7月の活動報告

オデッサ/ウクライナ/ロシア

7月は4か所でしゃべった。

1. 高校でしゃべった。
2. 大人たちの前でしゃべった。
3. 大学でしゃべった。
4. 劇団でしゃべった。

高校でしゃべった

近所の高校でしゃべってきた。何しろ生徒の3分の1が留学生という、非常に国際色のゆたかな、東京・三多摩の某私立大学の高等部だ。1~3年生20人ほどが聞きに来てくれた。

四章に分けてしゃべった。

①平和な時代のオデッサ
②戦争始まってからのオデッサ
③私らはいかにしてオデッサから避難したか
④ウクライナ避難民の生活と支援

拙いスライドを用意してった。

↑こんな感じで、原則自分で撮った写真から、オデッサの街中の観光名所とか、あと私たちのダーチャ生活とか紹介した↓

ここまでを何しろ厚めにしゃべった。その狙いは2つあって、まず、ウクライナという地名が戦争によって初めて前景化してきた、戦争のほかにウクライナと聞いて連想するものがない、という高校生たち(大概そうであろうと思われた)に、良かりし日々の、美しいオデッサを見せたかった。(早めに来ていた生徒たちには別フォルダからキエフ旅行のときの写真など見せたりもした)

もうひとつの狙いは、戦争によって破壊される当の生活というもののサンプルを示したかった。破壊されたというのは他ならぬこれ(またこれに類する4400万種のもの)であるよと。きみたちも耳にするであろう、やれアメリカが、とかNATOが、とか、プーチンがとかゼレンスキーがとか、そういう大きい主語による語りを。だが結局のところ戦争は個々の生活者の生活の破壊、それでしかない。というときのその生活という語に内実を与えたかった。

そこから話は鋭角に暗黒の領域へ。2022年1月の街並みから、侵攻、逃走、オデッサのその後~今日まで。

避難に至るまでの内的葛藤とか避難そのものの経過とか(何丘ブログ「手記」「流亡の記」に書かれてるような事がら)についてはサッと一刷毛で済ましてしまった。そんな興味もないだろうと思ったというのが一つと、あと、「手記」に書いたようなことをコロキアルに再言語化するのが奇妙に大儀というか、うまくできる自信がなかった。

その後のオデッサの戦局の推移みたいな話も、これもこんな記事とかこんな記事とか150日も書き続けてるくらいだからしゃべれるっちゃしゃべれるのだが、話し出してすぐ「この話はたぶんつまらない」と心づいてしまって、というのも彼ら(高校生たち)の生活からあまりに隔絶した話をしてると思った。あとオデッサはしょせん戦争の脇役であって(so far)、こんな外伝みたいな話を細々しても仕方ないと思った。のでかなり端折った。

だが「社会の変化」のほう、つまり、戦争はじまって市民の生活や社会はどう変化したかという話(空襲警報のこととか徴兵のこととか「浜は地雷原」の話とか)はわりに手ごたえがあった。こういうのは一応自分たちの生活の延長上で考えられなくもないことだから。

こんなスライドも用意した。

いろいろ忙しいだろうからウクライナの話題に付き合える時間も一日の中にそうないであろう。最低限どういうことに気を付けてニュースに接すればよいか。まず当事者発信の情報は全て留保つきで受け取るべきであること。時間が許し興味があるなら第三国メディアのファクトチェック記事に当たるもよし、でもそんな時間も興味もあるわけはないので、簡便な道としては、①とりま両当事者が一致してこれこれの事象があったと言っているのであればその事象は事実あったのだとしてよい②両者の説が矛盾している場合には原則的にウクライナ側の信憑性を高く買ってよい。この最後のものはそんなこと言っちゃっていいんかいというレベルのぶっちゃけだが、それなりに考えがある。

