オデッサか「アヂェッサ」か~ロシア語の≪Е≫の発音~

オデッサ

ОДЕССА。これをどう読むのが正しいのか。

正しく読めないと「よそ者」と判断されて、石もて追われる心配がある。

この記事は二部から成る。前半は ≪ОДЕССА≫ の話をする。そのあと問題を一般化して、ロシア語における ≪Е≫ の発音の話をする。少なくとも後者は、ロシア語中上級者にしか面白くない。

≪ОДЕССА≫ どう読むのが正しいか

本題に入る前に、2つだけ、前提となる事項を述べておく。

①「ロシア語で」どう発音するのが正しいか、それのみが関心事である。日本語表記は「オデッサ」でいい。ウクライナ語は「オデサ」一択なので問題にならない。これらは等閑視して以下ロシア語の話だけする。
②標準的なロシア語だとアクセントのない ≪О≫ は ≪А≫ と読む(いわゆるаканье)。それでいうとオデッサの「オ」は「ア」とした方が正しい。だが、それも今したい話ではない。今したいのはオデッサの「デ」の話なのだ。


さて、本題に入るが、
オデッサの人は、ОДЕССАを「アヂェッサ」と呼ぶ。

オデッサの外の人は、ОДЕССАを「アデッサ」と呼ぶ(ことが多い?)

オデッサ人的には「アヂェッサ」

オデッサ市民自身に言わせると、ОДЕССАは「アヂェッサ」と読むのが唯一絶対的に正しい。

そしてオデッサ市民は、一般にオデッサの外(たとえばロシア)ではОДЕССАは「アデッサ」と呼ばれている、と思っている。

それで、ОДЕССАをどっちの読みで呼ぶかを、よそ者かどうかを見分けるひとつの基準にしてる。街中で「アデッサ」とか言ってるやつを見ると、「よそ者だ」と思うのである。

―――――――――――――――――――――
※根拠は、さしあたり地元民である妻および義母の弁。あと、手元にあるガイドブック(ロシア語)にも「ОДЕССАの読み方は『アヂェッサ』です!間違っても『アデッサ』と言わないように!」と注意喚起してある。
また、Googleでたとえば「одесса или одэсса произношение」とかと検索すると、「知恵袋」みたいなサイトがいろいろ出てきて、そこで①非オデッサ人が「読み方どっちが正しいの?」と問う→②オデッサ人が「『アヂェッサ』一択!」と答える……というやり取りが無数にある。

オデッサ人以外は「アデッサ」


かの博覧強記で政治的に公正なる裏地見る裏地見ろビッチ・プーチン氏も「アデッサ」と発音している。

Путин: СМИ пропустили оскорбление ветеранов ВОВ в Одессе

※冒頭10秒でいきなり言います。

プーチンがこう言ったということはこれが正しいのだ。プーチンがそう言ったのであれば、ОДЕССАは「アデッサ」であり、КРЫМは「ナーシ」なのである。

というのは冗談として。もう一例挙げようか。

Москва – Одесса

ヴィソツキーの ≪Москва – Одесса≫ では、4回出てくるОДЕССАのうち、最後の1回ははっきり「アデッサ」、それ以外はちょっと微妙だが多分「アヂェッサ」と言っている。
ヴィソツキーはよくオデッサに来ていた。有名な刑事ドラマ ≪Место встречи изменить нельзя≫ もオデッサの撮影所で撮っている。そんな彼だからОДЕССАの「オデッサ的な意味で」正しい発音を知っていたのかも知れない。

最後にひとつ卑近な話を。
数年前、何丘は当時住んでいたモスクワから、のちに妻となる女性の実家のあるオデッサを訪れ、ご両親に「娘さんを下さい」と言って、またモスクワに帰ってきた。
旅券には複数のロシアビザがあり複数の出入国スタンプがあったので、旅券審査で係官が「どこから来たか」と問うた。
私は「アヂェッサ」と答えた。通じない。私の発音が悪いのか。アヂェッサ、アヂェッサ。わかりませんか。オ・ヂェ・サ。オ・デ・サ。「あ、アデッサね、はい」そこでストンと通じた。


引例が不十分かもしれないが、身内の者およびネット上の証言の数々から、オデッサ市外のロシア語人の相当多数がОДЕССАを「アデッサ」と呼ぶ、というのは事実だと思う。少なくともオデッサの人は、そう思っている

ОДЕССАの話はここでおしまい。

―――――――――――――――――――――
※蛇足。研究社露和辞典によると、「ОДЕССА」の読みは「どっちでも可」。
※もいっこ蛇足。こういう、外来者を見分ける言語または行動様式上の符丁みたいなものは、日本でも各地にあると思う。森鴎外が東京方眼図の地名索引を作ったのも、石見の人である自分が東京の地名の正しい読みを把握したかったからだ、と聞いたことがある。

≪Е≫ は「イェ」か「エ」か

話を一般的な次元に移す。

ロシア語入門者がよく言われるのは、「文字さえ覚えてしまえばロシア語を読むのは簡単」ということ。
その理由は、原則的に1つの母音には1通りの読み方しかなく、英語みたいに同じaという文字が何通りもの読み方をもつということはない。基本的に書いてあるままを読めばいいからラクだ……と。

