ウクライナのオデッサに住んで2年になる。この街についての知識はさすがに「地球の歩き方」を超えているが、「Wikipedia」には多分まだ全然及んでいない。人間タベル・ソノ人間ノ力モラウの伝で、Wikipediaを食べて何丘モット賢ナル。
前書き
この記事は、Wikipedia日本語版「オデッサ」の頁をもとに我が住む街について勉強していくシリーズの第2弾、「歴史編」である。
前回「基礎編」ではオデッサの概要とか「オデッサ」という地名の由来についてなど学んだ。わりと楽しく、また、そう難儀でない学習だった。
だが今回「歴史編」は手こずりそうだ。私は文学部卒のくせに大変な歴史オンチ。コンプレックス解消のためにこれまで色々トライしたのだが、何読んでも最終的には頭に残らない。やっぱ10代で基礎作っとかないとこういうのはダメなのか。んで対するWikipediaの記述がまた歴史についてだけ妙に充実してるのだ。私はかねてWikipediaの人文系項目は全部歴史マニアが書いている説をとっている。オデッサに関しても、その他の項目はロシア語版・ウクライナ語版に比べて貧弱なのに、こと歴史に関してはさまで本家に見劣りしない。
だがこれをむしろ好機ととろう。私とWikipediaの知識量の落差が大きいところこそ私の知的飛躍のチャンスなのだ。ではいこう。
Wikipedia「オデッサ」歴史編:建市前史
さっそく出た。「キンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人」。萎える……。(これで萌える人がいるんだろう、逆に。そういう人らがWikipediaを書いている)
要はキンメリアもサルマタイもスキタイも遊牧民であるらしい。アジアから馬に乗ってやってきた集団が入れ替わり立ち替わり住んだ。それ以上深くは立ち入らないでおこう。
カチベイとハジベイの話は、しかし、押さえておきたい。というのもハジベイの名は今日のオデッサ生活でもしば耳目に触れるのだ。
いきなり何の話だと思われようが、地図ご覧の通り、黒海北岸のオデッサ周辺には狭隘な陸地に鎖された水域がいっぱいある。リマン(潟湖)と呼ばれるやつで、これについては前回「基礎編」でもお話した。そのうちオデッサ市に最も近いひとつ、青線で囲ったが水域がその名もハジベイ・リマンХаджибейский лиманという。(なお、赤線で囲った水域のうち、左がドニエストル川の河口部にあたるドニエストル・リマン。右はドニエプル川の河口部で、これも数千年後、今のキンブルン砂嘴кинбурнская косаが伸張して河口を鎖せば、ここもまたドニエプル・リマンとなるだろう)
んでさらに、ハジベイの名はこういうとこにも見られる。市内一等地にあるクリミア・タタールレストラン「ハジベイ」。
ことほどさように、オデッサがロシア化する以前の、現在ではほぼ完全に払拭されている「トルコ的なもの」の名残をわずかにとどめているのが、このハジベイという名なのだ。
んでなんだっけ。ちょっともう一回Wikipedia掲げよう。
流れとしては、タタール人がカチベイ集落つくる→15Cオスマン帝国がハジベイ集落つくる→18Cエニ・ドゥニア要塞建設、ということらしい。これを本国版Wikipedia「オデッサ」の頁(露、ウ)ならびに「ハジベイ」の頁(露、ウ)のページで跡付けてみる。
したところ、まず、どうもカチベイもハジベイも音写によるヴァリエーションに過ぎないようだ。何しろカチベイКачибейとかハジベイХаджибейとか呼ばれる砦と港湾を備えた集落が15世紀くらいにはどうやら存在していて、住む人を変え・荒廃と興隆を繰り返しながら歴史を下っていく。この間の経過は何しろ仮説と仮定の世界で、史料による裏付けが乏しく、ろくな物的証拠も出土していない。したがって、日本語版にある「15世紀にオスマン帝国によって<…>建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる」との記述は妥当性を欠くようだ。
