流亡の記(ウクライナ~モルドバ~ルーマニア)

その他

正教会の寺院を見つけるたびに立ち寄って祈りを捧げながら、家族3人で東欧を流亡している。その日誌。(3/25記:完結しました

モルドバ

国境通過~キシニョフ

ウクライナで某事象ありて、私と妻は二歳児太郎を連れて隣国・隣々国経由で日本に帰ることにした。オデッサ郊外の某村からモルドヴァへの最寄りの国境通過ポイントまで義父に車で送ってもらい、無事越境を果たした。

その国境通過ポイントは無人の荒野みたいなところで、そこから何とかしてモルドヴァ首都キシニョフ(キシナウ)まで上らなければならない。移動手段は3つある。①無料の輸送バス②ボランティアの自家用車③タクシー。私たちは幸いにも②に拾って貰えた。本当に幸運だった。子供にとってこの流亡は楽しい「旅」でなければならない。①ではそれは叶わなかっただろう。③はすわ稼ぎ時と法外な料金をふっかけられる由だった。

このボランティア氏は別になんらかの団体に所属しているのでもなく、たまたま大きなワゴン車を有しているからといって、国境へ日参しては困民を首都へ輸送しているらしかった。私たち3人を含め3家族、計9人。それぞれの宿まで順に送り届け、最後に私たちの宿へつけてくれた。せめてガソリン代だけでも受け取ってほしい、私たちは経済的には大丈夫なタイプの難民だ、後に来る人のためにもこの事業を継続してほしいのだ、と半銭を申し出たのだがついに容れられなかった。自問する。このようなことができるだろうか。

(その理屈でいうと、私らこそは「法外な値段」をふっかけられてでもタクシーに乗り、より経済的に困窮した人にワゴン車の座席を譲るべきであった。そこまで頭が回らなかった。こういう自己矛盾はその後もそこここで来たしていると思う)

(一言言い訳をすると、妻と子はウクライナ人として速やかに国境を通過したが、外国人の私は別レーンでしばし待たされ、そのかん国境の向こう側で寒風に吹きすさばれてヴァルナラブルな感じで立っていた妻子は傍目にいかにも可哀想に見えたであろう、3月8日(国際婦人デー)ということもあり、親切なボランティア氏はこの母子を自分の車に乗せることに決めた、私はオマケでついてきた格好だ)

2時間の道のり、街らしい街はひとつも通過しなかった。いくつかの村を抜けた。村は見慣れたウクライナの村と何ら変わらない。モルドヴァに都市はキシニョフしか存在しないのではないかという失礼千万な予断を持っている。

キシニョフ

モルドヴァは小さい国だ。その首都キシニョフは小さい街だ。

一国の首都の大聖堂がこのサイズなのであとは推して知るべし。「サンマルコ広場の人 鳩まみれ」

駅。のち私たちはここから鉄路ルーマニアへ向かう。

いかにも「ソ連」て感じの重厚長大築物。

中心部の公園。どこ風というのか知らん(カンボジア?)ごてごてした装飾の噴水、冬季ゆえ噴水せず。その向こうに見える人群れは、反戦集会……ではなく、オジンオバン連による青空ディスコ。ソ連。

私にとっては二度目、妻にとっては初めてのキシニョフ。「外国」という感じはほとんどない。よくある旧ソ連の地方都市って感じ。店並びも品揃えも同じ、ただ通貨が違うだけ。私の耳では街の会話の6~7割がロシア語、残りが(おそらく)ルーマニア語。ウクライナ難民が大挙押し寄せてるため? しかし19年の初訪問時も体感そんな割合だった。人にロシア語でもの聞いて通じないということはまずない。

ロシアと非ロシア

ホテルの玄関に(ウクライナ国旗と並べて)ロシア国旗が刺してあるなど私らには目新しい。14年以降、ウクライナの街中でロシア国旗を目にすることは絶対にない。禁止されてるから。あと、ガスプロム関係のオフィスとか、ルクオイルのガソリンスタンドがふつうに存在することとか新鮮に感じられる。

しかし一方で、街で目にする文字は原則としてルーマニア語だ。看板・街頭広告、通りの名、商店の張り紙とか値札とか、何しろ印字された文字は原則的にすべてルーマニア語で、たぶんそういう決まりがあるのだろう(ウクライナと同じで)。「ロシアではない」ということでアイデンティティを確立しようとしているのか。同じ理屈で「ルーマニアではない」ということでロシア語の方に振れることも、政権によってはあり得るのか? いや、沿ドニエストルが存在する限り、それはないのか。

