バイリンガルな何丘さんち

その他

子育てのこと、言葉(言語)のこと。
子:ウクライナうまれ、4歳、ロシア語・日本語バイリンガル。
妻:ウクライナうまれ、ロシアそだち、日本語検定1級。

随時更新。上の記事ほど新しい。

「ウクライナ侵攻」の話

妻のイントネーションを直すことがある。師範学校で模擬授業あるからちょっと文また単語の発音みてと請われて。私は実は生まれだけ外国でSaitamaというところなのだが、あとはずっと東京育ち・東京住みなので、わりと標準的に標準語を操るものと自認している。

でも、分からなくなることがある。そのイントネーションそれで合ってんの? みたいな。

さっき某京王社移動手段乗ってて、しきりに「事故防止のため手すりにおつかまり下さい」とアナウンスがあり、この「事故防止」ということばのイントネーションにずっと引っかかっていることを改めて思い、ここに書いてみることにした。

私は、「じこぼうし」は、「高低高高高」、すなわち、「こ」で一度落ちなきゃおかしいと思う。「事故多発」のときと同じように。
でもアナウンスは、「低高高低低」で言う。麦わら帽子、みたいなメロディで。それが正しいんだろうか?

あと、ロシアのウクライナ侵攻という、その「ウクライナしんこう」を「低高高高高高低低低」でいう人があって、え、と思ったことがある。一人でない、何人も出会った。私が見てない日本のテレビの一般報道ではそのイントネーションが使われてるのだろうか。浄土信仰とか、正教信仰みたいなノリ。

私はそこは「ウクライナ・侵攻」と、つまり「低高高低低・高高高高」と、一度「イナ」あたりで落としたい。落として、「ウクライナ」と「侵攻」を切り離したい。そうあるべきだと思うんだが、どうだろうか。

「は」と「が」の話

はとがの話というと「ゾウは鼻が長い」の話かと思われようがさにあらず。太郎は日本語の「は」を「が」のように言ってしまい、また「は」を「が」のように聞きなす癖があるらしい。ふしぎだねぇ。保育園にちはるちゃんという子がいる。この子をうちの子は「ちがるちゃん」と呼んでいる。ちがちゃん、ちがちゃんと言っていて、妙な名もあるもんだなと思っていたが、それはちはちゃん(ちがるちゃんの愛称)のことだった。下の方に書いてるが子供は日本語のハ行をロシア語式に喉の奥からかなり強い呼気で発音する一種の訛りを持っているので子供は当人の意識としてはちはるちゃんと言っていてそれが私の耳にちがるちゃんと聞こえているのかと思って「あなたのクラスに『ちはるちゃん』て女の子いる?」と聞いてみたら「ちがうよ、『ちがるちゃん』だよ」としっかり訂正されたので要するに太郎の認識ではその子はちがるちゃんなのである。

ということを言いたかっただけなのだ。これでこの話はおしまいだ。以下はボーナストラック、本項の初稿。「何丘は話が長い」

はとがの話というと「ゾウは鼻が長い」の話かと思われようがさにあらず。

子供は語彙とか統辞のレベルではロシア語と日本語を混同することがある(最近の例だと……Когда станет будильник? と言っていて「??」と思ったら、「なる」違いであった。「鳴る」=「成る」だと思っていて、後者の方をロシア語に直訳したのだ。つまり正しくはКогда звенит будильник)(もいっこ。最近晩メシを電気消してローソクつけて食べるのにハマっていて、この行為をпри свечах ужин(燭火の晩餐)と子供はいうのだが、ロシア語的には語順を逆にしてужин при свечах(晩餐オブ燭火)とするのが自然。日本語はあんまり後置修飾ということをしないので、その日本語に引っ張られてる)

カッコが長くなったので仕切りなおす。子供は、こういう語句のレベルで混同することはあるが、それはハタで聞いてる両方の言語に通じている者(私や妻)に謎解き(知恵の輪)の楽しさを与えるのみで、たとえば日本語知らないロシア語人がロシア語で太郎としゃべっていてこいつロシア語ネイティヴじゃないなとか、ロシア語知らない普通の日本人が太郎と日本語でしゃべっていてさてはこの坊やはハーフ? とか疑うことはまずない。発音は完璧である。完璧なバイリンガル。

でも実はいっこだけ、なまっているところがある。日本語のハ行(はひふへほ)の発音。これが、日本語としては、深すぎ(強すぎ)る。つうのも、ロシア語のはひふへほ(Ха хи ху хэ хо)は喉の結構深いところから強く音を出す。これにひきずられて、というか、そういうもんだと思って、太郎のはひふへほは尋常の日本人より明らかに高エネルギーだ。

するとどういうことになるかというと、ハ行が、ガ行と親近してくる。

もともとロシア語はH音をG音に転写しがちだ。ハリーポッターはガリーポッテルになるし、ヘンリー8世はゲンリー8世、ヘーゲルはゲーゲリ、ヘルマン・ヘッセはゲルマン・ゲッセである。ほんでウクライナ語のгというのはGとHの中間みたいな音で、たとえばウクライナ通貨は日本語でグリヴニャと書いたりフリヴニャと書いたりする。ようはHとGはもともと近しい音で、交換可能なのである。(cf. бог、гと書いてхと読む)

なんてことを子供に教えたわけではない。だが、保育園にちはるちゃんという子がいて、先生や友達からちはちゃん・ちはちゃんと呼ばれているのだが、子供はこの子を「ちがる」ちゃんだと思っている。ちがちゃん、ちがちゃん呼んでいる。はじめ「妙な名前の子もいたもんだ(でも今は何でもあるからな)」と思っていたところ、あとでその正体がちはるちゃんだと分かって、これはハ音のブレスが強いために当人の主観としてはちはるちゃんと言っているものが私にちがるちゃんと聞こえているだけなのかと思い、「ひまわり組のおともだちに、ちはるちゃんっているよね?」と聞いたら「ちがう、ちがるちゃん」と訂正された。ここにまたHとGの近親性が証明されて面白く思っているのである。

そら言うよね(кто мог так не сказать в таком сл

あまり使わないスーパーに人と入って水2Lペットボトル58円・商品名「やさしい水」とあるを指して「え、水、安くない?」と言おうとしたら、「え、水、優しくない?」と言ってしまって、そら言うやろ!誰が言わないことできんねん!

もう一つ、できあいのソースでたらこパスタを作った。妻「(たらこソース)1パック使った?」これを「いっぱっく」でなく「いっぱく」と言ったので、咄嗟に私、「いや、にはく」。これも抗うのが難しい誘惑だった。

……それだけ。

当選したよ、年賀状

たぶん人生ではじめてお年玉年賀はがきのあれが当たった。やまももちゃんねるつ。

一番下等な賞ではある。しもふたけたがnとm、というやつ。それで切手シートがもらえると新聞で読んで、そういうことには何であれ子供を付き合わせたい私は、ヴァヂーン・プリクラースヌィ・ヂェニ、

唐突なるロシア語講座
ヴァヂーン・プリクラースヌィ・ヂェニ=「ある日のこと」

ある日のこと、子供と連れ立って、郵便局を訪れ、窓口で当選はがきを差し出し、「あのこれ、当たってるみたいなんですけど‥」

それで手に入れた切手シートつうんがこれだ。

……こんなもんなん?

たった2枚なん?

せっかく子供連れてったのに(←それはさすがにこちらの勝手、)せめて辰の画なりと入っとらんの? てか……何なの、この図像? もそっと美麗な、わかりやすくカッコよかったり可愛かったり、おっこれはと思うような、……せめて何種類かから選ばせてくれんの?

お年玉年賀はがきに当選するって、この程度のことなん??

