「反復」という主題

その他

澁澤龍彦は「ぼくは螺旋が好きなので」と言っていた。巻貝とか螺旋階段とかに萌えるのだそうだ。萌えるってのはまぁ今の言葉で言えばだが。

私には何もない。偏執している図形、色、言葉。だから私には思想がなく個性がないのだ。ちなみに収集癖もない。

だが、ある日ふと気づく。<反復>という主題が好きなんじゃないか私は? これを意識してちゃんと集めてみて、掘ってみて、よくすれば自分の個性あるいは思想に昇華できるのではないか?

【ドラマ】君といた未来のために 〜I’ll be back〜

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私が人生で最初に<反復>の表象に衝撃を受けたのは多分これ。堂本剛主演ドラマ「君といた未来のために 〜I’ll be back〜」(99年)。

なにぶん昔の話なので、詳しい内容は覚えてない。主演は光一君の方だと思っていたくらい記憶も曖昧だ。だが、朝目覚めて「また戻ってしまったのか……」と顔を覆う主人公の姿を鮮明に覚えている。主人公はなんか定期的に時間が巻き戻ってしまって同じ日付から人生を何度も何度もやり直しさせられるのだ。

反復。人生を反復する。世界の歴史が反復する。<反復>という主題。

いわゆるタイムループものというやつだ。好きだな。私の<反復>趣味の好個の例だよ。

【マンガ】サマータイムレンダ|田中靖規

サマータイムレンダ
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週刊少年ジャンプ公式アプリ連載マンガ、田中靖規「サマータイムレンダ」。毎週楽しみにしていたが、ちょうど今日(2/1)完結した。最初の3話と最終2話が無料で読める⇒こちら

これもタイムループものだ。主人公は何回も死んでそのたび過去へと戻され、同じ日付を生き直す。それこそ第1話でいきなり死んで、2話目にその前日からやり直す。ぜんぶで7回くらい死ぬのかな。その「死!」そして「甦り!」が、毎度私を非常にアツくさせてくれた。<反復>。

「一回死んどく」「あ、戻った」「君、何周目?」こういった現実世界ではまず聞かれ得ないような台詞もぐっと来る。

終盤は、多分もうこれ以上ループは生じないな、もうこの世界線で最後まで行くんだろうなと見当がついて、するとやっぱり私にとっては魅力が減じた。

一方で、最終盤、やっと鎖を断ち切れそう(ループから完全に出ることができそう)だというときに、主人公が放った一言……「オレたちは、生きていく」。これはこれで、非常にグッとくるものがあった。「反復からの脱出」というのもまた、私の<反復>好きのサブジャンルをなすのだろうか。

【マンガ】弥次喜多 in DEEP|しりあがり寿

[しりあがり 寿]の弥次喜多 in DEEP 1 (ビームコミックス)
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しりあがり寿(ことぶき)の長大作「弥次喜多 in DEEP」にも<反復>を主題とする忘れがたいエピソードがある。コミックス第1巻の「ふりだしの畳」だ。

江戸を発って伊勢神宮を目指し東海道を下っていく弥次さん喜多さんが一夜の宿りを求めてとある旅籠の門を叩く、こんな部屋しかねぇですがと案内された部屋は大名が泊まるような何十畳もある広壮な一間。おおっこりゃいいねぇとずかずか上がり込もうとする弥次喜多に宿の人「お気をつけ召されい、敷き詰めてある畳の中には<ふりだしの畳>が何枚かごぜえやす」「なんでぇその<ふりだしの畳>てのは」「ええなんでもその畳を踏むと<ふりだし>に戻ってしまうので」「ケッタイなことを言う親爺だねぇ」

あにはからんや、ふりだしの畳は踏まれてしまう。すると描写がループする。広壮な一間。おおっこりゃいいねぇとずかずか上がり込もうとする弥次喜多に宿の人「お気をつけ召されい、敷き詰めてある畳の中には<ふりだしの畳>が何枚かごぜえやす」「なんでぇその<ふりだしの畳>てのは」「ええなんでもその畳を踏むと<ふりだし>に戻ってしまうので」

