私はどうしたらいいんでしょうか

その他

オデッサに帰ることになるかもしれないです。憂☆鬱。

※その後、「ウラガワ日記」に点々と記したような経緯により、オデッサに帰ることとはなりました。9月4日現在、オデッサ(州)にいまして、そこでの日々を「夏休みの絵日記」と題する記事に綴っています。飽くまで一時の帰省です。

政策の失敗

私の政策は失敗したというわけだ。妻は春頃からホームシックがひどくなって今年の夏こそは里帰りしたいと言い募り、しばしば物陰で涙を流していた。私は(悪いけど)そんなことができるわけないと思っていた……というのも南部におけるウクライナの反転攻勢今か今かと噂されていて、南部が激戦になればオデッサも安泰とはいかない筈だった。そこで私としては、妻がそんなことを言いださなくなるほどに日本でハチャメチャに楽しい夏にするという方針を立てるしかなかった。ベストを尽くしたとは到底言われまいが、一応そこそこ頑張ったんすとは言わせてほしい。妻の快適を日頃から心がけ、気遣い、お出かけも企画した。

その間にオデッサでは、義父母の住まう団地へのシャヘド攻撃があり(6月10日、4人死亡)、私たちの旧生活圏のど真ん中へのカリブルの垂直陥入があり(6月14日、3人死亡)、大状況としては、カホフカダムの爆破でオデッサの海はいよよヘドロの海と化し、水質の悪化と感染症蔓延のリスクが叫ばれるようになり、極めつけに、ザポロージエ原発危機。気の毒だけど、これで分かったよね、と思った。さすがにもう何も言えないでしょ、こんな場所へ帰れるわけないっしょ、と。事実この間、妻は静かだった。義父母からの「帰ってこい」コールも鳴りを潜めた。

だが妻は、義父母も、諦めていたわけではなかった。

たぶん領土解放作戦の推移を見守り、情勢を見極めていたのだと思う。一昨日、非常に強い攻勢をかけられた。「ねぇダーリン、おねがい。かえらせて。かえろ。オデッサに。2週間とは言いません、3週間でいい。そうさね今から1か月後、8月の半ばとかに、最低3週間、最大5週間ほど、みんなでオデッサに帰ろうよ、帰ろうよ!……」

提示された条件

私の中で帰郷の可能性は厳密に0%であって交渉の余地は全くなかった。「ウクライナに確証的に安全な場所はない」「今日の静穏は明日の無事を約束しはしない」この2命題に話は尽きている。お望みなら各論もずらずら述べるが、はっきり言って妻と戦争の話をすること、帰郷の可能性について考えること自体が、大変に厭わしかった。

それでだいぶ邪慳な態度をとるのだが今度ばかりは妻も食い下がり「話し合うことすらしてくれないならそのことによって私は不幸になる!」と宣言、そんなふうに自らの幸福を人質にとられるとこちらとしても聞かざるを得ず、聞くと、ま~これわ、私の説得のために妻と義父母でだいぶ詰めてきたなというのが明らかな。地図、

何しろこの話の味噌は、オデッサには立ち入らないということだ。今は(私らの出国時と違って)モルドヴァの空が開いていて、キシニョフまではイスタンブール経由とかで問題なく行ける。そこからは私らの昨年の出国ルートをちょうど逆向きにたどる。パランカ国境からウクライナ(オデッサ州)に入境。そこからオデッサ方面へ車を走らせ、ちょうどパランカからオデッサまでの中間地点くらいにある、私らのダーチャ(別荘)のある村へ。ここまで、義父の車で僅か1時間の道のり。そして滞在中、私らはこの村から出ない

・・ほう?

これは思い切った譲歩であった。おもてなし精神旺盛な義父母のこと、せっかく私らがオデッサに来たならば、市内の団地にある本宅にも連れていきたいだろうし、街に入って一緒にオペラのひとつも見たいだろうし、郊外の川や湖で釣りもしたいだろう。だが、あらゆる誘いを自制することを義父母は誓っている。で且つ、そうはいってもその場の勢いでどっか行こうよとかなった場合には、妻が断固としてこれを拒否してくれるそうだ。

妻はいう。「村から1時間で国外に出られる。何もないことを願う、正直、何もないと思っているが、1時間の距離であれば、たとえ何かあってからでも逃げられる」。これには私自身、説得力を感じてしまった。

