もともと肯定しかねる暴力を、さらに肯定できないような暴力で帳消しにしているだけに見えた。
ドッグヴィルが焼かれねばならない理由が、終幕の車中トークで開陳されている気配はあった。美貌の異邦人グレースとその父親であるマフィアのボスの会話、あしひきの山どりの尾のしだり尾の。しかし、こんなやり方があるだろうか。もはや画で語ることを放棄して、ヨークシンシティ以降の冨樫義博かといわんばかり、文字ばっかで、一種の「解題」、セルフ・ライナーノーツを長々と。ださ。うざ。いかにも下品(げぼん)のわざ。こんなんで何か考えさせられてたまるものかとIQ落としながら見続けて、果たして何ひとつ深いなとも成程とも思わなかった。
ラース・フォン・トリアー、すごいとは思うのだが、立て続けには見られない。今回この機に見てないやつ全部見たろと思ってたのだが、もう嫌になった。
【美術展】私たちは何者?ボーダレス・ドールズ
松濤美術館(渋谷)のドールズ展。8月27日までやってる。人に勧められて行ってきた。
上のチラシ、左のむさくるしいやつは平安時代の呪殺用の人形、右のきゃわくるしいやつは村上隆×フィギュアの海洋堂。鑑賞用だったり実用だったり美術品だったり日用品だっだり、時代時代のいろんな人形たちを展示し、日本人と人形たちのかかわりを素描する。小さい美術館なので点数は少なく、ただし展示の質は高く、見やすい。
スマホの鑑賞メモにはこうある。
アジアの半分をおまえにくれてやる
みんなが暴れて陋居を彷徨うとき
声にならない(声を出さない)
皺っ皺の皺ン坊
まちがえた、これは「サザエさん」OP曲の替え歌(財布を忘れて愉快なサザエさん、のところから)だった。こっち。
呪殺 夢二人形 慰問人形 ドスF無知 花嫁修業の予行
お人形遊びには大人たちの人生を手元で模式的に再現して来るそのときに向けて心理的に準備する役割があると。なるほどうちの太郎もようお人形遊びさせてる。ふたり以上のせりふをひとつの口で言い分けて。
慰問人形というのは、子供がお人形を編んでそれを見ず知らずの神風特攻隊の人に贈っていた。この(見ず知らずの)子を守るためにと特攻隊員は特攻していった。死ぬのには理由が必要。同じことが定めし今ウクライナでも行われている(両軍に)。
ウクライナ戦争がらみの展示も一つあった。ペローフの肖像画(私が卒論執筆時その拡大カラーコピーを部屋に貼って毎日眺めていたところの)から抜け出たような、ドストエフスキー座像(等身大)。日本の蝋人形作家が昨2月の露によるウ侵攻を受けて製作したものだそうだ。ヘイトがロシア文化にまで及ぶことに抗するため、とか何とか記されていた。ありがちな話だ。私などはプーシキン像除幕式演説(作家の日記)に見られるロシア・メシアニズムへの深い嫌悪から14年以降ドストエフスキーと大きく距離をとった者なので、素直に賛同はできない。第一、どうでしょうかね、侵攻当初はこうした良識派による「プーチンロシアとロシア文化は別!」みたいな叫びも力をもったが、今ではわりと、そうはいっても全く無関係ではないよね、という論調に大勢は落ち着いている気がする。この蝋人形作家氏もいま現在は何をどう思っているか。
私たちは何者?ボーダレス・ドールズ
The Infinite World of Japanese Dolls: From Religious Icons to Works of Art
2023年7月1日(土)~2023年8月27日(日)
渋谷区立松濤美術館(サイト)
【音楽】ヤバイTシャツ屋さん
「ヤバイTシャツ屋さん」というバンド。全てに疎く、音楽にも疎いので、全然知らなかった。このほど知った。好き。しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ!
なんか元気で良い。言葉は余りに軽く(口語の時代は寒い)、歌詞の9割は右から入って何も残さず左に出てくが、1割ほど、音への言葉の当て方が見事というほかないところがあって、たとえばこの曲(パリピ)だと、「レッドブルで」のくだり、たたまらなく好き。
男女ツインヴォーカルで、男ヴォーカル(ギター)はざらざらしたロック声、女ヴォーカル(ベース)はキンキンしたアニメ声、この取り合わせが唯一無二感ある。男のあと女きくといいなと思うし、女のあと男きくとやっぱ良い。
これ一番好き。「ハッピーウェディング前ソング」。この軽薄な感じ、愛せる。「ちょっとだけ冷やかしてみてもいいかな?」からの「キッス!」コール、そしてその後の驚きの展開。一連の言葉のチョイス、こっれは策士、と嬉しくなる。こんな言語表現に常に驚かされていたい。
ただ、「たぶん二年以内に別れる」は、個人的には、やめてほしかった。この部分がなかったら曲ごと推せた。こういうこと言ってしまう過ぎた軽さによって、バンドごとは推せない。
この曲のライヴもすばらしい。女の子の方のパフォーマーとしての力量に感嘆しきり。この人たちのライヴ楽しそー。