ウクライナ人

なにしろウクライナからいっぱい人が避難してきている。子供を公園で遊ばせてたりなぞすると自然パパママ同士の交流がある。印象的な2人のこと:①私らと同じ家族構成、キエフから自家用車でオデッサ経由モルドヴァへ逃れた(ポーランド国境は殺人的混雑と聞いて忌避)、しかしパパ氏どう見ても徴兵適齢の美丈夫だが、どうやって国境を越えた? 18~59歳の応召可能なウクライナ男性は国境を越えることができないはず。パパ氏の身なりのよさが気になった。よほどのお金を積めば、この状況でも「袖の下」で突破が可能なのか。②コーヒースタンドで季節限定ドリンクのルーマニア語による説明書きを指して「これなんて書いてるの?なになに、ウサギの糞の唐揚げ?」と店員にダル絡みする若い男。旧ソ連諸国におけるロシア語話者の現地語に対する優越意識。これに類する場面を無数に見てきた。醜悪の極み。

(私がキシナウをキシニョフと表記すること、リヴィウをしばしばリヴォフということ、いわゆるジョージアをグルジアと呼ぶこと、これらは私的には「ロシア語優越意識の表れ」とは異なるものなのだが、気を悪くされる方いましたら済みません)

★モルドバへの支援をお考えの方、下記「駐日モルドバ大使館」口座です。(日本外務省「ウクライナからの避難民に対する支援の提供を検討されている方々へ」より)

ルーマニア(ヤシ)

キシニョフ~ヤシ

キシニョフ2泊のち、ルーマニアに入った。鉄路6時間、ヤシへ。このヤシでさらに3泊した。

なんでちょいちょいずつ移動してるのかとうと、これは何もせっかくだから観光してやろうということではなくて、移動で子供が疲れないように、じりじりブカレストに近づいていこうと思った。どうせ飛行機は少し先だし。

しかし早々にルーマニアには入ってしまいたかったのだ。ヤシにしろブカレストにしろ、キシニョフより宿泊が全然安かった。キシニョフは何しろウクライナ難民殺到で宿泊施設が払底、簡易宿泊所で雑魚寝か4つ星ホテルのスイートかの二択みたいになっていた。

ちなみに、キシニョフからすぐ日本へ発つ、という選択肢は無かった。モルドヴァは空の安全が確保できないということで当面飛行機の発着を全面停止している。

寂しい車窓であった。3月も半ばというのに、なんだこの極寒の感じは。

この日のヤシの気温は最高気温が0度とかそのくらい。

電車の終着点は中心部から少し離れたところだった。そこから中心部経由空港まで無料の輸送バスが出ていて、それに乗せてもらい、私らの宿に最寄りのポイントで降ろしてもらう。融通利く。親切。

ヤシ

ヤシはけっこう大きい街だった。ルーマニアで第二だか第三だかの街らしい。現在のモルドヴァ共和国を含むモルダヴィア公国の首都だったとかで、立派な宮殿があり、古い美しい教会群があり、また大学があって若い人がいっぱいいて活気がある感じだった。

文化宮殿と称するやつ。中に複数のミュージアムが入ってる由。ここから鉄道駅の方へ石畳の通りが伸びており(歩行者天国)、沿いの教会を逐一見ていけば基本的にヤシの観光は果たしたということになる、と理解した。

たとえばこんな美しい外壁一面に模様の入った教会がある。忘れたがかなり古いものだった、15世紀とか(私らは比較の基準が若いモスクワとかもっと若いオデッサとかなので15世紀は非常に「古い」)。

沿道最大の寺院、府主教座聖堂。正面ファサードのモザイクが見事。さっきのもこれも(私らの目には)一見そう見えないが中はばりばりの正教寺院で、イコノスタシスいかめしく聳えほの灯りのなか見上げる天蓋にハリストス。ルーマニアは人口の8割が正教信徒である由。「言語的にはスラヴ語だが宗教的にはカトリックのポーランド」と「言語的にはロマンス語だが宗教的には正教のルーマニア」で好対照をなしているとか読んだ。

同じ目抜き通り沿いに、しかし、古い美しい教会建築ばかり並んでいるわけではない。ごってごてのコンクリ塊も目立つ。「ソ連」を感じさせるアパート。ルーマニアはソ連の一部ではなかったが、89年まで社会主義国であった。