これも私の悪い癖だが、行く前はだいぶ子供をアオってしまっていた。切手シートたのしみだね!とか。「年賀状が宝くじになっててそれが当たると郵便局行ったらなんかもらえる」というプロセス全体を、なにぶん相当レアなことだからね、なるべく印象深く体験させようと思ったの。ほんで手渡されたのがコレで、太郎は困惑、というか……ドッチラケの感じだった。

恐怖

こどもが なんじゃくで こまってりう

せつぶんのまめまきが 怖い(鬼が出てくるから)

プラネタリウムが怖い 映画館が 怖い(暗くなるから)

そうにしておへそを出していると かみなりさまがきて おへそを食べちゃうぞ とある人が言ったら子供は泣いた

ししまいが怖い

しかのふんが怖い

マグマが怖い(地面の下にはマグマがある!という知識から。アパートの6階の和室の畳をはぐったらそこにもうマグマがあると思っている)

先日、昨日か、東京でちょっとした地震があった。震度4。そこそこ揺れた。子供は恐懼した。

正直ちょっと頼りなく思う。情けない。一説によれば、私らがテレビというものを見せないから、テレビであれユーチューブであれ、およそ動画を見せない、ごくたまにしか見せない、といっても全く見せないわけじゃない、たとえば実家に帰ったときとか、あと旅行先で宿の一室にテレビがあれば、俗悪民放は見せないが、NHK様の、ピタゴラスイッチくらいは見せる。だがそれらは例外であって、原則的には、見せない。普段からは見せてない。
一説によれば、それだもので、刺激にめんえきがない?

一方で、この恐怖という感情は、子供の今だけ持っている、大人になったらすり減って無感覚になってしまうもので、いってみれば賜物、それがあるためにもしかしたらかえってトトロに会えるかもしれないようなしろもの。笑ってはいけないのは無論、いたずらに寛解させるのもぶすいなことなのでは?

たとえば、着ぐるみ全般が怖いが、あの着ぐるみは中に人間が入っているんだよといって恐怖を解体するという手段がある(よくそれにうったえる)、だが、そのことによってかえって、子供の中にサンタクロースの存在を信じる余地を潰してしまう?

今日は、悪文だったり、あるいは、誤字だったりご変換だったりを、なるべく直さないほうしんで書いています!この世の全てが大概いやになったから。ばかやろう!

わたしも少時はいろんなことが怖かった。中原中也にもそんな詩がある。おかわで、むし(回虫)がおりて、それがすごい怖かったというやつ(詳細忘れ)。太郎はテレビを見ないかわり本はむちゃくちゃ読む。もとい字はまだしらぬので、私と妻が読み聞かせる。それで、ある種の知識とか、想像力が備わっている。だから怖いのだろう。ならそれって、よいことじゃないか。感情としてはネガティヴなものなんだけど、それをもっているということは、それ自体はポジティヴなことと言える。

とはいえ感情としてはネガティヴなので、癒してやりたい。私らの行動にししょうをきたすこともあるから、強いても癒したいときがある。けっこう難問だ。尊重しつつ、つまり、壊さないように気をつけつつ、癒しはする。場当たり的に癒しつつ、あえて根治はしない。そういう微妙なハンドリングが求められる。あっぽげ

Kiki’s Delivery Service

図書館でこんなものを借りてきた。

「魔女の宅急便」英語版コミックス。

子供と寝る前本を読むのだが、ある本を即興で英語に訳しながら読んでみて(もちろんだいぶブロークンですよ)、したら催眠効果抜群だったので、子供の好きな魔女の宅急便の話を英語で読んだらおもしろうてやがてねむたきちょうどよい睡眠導入本になるのではないかなーと思って。

したら、私が面白かった。思いの外。

たとえばこちら(↓)「おばあちゃんからまた鰊のパイが届いたの」「私このパイ嫌いなのよね」の場面、

映画をよくご記憶の方は、このあとジジがなんと言うのか、気になるのではないか。オリジナル(日本語)だと言うまでもなく、「今の本当にあの人の孫? べ」である。これが英語版だと、

I cannot believe they’re related(あの人らが親類同士なんて信じられない)。へー、て感じ。主語Theyなんや。

これも好き。お園さん「コポリという人に届けてほしいの」→ばったりトンボに会う→コポリという人にお届け物なんだけど→「コポリ? それ、僕のことだよ!」これを受けてのキキの一言。

言うまでもなく、原作では小声で「お園さんだ!」と呟くのみ。

これはちょっと誤訳というか、意訳が過ぎるんじゃないのと思う箇所もある。たとえばここ。

原作だと「手際がいいわ。お母さまの仕込みがいいのね」だったと思う。それが「なんて賢い子なの。お母さんもあなたが自慢でしょうね」。手柄がお母さん→キキ本人にだいぶ移動してしまっている。

一番衝撃的だったのは、この青い瞳のご婦人の使用人が、「ばあさん」でなく、「バーサ」と言う名前であったことだ。

もっとも、これは前に知って一度びっくりしたことがあるような気もする。そのびっくりしたこと自体を忘れて、二度目にびっくりしたのだ。長く生きていると色々得をする。人生で同じことに二回驚ける。

飛行船をロシア語でдирижабль(ジリジャーブリ)ということは知ってたのだが、これがdirigibleから来ていたとは知らなんだ。この語の本来の意味は「操縦可能な」だそうだ。はー、なるほど。


漫画で読んでもやっぱり魔女の宅急便はすばらしい。人間が実によく描けてる。バーサが誰も見てないところで箒に跨っちゃうのも、トンボがキキを(6時に待ち合わせのところ)7時10分まで待って、でパン屋の主人が気遣って店から出てきた瞬間に無言で立ち去るのも、わかるなー、て感じ。おかゆ作ってくれて頭に氷嚢載せてくれて、で換気のために窓あけて優しい言葉かけて立ち去ろうとするお園さんに、キキが「お園さん」と声かけて、「?」と振り向いたお園に「ううん、なんでもない」と言うところ、あれも、なんて繊細に人間の心理と行動をすくいとってるんだろう。全然ムダなシーンじゃない。

キキがトンボに心開くのも、わかるなーと改めて。宮台真司が性愛論でよく言ってる、結局女性は男のどういうところに惹かれるのか。彼がいかに彼女の生を賦活してくれるか、要は「一緒にいると元気になるか」、そこでしかないのだと。わりとユニークなヒーロー像だと思います、宮崎映画の中でも。

子供の世界を破壊してしまう言葉

子と人の間にそういう会話があったらしい。「夏になったらダーチャに行ける」という想念の虜だ。昨晩から今朝にかけてしきり言い募っている。夏はいつ来るの?どのときに夏になるの?