何があり得るか①ミサイル/ドローン攻撃

私らが村にとどまっておるとき、その村の生活を脅かすものは、何があり得るか。

まずはミサイルとか自爆ドローンによる攻撃であるが、これは「何かあってからでも逃げられる。国境までは僅か1時間だから」論の例外である(当然)。来たらそうと知る前に死んでいる。

だが、私たちの村がそういう攻撃を受けるということは、まずないと思う。これまで一度も攻撃されていないし、今後もまず、正直、ないと思う。だって、マジで何もないとこなんだもの。ウシとヤギとガチョウしかいない。ミサイルもドローンもロシアにとってますます貴重なものになっている。ウクライナの防空ポテンシャルを都市防空に吸引拘束する等の明確な目的なしにムダ撃ちできる状況ではない。

私たちには衛星画像をOSINTする能力はないが、虫の目でもどこに何があるかということはだいたい視えている。村に攻撃目標となり得るようなものは何もない。ふたつ隣の村(ジョニーの出身地)にはかつて軍に関連する施設があったが早期に滅ぼされて今は何もない。ということまでちゃんと視えている。視えている、というのは、村人の情報ネットワークにきちんと捉えられている。そして、そのネットワークに義父母は十全にアクセスできる。

22年2~3月時点での私の懸念は「なるほど現時点で私たちの村に軍関連施設は何もない、だが、戦況の変化に伴い、この村に新たに軍関連施設が設置される(すなわち、敵にとっての攻撃目標が村内に新たに出現する)ということもあり得るじゃないか?」というものだった。だが今回、もし仮にそういう動きが感知されれば、そのことは私たちの即時退避の理由に「なる」、という言質が得られた。そのとき私らは予定を早めてモルドヴァへ去る。義父の車で1時間、「何かあってからでも逃げられる」。

何があり得るか②原発テロ

ザポロージエ原発を震源とする放射線災害が起きるかもしれない、という話。だが、

ザポロージエ原発からオデッサまでは言うて310km離れている。私は東北大震災のとき埼玉県北の実家にいた。福島第一原発から実家まで200km。泡くってうわぁ沖縄に逃げなくちゃぁなど思わなかった。

現在のところ、ザポロージエ原発で何らかの核災害が引き起こされるとしても、放射性物質の飛散の規模は限定的との見方が有力、と認識している。とはいえ風向き次第でどこにどれだけ広がるか分からない。だがそれも、「国境まで1時間、何かあってからでも逃げられる」の範疇だ。

何があり得るか③沿ドニエストル

モルドヴァの東部一帯が沿ドニエストルと呼ばれる事実上のロシアの飛び地になっていてそこに侵略軍が一定の戦力を保持している。沿ドニの「首都」は下の地図で太字表記のティラスポリという街である。ティラスポリから黄色い幹線道路を通ってオデッサに入ろうとする試みが理論上はあり得る。その通り道でブチャのような惨劇が演じられるかもしれない。測ってみると、キエフ中心部からブチャまでの距離と、オデッサ中心部から私たちの村までは、ほぼ同じ距離である。

ただし、沿ドニのロシア軍は脆弱で士気も低く、本国からの補給も事実上不可能なため、ほぼ無視してよいという認定が下ってもうだいぶ経つ。沿ドニ発の破壊工作みたいな話も開戦当初はよく聞いたがもう随分ご無沙汰だ。あと、私らの村は、ティラスポリとオデッサを結ぶ幹線道路からは外れたところに位置している。

というわけで、沿ドニ発の脅威という線も、おそらくは何事もないだろうし、あったとしても例の「何かあってからも逃げられる」の適用範囲かと思う。


・・という具合に、ミサイル、ドローン、原発、沿ドニ、いずれの問題も、さしあたり、大丈夫なのでわないかと考えられる気がする。

オデッサ(街)に関しては、たとえば滞在期間が2週間だとして、その間にオデッサに一発もミサイルやイラン製自爆ドローンが飛んでこないということこそ逆に考えにくい。だが、こと私らの村に関しては、1時間以内の国外脱出というオプションによってスウェー不可能な脅威は、まずないと見てよいように思う。

ポイントは、妻や義父母のような情報強者が、私の懸念をよく理解して、アンテナを常時高く張ることを約束してくれているということだ。異変の兆候を掴んだら即逃げる(逃がす)というイメージを皆が共有してくれている。この点が私一人「二つの現実」の狭間で焦慮していた22年冬とは決定的に異なる。義父母の協力姿勢の最も強力な表現は、私らの滞在中に24時間即応態勢を取るために、義父が夏の休暇の取得を保留しているということだ。私らの帰省に合わせて2週間以上まとめて休むつもりだという。

では、そうまでして私らがオデッサに帰らねばならない理由とは? オデッサに帰ることで、私らは、また義父母は、何を得るのか?