本来私らは旅行となるとミュージアムとか入ってみたい。ちょっとよさげなカフェに入って名物料理なども食べてみたい。でも第一に「私らは難民だから、贅沢はよそう」(←今回の私たちの口ぐせ)。第二に、子供を中心に行動を組み立てていく、これは私たちにとって新しい旅だ。したがって、たとえばこういうアクティビティにめちゃめちゃ高いウェイトを置く↓

ショッピングセンター内に設置されてたトランポリン。滞在3日で4回跳んだ。この旅は子供にとってとりわけ楽しいものであってほしい。人生初めての旅。人類史の悲劇に強いられての旅は。

ルーマニア語

さっきも言ったがルーマニア語はロマンス語であってイタリア語とかスペイン語とかフランス語のなかまである。ロシア語とは系統が違う。まったく分からない。妻はフランス語ができるが、その知識もほぼ通用しないようだす。

とりあえず挨拶はブナ・ズィワがこんにちは、ブナ・セアラがこんばんは。ありがとうはムルツメスク。さようならはラ・レヴェデゲ。カプチーノ一杯たのんますはウノ・カプチーノ・ヴェローク。チケット一枚くらはいはウン・ビレート・ヴェローク。話しかけるときはスクザーツィ・メ、どいてほしいときはパルドン。標準的な会話としては、カフェ入る→「ブナ・ズィワ」→「ウノ・カプチーノ・ヴェローク」→店員なんとかいう→わかってるふりして頷く→表示金額見て支払い→「ムルツメスク」→「ラ・レヴェデゲ」で退店。なんかイレギュラーなこと言われたら英語に切り替える。皆さん英語お上手だしなんかすごい親切なので全く困らない。すべての問題が解決する。

ウクライナ難民支援

至るところにウクライナを応援するメッセージ。また、難民の相談所。

ショッピングセンターのフードコートにこんなのがあったり。「ようこそウクライナの皆さま、スープ1杯無料です!」

こちらは「コーヒー無料」。

利用はしないけど気持ちだけでもありがたい。

あと、ヤシの街で、のちブカレストの日本大使館で子供のパスポートと妻のビザを作るための証明写真を写真屋さん(街角の小さな、個人経営の)で撮ったのだけど、「あなた方ウクライナからですか」と問われ、そうだと答えると、じゃお代は要りませんと言われた。いえ、私たちは大丈夫なんです、払わせてください、そのお気持ちは私らでなく次にきたウクライナの人に、というと、じゃこうしましょう、半分私がもちます、半分だけ払ってください。

それで最後に、子供の写真を2葉、葉書サイズに引き伸ばして進呈してくれた。「これ、サービスです」(書いていて涙ぐんでしまう)

その他、ヤシで気づいたこと

旅行とは偏見をもつ最良の方法であるという言葉もあるから、ヤシ(ルーマニア)にお住まいの方は、初見だとそう見えるものなのかと笑ってご覧になってほしい。私たちの観察ではヤシは、①坂の街だ。川(貧相な)を起点にけっこう急激に土地が盛り上がっていって、その斜面沿いに段々に建物が建っている。どこへ行こうにもわりと坂を上る。んで②アンチバリアフリー。狭い歩道が電柱とか路駐の車とかにしばしばせき止められてベビーカーの私らは通行に難渋した。スロープが併設されてない階段だけの上り道も多く、うーん「ヨーロッパ」が及んでいないなぁと苦笑。③中心部なのにボロい一軒家が結構ある。写真↓

いやボロいのは別にいいんだけど、困るのはこれらボロ建築がしっかり現住建築物であって、そんで自己財産防衛のためであろう猛犬を皆さんお飼いだ。写真に見えるさっき言った「狭すぎる歩道」を歩いていて、電柱に通せんぼされてしばし立ちなずむと(交通量それなりにあるので車の小止みを待たねばならない)、たちまち柵一枚向こうからものすごい吠え声を浴びせられる。けっこう心臓に悪い。

気づいたこと④中世と社会主義時代の同居。すでに述べたが、この点本当に印象的だった。写真↓

目玉観光地が並ぶホコテン通り、向かって右手に大聖堂、左手に四角四面のアパート。言ってしまえば、「美麗建築」と「醜怪なコンクリ塊」のコントラスト。ルーマニアはバルカンの付け根ということで地震が起きる国らしく、地震だの火事だので、古いものはそんなに残っていない由。でも教会はとにかく多いなと感じた。