しかしふりだしの畳は踏まれてしまう。描写が反復する。広壮な一間。おおっこりゃいいねぇとずかずか上がり込もうとする弥次喜多に宿の人「お気をつけ召されい」

「敷き詰めてある畳の中には<ふりだしの畳>が何枚かごぜえやす」

たちの悪いことに、ふりだしに戻ってしまうので、自分がうっかりふりだしの畳を踏んでしまったこと、どの畳が<ふりだしの畳>なのか、記憶を保持できない。先の「サマータイムレンダ」と決定的に異なる点はそれだ。「サマー~」では主人公はループ後に記憶を持ち越せたので、自分(のみ)が持っている未来の世界の知識を頼りに歴史を変えていくことができた。その点「ふりだしの畳」では、登場人物の誰も記憶を過去へ持ち越すことができず、そのために反復がより苛烈である。容赦なく、同じ事がただ起こる。(とはいえズレていくのであるが・・差異と反復)

「弥次喜多 in DEEP」の雰囲気覗いてみたい人はAmazonで試し読みするといい⇒こちら

【マンガ】火の鳥|手塚治虫

[手塚治虫]の火の鳥 13
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手塚治虫の「火の鳥」の「異形編」がまたループものである。ループの起点が殺すことでありループの終点が殺されること。そしてその殺と被殺が同時に起こるので、またループの発生が殺す側で無自覚であることによって、円環は完全に閉じたものになり、どこへも逸脱していかない。永遠に輪転する。

主人公が老人を殺害する。しかしその後の人生をかけて、自分がゆっくりとかつて自分が殺した当のものになっていっていることを知る。それは恐ろしいことである(らしい)。何十年か経って、果たして自分を殺しに若かりし頃の自分の姿をしたやつが現れた。自分はこいつに殺される。しかし殺すその人もまた、次にくる別の自分によって殺されるであろう。もって瞑すべし。鬱。

この鬱の感じがしかし、良い。暗い、閉じた時間。時間の牢獄。ただ永遠に繰り返す。
その「永遠」の感触が……遥かな遥かな感じが……いい。気が遠くなるほどの暗さ。

【曲】Thank God I Found You|Mariah Carey, Joe, 98 Degrees

明るい話をしよう。明るい話は嫌いですか。

マライアキャリーとジョーと98℃(ナインティーエイトディグリーズ)の「サンク・ゴッド・アイ・ファウンド・ユー」という曲。←これだけで59文字だ。なんという労力。

最後のサビ前にこんな詞がある。

I was so desolate before you came to me
(中略)
And I’d go through it all over again
To be able to feel this way

めっちゃ意訳すると、クソみたいな人生送ってきたけど最終的にあなたに会えて今のこんな気分になれるならば「あのクソみたいな人生をもう一度ぜんぶ繰り返してもいい」と、こういうことを言っています。永遠回帰、生の肯定!

この曲の名曲性はこの鬱ブリッジと続く大サビのマライアの素晴らしいフェイクにかかっているといっても過言ではなく、この箇所を明石家さんま主演ネスカフェCM(2000年)に起用したディレクターは分かってる。

【文学】ドグラ・マグラ|夢野久作

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怪奇小説。同時に、物語の最後が最初に繋がっている「回帰」小説でもあるという話(昔読んだので曖昧)。あらかじめ言っとくが、これは「これは違う」の例として取り上げる。

舞台は精神病院。登場人物は狂人とか狂科学者とかばっか。また構造が凝っていて、現実世界の現在時制の出来事だと思って読んでいたら実はその全体が作中の手記であってそれを読んでいる人物こそが主人公だった?みたいな、階層性がある。

だから同じ十一月二十日という日付けが「今日」と呼ばれて何度も出てくる(物語がどれだけ進行したように見えてもいつも「今日」の日付は十一月二十日である)というのも、これはタイムループが起こっているためでなくて、単に物語の階層が移動しているのだ(十一月二十日の出来事を描いた手記を十一月二十日に読んでいる、という話を十一月二十日に聞いている……というふうに)。

こういうのを好きな人もいるのだろうが、これは私の好きな<反復>の事例ではない。あんまり私の琴線には触れない。

【文学】犬を連れた奥さん|チェーホフ

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ロシアの作家チェーホフの「犬を連れた奥さん」は原語で読んだことがあるのだが、物語をしめくくる最後の一語が「はじまる(начинается)」である。「はじまる」といって終わる。

妻帯者と有夫の女が夏のリゾート地で出会って恋して夏の終わりとともに別れる。でも男は女を忘れがたく、冬に女に会いに来る。女の方も実は同じように思っていて、さぁ再び燃え上がる恋。でも禁断の関係、どうすれば? 私たちどうすればいい? そうだねひとつ確かなことは私たちは今ここからすべてを始めるんだということさ。一番いいことも一番たいへんなことも全ては今ここから「はじまる」。

これは明らかに<反復>の例ではない。むしろ停滞してた人生の時間が今ここから流れ出すのだ。<反復>が淀みだとしたら、これはその真逆みたいなことだ。だがなんか琴線への触れ方が似てる気がするんだよな。