ここから先はお前に聴こえぬ胸のうちでいう(「佃渡し」吉本隆明)

お前がダーチャに帰ることは保証された未来ではない。なんでかというと……

ここで思った、「なんでかというと」から先は、実は言える。子供に既知の語彙のみを重ねて、子供に理解可能な文法のみを使って、確実に意味を子に伝えることができる。ただし、それを伝えてしまえば、子供の世界は壊れる。既知の語群が意味論的転回、相転移をとげる。言ってみるね:

わたしたちのダーチャにはね、私たちがそこにいるあいだに、そらからばくだんがふってくるかもしれないのだよ。ろしあというくにがあるだろう。おまえのはなすろしあご、おまえのかようろしあごがっこう、そのろしあだね。そのろしあというくにが、わたしたちのだーちゃのあるとちを、ほしいほしいとおもっているのだよ。それで、そこにすんでいるひとたちが、もうあげますからかんべんしてくださいというまで、くるしめてやろうとして、ばくだんをどんどんなげてきているのだよ。おでっさにもなんどもばくだんがとんできたんだよ。ばくだんがとんでくるとね、おおきなばくはつがあるよ。そうして、おうちはこわれるし、かじがおきるし、ひとはちだらけになって、びょういんにいったり、しんだりするよ。ばくだんはどうやってとんでくるかというとね、ろけっとにのってとんでくるよ。おまえのすきなうちゅうろけっとね、あれをうちゅうにとばさずに、わたしたちのだーちゃのほうにわざととばしてくるんだよ。それをろしあというくそみたいなくにがずーっとやっているから、だからあぶないんだよ。わたしたちのおじいさんとおばあさんがげんきでいられるのは、たまたまのことにすぎないんだよ。わたしたちがだーちゃにいるあいだに、ばくだんがおちてきて、わたしたちみんなしんでしまうかもしれないんだよ。そういう状態のことを「戦争」と言うんだよ。

LEGOを讃える歌

子が一番好きなおもちゃはLEGOである。思えば私の少時最も愛したおもちゃもまたLEGOだ。今から私と子供のふたりで歌いたい、LEGOを讃える歌。

1)作って壊してまた作る

新年祭プレゼント最大のヒットはこれであった。3in1シリーズの「恐竜」。同じブロックを使って異なる3種の恐竜を作れる――ティラノ、プテラ、トリケラ。実はLEGO公式サイトには裏レシピ「ブラキオ」も載っていて、実質4in1である。これを何べんも何べんも、作っては壊し、また別のを作っては壊しして、延々遊んでる。さっきもブラキオを壊してティラノを組み立てていた。ブラキオ破壊に20分、ティラノ制作に40分。その間1時間は親も自分のことができる。

LEGOの最強の特徴が、この、作っちゃ壊し、作っちゃ壊して、永遠遊べる点である。それを可能にしているのは、ホゾとホゾ穴の、絶妙な設計。半ミリ違えば子供の器用さでは組み立てられず、子供の力では分解できなかった。

パチモンと比べてみればよくわかる。世にLEGOのパチモンは多い。

こちら偽LEGO「てんとうむし」わ、オデッサから義父母が子供に送ってきたやつ。子供LEGOが好きと聞いてそれっぽいのならウクライナにもあるよと選んで下すったものだろうが、……プレゼントにケチをつけるなんて人のみちから外れている。でも言うね、義父母よ、LEGOに似てLEGOより良いものなんて無いのだよ(そしてLEGOのほんものは、日本でも買える)。
案の定、子供のLEGO力(れごりょく)なら難なくクリアできるはずの工程が、単に部品のハマりが悪いせいで、クリアできない。「ねー、お父ちゃん、なんか入らないぃ……」。また、ある工程でミスを犯していたことに後で気づいて、自分で修正しようとするも、部品が変にガッチリ嵌ってしまっていて取れない。大人の力でもよう外せない。こんなことの繰り返しで、ついに子供「なんでできないのぉ!!」と号泣。私がフルサポート入って、なんとか完成さして、以後二度と触らない。

LEGOの規格がいかに完成されているか、用の美の極点を示しているか。いちど類似品を触ってみればよくわかる。

2)LEGOの便益

子供はLEGOをやるとどういういいことがあるか。

LEGOにはこういう組み立て方の指南書があって、これを見て一個一個正しい場所に正しい部品をハメてけばやがて作品ができる。絵に描いてあることをそのまま手元の立体物で再現する、それを夥しい回数試行する。これである種の空間把握力が育まれるに違いない。それが何になるか。さあ、知らんが、たとえば私は地学にとても興味があって、地球物理とか天体物理とか好きなのだが、話が海洋の大循環とかマントルの対流とかまた月と太陽と地球の位置関係みたいな3次元の話になると、たちまち訳が分からなくなる。どうしてもリアルにイメージできない。そういうことにも、強くなるのではないか。

と書いてみて、待てよ、俺の体たらくがすでに一つの反証じゃんか、LEGO好きだったのに空間認識能激低じゃんか……

とまれ確かなのは、子供のこころの美学的側面を涵養しているということで、立体への、色彩への、ある種の愛、ある種の感性を育てているには違いない。
あとはむろん、「楽しい」ということの、自体的価値。作るのが楽しい、作ったもので遊ぶのがまた楽しい。

さらにいうと、数字を覚える教材にもなっているようだ。各工程にふってあるナンバーを見ながら「にじゅうさんばんめのこうてい」とか呟いたりしてる。以上がLEGOの利得。

3)LEGOの害悪

新年祭プレゼントとして3in1恐竜(私ら親からのプレゼント)だけでなく他に3in1宇宙(私の両親からのプレゼント)さらに単品の宇宙船(私の兄からのプレゼント)と、3種もLEGOがきた。子供としては空前のLEGOフィーバー。それで毎日毎日LEGOやっているのを見て、初めて思った、こいつ、近視なるんじゃねぇかと。

LEGOの部品は細かい。すごい集中して細かいものずっと見てる。これ近視眼への捷径!

それで、①手元を明るくすること②長時間やらないこと③長時間続いてしまっている場合には必ずなんかサッカーとか漠然と広い空間で遠くの大きいものを見るような遊びによって寸断する、これらのことにかなり気を砕いている。

4)LEGOとSDGs

LEGOは北欧の企業なので環境負荷とか気にする。プラスチックが目の敵にされる時代である。それでLEGO社としてもブロックを脱炭素しようと研究開発そうとう頑張ったが、すいません、正直石油を使わずに今のクオリティの製品つくるの無理です、とネを上げた。というようなニュースがわりに最近あった。

私の感想:そんなこと言わなくていいよ。いいよ、あんたらなら。他でがんばるからさ、あんたらだけはいいよ。どれだけの子供たちを楽しませてると思ってる、どれだけの子供たちの情操を豊かにしてくれたんだ! 誰があんたらに文句なんか言えるかね。遠藤賢司が東北震災直後福島のライブで「音楽は電力なんか何ワット使ったって構わない、そのかわりちゃんとやれ!」と吼えた。この言葉をあんたらに贈るよ。

……と、思っていたのだが、最近知ったことに、なんか大人用のLEGOって一杯出てるみたいね。何万とかするやつ。映画のシーンを再現しました、世界遺産を再現しました、とかいって。私のような子供のときLEGO好きだった元少年、今は購買力あるオッサンになってる世代に向けて、なんかすげーいろいろ作って金儲けしてるらしいじゃん。そこの部分はごめんね、ちょっと擁護できないかな。(※私は急進的脱炭素主義者ではありません)

新年祭(が終わったよ)

1月13日の旧正月が過ぎたので、ツリーだのイルミネーションだのを片付けた。これをもってわが家は新年祭が終わった。

ツリーについて一言。ロシア語でヨールカ(ёлка)という。もみの木(ель)の小さいの、ということ。だが家庭では松(сосна)で代用することもよくある。
ところで日本では、この時期、松の小枝はよく売られている。そう、正月の松飾り(門松)として。ウクライナから避難してきた人の中に、花屋で松売ってたのでヨールカにした、という人が何人かいた。成程、と思った。

※前も紹介したが、降誕祭(いわゆるクリスマス)と新年祭の前後関係その他など、私の過去記事によくまとまっているので、こちらご一読いただけると溝が埋まる。

水金地火木土天海

「すいきんちかもくどってんかい」惑星の並び順である。これを子は覚えている。

だが、ざれ唄として、音で覚えているのであって、惑星の並び順そのものを覚えているわけではない。惑星が直列に配された図を示して「どれが何星だか言ってごらん」と水を向けても、水星をさして「すい」金星をさして「きん」まではいいが、第三惑星地球をさして「ちか」と言ってしまう。違うよ、地球が「ち」で火星が「か」なんだよ、と正すと、今度は木星をさして「も」と言ってしまう。