気づいたこと⑤コロナ感染対策意識低っく。ウクライナも大概であった、だから屋外でのマスク無着用については何も言わぬ、ショッピングセンター内(テナント内部でなく)のノーマスクについても。だが、商店その他狭小閉空間については、オデッサでさえもう少し厳しかったぜ。仮にもヨーロッパなのでもう少しちゃんとしていると思った。あちこち「1.5m守りましょう」シールが床に貼られているのだが完全に形骸化している。

いろいろ言ったが、訪れる価値はもちろんあると思う。じゅうぶん魅力的。再訪できるなら再訪したい。ミュージアムも入ってみたかった。でもブカレストからちと遠すぎるな。

ルーマニア(ブカレスト)

ヤシ~ブカレスト

ヤシからは電車もあるのだが、これも大変ありがたいことに、ウクライナに同情を寄せるボランティアの方に、自家用車で送ってもらった。この人はブカレスト在住。片道6時間の道のりを、迎に6、送に6、計12時間も走ってくれたのである。どうして……こんなことができるのだろう。妻や義父母の古くからの友人一家を介して識った人。

車窓。この日もしばれる寒さ、ルーマニアの春は遅いのか。「まぁ4月半ばくらいかな、春が春らしくなるのは。でも気候変動でここ10年くらい季節とか気候というものにスタンダードなどないよ」

なにしろ道中長いので、車中いろんな話した。私の英語も大概ひどいので何言うてるのかわからず生返事することも再三あったが。やはりこういうことをする人なので政治への関心が高く、今度の戦争について、ウクライナとルーマニアの現代史の相似性について、いろいろ話して聞かせてくれる。でまた、今次の戦争の背景について、私らにいろいろ訊いてくる。妻がアルタナティヴなポイント・オヴ・ヴューを提示すると氏は「今の話を聞いて私にとってこの戦争がエニグマになってしまった」と困惑げ。私は妻の論拠を完全に理解しているので、だからこそ、粉砕できる気がした。だが私が参戦すると妻は2対1になってしまうと思ってこの話題については岩猿を決め込んだ。その間ふつふつと怒りが滾った。心の修羅から逃れられない。

ルーマニアの汚職のひどさを口を酸くして慷慨していた。89年の革命(チャウシェスク政権打倒)の後も長らくコミュニストたちの老人支配が続き、現在若い世代の政治家たちは「余りにもお利巧で」ビジネスマインドに過ぎ福利厚生を顧みない、社会主義体制崩壊後の国有資産の一部資本家による牛耳りはまさにロシアらへんのオリガルヒ誕生と同じストーリー。EU加盟もいいことばかりではなかった、工業が縮小し工場は閉鎖され失業者があふれ人口は流出し(ルーマニアの総人口が2000万人であるところ、国外居住のルーマニア人は300万人もいるという)、農業大国ではあるが商店に並ぶは外国産品ばかり、ルーマニア産品はほとんどが国外輸出と。(だが市場の統合とはそういうことではないのか。適所集中生産で、全体としては効率が上がっているはずではないのか)

汚職の話を聞いての私たちの感想はこうだ。「ウクライナほどひどくはないと思います。」げんにこんな何時間も走っていますけどガタガタ道が全然ないじゃありませんか、この路面は私らに言わせれば「理想的」ですよ。「これよりひどい道路が一体あり得るのかい?」あり得ますよ。あなたをぜひオデッサにお招きしたい。

会話の内容を紹介したら切りがないが、もう一点だけ。先月24日だかのロシアによるウクライナ侵攻初日、氏は「パスポートなど貴重品をリュックにまとめた」のだそうだ。「でもあなたがたの国はアンダー・アブレラじゃありませんか」「それはそう。でもね、今回のことで、戦争最初期においてはNATOは頼みにならないと思った。NATOの圏域にもコア部分と周縁部分がある。ロシアが攻めてきたらNATOはまずはコア部分の守りを固め、それがある程度整ってから東欧防衛にかかるだろう。ルーマニアはある意味では今も緩衝地帯なんだ、それが彼らの本音だ」。電撃的攻撃に対してはルーマニアは自前の軍で応じるしかないが、ルーマニア軍の装備は惨憺たるものである、これまでしかるべき投資をしてこなかった……。

EUに入ること、NATOに入ることがバラ色の未来を約束はしない。ウクライナは多分、そのことに十分自覚的でない。

ブカレスト

さすがに一国の首都という感じだ。建物がでかい。道が広い。車がいっぱいいる。

でかいもの

左上より時計回りに、①「国民の館」とかいうやつ。チャウシェスク統治の記念碑的建築。今はルーマニア議会が入ってるそうだがでかすぎ。国の機関の建物としては米国防総省(ペンタゴン)に次ぐ大きさだそうです。②大学。③音楽堂。④なんだっけ。