ほんで時代も18世紀まで下ってようやくはっきりした事象が起こる。オスマン帝国によるエニ・ドゥニアЕни-Дунья(あるいはハジベイ要塞Хаджибейская крепость)の建設だ。これをもってハジベイは近代的な要塞都市・軍事拠点化するが、そこからロシアによる占領・オデッサ市の創建までは間もない。オデッサ港を望むハジベイ要塞遺構↓
んでやっと後段か。なになに、
出ました、露土戦争。露シアと土ルコの戦の争。不凍港つまり冬でも凍らない港を欲して南下しょうとするロシアが黒海の覇者オスマントルコに挑んで勝ち、黒海の制海権を手にしてしまうというあれ。1787-1791年だそうだ。日本史なら江戸後期。
その戦争の過程で、くだんのハジベイ(ハジベイ要塞含む)がロシア軍によって占領される。そうして1792年に現ルーマニアのヤッシーで結ばれたヤッシー講和条約Ясский мирный договорにより、ハジベイは正式にロシアの一部となった。
ここで3人の人名が挙げられている。海軍中将ホセ・デ・リバス、オランダ人技師デ・ヴォラン、皇帝エカチェリーナ2世。オデッサの父また母と呼ばれる人たちだ。
まずエカテリーナ2世はまさに露土戦争を戦い・勝利してロシア帝国の版図を広げ、のちエカテリーナ「大帝」と称される人(英表記Catherine the Great)、今日でも大変名望がある。彼女は自分がもともと非ロシア人であるからか、いや当時としては普通のことだったのか、政治や軍事に外国人を重用した。ホセ・デ・リバスといいデ・ヴォランといい、名前からしてロシア人じゃないだろう。
ホセ・デ・リバスはスペイン出身の貴族、軍人。デ・ヴォランはアントワープ(現ベルギー)出身の貴族、技師・建築家。ともに露土戦争にロシア側で従軍、戦後エカテリーナ2世の命を受けオデッサ市の創建に当たった。前者に対しエカテリーナ2世が送った詔書抜粋↓
黒海に臨むそのロケーション至便につきハジベイに軍用・商用の港を設置すること。<…>技師デヴォランが先に提出したハジベイ市・港の建設計画を承認いたす。同技師の参与のもと、同計画の実施に遅滞なく着手すること。
—全ロシア皇帝エカテリーナ2世、海軍中将デ・リバスに宛てた詔書、1794年5月27日(※現行暦6月7日)付け
これを受け港湾施設の着工式が厳かに行われたのが同1794年9月2日。この日がオデッサ市の創建記念日として今日まで祝われている。ほんで同年中もしくは翌年に「ハジベイ」は「オデッサ」に改称されたようだ(公式な改称令は見つかってないが、何しろ1795年1月の文書に初めてその名が出てくる)。
~オデッサ市創建史・了~
なおホセ・デ・リバスの名はオデッサ中心部の目抜き通りであるデリバス通りДерибасовскаяに残る。石畳の美しい道、ホコテン。
デ・ヴォランの方はデヴォラン坂Деволановский спускにその名が残るがこちらは両側に朽ち廃屋が並ぶ日陰の裏通り、悲惨な感じだ。最近ようやくアスファルトの敷き直しが始まった(→ニュース)
Wikipedia「オデッサ」歴史編:ロシア帝国時代(一)
ああ……正直しんどい。見るものが多い。道はまだ半ばにもさしかかっていない、だが、進むぞ。
要約するとここではこういうことが言われているようだ。すなわち、
・1794年に創建されたオデッサは、1814年までの最初の20年で急成長した
・そのキーパーソンはリシュリューという人らしい
・ただしペストが流行して人口の2割が死ぬなど、災難もあった
まず皇帝の代替わりについて。3人の皇帝の名が出てくる。順を追うと、1794年にオデッサが創建されましたろう、そのすぐ2年後、1796年にエカテリーナ2世が崩御(在位34年)。続くパーヴェル1世もすぐ1801年に暗殺されてしまう(在位5年)。その次がアレクサンドル1世で、その治世は1825年まで続く(在位14年)。今はこの間の話だ。
さてリシュリューの登場である。名前からしてロシア人ではない。フランス貴族だ。※17世紀フランスでルイ13世の宰相を務めたあの有名なリシュリュー枢機卿とは別人。
ポチョムキンの階段ごしにオデッサ港を見下ろす一番いい位置に銅像が立っている。※ローマ風のトーガを着てるが19世紀人である。
こんな超一等地に銅像が立つくらいに愛され・敬われ、その名が異国風に過ぎるものだから単にデューク(伯爵、Дюк)と呼ばれて親しまれている、リシュリューとは一体何した人か。