で最後に、私が日常的に接している十数組のウクライナ避難民の話をして、支援の在り方と問題点を指摘して発表を終わった。70分くらいしゃべったんかい。

質疑応答

続く質疑応答はかなり充実したものになったと思う。みんな私をいじめて楽しかったに違いない。というのは冗談だが、私にとってかなりタフな時間であったのは確かだ。というのも、さすが高校生、いろいろ聞きかじっている。「ウクライナがNATOに入ろうとしたことが戦争のきっかけになったってどこかで聞いたんですけど、なんでウクライナは自分がヨーロッパとロシアの狭間みたいな微妙な位置にいるってことをわきまえずにNATOになど入ろうとしたんですか」みたいな質問が平気でくる。「戦争が終わらないのはアメリカが武器を供給するからだって話をどこかで聞いたんですけどそうなんですか」とか「どうしてロシア人は戦争を支持してるんですか」みたいのもあった。おいおい待ってくれ、俺はオデッサのことしか知らないっつうの。などと言うわけにもいかないから、額に汗して答えるのだが、専門家でもない人間がという気後れと、ギリ知ってはいるが知悉しているわけではない事柄をしかも噛み砕いて説明せねばならないというオペレーションの複雑さに、かなり消耗した。

質問はあらゆる方角から来たが、やはり①(オデッサローカルのことよりは)この戦争そのものの発端とか現状とか今後みたいな、全体的なことが多かった。あと②「ロシアにも理が/ウクライナにも非があるのでは」系の流説について意見を問われることが多かった。いかにいろいろ聞きかじってしまうかということだ。また、いかにこの問題について、これまで誰にも聞く機会がなかったかということだ。私はオデッサの街とそこでの生活についてしゃべります(専門家ということではないですよ)といって登場し、実際ほとんどオデッサの話しかしてないのだが、生徒たち視点では、なんや珍しくウクライナ戦争について知ってそうな大人が現れた、質問をぶつけられる得難いチャンス、というふうに見えたとしても仕方ない。

散会後

感動したのは、約束の2時間が経過して、では何丘イワンさん今日はありがとうございました、生徒たちよもう下校時刻ですから散れ散れという段になって、商売道具を鞄にしまっている私に生徒たちが一人また一人とやってきて、何か一言感想とか追加の質問とかしてくれて、その生徒たちがほとんど列をなしていた、皆何か言いたかったのだ。

この会をセッティングしてくれた古い友人TNKと歩いて帰る帰り道、私は消沈していた。望まれたものを必ずしも与えられなかったという悔恨。私の能力と生徒らのニーズに齟齬があって、自分の得意なオデッサの話をだいぶはしょった代わりに自分の元来する資格もないようなウクライナ戦争全体のことをかなりしゃべらされて消耗したというのと、あと、結果的にいろいろしゃべりすぎてしまって、主題というものがない、中心的なメッセージがない、なんとも何を得たと名指しがたいナゾの会になってしまったのではと思った。

みたいなことを内心くよくよしながら表面上はむしろ快活にふるまっていたつもりだったのだがTNKがだしぬけに「生徒たちもモヤモヤを持ち帰ってくれるといいんだけどね」と言い放って、おおおそれはすごいまとめ方だなと思った。たしかにひとつ学んだ賢くなったクリアになったあースッキリした、みたいな感じで帰られると逆に困る。私の話を聞いたあとに人はモヤモヤしてほしい。<モヤモヤの伝道師>ということでやっていくことにした。

大人たちにしゃべった

7月中旬、
大人たち30人くらいを相手に、
Zoomでしゃべった。

難易度の高いミッションだった。さる高名なスラヴ研究者の名を冠した勉強会で、その人と直接の師弟関係はないが、私も久しくその高著に接してきた。中心メンバーには私からすると父の世代にあたるプロのロシア屋さんたちが名を連ねる。とはいうものの勉強会じたいは参加自由でロシア語のабвもしらない人も聞きにくる。それがかえって難しい。どういう知識を前提にしてしゃべったらいいのか。オンライン開催なので高校でしゃべったときみたいに皆さんの反応を見ながら軌道修正ということもできかねた。