美しいもの

旧市街にあるスタヴローポリ修道院。そういう名の街がロシアにありますが。非常に美しい正教会の寺院。(今や全然フレッシュでない)フレスコが時代を感じさせる。

こちらは外観からして(私らの目には)いかにも正教会の寺院。黄金のクーポラ。こちらも一瞬中にお邪魔しました。

社会主義ちっくなアパートにコの字に囲まれたレンガづくりの教会。東京にもなんかこんな光景ありますよね、近代的ビル群の中の神社。

街に車が溢れすぎている。この歩道占拠ぶりはオデッサよりひどい。車道も結構カオスな感じ。クラクション鳴りやまず。そもそも信号とか、道路のあり方そのものがあまりよくできてない気がする。歩行者目線だと、信号がやたらに長い。どう見ても「すべての人・車にとって赤信号」の時間があり、すべての人が無意味に待っている。

ミュージアム

滞在が長かったので、夥しく存在するミュージアムのうちいくつかだけ覗いた。

こちらルーマニア各地から19世紀の民家を移築した青空「ふるいおうち博物館」。すばらしかった。左上、キジー島(ロシア、カレリア共和国)の木造教会建築みたい。

こちら自然博物館。世界中の動物の剥製?が集められてる。展示のレベルは上野の国立科学博物館というより長瀞の埼玉県立自然の博物館に近い。太郎のミュージアムデビュー。

弾丸で美術館にも入りおおせた。子供がお散歩中ベビーカーで寝落ちしたので一番メインぽい美術館のナショナルアートギャラリー館に入って40分くらいで超速で見た。かなりよかった。イコンと肖像画は軽やかに素通りして(楽しみ方が分からない)、近現代だけ見る。左上から時計回りに、タイトルとか作者は全然わからないが、①好きな画題(近代欧州貴顕の古典時代風閑雅)②なんか好き③魅せられた④好き。マグダラのマリアかな。

この人の表現すごい気に入った。Dimitrie Paciureaという人で、左が「風のキメラ」右上「水のキメラ」右下「地のキメラ」。

同じ人の「The God of War」。そうなのかこれがお前の貌か?

ウクライナ支持

白か黒かみたいな単純な話じゃない、というが、「ロシアが攻めてこなければこの全てはなかった」「ロシアが攻撃をやめればこの全ては終わる」これに関してはまさに白か黒かしかない。

鉄道駅の待合はウクライナ難民の支援所になっていた。ゼッケンを着たボランティア(ロシア語を話す)がサポートをしている。ルーマニアから他の西欧諸国へさらに流亡する人が多いよう。私らは去るときここへベビーカーを置いていく。

その他

ローマの建国神話、オオカミに育てられたなんとかとなんとかの像。旧市街に立つ。ルーマニアとは「ローマ人の国」の意味であるとか昔NHKのなんかのドキュメンタリーで見た。ルーマニア語がイタリア語に似ていることもその何とかであるとかないとか。日本へ帰って落ち着いたらちゃんと知識固めたい。あまりに不勉強でよその国にお邪魔している。(ちなみに、これは特にヤシでだが、ロマ、いわゆるジプシーの人たちの姿が目立った。ロマというのもローマという言葉と関係があるのではなかったっけ)

左:スーパーの総菜で「ロシア風サラダ」があって、これは恐らく私たちがオリヴィエと呼ぶもの(→ロシア・ウクライナのクリスマスと正月~新年祭の過ごし方~)。隣のやつもロシア語のザクースカ(前菜)と関係がありそう。スーパーの総菜は概してウクライナやモルドヴァと比べて貧弱だった。右:パンはおいしかった。ジジイ2人がキーヴィジュアル、マーケティング手法として斬新な感じのLUCAというチェーンで朝食のパンを買っていました。

ちょっと外れたところに屋内にスケートリンクとかジェットコースターがあるという大きなショッピングセンターがあるっぽかったので行ってみた。このジャングルジムでたろ氏と飽かず遊ぶ。トランシルヴァニア行きを勧めてくれた方、すみません。結局はこういうことに時間を遣ってしまいました。