要は、草創期のオデッサにおいて11年間(1803-1814)にわたり市長を務め、オデッサをロシア帝国を代表する港湾都市の地位に引き上げることに大きく寄与した人。親密な間柄であった皇帝アレクサンドル1世に働きかけて関税の一時撤廃をとりつけ、海路でオデッサ(ひいては欧州)へ搬び込まれる全ての品物が無関税でオデッサ港を通過できるようにしたため、オデッサの貿易港としての利用量が爆増、ともなって人口も爆増、これを受けてオデッサ初の学校は開くは銀行は開くは各国領事館は開設するは。輸出の方でもオデッサ港はロシア帝国から欧州・アジア各国に穀物を輸出する大貿易港へと成長したということだ。そら港も見下ろすわ。
で最後、こちらの記述。ペストの話。
これについては本国版に「オデッサにおけるペスト」という独立した頁まであって(露、ウ)、その「1812年の大流行」の項、読んでて非常に身につまされた。突然の災厄、強化されていくカランチン(防疫)、言うこときかない民衆……まさにカミュ「ペスト」、まさにコロナ禍。
たとえばここ、従前の生活習慣を根本的に改めることなしに飽くまで弥縫策でなんとかしようとする庶民の姿。
感染リスクを下げるためと称して市民は次の原始的な方策を講じた。①海水浴。海水による洗濯。②金銭授受に先立ちお金を酢で洗う。③空気浄化のために焚火する。
それで感染が止まるはずもなく、市長リシュリューもついには完全外出禁止令を敷く。46日間の強制蟄居。市民が飢えて死なないよう商家から接収した小麦を配るなどして。けっきょく市民の9人に1人が死んだ。
それで疲れ果てたのか、リシュリューは1814年にオデッサ市長の職を辞す。その後は故地フランスに帰って、遠い祖先のリシュリュー枢機卿よろしく4年にわたりフランスの宰相を務める。まったく大した人物である。
Wikipedia「オデッサ」歴史編:ロシア帝国時代(二)
さてリシュリュー去りてのちのオデッサにまた一人傑出した統治者が現れる。そしてその人物に、あの問題児が絡んでくる。
本章の主人公は2人だ。ヴォロンツォフとプーシキン。ヴォロンツォフの時代にオデッサが自由港として爆速発展する、そこへ詩聖プーシキンが来て悶着起こしていくらしい。と、その前に、
用語を2つチェックしておこう。まず自由港Порто-франкоというのは、輸入関税・輸出関税が免除され、自由にモノが出入りする特別な状態の港をいう。オデッサには東京でいう環八(環状八号線)みたいな外郭通りがあって、それが自由港の境界をなしていた。これを今も旧自由港通りСтаропортофранковскаяと呼んでいる。
自由港通りの内側は自由港ということで、ロシア帝国の一部でありながらその関税主権の埒外とされていた(ただしこのカベを内側から越えて、港から降ろされた品物をロシア帝国領内に搬び込もうとすると、その時点で関税がかかる)。そうした一種独特の状態に、オデッサは1817-1849年の30年余り置かれた。その間に「飛躍的な発展」をみたというわけだ。
もうひとつ用語、ここが初出のノヴォロシアНовороссияという言葉。ロシア語かじった人には自明だろうが「新ロシア」と解せる。くだんの露土戦争の結果として新たにロシア帝国に編入された黒海北岸の一帯(現在のウクライナの東南部)がこう呼ばれた。んで、そのノヴォロシアの首都がオデッサであった。
ミハイル・ヴォロンツォフ
さて1823年、ノヴォロシア知事として、ミハイル・ヴォロンツォフがオデッサに着任する。このとき41歳。以後1854年まで20年超にわたりノヴォロシア知事を務める。この間どんなマジック使ったのかそれとも単に立地が良かったり自由港としての必然なのか、オデッサは急速な発展を遂げ、広大なロシア帝国でサンクトペテルブルク、モスクワ、ワルシャワ(現ポーランド)に次ぐ第4の都市にまで上り詰めた。ヴォロンツォフの事跡を並べると文化事業が目立つ。新聞の創刊、考古学博物館の開設、帝国第2の蔵書を誇る図書館の開設。有名なポチョムキンの階段が作られたのもヴォロンツォフの時代だ。
ヴォロンツォフの名はたとえば彼が設置した灯台の名(ヴォロンツォフ灯台Воронцовський маяк)に残る。