皆さまの幸福

帰ら「ねばならない」理由など何もない。帰ることで何を得るか。幸福を得る。

まず。妻は望郷の念に病んでいる。春頃しょっちゅう泣いていた。もともと妻と両親の精神的な結びつきは強い。親元から離れて暮らしていた期間も短くはないのだが(モスクワ10年、日本5年)どの1年をとっても夏には必ず帰郷していた。2022年3月以来、1年4か月も両親と会えていないというのは、妻にとっては異常事態である。帰郷と再会によって妻の愁眉はきっと開く。

。保育園の宿題で七夕の短冊を書かされて、二枚もらったので一枚は私と日本語で一枚は妻とロシア語で書いたが、ロシア語の方の願い事は「Хочу в Одессу(オデッサに行きたい)」であった。だがこれは妻や義父母のプロパガンダが悪い。子に対してこそ、「ハチャメチャに楽しい夏にしてオデッサのことなど忘れさせる」という政策は本来有効だったはずだ。

義父母。義父母にとって太郎は最愛の初孫である。2歳までべったり一緒だったが3歳の1年間はずっと離ればなれだった。テレビ電話はよく繋いだが、どうしても子供は画面ごしの相手と集中してお喋りができない。この間に太郎の語学力は均衡が崩れ、日本語がやたら強化されてロシア語が相対的にだいぶ劣勢になったために、義父母とスカイプ中であるのに太郎が日本語で何か話し出したりなどして、義父母としては「私たちの太郎ちゃんが全然話の通じない遠い存在になってしまう」という感じで哀しかったろう。それでもめげずに、太郎の歓心を買うべく、義父は義父で粘土アートの製作に励み(「義父の粘土アート」で検索)、義母に至っては絵本を手製した。それを日本に郵送するやら、それをもとに短編映画を撮るやら、まったく涙ぐましい努力があった。そんな義父母にとって、太郎との再会はどれほど喜ばしいことか。

言葉の問題については、やはりロシア語優勢の環境に子供を置くことで、壊れてしまったバイリンガルの均衡が回復されることが期待される。今は環境の影響でどうしても日本語が優勢になってしまって、妻は寂しい思いをしている。子供が自分の言語を話さないという哀しみは国際結婚の夫婦でもないとなかなか分からないと思う。二歳までは私の方が不利な環境で戦っていたので、この辛さは大変よく分かる。

あともう一つ、義兄のことがある。義兄はこの間、子の父となった。だがこの義兄は壮健な成人男性であって、いつ徴兵されてもおかしくない。義兄夫婦と、新生児。私たち夫婦と、三歳児。じじばば。この全員が一堂に会すチャンスは、実はこの夏を逃すと、もう得られないのかもしれない。

まとめると、オデッサに帰ることのメリットは、
・妻は両親に会えてうれしい
・義父母は孫に会えてうれしい
・太郎のバイリンガル状態が是正される
・義兄一家と集まれる(もしかしたら極めて得難い)チャンス

ここで気づくが、この中に私(何丘)が出てこない。終章となる次章では、その私について一言したい。帰郷は妻や義父母や子や義兄に幸福をもたらすが、私には何をもたらすか。(一面、もちろん、幸福をもたらすのである。私の愛する人の幸福はまた私の幸福である、という観点からは。しかし、それに尽きるものではない……)

私の…(不幸?)