【文学】中原中也の詩

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これは脱線になるのかもしれないが、文学で「反復」といえば、単純に言葉の反復ということがある。それがまた私は好きなのだ。

反復の名手というと私の中では中原中也である。たとえば「頑是ない歌」。

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ

この歌い出しから、数十行が経過して、もう最後というところで

思うけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ

この「十二の冬のあの夕べ」の反復がキモチエエ~ッ(今の言葉で言うと)て感じなんですよね。今の言葉で言うと。

もうちょっとマニアックな例を出す。「月」全文。反復に酔い痴れよ。

今宵月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
済製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ
石灰の匂ひがしたつて怖けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥といでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう
ポケットに入れたが気にかゝる、月は襄荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥といでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!

ヒエエ~ッ、き、キモチエエ~ッッ!!

さらにマニアックな例を掲げる。「或る心の一季節」。

最早、あらゆるものが目を覚ました、黎明は来た。私の心の中に住む幾多のフェアリー達は、朝露の傍では草の葉っぱのすがすがしい線を描いた。
 私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故に夢であったかはまだ知らない。其処に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出だす。だが次の瞬間に、私の心ははや、懐しみを棄てて慈しみに変っている。これは如何したことだ?………けれども、私の心に今は残像に過ぎない、大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔、整頓を知らぬ口角、樺色の勝負部屋……それ等の上にも、幸いあれ!幸いあれ!
 併し此の願いは、卑屈な生活の中では「ああ昇天は私に涙である」という、計らない、素気なき呟きとなって出て来るのみだ。それは何故か?
 私の過去の環境が、私に強請した誤れる持物は、釈放さるべきアルコールの朝の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美わしく強き血漿であるに、その最も親わしき友にも了解されずにいる。………
 私はそれが苦しい。――「私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故に夢であったかはまだ知らない。其処に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出す」――さればこそ私は恥辱を忘れることによっての自由を求めた。
 友よ、それを徒らな天真爛漫と見過るな。
 だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰って来、夜の一点を囲う生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買い集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向って瞼を見据える。
 間もなく、疲労が軽く意識され始めるや、私は今日一日の巫戲けた自分の行蹟の数々が、赤面と後悔を伴って私の心に蘇るのを感ずる。――まあ其処にある俺は、哄笑と落胆との取留なき混交の放射体ではなかったか!――だが併し、私のした私らしくない事も如何にか私の意図したことになってるのは不思議だ………「私の過去の環境が、私に強請した誤れる私の持物は、釈放さるべきアルコールの朝の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美わしく強き血漿であるに、その最も親わしき友にも了解されずにいる」………そうだ、焦点の明確でないこと以外に、私は私に欠点を見出すことはもう出来ない。
 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁をすぐって歩いた。
 今日もそれをした。そして今もう夜中が来ている。終列車を当てに停車場の待合室にチョコンと坐っている自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待っているように思える――
 私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求した。

ほとんどこの詩の魅力は反復の配置の妙以外にないとさえ思える。二度目以降の箇所を分かりやすいよう太字にした。

コピペをしたのではない。中也はビルとスティーブ以前の人なのでコピペができなかった。手ずから書いたのだ、同じ詩行を。<反復>。

【文学】犬の心臓|ブルガーコフ(水野忠夫訳)

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20世紀ロシアの作家ミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』という本を私は古本で所持していた。水野忠夫訳、河出書房新社。

なんでこんなに訳者とか出版社とか詳しく言うかというと、私が所持していた一冊が乱丁本で、ある箇所でページがループしていたのだ(この体験を共有してる人がいたら嬉しい!)

読み進めていくだろう。と、ある箇所で「あれっ」と凝固する。え? 飛んだ? てかこの記述、見覚えあるんだけど……。実はそう、本の17ページから24ページが(※数字は適当)製本ミスで重複して綴じ込まれており、24ページまで読み進めた人が25ページ目に進もうとするとさっき読んだ17ページ目と同じ記述に出くわすのだ。なぜなら物理的に17~24ページ目が二つ存在しているので。

そこで私はどうしたか?なんやこれ乱丁本やんつって25ページまでスキップしたか? 否! 私は二度めの17~24ページをきっちり全文字読みとおした!<反復キモチエエ~ッ>と叫びながら!