それでいくと ≪Е≫ は「イェ」、≪Э≫ は「エ」の一対一対応で話は終わりのはずである。しかし。

≪Е≫ は「イェ」と読んだり「エ」と読んだりする

たとえば、

телевизор(テレビ)は「チェリェヴィーザル」だがкомпютер(パソコン)は「カンピュール」。
телефон(電話)は「チェリェフォン」だがинтернет(インターネット)は「インルネット」。
декорация(装飾)は「ヂェカラーツィヤ」だがмодель(モデル)は「マリ」。

このように、同じ ≪Е≫ という文字が、「イェ」だったり「エ」だったりする。

≪Э≫ は必ず「エ」である

一方、≪Э≫ には、2通りの読みはない。≪Э≫ は常に「エ」と読む。そこに例外はない。

つまり、題目通り「文字と読みは一対一対応」「書いてあるまま読めばいい」のであれば、

 ≪Э≫ →「エ」
 ≪Е≫ →「イェ」

であるところ、現実には、この区分けが ≪Е≫ の側から決壊して、

 ≪Э≫ →「エ」
 ≪Е≫ →「イェ」または「エ」

ということになっている。やばいのは ≪Е≫ なのだ。

やばいのは「Т」「Д」との組み合わせ

≪Е≫ はいつもやばいわけではなくて、≪Т≫ ないし ≪Д≫ と組みで出てくる一部のケースでだけやばい。つまり、≪те≫ と ≪де≫ の文字列がやばい。先ほど挙げた例もすべて ≪те≫ ≪де≫ を含む単語たちである。

たとえば ≪се≫ とか ≪пе≫ とか ≪ме≫ とかの文字列に私は困らされたことがない。≪те≫ ≪де≫ だけやばいのだ。考えてみると不思議である。なんでそうなる?

単に、音の響きが大きく異なる、ということか。「チェ」と「テ」の落差、「ヂェ」と「デ」の落差が、たとえば「ミェ」と「メ」あるいは「リェ」と「レ」の落差より大きいから、それでひときわ気になる、ということなのだろうか。

たとえばпостель(パスチェーリ)は「シーツ」だが、пастель(パステーリ)は「パステル」で、全く違う単語になってしまう。こういう例が ≪те≫ ≪де≫ 以外のときあるだろうか。ない気がする。

いずれにせよ、少なくとも私にとって、≪Е≫ の問題は、具体的には ≪те≫ と ≪де≫ の問題である。

個人的な話~何丘と ≪Е≫ 問題~

私がこの ≪Е≫ の読みの問題に心づいたのはロシア語圏に実際に身を置いてロシア人たちと仕事や生活をともにするようになってからだ。それまではナイーヴに文字と読みの一対一対応説を信じて疑わなかった。

王天君の魂魄は分裂する――もとい、≪Е≫ には二通りの読みがあると悟ってから多年が経過したが、今だに悩まされている。というのも、どのとき「イェ」でどのとき「エ」かについて、見たところ法則性がないから。

するとどうなるかというと、≪Е≫ を伴う未知の単語、ないし既知ではあるが発声したことのない単語をあえて発声するときに、この ≪Е≫ はどちらなのか?と逡巡して、発言のタイミングを逃す。言ったはいいが、パッと相手に通じない。思ったのと違う方で言い直されて気恥ずかしい思いをする。

たとえばтенденцияってどう言うの?テンデンツィヤ、それともチェンヂェンツィヤ?

法則性はないのか?

とはいえ、法則……とも言えないが、一応の傾向性(テンデンツィヤ)は見えている。

まず、飽くまで原則的には、≪Е≫ の読みは「イェ」である。少数例外なのは「エ」の方だ。

であるから、純スラヴ語的な、素朴で民衆的な語彙では、≪Е≫ は当然に「イェ」である。дерево(木)ветер(風)день(日)他。

一方、近代になって英語とかドイツ語とかフランス語から入ってきたような単語の一部で、≪Е≫ は「エ」と読まれる。それこそкомпютер(パソコン)интернет(インターネット)модель(モデル)の類。
これは、英独仏語にはそもそも「イェ」という母音がないことと無関係ではないだろう。つまり、なまじ文字が同じだけに、もとの音を引きずっているのだ。

もし話がこれだけならば、

 スラヴ語固有の言葉⇒「イェ」
 外来語⇒「エ」

とこうスッキリ整理されるのであるが、

問題なのは、同じく外来語でありながら、≪Е≫ を「イェ」と読む一群の単語の存在だ。それこそтелевизор(テレビ)、телефон(電話)、декорация(装飾)とか。

たとえばлитература(文学)はリチェラトゥーラだがэстетика(美学)はエステチカである、というのをどう納得したらいい? どういう論理がある? эпидемия(エピヂェーミヤ)とпандемия(パンデミーヤ)のような「凶悪」としか言いようのない例もある。

