ども、面白くない何丘です。
Twitterである人が教えてくれたのですが、
このブログは「現存する中で最もつまらない日本語ブログ」大賞にノミネートされているそうです。
さて、何丘が「終わっている」ことを示す徴憑はいろいろあるのですが、
友達が一人もいない、とかね、30代半ばにして無職・無職歴・無貯金であるとかね。
その重要な一つに「妻の愛を失いかけている」ということがあります。
妻は何丘に残されたほとんど唯一の「よきもの」であるので、これを失うわけには絶対にいかない。
ゲップ(ごえぇっぷ)のエピソード
子供(一歳)がぐずりだしたんで、妻が子供を連れて庭に出ていこうとしたんですね。気分転換のため。
そんでその出ていく瞬間に私が盛大なゲップをした。ゲップがクリティカル出すときありますよね。大きな音がして、妻の耳にも届きました。
それで妻が怒ったんですよ。「一秒したら私が出ていくのに、その一秒ガマンできなかったか。一秒待って、私が出ていってからゲップすればよかったではないか。私は存在しないのか。私に対して失礼だ」
親しき中にも礼儀あり
ハッとしました。これでは妻の愛を失ってしまう。ていうかこれは私がすでに妻への敬意を忘れてしまっていることの証だ。ヤバイ! 滅びの兆候だ!
それで思い出したんですよ「親しき中にも礼儀あり」を。
これは本当に知恵の言葉です。words of wisdom と「れりびー」でPマカーニーが言ってるヤツですよ。
おそらくこの言葉を作った奴も私と同じような場面を持ったんでしょう。私と同じように終わってる奴だった。そいつに残されたたった一人の「親しき者」が出ていこうとしていた。その出しなに奴は、ゴエェップを放った。振り返った「者」は言い放つ、「親しき中にも礼儀あり!」
そうするとこの語の発明者は最後の礼儀を失った方でなく失われた方だったのか。
語の起源はどこまで遡れるか
一般に、ことわざは、作者不詳である。
作者、つまり「その言葉を最初に言ったやつ」が判明している場合、その言葉は「名言」と呼ばれる。「誰それの名言」というふうに。
つまり、ことわざは、ことわざという語の定義からいって、作者不詳である。人口に膾炙したフレーズのうち作者が判明しているものを「名言」判明していないものを「ことわざ」と呼ぶのだ。
しかし厳密に言ったら、作者は不詳なだけで、存在している。
判明はしていないが、それを言った最初の人は、すべてのことわざにつき、存在した。
たとえば「親しき中にも礼儀あり」についても、それをこの言葉で(一字一句たがわず)最初に言ったやつ、おおよそこのような内容のことを最初に言ったやつ、そのどちらも、神のごとき知性があれば、突き止められるはずだ。
これは、雨の最初の一滴が指摘できない(地図上のどこまでで雨が降っていて、どこからが「雨催い」「雨上がり」であるかが指摘できない)という話と同じだ。この不可能性はあくまで「技術的」不可能性に過ぎん。
ことわざを最初に言った奴が誰かということは、人間には追跡不能だが、世界の歴史の中に確定した事実として存在している。
以上の内容をTwitterでどう言えますか
以上が私の言いたかったことだ。
つまり、以上の全部が。
私と妻のあいだに現実に生起した一場面。それで私が「親しき中にも礼儀あり」という言葉を思い出したこと。さらに、その知恵ある言葉の起源となったごく人間的な場面。その具体的な場面を突き止める神のごとき知性。
これら全部がひっくるまって、はじめてワタクシ的に「言うに足る」ことになった。
そんで、この全部をTwitterの140字にまとめるのは、ムリだ。
前段だけならいくらでも140字にまとめられる。たとえば
付き合い出した頃は(今の)妻の前でゲップとかオナラとか当然がまんしてたんだけど、平気で出してしまえる自分になっていて、それに気づいた瞬間『親しき中にも礼儀あり』という格言の叡智に震えた
これで92字。「いいね」が集まりそうでなくもない感じだ。
でもこんなこと言ってどうする?それ止まりだったらではどうなってしまうのだ、おそらく私と同じような人間たちによって演じられたいにしえの非礼の場面への愛慕は、それを人間界の局外でただひとり「知っている」神の知性への憧憬は、そうしてそれらのことがらを一挙に語ってTwitterの枠に納めることは不可能だ「だからブログが必要だ」とする私の本記事最大のポイントは?
たゆたうこと、脱線すること、その過程で深まったりアホったりすること。
そうしたことを楽しむ何丘ブログ、よろしくです。