【文学】ツァラトゥストラかく語りき|ニーチェ

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あんま取り上げたくないのだが仕方ない。私はニーチェはよく知らん。ツァラトゥストラはむろん読んでいるが大昔の話だ。

二―チェの用語に永遠回帰(永劫回帰)というのがある。永遠に回帰する、つまり<反復>する。サイクリック宇宙論。その説明をちょっと試みたい。ひー、面倒くさい。

キリスト教の世界観では、世界はこれ一つであり、歴史はその完成へ向かって一方向に流れる。初めに神による世界および人間の創造があり、中ほどに人間の堕落とキリストによる贖罪があり、終わりに最後の審判があって千年王国が到来する。

これとは全く異なる世界観をニーチェは打ち立てようとした。それによると、世界は無数に存在し、歴史は無限回流れる。意味もなく。また私という人間はこの私一人が一回きり生きるのでなく、過去に無数に存在したし、未来にも無数に存在する。

というのも、私たちの身体は、有限種類の分子(原子?なんでもいい、要するに構成要素)の組み合わせでできている。その組み合わせには無限に近いバリエーションがあるとはいえ、無限そのものではない。一方に、無限につづく時間という舞台を想定しよう。この舞台の上で、無限に近い(が有限である)分子結合の、あらゆる可能性が試されるとしたらどうだ。

この私(何丘という男)が死んで、私を構成していたすべての分子が雲散霧消、世界中に散らばっていく。その分子の一部がある場所で別の分子たちとくっついて、何丘とは全く別の人間が構成される。パチ丘、と呼ぼう。そのパチ丘もしかしそのうち死んで、全分子が解体する。その分子の一部がまたどこかで別の人間を結ぶ。

その繰り返しが、無限の時間のうえで、無限に続くとしたら、いつか何丘にちょっと似たやつ、何丘にけっこう似たやつ、パチ丘、何丘に全然似てないやつ、パチ丘にかなり似たやつ、さまざまなバリエーションが試されないではいない。果ては、すっかり何丘であるやつ、というのも出てくる。

それも、ただ一度でない。何度も出てくるのだ。だって、試行の時間はたっぷりあるのだもの。何回失敗してもいい。無限の時間のうえで、無限回試すのである。対する分子の組み合わせのほうは、無限に近いほどゆたかだが、とはいえ有限なのだ。

これを惑星規模に拡大すると、このひとつの地球が滅びても、無限の時間の中で素粒子と素粒子のあらゆる結合が試されるうち、いつか地球にちょっと似た惑星、地球にだいぶ似た惑星、すっかり地球そのものであるような惑星も、誕生しないではいない。それも無限回。その無限個の地球の中に、私たちのよく知るこのひとつの地球史とすっかり同じ歴史経過をたどる地球も、現れないではいない。それも無限回。

話を宇宙全体に拡大しても同じ事だ(サイクリック宇宙論)。時間は宇宙の誕生とともに始まった?では時間がそのうえで「始まる」ようなさらなる背景舞台というものの永続を仮定すればよい。

以上が永遠回帰という世界観である。任意の時点に歴史は永遠に回帰し続ける。始まりも終わりもない。キリスト教みたいに始まりと終わりのあるきれいな物語を描きはしない。ただ永遠に過ぎ去りまた戻ってくる。戻ってきては過ぎ去る。意味もなく。

あなたはその意味のなさに耐えられますかってんだ。私は耐えられる。この意味もなく回帰し続ける世界が私は好きだ!と言える。世界の肯定。それができる私のような人のことを超人と言うんだよ。と、この超人というのがまたニーチェのキーワードだ。

さて<反復>という主題に惹かれるという何丘くん。このニーチェの話をどう思うか?

ま、面白い話だとは思うが、ちょっとジャンルが違う気がする。長々語っといてなんだが。いかんせん話が遠大すぎ、回帰のスパンが長すぎるので<反復>のリズムを感じられない。大事なのはリズムだよ、ウィドゥム。

【映画】永遠回帰(Вечное возвращение)

キーラ・ムラートワ監督「永遠回帰」2012年。ロシア映画だ。こちらは私の<反復>趣味どまんなか。回帰がこのくらいのリズムで押し寄せるならノりやすいのだ。

独居女性のもとへ昔なじみの男性が突然現れ、恋愛相談を持ち掛ける。「実はいま妻のほかに好きな人ができちゃって妻も好きだが愛人も好きということでどちらか一人を選びかねて困ってて……」とかなんとか。何年ぶりに突然現れていきなりそんな重い話されても困るよ、私に何を言えってのよ、と温度の合わない二人。なんだよ畜生、全然相談乗ってくれねえじゃねえか……といって男、ふてくされて去る。