にしても、このような情報の圧縮・解凍は日本語の独壇場だろう。ロシア語にはこんなふうに惑星の並び順をひとくちで言ってしまえる言い方/覚え方は無い。日本人が当たり前に使っている年号の語呂合わせ(いいはこつくろうかまくらとくふの類)これもロシア語人からしたら驚異である。

とはいえロシア語人だってものを覚えるのに工夫は凝らす。たとえば、虹の七色は外側から赤オレンジ黄色緑水色青紫。これは「どの猟師も願わくば知りたい、どこに居るか雉が(Каждый охотник желает знать, где сидит фазан)」で覚える。このフレーズを構成する7つの単語の頭文字が虹の七色の各色名の頭文字と同じなのである(красный, оранжевый, жёлтый, зелёный, голубой, синий, фиолетовый)

あと、上弦の月と下弦の月というだろう、これは上弦の方が満月へ向かって肥っていく月で、下弦の月が新月へ向かって痩せていく月。なんでわかるかというと、

上弦の月はロシア語のР、下弦の方はロシア語のСの字に姿が似ている。РはРожденный(месяц)、つまり生まれたての月。でСはСтарый、老いた月、の謂。

こういうのを知っておくと豊かだ。子は日本語のいいとこもロシア語のいいとこもとれる。ねうしとらうたつみの順も知ってるし、鎌倉とくふの設置年もゴロ合わせで覚えるし、いちじゅうひゃくせんまんおくちょうけいがいじょじょうこうかんせいさいごく、も言える。これらに類するロシア語人の覚え方の知恵(各種一口言い)も併せ持っている。そういう子供になるだろう。いいな。

「えちえち」とは?

エロいことをえちえちといつか言うようになった。私の幼少青年時代には確かになかった言葉だ。この類の二音を重ねる擬態語を私らも開発してみようかとて、「食べ物の名前」を素材に子と古今東西した。

お題:〇×△を〇×〇×食べる

下凡の例は下記。
・メロンをめろめろ食べる
・スイカをすいすい食べる

私の出した中で上等と思えるアイデアは下記。
・うなぎをうなうな食べる
・お弁当をおべおべ食べる(活用形:おビントウをオビオビ食べる)

子の出した中で名作と思える案は下記。
・バジルをバジバジ食べる

子は基本的には遊びのルールを理解していたが、ときに下記のような横紙破りをして私の爆笑を誘った。
・蜂蜜をぺろぺろハチる
・麻婆豆腐をマボドフマボドフ食べる

怪我2

年末に怪我して、縫って、年始に抜糸した。

子供が比較的簡単な遊具で転倒して、その遊具にしたたか頭を打って、額を切った。年末なのでどこの病院もやってなくて、あちこち電話して、市内で唯一整形外科医在中であった大きな病院の救命センター入って、でも次から次へと救急車がやってくるのでトリアージ「緑」の我々は4時間待たされて、やっと通されて、これは縫うですね、と言われて青ざめ、というのも私も妻も縫うというやつを自分で体験したことがない、手術自体は早く終わるが、親御さんはちょっと外で待っててくださいと言われ、カーテン一枚越しに子供が泣き叫ぶのを体感30分ほど聴いていた。試練とより言いようがなかった。

その抜糸が先日あった。何のことはなかった。さすが幼児の回復力、もう大分癒えていて、施術もグロくなく、私でも見てられるくらいだった。子は泣きもしなかった。いわゆる何針縫ったというやつですか、と聞くと、見えるところで4針、溶けるやつもあるから、合わせて7針くらいですかね、とのこと。4歳にして額を7針縫ったやつ。4歳にしてバイリンガル、4歳にして飛行機40時間くらい乗ってるやつ。

傷口は前髪の生え際に近く、髪で十分隠れる。だが、なるべくなら跡形もなく癒えてほしいと願う。今回は妻が子と公園で遊んでるときの事故だった。話を聞くに妻に全く落ち度はなく、私ならもっと難易度の高い遊具でも遊ばせる。私のときでなく妻のときだったのはたまたまに過ぎない。だが、それが自分のときであったということで、妻としては、どうしても罪障を感じてしまう。その意味で妻にとっては一層の試練であった。

これに懲りてもう遊具で遊ばせないなんてことも、まさかしない。子供の方も別段トラウマになっていない様子である。そのうち全く私らの監督外のところでも遊びはじめる。そら怪我はするよな。

(親にできることは、ただ怪我しませんようにと、祈るだけか? 普段から体を動かして鍛えておく、遊具力を高めておく、小さな失敗を経験させる。小怪我で学ばせて大怪我防ぐ。あとは、子供が寝足りないときとか夕方疲れ目なときとかに、難易度高めの遊具に挑ませない。考えると、できることは色々ある)(再び考えると、全部すでにやっていることではある。だが、これをもっと意識的に!)

怪我

前にかまいたちチャンネルでこれ見て、

40がらみのおっさん2人がこれまでの人生で受けた怪我を大きい順に3つ発表してくというやつで、どれも相当にエグく、お笑い芸人ならではのエピソードも中にはあるが、基本的にはIt may happen to you、どんな人にも起こりうるような話で、人間というのは生きてると怪我をする、うちの子も人生これから80年、必ずや親を泣かせるような大怪我をする、それも何度か……と思って暗澹とした。

それが早速あった。なんでもないような遊具で転倒して、その遊具に頭をしたたかぶつけて、額に穴があき、血がでっかいと出て、縫合手術を受けた。それこそ40がらみの私すら一度も経験していない「縫う」というやつ。病室のカーテン越しに子供の阿鼻叫喚を聴いていた。大変につらかった。

なに心配には及ばぬ、脳の方は全く問題なく、本人けろりとしている、めっちゃ元気。年明け早々抜糸する。そういうわけで来年もよろしく、何丘家をどうぞお見守りください。

今日は楽しいクリスマス

うちはクリスマスはやらないんです、というと、へぇという顔をされる。ちょっと違うカレンダーで生きていまして、子供がプレゼントを受け取るのは、元旦(1月1日)の朝なんです。というと、ほぉという顔をされる。この話はわりと鉄板で受ける。パンチが強いネタであるのを自覚している。詳しくはこの記事で

とにかく、うちは12月24日とか25日はスルーする。別に何も祝わない。子供にプレゼントも当たらない。

⑴ 保育園クライシス

けさ(12月25日)、子供を保育園に届けたところ、出迎えた先生が開口一番「太郎くんお早う!サンタさん来た?」と聞いてきて、ぎくっとした。太郎もえーっと、と思考に詰まった様子。やっぱそういうこと聞いてくるか。家庭もいろいろ、中にはクリスマスを祝わない、or、祝えない家もある、三鷹は国際色ゆたかでこの園もひとクラスにカタカナの名前の子が3人いる、デリカシーが発揮されるのではないかと期待した。

というのも、うちはノープレゼント&ノークリスマスで来ているが、まぁ基本的にはどの子もこの朝、なにかしらのプレゼントを貰っているのであろうよ。それで、仮にきょう保育園のクラスで先生が「みんな、プレゼントはもらったかなー?」「はーい×20、もらいましたー!」「ぼくはなになにをもらいました!」「わたちはかにかにをもらいました!」そのような話で盛り上がったとしたら、ただ一人ノープレゼントで来ている太郎は、きっと泣く。ええいぼぉぐぅ、絶対に泣く。