ルーマニア語

私は見てからアジア人なので、そもそもルーマニア語を話すことが期待されていない。だからおはよう・こんにちは程度でも言えば喜ばれ、そのあとすぐ英語に切り替えても許される感じがある。損なのは妻で、このひとはあらゆる国の人に自国民と間違われる。フランスではフランス語で話しかけられ(これはまだ対応できるからいいのだが)ロシアならロシア、ウクライナならウクライナ、で今またルーマニアでルーマニア人と思われてがんがんルーマニア語で話しかけられる。そーりー、あいどんたんだすたん・・の場面を何度も見た。

たろちゃんこそは無双である。Salut! Salut! と叫びながらガンガン輪に入っていく。

英語が全然できない人というのも勿論いる。本気のボディランゲージ合戦が2度ほどあった。どうにかなるものだ。どうにでもなる。それとは別に、私たちの利用したPCR検査屋さんの女性スタッフの1人がほぼ英語ダメで、スマホでGoogle翻訳(via英語)を使っての会話になった。

Unde este~?という場所を訊ねる表現を覚えてからは私がUnde esteで人に道を聞きまくるので妻は半ば感心・半ば呆れ顔。「ルーマニア語で聞くから皆ルーマニア語で答えるじゃん、どうせ分かんないんだから初めから英語で聞けばいいのに」。ちなみに私のこの火の玉特攻ぶりのロールモデルは驚くなかれ、埴谷雄高である。

Орел и Решка

Орел и Решка(ロシアの旅番組)にブカレストの回あるんじゃないかと探してみたらあったのである晩見た。イヴレーエワ(とベドニャコフ)のシーズン。

ロゴマークの色がウクライナカラーに変わっていて(サムネ左上とチャンネル名左を比較せよ)、この番組は旗幟を鮮明にしたんだなと知れた。もともとウクライナの番組である。何かとキエフを引き合いに出したりものの値段をグリヴニャで言う伝統は今も続く。ロシアの多くのコンテンツが見られなくなったが、私たちの好きなこの旅番組は今後も見ることができそうだ。

日本大使館(外交当局への思い)

ブカレストで二度大使館を訪れた。妻のビザと子のパスポートの申請と取得。思えばこの期間は大使館と関わりを持ったものだ。もともとお役所の世話になるのが好きでなくモスクワ4年半の間は最後まで在留届も出さなかった。それが今回は、ウクライナ館はもちろん、モルドバ館ルーマニア館にもあれこれ質問して煩わせた。謝意を表したい。そうして、今も戦っておられる館員諸氏に賛辞を贈りたい。

その上でだ。その上で言う。私たちの今回のウクライナ出国の決定と実行について、大使館は大してものの役に立たなかった。ウクライナ大使館について言えば、ウクライナ在住者に対する一般的な注意と、ウクライナ在住者全員に一律に勧めている退避勧告というものを電話でたびたびいただいて、それ自体を仕事として尊重はするが、私らは飽くまで超個別具体的に私らの土地で私らの防備で何が起きるか何をどこまで耐えうるかということで残留か離脱かを考えているので、いつもちぐはぐな感じであった。そうしていざ脱出を真剣に検討しだしたときに、こちらは「この点について情報収集が難航していて、この点に不安があるために出国に踏み切れないでいる、何か情報ありませんか」と具体的に聞いているのだが、そこでも一般的な注意を述べられたり、すでに調べ済みの「〇〇の発表では××となっています」程度の内容だったりして。結局、最後のところで私たちの決定と行動を支えたのは、妻の15年前の同級生だったり義父母の30年来の友人であったり、この土地に深く根を張った人たちの信頼できるネットワークから吸い上げた情報であった。それでしかなかった。

(具体的には言わないが、せめてテレグラムのこのチャンネルくらいは紹介してくれなかったかなとか、せめてこの場所まで行って聞き込みして帰ってくるくらいのことはできなかったのかなとか、正直、いろいろある)

佐藤優が「外交官は学校秀才には務まらない」とか言っていたと思う。その意味がわかる。こういう非常の際に、その僅々数か年の任期の中で、上に言った「土地に深く根差した人たちの横のネットワーク」にうまうま入り込むことに成功した外交官が一人いる公館といない公館では、在留者の脱出補助成功実績がまるで違ってくるだろうと思う。もちろんそれは言うほど容易なことではない。ある人たちに家族のように慕われるということが狙ってできるものか。そこはもう語学力はもちろん、愛嬌とかコミュ力とか、いかにも数値化困難な能力の領域だ。多分まさにそういうことが期待されてるのが外務省専門職員試験上がりの語学スぺシャリストたち、いわゆるノンキャリ組なのだろう。「異能の」外交官と呼ばれた佐藤などはまさにそういう一人だったのだろうし(ロシア屋としての佐藤はもう何年も前に終わってると思うが)、佐藤が「異能」と呼ばれてしまう程度に、そうした人材は稀少なのだろう。