オデッサ湾に3つある灯台のうち最もオデッサ港ならびにオデッサ市中心部に近いのがこのヴォロンツォフ灯台で、オデッサのランドマークとなっている。オデッサは秋冬しばしば濃霧が発生する、そんな日は石畳の旧市街にこのヴォロンツォフ灯台の霧笛がこだまする。
ヴォロンツォフの名はもうひとつ、ヴォロンツォフ柱廊Воронцовская аркаと呼ばれる装飾的建造物に残る。港がよく見下ろせる。月見櫓的なやつか。
この白亜の柱廊は最近改修が行われて美しいが、すぐそばに建っているヴォロンツォフ屋敷と呼ばれる立派な建物は朽ち果てたまま長らく顧みられていない。このあたりはオデッサはほんとダメ。文化財保護に関してオデッサ(ウクライナ)がいかにダメであるかについて前にこんな記事書いた↓
アレクサンドル・プーシキン
ここで本章第二の主人公、詩聖アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンにご登場願おう。
1799年生れのプーシキンは官吏の身でありながら政府や皇帝をなめくさった詩を書いたかどで1820年に僻地勤務を命じられ、南ロシアに送られた。はじめベッサラビア(ノヴォロシアのすぐお隣。現在のモルドヴァにほぼ一致)はキシニョフの官庁に奉職。首都ペテルブルクの社交界で鳴らした若くて名望ある詩人ということで上司のおじさんたちから下にも置かない扱いを受け、まぁ仕事そっちのけであちこち旅行してまわったり詩作に耽ったりした(1824年までつづく南ロシア滞在中に『コーカサスの虜』『バフチサライの泉』をものし、さらに『エヴゲーニイ・オネーギン』に着手している)。
1823年、お隣のオデッサに赴任してきたミハイル・ヴォロンツォフのオフィスへの転勤を願い出て許され、プーシキンはオデッサに引っ越す。オデッサとプーシキンの出会いだ。オデッサのためには、このときプーシキンが来てくれたよかった。これで街にハクがついたというものだ。ゴーゴリと違って(その旧居は見るも無残、さっき紹介した記事)プーシキンの方のご来駕はきちんと今日まで有難がられており、市庁舎前には立派な胸像が立ち、市中心部には長くて太いプーシキン通りが走って、それ沿いにプーシキン博物館がある。
ちなみにキシニョフにもプーシキンの家博物館がある。展示はむしろこっちの方が充実していた。
ヴォロンツォフVSプーシキン
ヴォロンツォフとプーシキンは折り合いが悪かった。知事はプーシキンを詩人としてでなく、ただの下級官吏として遇した。つまらん仕事を命じられてプーシキンは侮辱を感じた。なるほど出自は同じ貴族でも官位は天と地ほど異なるのである。このときヴォロンツォフ41歳、プーシキン24歳。だがほんに詩人というのはまあ。ここもどこまでそれが深刻なものだったか諸説あるっぽいのだが、ともかく新入社員プーシキン君が新任社長ヴォロンツォフさんの奥方とロマンスを持ってしまうのである。
プーシキンは寝取られ夫のヴォロンツォフを嘲弄するような詩をいっぱい書いた。また基本的にプーシキンは職務について怠慢であった。一方で、プーシキンが知己に宛てた手紙を検閲してみるとそこには異端的な思想信条が記されていた、みたいな騒ぎもあって、とうとうプーシキンは官職を解かれてしまう。1824年、南ロシアを去って北方へ流転を続けるプーシキン。だがそれについてはまた別の物語が語られるであろう。
ところで、気になるのはこの箇所。
こんな話は初めて聞いたが、どうやらヴォロンツォフ夫人が形見の品としてプーシキンに指輪を贈ったのは事実のようだ。Wikiロシア語版には「プーシキンの指輪」という頁まであってかなりに詳しい。それによると、
・1824年、ノヴォロシア知事夫人ヴォロンツォワが別離の記念としてプーシキンに贈ったもの
・ヘブライ語の文言が書かれたお守りがわりの指輪
・プーシキンにはこの指輪について歌ったいくつかの詩篇がある
・プーシキン没後幾人かの手にわたり、一時はイワン・ツルゲーネフも所有した
・ツルゲーネフは自分の死後指輪をレフ・トルストイに引き継ぐ意思であったが実現しなかった
・1917年に盗難にあい、現存しない
現代でも芸能人とかアーティストがよく自宅に水晶飾ったりするがプーシキンも石の力について一種の迷信めいた信仰を持っていて、自分の詩的才能とこの指輪に象嵌された石の力を結び付けて考えていたふしもあったという。