とはいえ、よく考えると、どうかデリカシーを発揮してそのような無神経なことを言わないでくださいねと保育園の先生に期待するというのも、酷なはなしだ。クリスマス(的なもの)を12月25日でなく1月1日に祝う、そういう家庭つうか文化圏もあるのだ、などと、ふつうの日本人には考えつかない。ゆえにこそ私の「うちは異なるカレンダーで生きていまして」の話は鉄板で受けるのだ。

だから親が子供を守ってやらないと、と思って、それとなくしかし時を置いて数回にわたり念入りに、もうすぐお正月だねプレゼント楽しみだね、世の中には今日とかにプレゼントもらう子もいるけどうちはお正月なんだよね、楽しみだねー、と、カレンダーのずれという現象のこの世にあることを教えてみた。私が危惧しているような場面が保育園でしゅったいした場合に太郎がいったいどう思えばいいか、どこへどう自分の心を導けばいいかということのヒントを、仕込んでみた。もみ込んでみた。

結果、夕刻に迎えに行くと、元気で笑顔であったので、よかった。クリスマス会というものが行われ、サンタらしき人が来て、クラスごとにプレゼントをくれた、あとクイズ大会とかして、それはそれは楽しかったということだ。子供の心はひとまず無傷で済んだ。

余談だが、そのクイズ大会で、サンタさんはどこの国に住んでるか、という問題があったそうだ。「どこの国に住んでるの?」と改めて子供に聞くが、うーん、なんだっけ、わすれちゃったな、思い出せない。「もしかして、フィンランドって言ってた?」「うん、それかな!フィンランド!」だが、それはそれでどうなんだろうと思ってしまった。多分これを企画した保育園の先生たちからしたらおとぎの国もフィンランドも変わらないのだろうが、私からしたらフィンランドは十分リアリティのある土地である。それを正解みたいに言うのも世界観の押し付けになるよな、とか変に気を回して、「まぁ、それは一つの考え方だね」とかいって相対化に努めてしまった。子供にとってこそおとぎの国もフィンランドも変わらねえつうの。

⑵ サンタさんを信じる、とは?

子供とクリスマスの絡みでよくサンタさんはいない(もと、もと、フザーイ)ということを何歳で知りましたか、夢はどのように破られましたかということが話される気がするが、私の疑問は、逆に、子供はいつ・どのようにサンタの存在を信ずるようになるのであろうかということだ。うちの子はふつうにサンタを信じていない。恐竜とかポケモンの存在を信じていないのと同様に、「それはお話の中のキャラクターでしょ」と整理・理解している。それは普通だし、自然なことのように思う。「いや恐竜やポケモンは確かにいないけど、でもサンタという奴はいるのだよ、そいつが空飛ぶトナカイにそりひかれてたった一晩で何百万人という子供の家々を廻り、それぞれの子供がちょうどまさに欲しいようなおもちゃを選び抜いて枕頭に置いていくのだよ」などと、大人が介入して強いて信じさせようと働き掛けない限り、信じ始めるようには思えない。んで、あえてそんなことする必要性を、私は見ない。

太郎は元日の朝にいちどきにプレゼントを受け取る。朝起きると新年祭ツリーの下に色とりどりの袋やBOXが堆積しているのである。今年なら、まず私の兄たちから計3点(でかいの1のこまいの2)、私の両親から1点(でかいの)、私と妻から2点(こまいの)、計6点。去年はいいタイミングでオデッサからの荷物が届いたからもっと多かった。だが子供は、どれが誰からの贈り物であるか、全部把握している。別に私とかが積極的に教えたわけじゃなく、子供が予め「どのプレゼントもいずれ誰かしら家族から贈られたものであろう」という理解の鋳型を持っていて、それをこちらからあえて壊すことはせずに会話してたらその中で少しずつ把握していって、最終的に全部認識した。

ちょうど今日の朝刊にサンタさんのことが書いてあって

何それ美しいー、わたし間違ってたかもー、とまず思った。だが考えるとまた分からなくなった。

なるほど私は、自分自身が文学青年あがりだから、ありもしないことが描かれた本をいろいろ子供と読む。サンタとかいうキャラクターが出てくる本も全然読むし、そいつについてうたった歌も歌いきかす。だが、そういうものが、つまり、サンタとかいうそういう「見えないもの」が、現実に存在し、現実に働きかけさえする――このプレゼント、ほれここに現に存在し君に視え君が触れることができ遊ぶことさえできる、このおもちゃが、そのサンタというやつが置いていったものなのだよ、そいつが本当にお前のところへ来て、これを置いていったんだよ。と信じさせることが、いったい何の「空間」をつくりあげてしまうのだろうか。

――12月25日

大事じゃない気持ち

些細なことなのだが、ロシア語で気分が優れない(体調が悪い)ことをневажно себя чувствую「大事ならざるものとして自己を感ず」という。важноは一般的には大事とか大切とか重要とかそういう意味、それに否定辞のнеがついて「良くない」という意味になる。大事じゃない=良くない。ちょっと妙だがそういうもんかと思って無批判に受け入れてたが、思えば日本語でも「お大事に」というではないか。

つまり日本語だと、体は大事にすべきもので、大事にしそこねたときに病気する。その点で、自分が大事じゃないような気分なんです(неважно себя чувствую)という語構成で「気分が悪いです」という意味になるロシア語は、符号しているようにも思える。一方で、日本語には「大事ない」という言い方があり、これは「大したことはない」てことだ。「ちょっと妻が病気でさ」「え、大丈夫なんですか」「いやさ大したあれではない。大事ない」。この大事ないをそのまま直訳すると字面的にはневажно(非・大事)になりそうなものだが、意味は逆だ。

ともかく、こんどお医者にかかったとき、ロシア語表現をそのまま直訳して、「なんだか自分が大切じゃないみたいな気分なんです……」と言ってみようか。一倍ほど丁寧に診てもらえる気がする。


(勝手な想像だが、現代ロシア語で大事だとか重要だとかの意味で繁く使用されるважноという語のもともとの意味は、「良い」だったのではないか。ちなみに、スラヴ語のより古形をよく保存していると期待されるウクライナ語で、важноはважливо、意味は多分同じ)

体技

子供に色んな体技を身につけさせたい。体技は人生を豊かにする。体技とは何か。たとえばピアノが弾けるということ。たとえば外国語ができるということ。

⑴ A級体技

ざっと3系統ある。芸術系、運動系、言語。

芸術系は、楽器が弾けるとか、じょうずに歌えるとか、絵が描けるとか、そういうこと。運動系は、サッカーできるとか野球できるとか、泳げるとか踊れるとか、そういうこと。言語というのは、英語がしゃべれますとか、そういうこと。脳が知ってるというより、身体がそれをできる。そういうのを「体技」と呼んでる。

何も太郎をメッシに鍛造する野望など持ってはいない。別に道を極めなくてもいい。ただ、一通りのことを、いざ本人がやろう・やりたいと思ったときに、できるようにはしておいてやりたい。

私じしんは、わりと習い事をさせてもらった(当時の主観としては「やらされた」)方で、小3の時点でピアノと習字とプールとサッカーをやっていた。で、小さいときにやっていて一応の勘所を押さえているということの強みを、自分の経験としてよく分かっている。あるいは、「やってたやつ」と「やってないやつ」は明確に違う、ということを。

サッカーでいうと、自分は一応高校の途中までやってたが、別に強豪校でもないし、レギュラーでもなかった。全然大したプレイヤーじゃない。それでも私は、明確に「やってたやつ」である。「やってないやつ」には理解が追い付かないようなことが色々できる。言うと別に大したことじゃない。たとえば、10m先に人間がいて、あいつの右足あたりにパスしたろーと思ったら、なんかそれらしい蹴り方ができて、結果的にそうなる。だがやっぱりこれは驚くべきことだ。足のどの部分をボールのどこにどういう角度とどういう強さで当てるかということを、言語的に構成していない。身体がただそのやり方を知っていて、「実行」ボタンを押しさえすれば、不可知のアルゴリズムに従って身体各部が勝手に連動し、所期の目的を達成できてしまう。