とりあえず基本線としては、先生方に向けてしゃべることにした。屋さんの皆さんは勿論オデッサについてもろもろ知識をお持ちだが、それでも実地に訪れた人は少ない筈であった。そこを私は行ってきた、住んでみた、出産・子育てを経験した、コロナを経験し選挙を経験した、その最後には2週間ほどであるが戦争も経験した、そうして避難して、その後も毎日見ているニュースによるとオデッサはおおよそこういう状況になっていて、今後はこうなりそうである。以上報告終わり。そう、「報告」と位置付けることにした。

芸風は変わらない。ヘボいスライド見せながらしゃべる。図版が喜ばれると聞いてたので多めに。

↓このあたり、マニアックな話をあえてしようとする意思がうかがえる。オデッサはロシアの街か、ヨーロッパの街か。

「オデッサはロシアの街」説にいわく、この街は18世紀末に露土戦争に勝利したロシア帝国のエカテリーナ女帝が開き、詩聖プーシキンの来訪によって一種聖別されたロシアの街である。他方、「オデッサはヨーロッパの街」説にいわく、実際にこの街を築いたのはヨーロッパ各国から招かれた技師たち政治家たちで、その後もずっとオデッサは多文化・他民族の混住の地であった。戦時下でいっそう鋭利に問われているオデッサのアイデンティティをめぐる問いだが、この街の一種の混血性は、現在の市中心部の街路名に象徴的に表れている(右図)。ロシア的なものを縦糸・ヨーロッパ的なものを横糸に編み上げられた街、それがオデッサだ。……みたいな話であった。

もっと近い歴史に目を向けると、オデッサは全ソ・全ロレベルの文化人の出身地であり、ソ連・ロシアの大衆文化(映画、テレビドラマ、歌謡、小説……)の中にはオデッサで作られたもの・オデッサを取り上げたものも数多い。下の写真、左はオデッサ映画スタジオとヴィソツキー像、ここで有名な刑事ドラマМесто встречи изменить нельзяが作られた。右はオデッサ某所の壁絵、ジュヴァネツキー(こういう人)とオスタップ・ベンデル(Двенадцать стульев)。

どうせZoomで画面共有しながらしゃべってるのだからYouTubeでこれら動画の断簡零墨を見せてやったらどうだろうと思い各作品を頭出ししてスタンバらせてたのだが、ジュヴァネツキーのすべらない話を1分ほど視聴してもらってる間にふと我に返り、この時間、実は人数でいくと屋さんより多いはずの一般参加者が完全に置いてけぼりになっている、と心づき、以降もうマルチメディア戦略に訴えるのはやめた。

概して私は迷走していたと言ってよい。Zoom講演とかいって、顔の見えない相手を前に、完全な静寂の中で、一人でただしゃべり続けるということがもうムリであった。この話ちゃんと面白いだろうか、このまま続けて大丈夫だろうか、とアセアセして、わけがわからなくなっていた。ブザマをさらしたと思う。少なくともリラックスしていればこそ出てくるはずの天才性みたいなものは求むべくもない状態だった。

けれどもなんかかんかしゃべり続けてはいて、コロナのこととか選挙のこととかダーチャのこととか「ここがダメだよオデッサ」とかね、気づくと1時間ほど経っていた。「平和なオデッサ」に45分、「戦争始まってからの話」に45分、んで質疑応答30分というのが理想であったところ、平和編だけで60分。これはやばいと思った。後半へーつづく。

うだだー、うだだー、うだうだだっだ、「お前の生態ジュゴンと一緒」。後半は戦争始まってからの話ということだが、私にできる・私のしてよい話が次の4点であることは変わらない。①私たちはいかにして戦争を経験したか。②私たちはどのように避難を行ったか。③その後オデッサはどういうことになったか。④避難民の生活とはどのようなものか。支援のありようと、課題。

戦争の経験については、やはり何丘ブログ「手記」に書いたようなことがらを再話するというのがなんか難しく、そんならいっそ過去の記述を読んでもらおうということで、何ブロから何か所か引いて紹介した。

そんで戦争のオデッサ局面について5か月のなかで特筆すべき事象をいくつかピックアップしてお話して、

そんで最後に、ロシア人・ロシア語・ロシア文化はロシア国家の侵略戦争に対し連帯責任を負うか、という話をした。この勉強会がその名を冠して開かれているところの老先生はじめ、聞き手の皆さんは屋さんは屋さんでも政治経済でなくロシア文化(文学)研究者が多かったため、この話はぜひしたかった。ビビりながらではあるが。