このひとくさりが、キャストをかえて、シチュエーションをかえて、台詞も微妙に変わったりして、何度も何度も無際限に繰り返される。Вечное возвращение、行ったと思った男が何遍でも帰ってくる。

好き。


なお、監督のキーラ・ムラートワはオデッサの人。その盟友で本作にも出演しているレナータ・リトヴィノワが自身のYouTubeチャンネルに全編を上げていて無料で視聴できるが、いかんせんロシア語だ。

でも私のような<反復>好き、ケッタイな感じを面白がれる人は、言葉が分からなくても楽しめるかも知れない。一方ロシア語学習者には、変な話、リスニングの教材として使えるだろう。同じ台詞を違う人が繰り返し喋るので。

【演劇】かもめ(サチリコン劇場)

モスクワのサチリコン劇場のブトゥーソフ演出によるチェーホフ「かもめ」がまた<反復>の芸術であった。動画は1分のトレーラー。ロックな雰囲気伝わりますか。

演劇ファンなら誰しも知悉してる「かもめ」の時系列どおりに場面が継起してはいくのだが、ある場面がある演出で演じられたかと思うと、その場面の起点へと不意に時間が立ち戻り、全く別の演出で同じ場面がやり直される。決まって三回、全く別の形で同じ場面が反復されつつ進む。

全ての場面が反復するわけではない。すっと流れるところはすっと流れる。ある瞬間にふっと戻るのである。あ、戻ったな。<反復>が始まるぞ、と思う。ブトゥーソフによるレコード「かもめ」のスクラッチ。その引っ掻かれが極上に気持ちよく、私は客席で一人身悶えしていた。フゥーッ!

【自作マンガ】ちびまる子ちゃん

こんどは実作者として証言する。<反復>は快感である。私は趣味でたまに漫画を描くのだが、なに大したものではない、大学ノートにボールペンで漫然と描くのである。あるとき「ちびまる子ちゃん」の二次創作のようなことをしていて、「すたもツチノコ株式会社」の回だ、そこで大胆な反復を行った。

少し内容を言ってみる。えーと、まる子とたまちゃんと丸尾くんがツチノコ狩りに出かけます。んで、私のバージョンではたしか、丸尾くんがツチノコの邪気にふれて蛇鱗マルオ(じゃりん・まるお)になるのである。まる子はまる子で覚醒して「哀しみの筋骨マッチョ」へと化し、たまちゃんは身体が収縮して「まるちゃんのおかっぱの中にすっぽり収まってしまう」。日が暮れて、雨がしとしと降ってきた。すっかり変わり果ててしまった三人が、森の中で焚火を囲んで「ツチノコ……いないね……」などと話している。鬱。

そのあともさらに鬱展開があって、たまちゃんが絶命してしまい、描いてる私じしんもう収拾がつかなくなって嫌になってきた。そこへ花輪クンが出てきて助言するのである。「あの丸尾とツチノコの接触あたりから世界がおかしなことになったのじゃないかいベーイビ? もう一度やり直してみないかい、ことのすべてを、最初の最初から?」「うん、わかったよ、(覚醒した)今の私ならそれができる気がする……(うだだーうだだー)…」

それで私は自分が描いた漫画をその一ページめから<反復>したのである。大学ノートのページをうしろにめくってチラチラ参照しながら、同じコマ割り、同じせりふ、同じ人物の同じ挙動、寸分違わないようにと努めながら、新しいページに描き写していった。何という異常なことを私はしているのだろう……と思って興奮した。そのときの私にとって反復とは、明らかに変態の所業であった。淫靡な倒錯。

まとめ

いろいろ見てきた。自分の<反復>趣味について見えてきたことをまとめる。

まず、自分はタイムループものが好きだ。これは間違いない。
あと、文学作品の中の、一度使われた文章の理不尽な繰り返し、これも好き。

思うに、私が好きなのは、平叙と反復のリズムなのだ。平叙の中に突如反復が出てくると嬉しい。でまた逆に、反復が平叙へと帰っていく瞬間にもカタルシスを覚える。

反復というのは異常な事態である。それこそ2021年まで平滑に叙されてきた私の人生が、ある朝目覚めると体が若い、見ると母も父も若い、カレンダーを見ると1998年の4月である、というのは明らかに(なんと愉快な)異常事態である。

現実世界の実人生は、おおむね平叙そのものだ。フィクション(創作物)もおおよそそれをなぞって平叙。そこへ突然<反復>がやってくるとびっくりする。そのびっくりが……好きなんだろうな。

ちなみに私はデジャヴュ(既視錯覚)も好きだよ。

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