で、理想は、すべてのことにつき、このレベルで「やってたやつ」になることだ。万技に通じて且つ極めない。つまり、子供には、サッカーもちょっとやらすし、野球もちょっとやらすし、空手も、テニスも、卓球も、カーリングも、やらす。音楽でいえば、ピアノもちょっと触らせるし、ギターもちょっと触らせるし、マリンバもカリンバも、サキソフォンもディジリドゥもターンテーブルも触らす。そうしてこれらすべてにつき、極めない。極めないが、明らかに、「やってたやつ」と「やってないやつ」を隔てる一線の、向こう側に行かす。

私はおっさんになってもうピアノも弾かなければサッカーもしないが、いざ楽譜を読もうと思ったら読めるし、相対音感いうやつで、既知のメロディを鍵盤で即興的に再現して子供に聞かせてやることもできる。何かの拍子に草サッカーすることにでもなったら微妙に活躍もできる(「夏休みの日記」某日参照)。太郎にはこれに十倍する可能を。色々なことにちょっとずつ手を染めて、体技の引き出しを増やしておいてやりたい。

⑵ B級体技

サッカーとかピアノがA級の体技だとしたら、もっと卑俗なB級の体技の一群がある。それというのは、たとえば、私は指ぱっちんができる。これ、できない人はできない。できればそれ一つ分、人生が豊かだと思う。だから、子供にも、そのうち指パッチンを体得してほしい。

私が日本における父親代わりをしているウクライナ避難少年のジョニーというやつは、いわゆる「耳抜き」ができない。気圧差で耳がぐっとこうふたがる感じ、これを解消するべく、奥歯から耳へと紫電を通す。この体技を持たないため、人生でただ一度きり乗った飛行機(ワルシャワから成田への)で、ジョニーはたいそう苦しんだということだ。こんなのもできとくに越したことはない。山がちの日本、車でどっか行こうと思ったらトンネル通るのは避けられない。

私は「ペン回し」ができない。そんなもんできなくてよい、できないほうがよいという声もあるだろうが、できない私からは、できていればそれひとつぶん人生が豊かだったろうなと思われる。何であれ、できないよりはできたほうがよいんじゃないですか。

インド人の首ふりができない。それひとつ分、私は人生を確実に損している。顔は正面を向いたまま首だけ左右に動くやつ。一時期かなり練習したのだが体得に失敗した。だが、妻はこれができる。どういうわけか妻にはできる、ある人にはできるのである。であれば太郎には、できる側の人になってもらいたい。したら「大人ブルー」(新しい学校のリーダーズ)みたいな曲が流行ったときに、自分で踊ってみることもできるのである。気が向けば「大人ブルー」を完コピできる人生と、そんなことが可能だなどと思ってみることもできない人生となら、前者の方が楽しいに決まっている。

私も妻も、口笛が吹けない。口笛さえ吹ければ「銀河鉄道の夜」の子どもたちの仲間入りができたのに。「リッスントゥーザミュージック」(エレカシ)が歌えたのに。今からできるようになるとしも思われない。

私が持ってる一番すごいB級体技は、随意にしゃっくりを止めることだ。おい横隔膜、騒擾(ブント)やめよ、鎮まれ鎮まれ……と猛るテトに対するナウシカのように心で話しかけて、鎮圧できる。意思の力ひとつでしゃっくり止める。わっと脅かされたりコップの向こう側から水飲んだりする必要がない。これも太郎にぜひ継承してほしい体技だ。

⑶ まとめ

何か一つに突出して秀でるのはもちろんすばらしいことだ。明らかに天稟があり、かつ本人もやりたいことというのがあれば、それを専一にやることを別に妨げない。だが、この子もまたたぶん大谷翔平ではないのである。であれば、いろんな種目のレベルを0→1にだけしておいてやるのが、親から子の将来への最もよき置き土産になるかなと思うた。畑にたとえれば、子供の身体を耕すだけ耕しておいて、あとどんな野菜も育てるよう、土壌だけこしらえておく。言うは易し。12/13

ヤー・ルースキイ!

プーチンの戦争にロシア人は責任を負うか、という話のときに、いつも「寛容はそれが可能なところでは必ず行われるべきだ」、と口先では言う何丘が、実は大変な差別主義者であった、としたら残念なことだ。

⑴ 血(と知)

太郎はウクライナ人であり、日本人である。ウクライナも日本もともに血統主義であり、ウクライナ人を母に持つ太郎は自動的にウクライナ国籍をもち、日本人を父に持つ太郎は自然に日本国籍をもつ。だが日本は二重国籍を認めていないので、日本のがわから見ると、太郎は正確には「国籍未決定状態」である。18歳までにウクライナか日本、どちらかの国籍を選択する(選択しなかった方を放棄する)ことになっている。

という次第に、法的には、太郎はどこからどう見ても「ロシア人」ではない。

だが、我々はロシア語で太郎を育てている。昨日ほどオデッサのじじばばから小包が届いたが、本は全部ロシア語の本である。それも、ロシアの出版社で刊行されたもの。ウクライナ語の本は一冊もない。すると、どうしても、ロシアの地名が出てくる。太郎はモスクワという地名を知っている。キエフという地名は知らない。

私たちはロシア語で(パ・ルースキ)話す。私たちはロシア語学校(ルースカヤ・シコーラ)に通っている。ロシア語の本(ルースキエ・クニーギ)を読み、ロシア語の文字(ルースキエ・ブークヴィ)を学び、ロシア語の歌(ルースキエ・ペーセンキ)をきく。「ロシア」という語がくりかえし出てくる。「ウクライナ」という語は出てこない。

ちなみに、太郎の中で、自分が乳児時代を過ごし、今じいさんばあさんがいる場所、また今年の9月に帰省した場所は、「オデッサ」である、あるいは「ダーチャ」である、という認識。「ウクライナ」という認識はない。その語をほとんど知らない。

するとどうなるか。「ロシア人」という自己認識になるのである。「ヤー・ルースキイ」(わたしはロシア人)という言葉が太郎の口から飛び出して、ぎょっとしてしまった。

⑵ ヤー・ルースキイ

こういうことがあった。井の頭公園の砂場、休日だので年恰好の近い子供たちが多い、一緒に遊んだらいい。だが子供はその子らにわざとロシア語で(伝わらないのがわかっていながら)しゃべりかける。私の分析では、知らん子にアプローチするのビビッてんのである、それで彼固有の妙な回路で、「伝わらないように話しかけている」。

「それじゃわかんないでしょ、日本語で話なさい」と私が注意すると、太郎いう、「パチェムゥ・ヤー・ドールジェン・ガヴァリーチ・パ・イポンースキ、ヤージェ・ルースキイ!(なんで日本語ではなさなあかんねん、わてロシア人やで!)」

ぼくはロシア人だ、を太郎の口からきくのは多分これが2回目で、1度目のときはなんか聞き流せたのだが、今度は聞き捨てならず、まともに向き合ってしまった。言い渡した。「トゥイ・ニ・ルースキイ(お前はロシア人じゃない)。ダー・トゥイ・ガヴァリーシ・パ・ルースキ、トゥイ・チターエシ・パ・ルースキ、ノ・トゥイ・ニ・ルースキイ。エータ・ラーズナヤ・ヴェーシ(たしかにお前はロシア語を話す、ロシア語の本を読む、だがお前はロシア人ではない。それとこれとは話が別だ)」