4人の言葉を紹介した。左上から時計回りに、エルミタージュ美術館の偉い人、ウクライナの一番偉い人、若いロシア作家、現代ロシア文学を代表する作家。

4人のオッサンの中でロシア人とかロシア文化は戦争と無関係だと明言しているのは若い作家のみで、あとの3人は形は違えど皆、ロシアと名のつくすべてのものが侵略者というコノテーションを帯びることを容認している。私がこれら引用によって言いたかったことは、言うは易しの「戦争と文化は別」「ロシア国家と個々のロシア人は別」だが、本当は必ずしもそんなこともないんじゃないだろうかということを、一度自己に真率に問うてみることくらいは、少なくとも必要なんじゃないでしょうか(と思いますが……)ということだ。ロシア語とかロシア文学に長く親しんだ者が「いうて文化とか言語は別でしょ」というとき、その根拠が、「今さらロシアを否定されたら、それとガッツリかかわってきた私の人生はどうなるんだ」「私の食い扶持はどうなるんだ」ということでは全く足りない、と思っている。そこのところを突いてみようと思った。不遜にも。

対話の中であればうまくも言えたと思う。だが虚空に向かって一人しゃべりしている私には持論を滔々と述べるなどはちと無理であった。急速な尻すぼみをもってこの話題は閉じた。実に情けないことだ。この問題に関しては先に書いた何丘マニフェストがひとまず私の到達点だが、これはこの問題を構成する10ある要素のうち解決できた1について書いたにすぎず、残り9割については今も悩んでいる。

んで避難民について駆け足でチャチャッとしゃべってもう100分ほどになってしまい、質疑応答には20分ほどしか残されていなかった。(すでに私はグロッキーだったと想像してくれてよい)

質疑応答

時間がなかったが4人ほどの質問に答えられた。さすがに大人の方々なのでなんというかトリッキーな質問はなく、基本的に自分の手に負えた。とはいえ後から思えばやはりもっとうまい言い方はあった。私が話の中でちらっと触れたが深入りはしなかった部分についてそこんとこ詳しくというような質問が多かった。

最後にシメの言葉を先生、ということで、その人を一番の聞き役にして会が開かれていたところの碩学にバトンが渡され、何を言われるかと恐々として言葉を待つと、何しろ初めて聞くことばかりでたいへん勉強になった、文化は大事というけれど、まず考えなければならないのはこの戦争をどう止めるかということであろうと改めて思った、考えることを続ける、とおっしゃって、深く深く恐れ入った。これ以上私を救う言葉は神様でも思いつけなかった。私が(不遜にも)文化研究者の皆さんの前に問うてみたいと思いながら尻すぼみで言い切れなかったことを確実に汲んでくださった。どういう心の耳があればあの拙い発表でこんなにものが伝わるのだろう。不思議なほどだ。

その晩から翌日にかけて、会の主催者を通じて数件の感想と質問を頂いた。このような反響があるのは会として珍しいこと、とのことだった。言うまでもなく私の手柄では全くなく、それだけ皆さんが心を痛めている話題なのだ。

~Special Thanks~
Nさん。ことの大本はNさんがO/Kさんに僕を引き合わせてくれたことです。Nさんが僕たちのためにしてくれたすべてのこと、かけてくれたすべての言葉に深い感謝を捧げます。ことし起きた一番悪いことについては言わずもがな、ことし一番よかったことは、あなたと出会えたことです。

大学でしゃべった

母校の
露文科の
学生十数人を前にしゃべった。
4年生の授業を一コマいただいた。

こういうのはあんまり緊張しない。前の晩もよく寝た。プリントを作っていった。(教師プレイ、せっかくならプリント配ったり板書したりしたいと思った)