ヘブライ語の文字というのは次のようなものだった。
「名誉あるラビ、ヨシフの息子シムハ、
そのメモリィよ祝福されてあれ」
なんのこっちゃだし、プーシキン自身その文字を判読し意味を解していたかどうか。何であれ異国の文字で何か書いてあればそれでよかったのかもしれない。
本章まとめ(あるいはWikipedia日本語版のロマンチシズム)
本章ではこの箇所を勉強した。再掲する。
大筋としてはこういうことだ。
・ヴォロンツォフ知事の時代にオデッサは大躍進した
・ヴォロンツォフは放浪の詩人プーシキンとひと悶着あった
日本語版にあるいくつかの記述については、ロシア語版・ウクライナ語版の各ページで裏をとることができなかった。たとえば「幼年期を持たない都市」というなんかカッコいい感じのオデッサの二つ名みたいなやつは、本国版にはちょっと見つけられなかった。これはしかし意味は分かる、桃から生まれた桃太郎みたいに急速に成長して気が付いたらバリバリ大きくなっていた、という譬えだろう。面白い表現だ。
もっと気になるのは指輪の話だ。「プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている」? 聞いたことがない。美談ふうだが、妙な話だ。ヴォロンツォワが贈った指輪をプーシキンがその後も大事にして肌身離さなかったことは、彼自身の詩篇や書簡、また彼を描いた複数の肖像画、同時代人の証言が多重に裏付けている。20世紀初頭まではその所有の変遷もはっきりしている。ちょっとこのような伝説が生じる余地はないかなと思う。少なくともWiki露語版「オデッサ」「ヴォロンツォフ」「ヴォロンツォワ」「プーシキンの指輪」の各頁、ウ語版「オデッサ」の頁にはそんな記述はなかった。
これらのことから、Wikipedia日本語版「オデッサ」の頁を書いた人は、ロマンチストなのではないか、と結論できる気がする。
次回予告
もうお疲れでしょうね。ここでいったん読むのをやめてください。今度また来て続きを読んでくださいよ。でも俺は行くよ。
前段はクリミア戦争の話。後段はオデッサのその後のさらなる発展の話だ。しゃあ!!
……と見せかけてこの記事はここで唐突に終わる。ちょっと長くなり過ぎた。続きは「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える③歴史編(後)にてお届けしよう。
(私ハ疲レマシタ)
【改めて、本企画の趣旨】
自分の住んでる街についてWikipedia程度には詳しくなろう、なろうことならそれを僅かに超えてみよう、ということで、Wikipedia日本語版「オデッサ」の頁を読んでいっております。
第1回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える①基礎編
第2回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える②歴史編(前)←今ここ★
第3回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える③歴史編(後)
第4回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える④気候・民族・言語編
第5回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える⑤経済・教育・交通編
第6回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える⑥建築・観光名所・文化編
第7回:「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える⑦国際関係・有名人編
正直、引くくらい前途が長い。基本的にWikipediaの外には出ない(Wikipedia各ページ各国版しか見ない)という限定のもとにやってるがそれでも見るものが結構多い。
だが面白い。色々勉強になる。すでにデリバス、リシュリュー、ヴォロンツォフあたりの知識は妻を超えた。俺は進み続ける!!