それを聞いたときの太郎の顔。当然と思っていた自己認識をパパからロシア語で明確に否定され、幼いながらにアイデンティティクライシス(自分が誰なのか分からなくなる混乱)を起こしたことがはっきりわかった。そのあとどういうやりとりがあったか覚えていない、何ラリーかあって、とにかく太郎は泣き出し、おとうちゃんおとうちゃんと日本語で私にすがるのだが、私は私で怒りが亢進していて、「パ・ルースキ・プラーチ(ロシア語で泣いてみろ!)」とか怒鳴ったのを覚えている。

そんな私の態度に自分で花丸満点をつけますか。つけるわけがない。だが、分からない。基本的に、耐えがたい。ヤー・ルースキイ(私はロシア人だ)というロシア語による言明は、それが太郎でなくても、ぞわっとくる。まして我が子の口からそれを聞くのは……。

人は誰でも、わたしは母親犯しです、とか、ぼくは猫の目玉くりぬき男です、とか、それがしはじょじきもおどりぐいだんしゃく、とか名乗られたら、生理的不快を触発されるだろう。血は選べない、その一族に生まれてしまったのなら仕方ない、だがせめて、それを誇らないでいただけますか。あえて言立てしないでいただけますか。と……思ってしまう。これが差別でなくてなんだろう。

――12/12

子どもの歌(大人でもよくわからない)

⑴どんぐりころころ

どんぐりころころ、という歌がある。「どんぐりころころ、どんぶりこ。お池に嵌ってさあ大変。泥鰌が出てきて『今日は。坊ちゃん、一緒に遊びましょ』。どんぐりころころ、喜んで、暫く一緒に遊んだが、『やっぱりお山が恋しい』と、泣いては泥鰌を困らせた」

こうカギカッコとか漢字とか使うと大人には視覚的にまだ分かりいいが、子供のパーセプションでは「どんぐりころころどんぶりこおいけにはまってさあたいへんどじょうがでてきてこんにちはぼっちゃんいっしょにあそびましょうどんぐりころころよろこんでしばらくいっしょにあそんだがやっぱりおやまがこいしいとないてはどじょうをこまらせた」くらいに分節不分明であろう。第一に抑揚が日常言語とずれている。第二によくわからない言葉がある。第三にどれが誰のせりふなのか分からない。第四に行間が多い。

だから「大人が思ってる以上に子供は歌の内容をわかっていない」と言うは簡単、実はそのようなよく分かっていない状態で子供時分にそらんじたまま言葉の外形だけ大人へ持ち越してしまって、大人自身も歌の意味がいまだよくわかっていない、ということがままある。子供のために行間字句を補いつつ読み下してみて自分自身ああそういう歌だったのかと思うことがある。上の例でいえば、要するにお山からどんぐりがころころと転がってきてお池に落ちた(嵌った)、ところへ泥鰌が出てきて「あそぼ」と誘った、それでどんぐりと泥鰌は暫時いっしょに遊んだのだがどんぐり氏、やっぱりお山に帰りたいよぉとホームシックを発して泣く。そういう歌である。さらにいうと、だが物の理として高いところから低いところへ転がり来た手足なきものが自然に再び高いところへのぼるということは不可能なのであって、また再び手足なきえらこきゅうの泥鰌ふぜいにその山登りをお手伝いしてやることもまた不可能。と、「遊び」という語で一挙擬人化されたどんぐりとどじょうが自らの生物学的限界を悟らしめられて泣く。「泣く」の一語で再び擬人化させられて。作者の掌の上で擬人と非人を行ったり来たり翻弄される小生物の哀歌。

⑵あの人のママにあうために

そんな太郎が最近はまってほとんど諳んじているのが「魔女の宅急便」のオープニングテーマ、「ルージュの伝言」である。

あの人のママに会うために今一人列車に乗ったの。黄昏迫る街並みや車の流れ横目で追い越して。あの人はもう気づく頃よ。バスルームにルージュの伝言。浮気な恋を早く諦めない限りうちには帰らない。このような大人の恋を歌った歌を13歳の処女キキが聞いている、ということにおかしみがある(早すぎる一人立ちと都会生活の幕開けを暗示する)わけだが、さすがに4歳児が下線部のあたりを歌うさまは、おかしさのなかにもちょっとえぐみがある。

あすの朝、ママから電話で叱ってもらうわ、まい・だーりん♡
あの人は慌ててる頃よ、バスルームにルージュの伝言、手あたり次第友達に尋ねるかしら、私の行く先を。

さて、この歌の意味を、私は分かっているのか。正直、全然分かっていなかった。なんとなーくうすぼんやりと理解していたのは、なんか恋の絡みで、洗面台の鏡にリップスティックで書置きを残して、女の人が電車ん乗って旅に出たのだ。「あの人のママに会うために」。だが、ママに会って何をする?

今回よくよく考えてみて、やっとなんかわかった。「浮気な恋」というのは、これまでなんとなく主人公の女の方の恋だと思ってたのだが、男方の裏切りの恋なんでしょうね。つまり:同棲してる男の裏切りを知った女がリップスティックで「まりこと仲良くね!わたしは旅に出ます」とか何とか鏡台に殴り書きして旅に出た。どこへ。男の実家へ(!?) この女は男の母親と気息を通じている。男からしたら困った(一寸敵わんなという)連合である。女は男の母親に、男の裏切りをチクりに行く。男の実家は佐渡かどっか遠いので到着はあす朝になる。その朝に男は男の母親から雷電話を受けるのである。
男視点だと、夕方仕事から帰ると女がいない。バスルームにルージュの伝言を見つける。「まりこと仲良くね!わたしは旅に出ます」。ぎく、浮気バレてる!旅に出るって、一体どこへ? 手あたり次第に心あたりを尋ねてみるが、分からない。悪い予感。まさか、あいつ、俺のお袋のところへ?あいつら妙に仲が良いから……。

というわけで、字句を補いつつ替え歌(歌い下し)すると、こうなる。

わたしのかれしの母親に談判するために
今、一人で列車にのったわたくしである
もう夕暮れ近い。街並みが赤く染まっていく。車の流れが帰宅を急いでる
それらをしりめに列車はぐんぐん速度をあげていく

あの人はそろそろ仕事から帰ってくる。そうして気がつくのだ、
洗面所にわたしがくちべにで残した置き書きに((あんたの)実家に帰らせていただきます!)
あんたがその浮気なる恋を疾く放棄せぬあいだは
わたしがあんたのもとに還ることはないと心得よ

不安ではある、わたくしの人生これからどうなっちゃうんだろうと。
でも列車が街をとおざかるほどに、不安は置き去りにされ、むしろ人生新章突入のわくわく感が勝っていくのを覚える(ふしぎ)
明日の朝、とほうにくれたあんたのもとに、じりりと鳴る一通の電話
かわいそうなダーリン、私の密告りをまにうけたママンから、あんたはお叱りを受けるのよ(きひひ)


⑶「魔女の宅急便」の謎

こういう本を図書館で借りてきて読んでいまして

それで巻頭の登場人物紹介のところで驚いた。ジジの項。

ジジは13歳なのだそうだ! 私のイメージでは「人間でいえば13歳」て感じだったが、この書き方だと実年齢が13歳である。猫で13歳はもういい爺さんだ。ジジとはじじいのことだったのだ!