日本

空港、飛行機

ブカレストからワルシャワ経由で日本に帰る。温暖で湿潤で緑ゆたかで桜の咲いている日本、というイメージ。

最後の日はブカレスト駅の待合(ウクライナ難民支援所と化している)にベビーカーを置いてきた。むろんボランティアスタッフと話して。この初代ベビーカーは太郎にとって文字通りの「揺籃」だ。ありがとう。ありがとう。この旅もおまえがいなかったらどんなに難しかったことか。最後のひと仕事ご苦労さま。誰かの役に立ちますように。

ワルシャワのフレデリック・ショパン国際空港の成田行き便の待合に多数の日本人。このような日本人の集積を目にするのは2年半ぶり。不思議の念。私の同国人。愛すべき相伍すべき同朋たち。ヒョロヒョロで姿勢の悪いやつがふんぞり返ってオレの世界ではオレがキングだと言外に誇示、これも日本人のひとつの姿だ、早速その醜い部分も含めて色々肌で思い出す。またフシギなことに、早速「他人の目が気になる」スイッチが自分の中で入る。そうだ、この感じ。相互監視、異者排除、均一で清潔で快適な国ニッポン。

私らはいかにも身なりが悪い。私も妻も一張羅が袖の辺り汚れていて「難民」て感じだ。持ち物も多すぎる。私自身の持ち物は研究社露和辞典とパソコンくらいのものだが子供の荷物がなにしろ多い。玩具もなんだかんだ義父がそっと荷物に忍び込ませた自作粘土アートたちとか道中買い与えたやつとか道中親切な人から貰ったものとか、気づけば結構な量になっていた。

飛行機は3席+通路+3席+通路+3席の大きいもので、しかし、ガラガラだった。確実に並びで座れるようにと1席5000円払って座席指定したのだが愚かな出費だった。「鎖国、してるんだねぇ」。夜はだから横3席使って横になって寝られた。とはいえ、子供を眠らすのに苦労したのと、子供が(寝相がめちゃくちゃ悪い)寝返り打って床に転げないように交替で見張りしたので、まぁ都合2時間くらいしか寝なかった。

到着、検疫、取材

成田へは定刻に着いたが、そこから検疫が長かった。事前のイメージでは旅券審査で係官に「おかえりなさい」と言われて泣いちゃう、という感じだったのだが、旅券審査に辿り着くまでが余りに長く、またあたかも「推定有罪」即ち保菌者であることが前提となっているかのようなハレモノ扱いに、歓迎されとらんなぁと苦笑した。

水際対策が今どんな感じか多くの人は知らないと思うので説明すると、そもそも入国者は搭乗72時間前以内のPCR検査で一度陰性を証明されている(でないとそもそも飛行機に乗れない)のだが、到着した空港でもう1回PCR検査を受ける。私らについていうと、ブカレストでは「口と鼻に綿棒みたいなやつ突っ込んで体液を採取して分析する」ちゅう方式のやつを受けて、んで成田では「唾液をぶちゅぶちゅ吐いて試験管に集めて分析する」ちゅう方式のやつを受けた。前者は子供には一瞬の不快で済んだ(大して泣きもしなかった)が、後者こそはなかなか大変だった。子供の話ね。唾液をぺっしてくれないのでスポイトみたいなのをもらってそれで口の中・歯茎とかベロの周りをぐりぐりなぞって微量の唾液を採取しては試験管に移し、それを300回(体感)くらい繰り返して、やっと規定量の唾液を得た。子供は最初激しく抵抗したが最後はなんか全然平気になった。消耗したのは親たちのほう。

そのあと長い長いスタンプラリーがある。夥しいスタッフがいて、こちらへどうぞこちらへどうぞ、でちょっと歩くと関所があって、やれパスポートの提示だ、アプリ(入国後の所在確認とか健康状態報告とかに使う厚生労働省指定のアプリ、MySOSというやつ)の提示だ。私らは難民スタイルで大荷物なので常に両手が塞がっている。無軌道すぎる2歳児(ヘヴィ級)を抱きかかえたのが一人と、両手に都合4つの荷物を提げているのが一人。同じアプリを何度も何度も開かせられるのに苛々してくる。本当にこのシステム練り切られてる? んで最終待合で体液の分析結果を待つ。長い長い待ち時間。でも子供の遊び場があったから遊んでた。子供的にはそこまで長くなかったと思う。結局、えーと飛行機の到着が13時20分で、トランクを拾ってシャバに出られたのが17時半くらいだった。(※ファストトラック利用)