仕事的には2週間留守にするくらいなら特段問題ない。その意味からは、渡航自体は可能である。

渡航は可能であり、果たせれば多くの人が大きな幸福を得られそうなミッションではある。

だが私は……

私は、どうしたらいいですか。

もう一度いう。私のアーギュメント(論拠)は「ウクライナに確証的に安全な場所はない」「今日の静穏は明日の無事を約束しはしない」、この二か条である。

だが、上で見てきた安全性をめぐる「各論」に対して、私の論拠の抽象的なこと。ザカルパチア(最西部の州)のような例もあり、ウクライナといえども「ほぼ確で安全な場所」というのは、ある、と言わざるを得ない。「今日の静穏と明日の災厄は矛盾しない」というが、ここでは車で1時間の距離というのが効いてくる。災厄の兆候をつかんでから、あるいは、災厄が発生してからそれがこの身に及ぶまで、僅か1時間のうちに、安全な隣国へ避難できる。

それでも、行きたくない、といったら、私は何なのだろう。

あるいは、それだから、行きます、と言うとしたら、また私は何なのだろう。

私の侵略国ロシアに対する非難の立脚点は、ウクライナという国で実際に市民生活を営んだ者として、その「生活の破壊」を糾弾する、というものだった。いわく、「戦争とは、何よりもまず、生活の破壊である」。その私が、「生活」をしに、再びウクライナへ? 何なのだ、それは。私は批判の根拠を失うのではないか。ロシアの侵略下でも生活は可能ですよと自ら証明しに行くようなものではないか。

とはいえ、思想の一貫性など、犬に食わせろ。私が追及すべきは、第一に、家族の安全。第二に、家族の幸福の最大化だ。

行くのか、俺は。ひたすらに厭わしいのだが。この肉体があの場所へ行く。という想像がひたすらに苦い。行きたくねえ。22年冬の緊張や恐怖が身体にまだ染みついている。そしてこの間、報道など追い続けるなかで、「ウクライナに安全な場所はない」という観念を刷り込まれ過ぎてしまった。

もうひとつ考えるだに忌々しいことは、私は性格上、すいませんこれもちゃぶ台返しみたいなことを言いますが、村まで行ったからには、オデッサに行かないことは無理なんだ。見たすぎる。この間の変化を。エカテリーナ女帝像なきエカテリーナ広場を、凌辱されたプーシキン像を、街中「戦う猫ちゃん」グラフィティを、そして……シェフチェンコ広小路、破壊の爪痕を。さんざそれについて語ってきたことを、この目で見たい。ビーチに立つ「危険、地雷あり」の立て札も。見た過ぎる。絶対に見に行ってしまう。事ここへ至って、この男は戦争を何だと思っているのだろう、自分は絶対死なないとでも思っているのか、と、完全に自分の方位磁針が狂っているのに気づく。お前、俺よ、お前いったい何なの。呆れるしかない。


【拾遺】
もうこの記事はここで終わってしまいたいが、書こうと思って書き洩らし、今さらどこに挿入していいか分からない事柄を箇条書きで。
・行くとすれば、日本外務省の退避勧告を無視して行くことになるが、そのこと自体は大して気にならない。
・水質の心配をする人があるかもしれないが、私らの村はドニエプルでなくドニエストルから取水していて、どうも問題なさそうである。
・子供には戦争のせの字にも触れさせたくない、とよく言っている。恐らく、せの字でなくとも、sの音くらいには触れてしまうことになる。防空警報は確実に聞く。ただし、うちは村外れなので、耳に届く音としてはごく小さい。言いくるめられる。爆発音は、恐らく、聞かなくて済む。子供のいる場で戦争の話は絶対にしないということでは義父母ともコンセンサスをとれている。テレビ・ラジオを聞かせるのは以ての外。ただし、それでも、子供をそうした環境に置くことには、大変な厭わしさがある。
・私にとって渡航の決断は「大いなる幸福」のために「確実な安全」を一時放棄することだ。すなわち、幸福と安全のトレードオフ。しかし、私以外のメムバーには、たぶん「私以外の幸福」と「私の安心」のトレードオフという構造しか視えない。
・妻に、あなたはダーチャがあまりによき思い出とばかり結びついた場所だから絶対安全であるというイメージの虜囚(плен)になっている、と指摘したところ、「あなたのほうこそニュースを見過ぎてウクライナは危険だというイメージの虜囚になっている」という逆襲を受けて、なるほどそうであろう、と思った。

行くのか行かぬのか、結論はまだ出ていない。飛行機のチケットだって前もって取らなきゃいけないんだから二三日中に心を決めよと言われている。どうしようか。俺はどうするのだろうか。どうしたらいいですか。どうであったら私に失望しますか。

憂☆鬱☆彡……。

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