そういう次第で、輸入語だから即ち「エ」! とも一概に決められない。つらい。おしまい。


~完?~

事例集

前章で問題の存在は適示し得たと思うので、こっからはまぁ付録だ。

私自身のためのメモを兼ねて、「イェ」「エ」それぞれの具体例を挙げていく。まず「イェ」から。

(数多く例を挙げていくことで、何らか法則性が見えてくるかも知れない)

「イェ」⑴ 純スラヴ的な言葉

純粋にスラヴ語的な単語は当然のように「イェ」と読む。

「純粋にスラヴ語的」とかいって、別に語の起源とかに明るくない。まぁ対応する英仏独語をぱっと思いつかないようなもの、音節が少なく、使用頻度が高く、民衆的な素朴な単語。

тело, дело, тень, дети, писатель, тетрадь……枚挙に暇がない。

「イェ」⑵ 外来語

外来語で「イェ」と読むパターン。
英独仏あたりからの輸入語だったり、あとよく分からないが、ラテン語起源とかギリシャ語起源とか。

《те》
литература, математика, бутерброд, телевизор, интелигенция, интеллект, катер, температура, стереотип, термин, технология, критерия..
《де》
демократия, декорация, декларация, прецедент, президент, декада, академия, ледьфин, деликатес, дезинфекция, федерация, депутат..

―――――――――――――――――――――
※イタリックは「どっちでもOK」な感じのやつ。
※《те》《де》両方含むものについては重複記載あり。

「エ」

外来語で「エ」と読むパターン。

《те》
тенденция, катетер, пастель, компютер, отель, тенис, темп, притензия, тест, атеист, эстетика, тендер, деликатес..
《де》
модель, тандем, декольте, кодекс, шедевр, модернизация, тендер..

まとめ

「まとめ」の章なんか設ける予定はなかったのだが、具体例を見ながら妻と色々話しているうち、≪Е≫ を含む単語を初見でどう発音するかについて一応方針が定まったので、それを言いたい。

①外来語でなければ当然に「イェ」と読む。
②外来語は原則的に「エ」で読む。


①が成立するためには、任意の語が外来のものか否かをそれなりに高い精度で判別できなければならない。初学者にはまず無理な芸当と思う。だから初学者は、基本的にすべての ≪Е≫ を「イェ」と読んでかかるべきだ。≪ОДЕССА≫ もね。

②の陰でやっておきたいことは、逆に外来語でかつ「イェ」と読む語をなるべく覚えてしまうということだ。
外来語でかつ「イェ」と読む語は一番パイが小さい。そこを網羅してしまえば、あと新しく出会う外来語は基本的に「エ」と読んでかかればよい。

「パイが小さい」という意味は、それでも数は相当多いのだが、「エ」読みの方が西欧からの言葉(特に固有名詞)の輸入によって理論上無限に増えていくのに対し、「イェ」読みの方は数が限られている、あるいはその増え方が遅い、ということだ。

新しく西欧から輸入された語は、それが外来語であることが意識されているうちは元の「エ」読みを保ち、のち人口に膾炙するとより土着的な「イェ」音に転訛する(ことがある)、というふうに経過を想像している。

追記:деликатес(ヂェリカテス)という例を知って「なんでだよ!」と箸を床に投げつけた。

―――――――――――――――――――――
※本記事は妻(ロシア人)への入念な諮問に基づいて書いている。また、取り上げた全単語につき研究社を引いている。研究社による発音指示は妻の言と完全に一致しており、むしろ「研究社すげーな」と思った。手元の一冊は88年初版。今日までに30年が経過しているが、「エ」読みの語がこの間に「イェ」音に頽落しているケースは一つもなかった。



追記集

1/24(2021)この記事を公開した。
その後発見したこととか考えたことをこの項にまとめる。

1/25追記
例えば今のинтернетインテルネットが30年後とかにインチェルネットに転訛することがあるか。無い気がする。
高齢者とかよほど田舎の人の中には今でもинтернетをインチェルネットと読む人がいそうだ。彼らの側に未来があるだろうか。否、彼らの絶滅とともに、その読みは滅びて、二度と復活しない気がする。
してみると西欧借用語のスラヴ転訛説はウソで、телефонは初めからチェレフォンだったのだろうか。
それとも原音保存の例(一部借用語のEをエと読む例)が十分数に達した時点で、スラヴ転訛という現象の方こそ終息したのだろうか。

1/26追記
この記事はそもそも、「Eの読みの問題」じゃなくて、「外来語の表記の問題」というあしらいにした方がよかったかもしれない。つまりこの問題は、日本語における「外来語のカタカナ表記のルールが目茶苦茶」というののロシア語版なのだ。なんでwhiteはホワイトでwireはワイヤーでwhisperはウィスパーでWhitneyはホイットニーなのか。論理もくそもない、たまたま異なる時期に日本語に入ってきて異なるインフルエンサー(メディア)を通じて異なる形で定着したのだ。ロシア語における外来語の「E」読みの分岐も同様の事情なんだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました