歩ってる奴、漕いでる奴、乗ってる奴

その他

三鷹の街の、歩行者と、自転車と、クルマの話。

※当ブログのメインコンテンツは「ウクライナ戦争側面史」ですので併せてお読みいただければ。毎日更新してます。お初の方にはこちらも勧める→「ウクライナの戦争に無感覚になってしまった人のための2つの動画」

わたくし(一人三役)

私は東京の三鷹という街に住んでいる。好きです。三鷹ラブ。

三鷹は自転車の多い街で、私はもともと災多魔の出身なのだが(歩いてるを「あるってる」と言う地域)、地元ではチャイルドシートつき自転車というのをかつて見た記憶がない。それが三鷹にはうじゃうじゃいる。私もその一人である。

私は今の生活で自転車に乗らない日がない。一方、私は歩く。歩くアラウンド、ぼーくはーあるーく。Thus、私は自転車乗りにして、歩行者でもある。

さらに私は、クルマを運転することもある。「くるま温泉ちゃんねる」を見た翌日はむしょうに車を運転したくなり、タイムズカーシェアで車を借りて、とりま東八を西へ駆け出していくのである。というのは全然嘘だが。

要するに私は、一身にして三生を生きるものといいますか、同じ一人の人間にして、ときに歩行者であり、ときにチャリ乗りであり、ときに車を運転する者でもある。そういう者として、三鷹の……てか日本の交通事情について色々思うことがあるので、ここにまとめてみる。

「自転車は車道を走れ」について

まず、自転車はどこを走るべきかについて。

自転車は道路交通法で車両と定められているのでその走るべきみちは車道の左肩である。――知ってる。だが幅員狭きにより車道などとても走っていられない=歩道を走らざるを得ないケースは現実にあるし、そこのカド右に入るからとか、その路面店に用があるからとかで、歩道に上がっていることもふつうにあるよ。

今さら言わでものことだが敢えて言う。自転車は歩道を走ってもいい。

これをことさらに言うのは、まれに歩行者氏に聞えよがしの嫌味を言われるからだ。すれ違いざまに舌打ち、あるいは、「自転車は車道でしょぉ・・」とか。知ってるつーの。お前は昨日今日日本に越してきた人間なのか。路上の現実しらんのか、お前自身は自転車で絶対にこういうことをしないのか? とプチ腹立たしい。

法律か知らんが、六法の行間=現実の街区においては、自転車は歩道も走るよ。それがストリートの抜き身の現実じゃ。自転車は両義的、「自転車は車両であり、また歩行者でもある」。

たとえば私のケースだと、後ろに子供が乗るタイプのチャイルドシートつき自転車を使っていて、チャイルドシートの部分は横幅が広く、その部分がなんかに引っかからないかということを常に気にしている。また、子供が体の一部を横に張り出さないかということも常に気にしている。そして、がんらい電動アシスト自電車ではないので、大したスピードも出せない。そんな状態で①道幅が狭く自転車レーンが全く確保されておらず②車がびゅんびゅん通る道において車道を走るのは、こっちもストレスだし、自動車側もストレスだ。そのとき傍らに明らかに誰も通っていない歩道があれば、それは通るよ。いや人が通ってても、すませんつって、通ることはあるよ。しらとりはかなしからずや空の青、海の青にも染まず漂う。

自転車が歩道を通るときの3つの心得

さりとて、自転車と歩行者の接触事故のリスク、これを軽んじるものでは決してない。

思うにこれは、ひとえに自転車側のモラルの問題である。

私は次の三重の戒律を奉じている。自転車は、歩行者に対し、「危険」を与えないのは当然のこととして、「恐怖」はおろか、「不安」さえ感じさせてはならない。

大前提、可能な限り車道を行くことが望ましいところ、歩道を「使わせてもらってる」のだから、相対的強者となってしまっている自転車は、弱者たる歩行者(本来の有権者)に対し、可能な限り優しくあるべきだ。走行スピードは、歩道に上がった以上は、ほとんど歩行者と同じ速さでしか進めぬことを覚悟せよ。

で、自分を通すために歩行者が片側に寄ってくれたなら、必ず「すみません」と言う。ある背中について、この人どいてくれへんかなと思ったら、ちゃんと肉声で声をかける。ベルなど鳴らさない。ベル一発りんと鳴らして人をよけさせるのは横柄だ。

道路におけるふるまい美人

基本的には、相対的な交通強者が、弱者に譲るべきである。車>自転車>歩行者の順に強い。

たとえばクルマは、横断歩道前一時停止をきちんと守り、行っちゃっていいのかなと迷っている歩行者や自転車(特に子供)に対し、そっと手で「どうぞ」と示してやる。したら人たちは安心して渡っていく。こういうさまは見ていて気持ちがいい。道路に美の神が舞い降りている瞬間である。

あるいは、クルマ対クルマで、道をよく知ってる地元の人が、ここ右折たいへんですよねいいですよ今行っちゃって(今行かないとだいぶ待ちますよ)、とパッシングというやつをする、これはなかなかできることじゃない。私などできたためしがない――ほとんどあらゆる道をよく知らんので。できる人には尊敬と感謝あるのみ。これも相対的強者(道よく知ってるやつ)の弱者(知らんやつ)に対する優しさである。

こうした強者からの恩恵に対して、弱者は会釈で一礼するのが美しい。クルマであればさしずめハザード点滅だが、角度・タイミング的に無理なく可能であれば、ちゃんと目と目をあわせて会釈するのが一層好ましい。

で、なおのこと美しいのは、この弱者からの一礼に対し、強者の側も会釈で応えることだ。これは「お互い様ですよ」「別のときには私のためにあなたがそれをしてくれた(してくれる)でしょうから」ということで、恩義を受けた負い目を弱者(その状況でたまたま相対的に劣弱の側であった者)から取り除いてやる優しさである。

たとえば、私が自転車で歩道を通行中、前を行く/すれ違う歩行者に道の片側に避けてもらったとき、私は肉声で「すみません」と言う。すると、その避けてくれた人が、「いえいえ」とか言ってくれる。そのときだいぶ救われるものがある。こういうことばかりだと、日本の街路はいかにも美しい。ヴィム・ヴェンダースが今度は日本の便所でなく道路を題材に映画を撮ってくれるであろう。

男女の偏見

これは偏見といわれればそれまでだが、私の観察では、上記のような「美しいふるまい」に及んでくれるのは、圧倒的に女性が多い。

クルマに限っていうと、私は自分が歩行者ないし自転車であるとき、近づいてくる車の運転席に女性が見えたときの方が安心する。横断歩道で待ってくれそうだし、よけて通るとき気を付けてくれそうだ。若い男性だと少し警戒する。商店街とか住宅街をいやなスピードで(制限速度30kmのところを50kmくらいで)走っていくのは、何丘しらべ、大抵が青壮年の男性だ。交通強者は交通弱者に対し①危険はおろか②恐怖も③不安さえ与えるべきでない、という三重基準を奉じる私は、これがちょっと許せない。「こんなとこそんなスピードで走んなよ」咄この乾屎橛。

一方、自転車に関しては、私は乗ってるのが若い男である方が安心する。運転技術が高いことが予想されるから。これも何丘しらべの話であって、女性にははなはだ失礼な話かもしれない。運転技術というのは、要するにたぶん、状況認識の適確さ、状況に応じたとっさのハンドル操作の適確さ、ということだと思う。経験則として、若い男性は概してその能力が高い。

わたしと自転車

わたしは、それでいうと、自転車に乗るのがうまい方だと思う。わが妻を見ていてとっさのポジショニングとかタイミングが全然なってないなと思うことがよくあり、翻って自分は、まぁ一応はそういう勘所を押さえているよなと思う。

もともと自転車はわりと好きで、学生時代・新宿区の某片隅に住んでたときは授業終わりに力と時間を持て余して意味もなく横浜までチャリ飛ばすということが度々あった(桜木町のバーミヤンで夜明かししてただ帰る)。あるときは八景島まで行き、別のときは湯河原まで行った。どこまで行けるか試してみようと、箱根を越えたこともあるし、伊豆半島を一周したこともある。そのときは名古屋まで行って、高山経由で富山まで登って、ばあちゃんちに泊まり、長野から災多魔へ帰った。

こういう小さい武勇伝が他にもいくつかあって、要するに車道も歩道もさんざ走ってきたのだ。それでなんとなく、自転車についてなら自分に語る資格があるように感じるのである。

強者に対する弱者の思いやり

また妙なことを言うが、道を渡るのが自分一人であるときは、押しボタンというのは原則的に押さないほうがいいと思っている。私はなるべく押さない。押せば信号かわると分かっていても、何台か見送ってクルマの流れが途切れるのを待つ。流れが切れなそうなときは手で制して押し渡る

これは私なりの親切というか、クルマのことをおもんぱかってのことなのである。押しボタンを押してしまうと、私一人が渡ったあと、信号が再び青になるまでの時間、何台もの車が何の意味もなくただ待つ。だがもし押しボタン押さずにただ渡るのであれば、私一人が渡ったらすぐ車たちは交通を再開できる。こういうのなに、ウィン・ウィン!て言う? この私の合理的意図よ伝われ、そして車よ止れと念じて、手をかざし流れに竿さすのだが、大抵は「押しボタンあるんだから渡りたきゃ押せや」とばかり、押し流される。哀しい。

このように、交通弱者の側からの、強者への思いやりということも、ある。

これは実際もっとあってよい。たとえば交差点で、歩行者の信号が変わった。同時に同一方向の自動車用信号も変わっている。一部の車は左折したくて歩行者の渡り終わりを待つ。このとき歩行者は、とっとと渡るべきなのだ。スマホ見ながらちんたら歩いてないで。同じ一つの信号をてめえと左折車と共有していることを知れ。各人の貴重な時間の逸失を累積さすな。

まとめ

思ったより主張というか提言を多く含んだ。

【歩行者への提言】
・自転車が折り目正しく歩道を拝借してるとき、すれ違いざま舌打ちすな。
・横断歩道はとっとと渡れ。車待たすな。急がなくていいけどな。足元気ぃつけろよ。

【自転車への提言】
・歩行者に「危険」はもとより「恐怖」も「不安」さえも与えるな。
・車道は無理するな。歩道使え。安全が第一だ。行政が悪い。お前は悪くない。
・だが歩道は元来歩行者のためのものだということを重々心せよ。スピード出すな。
・歩行者に道をあけてもらうときは声がけを。肉声で。鈴鳴らすよりよっぽど感じええぞ!

【自動車への提言】
・歩行者と自転車に「危険」はもとより「恐怖」も「不安」さえも与えるな。
・商店街と住宅街を爆走する人へ、「こんなとこでそんなスピード出すな」。
・もう一度いう、危険を与えないだけでは足りない。恐怖も不安も与えるな。

押しボタンについては、私のやり方が変だと思うし、あまり推奨されないことかと思うから、提言とはしない。

要は、誰でもときにドライバーであり、ときにチャリダーであり、ときに歩行者なのだから、互いの事情を斟酌して、互いに寛容になりましょうということ。

特に自動車のような強力なマシンを駆ってると、自分まで超人になったかのように錯覚しがちだ。でも飽くまで人間と人間のことなのでね。

車に待ってもらったときは浅くでいい一礼す。その鉄の箱の中には人間がいるのでね。で、鉄の箱の中の人間も、常態としては鉄を脱いで生身で生きているんだから、会釈には運転席から会釈を返しましょう。相見互いですよ、と。

歩ってるやつ、漕いでるやつ、運転してるやつ、

みな、「人間であれ」。 

補記

自転車は歩道を走ってもよい、自転車と歩行者の接触事故のリスクを軽んじるものではないが、これはひとえに自転車側のモラルの問題だ……と書いたが、モラルの持ちようは人によりけりだし同じ人でもモラルの発動の度合いは時々で異なる、だからこそ一律に法律で規定しているのだ(即ち、自転車は飽くまで車道を走れ)というのは、正論には違いない。だが法律とか原則論が勝ちすぎて道路上に現実に自転車の居場所がなくなっている。だからあえてモラルの側の言説を展開しておきたいと思った。記事執筆の動機はそこだ。(つまり、歩ってる・漕いでる・乗ってる奴のうち、「漕いでる奴」にひときわ強く自己同定している奴がこれ書いた)

自動四輪、二輪、二足の三者共存について、ひとつ重要な論点を語り落としていた。交差点進入の問題。自動車がイケルー思って交差点進入したはいいが先が詰まって信号変わって交差点内に取り残される。歩行者としては大変に迷惑な、また自動車としては大変に恥ずかしい状況だ。これはまず自動車側に言う:状況よく見て、無理かなと思ったら進入自重しとけ。次に歩行者にも物申したい:そうはいっても読み誤って進入してしまうということはあるのだから、ガンたれたんな。迷惑やな、思っても、見ぬふりして、すっと通れ。で再度自動車に:運転席で傲然と居直るな。ふんぞり返るな。恐縮しとけ。で、最後にもう一度歩行者に:恐縮してるのを見て取って、かさにかかってがんたれるな。そっとしといたれ。

ここに国際比較を持ち込んでも面白い。日本人は、たぶん直接性とか一人称性をきらって間接に空気を醸して分からせたいという志向が強く、「迷惑ですよ」「軽蔑します」「バァカ」みたいな意味を、目で伝えてすぐそらす。だがウクライナとかロシアの人は、伝えるならもっと直接に、大きな身振りと聞こえる声で、数秒間にわたり罵言と諭説を展開するであろう。おもっくそ尾籠なたとえをすると、日本人は自身のパンツの中にぶにゃっと水便を吐いて、そのにおいを拳に握り込んで放つ(にぎりっぺ)。より多く自身の徳性がダメージを受けている。その点、露助とかウクライナの民は、固形うんこを吐きだして、それを手づかみして投げつけるくらいのことをする。私は日本人のにぎりっぺスタイルは大変にみっともないと思っている。その意味でも、本気でウンコ投げつけるくらいの気合がないのであれば、見て見ぬふりをしてすっと通り過ぎるが宜しい。

というと、がんたれは「不快の表明」でなく「懲罰」なのだとする一派から批判がありそうだ。せめてがんたれることで不用意なる交差点進入者を居心地悪くさせなければ、どうやってこの種の不快事の再発を抑制していくのかと。この一派は「社会改革派」とも称せる。私はしかし、この考えにあんまり同調できないのである。運転席で恐縮しているような人は今回たまたま不慮の事故として交差点進入してしまったのだろうから歩行者たちのがんつけによってさらなる恐縮に追い込む意味はないと思うし、運転席で傲然としているような人にはいくら懲罰的がんたれ(あるいは「教育的がんたれ」)を行っても甲斐がない。結果、自分のパンツが汚れるだけだと思うんである。どうかな。

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