オーディエンスの属性がはっきりしてるとしゃべりやすい。露文の学生なので言葉のことを厚めにしゃべった。とりわけウクライナ語の話を多めに。自分も学習中の身でまったくいい面の皮だなとは思いながら。なにしろウクライナ語に興味をもってもらいたかった。露文の学生にとってロシア語とかロシア文学はある種絶対的なものである筈なので、それをあえて相対化しようとした。この学校にウクライナ文学科がなく、ウクライナ語を教えてさえいないことと、ロシア国家がウクライナを属領と見なしてその領土主権・同盟締結権・国家運営方針決定権を認めないこととは無関係ではない。

スライドも見せた。例の勉強会で使ったやつを7割ほど間引いて再構成して、基本的には①平和な時代の魅力的なオデッサ②戦争始まってからの私たち及びオデッサ、の二部構成。②については例によってロシア文化無原罪論に釘を刺すみたいな話を重めにしたつもり。質疑応答に時間をとりたかったので端折り端折り、60分で自分のターンを終えた。(授業は90分間)

質疑応答

質問の手は全然上がらなかった。仕方ないので指した。当てられると何かかかしゃべるのだが、それも、何となく挙手は遠慮してたが実は秘めたる思い万丈、というよりは、如才なさでしゃべっているという感じだった(印象)。当てられればこれくらいのことはしゃべれる知的能力はあるんだぜ、と示す、みたいな。あとは「12年に仕事でモスクワに渡ったというその仕事というのはどうやって見つけたんですか」とか「オデッサではなんの仕事をしてたんですか」とか「このあとどうするんですか」みたいな、きゃりあ の心配が多くてやはり4年生ということかぁと思った。ホストの若先生が「発表と関係ないパーソナルな質問ばかりですみません」と恐縮されていた。いいけど。

散会後

ではこれにて終会です何丘イワンさんありがとうございました散れ、散れ学生たちよという段になって商売道具を鞄にしまう私のもとへ一人二人と学生が……やってくることはなかった。サァーッと退潮していった。あの高校生たちが露文に進学して4年後、こんな白けた感じになってしまうのか? 学生の常として諏訪利一、もとい座り位置はだいたい教室の真中~うしろのほうに散らばっていて私はマスク越しに結構声を張らなければならず、それで80分くらいしゃべり通して結構なエネルギーが出ていったという感じがするのだが、それ(エネルギー)はただ出ていってどこにも吸着されなかったのか? 私は「ひとりカラオケ」に興じていたのか?

だがこれはもちろん私が悪いのだ。というか学生たちは悪くない。私が同じ教室で学生をやっていたとき既にロシアの大統領はプーチンだったが、プーチンとかマジで興味なかった。政治とか天下国家のことのような些事にかまけている人を心底軽蔑していた。私にとってはキリーロフの人神論の方がはるかに重大でアクチュアルであった。私に何をいう資格がある?

今も同じような学生たちが露文の大勢を占めているのだとしたら、その彼らに、壇上の私は何なるクリーチャーに見えていたであろう。ドストエフスキーのドの字も出さず、政治とか社会とか戦争の話ばかりするやつ。シンパシーなどあるものか。降って湧いたような奴が降って湧いたような話をしていったと見えても仕方ない。もしかしたら私は、遠回りなようでも、自分ももとはただのロシア文学青年だったんです、という話から始めたらよかった? 皆さんと同じように、詩と音楽と恋愛以外に真面目にあげつらうべき問題はこの世に何一つ存在しないと信じる者でありました、それが14年のモスクワで、すべてが変わってしまったんです……。

あと、<モヤモヤの伝道師>という観点から、私のパフォーマンスはよくなかった。というか、古巣だし聞いてる先生方も旧知だしという心安立てと、あとなんだかんだこういう機会はもう3回目ということで、緊張もしていなかったし、ある意味でパフォーマンスがよすぎた。結果、自分のよく知っていること・しゃべり慣れていることを自信満々でしゃべる、みたいな感じになって、それがかえってモヤモヤの伝道という意味ではよくなかった。ホームでしゃべっているならなおさら、少し冒険して、あえて自分に解決のついていない問題、自分が目下悩んでいる問題についてしゃべり、その悩むさまを見てもらうというのでもよかった。