お出迎え口には報道陣、多数のカメラ。ポーランドからの週に1本の直行便なので、ウクライナからの避難者を狙っているのだ。フラッシュの中で白人女性が涙に濡れて何か喋っていた。私らは尻目に過ぎた。よかったね私らスルーで。ウン、ほんとうによかった。

父母に迎えられた。父の運転で埼玉県北某所の実家まで、実に、実に、4時間。こんなに遠かったか。車中子供は再び寝た。22時過ぎ家につき、納豆ご飯を食べ(二年半ぶりの納豆)、ふしぎに眠くないのだが寝れば泥のように眠るはずというなかで、変にいっぱい寝てしまった子供がなかなか寝付いてくれず、スカイプでいつも見ていた「おじいさん・おばあさん」や猫たちに興奮して、そんでどうかこうか寝たのがもう何時なのか知れない。泥のように寝た。

新しい日本の私

外国に数年いて日本に帰ってくるという経験は初めてではない。だが今度の二年半の間には、世界的な疫病の流行があり、戦後国際秩序を揺るがす戦争があり、何よりも、私が父親となった。他の誰であるよりも太郎の父親である人となった私に、日本はまるで新しい国であろうと思う。

とはいえ①今はまだ帰国後7日間の自宅蟄居期間中なので、外の世界を全然知らぬ。②しかし見えている限りの世界については、私の脳は、あたかも昨日も一昨日もその前も切れ目なく見続けていたもののごとく、ごく自然に受け入れている。③今持っている、並の日本人とは違うぞという感じ、知らない人にも平気でガンガン話しかけていけるような気がする感じ、「日本語で会話する」ことがある種の遊戯であるような感じ、即ちいわゆる全能感は、それこそマリオのスター状態みたいなもので、早晩失効する運命にあることを知っている。今なんか高らかなこと言って鼻持ちならない感じに聞こえるかもしれませんが、ご安心ください、間もなくただの人になります。(以上「とはいえ」)

とりあえず今スター状態の者として率直に日本の印象とか奇異に思った点を指摘すると、まず案の定、この5分に1人くらいの頻度で2mの距離を置いてしか他人とすれ違わないような片田舎で、徒歩やチャリで道ゆく人が皆マスクしてるのに驚く。これは正直コロナというものを最初から最後までこれと全然異なる常識感で経験した私らにはキビしい(とはいうものの人に不快とか困惑を与えるふるまいには及びませんのでご安心を)。あと、なんか見ていると、人たちの動きが遅く、スローモーション見ているような気になる。その挙措、よく言えば楚々として、悪く言えばひねこびて見える。あと、細かいことだが、日本に着いた瞬間iPhoneのカメラの消音モードでの撮影にシャッター音が伴うようになりました(カシャッ)。

子供は日本語が爆発している。これまで環境的にどうしてもロシア語が優勢だったが、副音声と主音声が交替し、パパの言語で話す人たちが現実に存在するということが分かって、日本語で長い文章を喋ったり新規語彙を獲得することへの内的圧力が爆発的に高まっている様子だ。こうなると今度はロシア語の方を支えてやらなくちゃらならない。

とりあえず子供はマジで元気だ。私たちも、生活のリズムがまだ乱調で、全然眠れないかすごいよく眠ってしまうかのどちらかって感じなのだが、もうすぐ体もなじむだろう。じき7日の隔離期間があける。いつまでも親に厄介になれないので、だがちょいちょい車を借りたいのと孫に定期的に会わせてやりたいので、とりあえず近場に寓居を見つけるとこから始める。携帯買って、免許更新して、なんかしら仕事見つけて、ベビーカーのかわりになるなんか三輪車タイプのやつ買って、友達作って。大変だが、おもしろいことだらけだ。桜が咲く。

~了~

ウクライナやウクライナ難民への支援をお考えの方、日本外務省のこちらのページが支援先一覧になっています。

ウクライナからの避難民に対する支援の提供を検討されている方々へ

駐日ウクライナ大使館、モルドバ大使館、UNHCRやUNICEFなどの募金先がまとまっています。

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