今のところ3回しゃべって3回ともしゃべり終わったあと消沈しているのだから世話がない。

劇団でしゃべった

古巣の劇団でしゃべった。
稽古場で。
8人くらいを相手に。
7月の末。

現役からするとOBは他人だがOBからすると現役は身内だ。まったく緊張しない。基本的に露文の授業でしゃべったとき使ったプリントとスライドを流用した。何しろ前回の反省を活かし、なるべくインタラィティヴに・対話的にということで、車座に座って、ちょいちょいクイズなど出しつつ進めていった。大画面へのスライド映写ができなかったので画面は参考程度、基本的にはプリント見てもらって、むしろ音声資料聞かせた。ソビエトびとたちの人口に膾炙したオデッサソング、これとかこれとかこれ

ちょっと説明がめんどいのだが、この劇団はロシアと関わりが深くて、基本的にメンバーはロシア通もしくはロシア文化に関心のある人たちである。やる演目もチェーホフとかが多い。なので、やはりロシア文化のキャンセルの風潮について厚めにしゃべった。寛容ということが原則であり理想であるが、それが不可能(困難)な場面もある、ある場合にはむしろ積極的に不寛容の道を選ぶべきであるし、ある地域で極端な不寛容が行われていたとしてそれを説教するような資格が局外者にあるかということは一度立ち止まって問われるべきである、「と僕は思うんだけど君たちはどうだろうか」。

質疑応答

一人ほど非常に温度感の高いのがいて(君のことだよM)、質疑応答はわりと熱度が高かった。私が一方的に与えるというのでなく、互いに学びを深め合っているという感覚があった。問題意識を共有している人(同じ問題について互いにある程度のところまでは考えている人)が相手だと話の深まり方がちがう。

というのは少々ええかっこしいな物言いであって、基本的には彼らの発言の中に私がこの間一度も考えなかったようなことは何もない。すべての点につき私の思考が二歩も三歩も進んでいたが、それを何か完成形とか決定版のような形では提示しなかった。まだ自分の中で答えは出ていないがとりあえず今の時点ではこんなふうに考えているという言い方をして、ともに考えるというような場になるように図った。それがモヤモヤの伝道という意味ではよかったと思う。

散会後

私にこの機会を与えてくれた劇団の芸術監督(худрук)K氏とあと一人と飲んだ。私は飲めば飲むほど不機嫌になるのであまり人と飲まない。私の話の内容が尾を引いていたのは一杯目を飲み干すまでで、二杯目からあとはK氏ともう一人の熱い演劇論。「この人ら全然モヤモヤしてないやん」と思ってしまった。これは私がいびつなのだ。私は戦争被害者ではない。何ら被害は受けていない。だがあまりに長くまた心を傾けてこの問題と取り組んでしまっているので、もう世の中の大概のことに関心がない。私は変わった。歪んだ。

その他

こんなふうにして諸所でしゃべった。こんな話うちでもしゃべってほしいという方いましたら何丘TwitterよりDMください。

あと7月はオデッサから少年を避難させる手はずを整えるのに忙殺されていた。ひと一人日本に呼ぶというのは容易なことではない。

あと私の本が出るらしい。何丘ファンは喜んでください。

古い友人に再会してまわるキャンペーンも続けていて、7月の2つの再会につき、何丘の名をもっと高めて「お金を集めたい」と強く思った。①ドイツ住まいの古い友人がウクライナから避難した児童のために絵本(ドイツ語/ウクライナ語)を自費出版している。一冊はもう出たのだがお金があれば改版したり二作目を作ったりしたいと言っている。②某事業の一環でロシアに渡りロシアの演劇事情のレポートをしてくれていた友人が今度のことで強制帰国となってしまった。本人はロシアに戻ることを熱望している。
私はどちらの取り組みもとても意味のあるものだと思っている。お金さえ集められれば実現するが、私も友人たちもその才覚が全くない。クラウドファンディングについて知見のある方、相談に乗ってくれると嬉しいです。

以上、7月の活動報告。ダーチャの猫たち元気です。

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