で、「魔女の宅急便」をめぐる私の積年の疑問は、なぜ物語のラスト、キキは魔法を取り戻すのに、それでもジジは人間の言葉を失ったままだったのか?ということだ。上掲の登場人物紹介は、この疑問の解決に資するか。それともむしろ、混迷を深めるか。「ジジはキキと同じ日に生まれて一緒に育ったねこ。だから、ふたりは話ができる」説。

ちなみにこの本は、その最後の場面について、わりと重大な解釈を与えてしまっている。

宮崎駿の好きな少年少女の成長物語、しかし大人になるとは子供でなくなるということ、得るとは失うということである。ひとつも失わず、全部を得ながら進むということはできない。それを肯定できるか。肯定、した、ということになった。ジジとキキの13年来の絆の破損、それをキキが微少もて迎えたことによって。ゆったら「少女の成長」を表現するためにねこは言葉を失わされたのだ。

だがむしろ見てる私がそれを受け入れられないのである。だってジジは言葉のねこ。劇中ジジが放つ言葉はどれも鮮烈だ。「出発はおごそかであるべきだと思うんだよ」「なんだ、ただの水たまりじゃないか」「きどってやんの!」「ぼく、明日の朝には白猫になってると思うよ」「ぼくがいる!」「身体がビリビリする」「あの人が助けてくれたんだよ!」「あの子ほんとにあの人の孫なの」いずれも珠玉である、大好き。ジジにはあの調子でしゃべっててほしい。キキとジジの関係性にはやっぱり言葉が介在していてほしい。そこで問わざるを得ない――なんでこうなった? なんだってジジは、言葉を失わなければならなかった? 失ったまではいいが、魔法は取り戻したはずなのに、なんで言葉ぁ失われたままだったんすか、そして我々は、それを見せつけられねばならなかったんすか。「得ることは失うことだから」。トンボという友人を得たからキキは猫語を解さなくなった、リリィという愛人を得たからジジは人語を話さなくなった。――いや、納得いかねえ! そういうもんじゃねえはずだ! 13年の絆! 第一、キキ嬢、故郷の街に、男の友達の一人くらいいなかったかよ? ジジはジジで、13歳まで童貞なんてことあるかよ!?

――12/11

二度と〇〇しない(は訓導として無効、無意味)

こんなことがあった。埼玉県北のどどど糞田舎からわが両親がやってきた。義姉のかすていらを届けるという妙な名目で、わざわざ車で。要は孫に会いたかったのである。そんでせっかく車があるのだからどこか行こうかということで、多摩六都科学館に行った。知ってますか。プラネタリウムがあるところ、お台場の日本科学未来館には及ばないが、かなり充実した展示のある科学博物館である。私らはチャリ圏内ギリギリなので過去に3回くらい行ってる。

うちの子はがんらい星が好きである。ダーチャで毎晩満点の星空を見上げてたからな。一方で、子供は映画館とかコンサートの上映上演前の急な暗転に不安を覚えるということがある。この多摩六都科学館のプラネタリウムは過去に2回見ているが、ともに投影前の暗転でやや不安がり、だが本編は多いに楽しんでいて、今回プラネタリウム行きますよということになったときはワ~イ、やったぜぇ!と狂喜していた。

その日14時半の回の投影は、「プラネタリウムの歴史」をテーマとした映像作品となる由だった。今年がなんでもプラネタリウム100周年だとかで。15時50分まで待てば星空解説とか星座の話とかをする通常回があるそうだったが私の父は夜目が利かないので夜道を運転させたくなかった、だから見るなら14時半の回しかなかった。子供に「星の話とかはしないよ、プラネタリウムの歴史の話だよ」「れきしってなに」「むかしむかしプラネタリウムができたときの話とか、それがどのように変わって、今どういうプラネタリウムになってるかっていう話だよ。その映像作品だよ。それでもいい?」「わぁい、わたしえいぞうみるのすきだよ!」

言い落としたが、ここは科学館の中にプラネタリウムがあるのであって、科学館の入館料というものは皆共通で払い、そのうえプラネタリウムが見たければその鑑賞券を上乗せして払うのである。入館料が500円(こども200円)、鑑賞券が500円(こども400円)。うちら4人だから(大人3こども1)プラネタリウムだけで1900円払う。わたしは地元のプラネタリウムを1回100円で見て育ったのでたいぶ高いように感じる、それで子供に本当に見るのか見たいのかとよくよく確認したつもりである。

さて投影までは館内の各室展示を見て過ごし、いよよ14時半という段になって、ドームに入ったところ、まだ暗くもなりせぬに、急に子ども、怖いよ怖いよと言いつのる。わたくしは、いうて3度めのことであるし(最後に見たのは4か月前とか)、さいぜんまで楽しみだ楽しみだ、見る見る見たいと言っていたものだから、おいどうしたどうしたと思って、ほれおとうちゃんと一緒だからなとか、暗くなるけどすぐ画面で面白いこと始まるから暗いことなんか忘れるよとか、いろいろ宥めるようなことを言うのだが、聞かず、果てはおうち帰りたいおうち帰りたいと言い出して、わたくしは……こんな泣きづらの子どもを無理に椅子にしばりつけて時計じかけのオレンジみたいに無理やり映像見させたって仕方ない、ぜひもない、出ようという判断と、しかしチケットはもう買ってしまっているのである、買うときにあれだけ念押ししたのである、今さら怖いから見ないおうち帰りたいとかそんな勝手が許されるかという鬱憤とが拮抗して、けっか爆発的な反応をしてしまった。「わかった、そんな言うならもう出る。そのかわりもう二度とプラネタリウムには来ないけど、それでいいか」「うん」「(念押し。略)」「うん、それでいい」で出た。

まだ見てない展示室もあったが真っすぐ出口をさしていき、ずんずか駐車場へかえった。子供は私に泣きすがったが無視した。私の両親は子供をなだめ、私をたしなめ、果ては父、私に対し「言っとくけどな、お前の怒り方もたいがい子供っぽいぞ。少し考えろ」と叱言。私はむかむかむかむかしていた。そらあんたがたはたまに会うだけなんだから無際限にちやほやしたいだろうけどこちとら今日も明日も明後日もこのがきんちょと生きていくんだ、そんな瞬間瞬間の反応で生きることを許してなどいられるか、という思いがあった。

それでうち帰ってから「聞け」といずまい正してもう一度はっきり言い渡した。「お前はチケット買うときによく考えて『見ない』ということもできた、だがおまえは見ると言った、『わたしえいぞうみるの好きだよ』と確かにお前は言った、だからチケットを買った、でもお前はきまぐれを発して直前になってプラネタリウム見ないと言った、おとうちゃんとおかあちゃんがいっしょうけんめい働いてかせいだお金をお前はムダに使わせたんだ、ただゴミみたいに捨てさせたんだ」「そんないやなら出てもいい、そのかわり二度とプラネタリウム来ないぞと私は言った。お前はうん、いいよと言った。word is bond、その通りのことにする。お前は星が好きだから私はまだ何度もお前とプラネタリウムに行きたかった。あそこ(多摩六都科学館)だけでない、いろんなプラネタリウムに行きたかった。だがもう行かない。お前とは二度とプラネタリウムに行かない」そうして上掲の画像のような誓書を書いた。太郎の前でこれみよがしに。太郎は嵐のように泣いた。

先に言っとくと、その紙は今もうない。八つ裂きにして捨てた。捨てる前に負のめもりぃとして写真とった。太郎にも明言してある、お前と二度とプラネタリウムに行かないと言ったのは撤回する、そのうちまたお前とプラネタリウムに行く、私はそうしたい、と。

最初に自分で反省した。そのあと妻にたしなめられた。そのあと私の信頼する子育ての先輩にもたしなめられた。ひとことで言うと、情状酌量の余地なしとはしないが、基本的に私のやったことは間違っていた。第一の反省は、結局のところ、二度と〇〇しないという構文は子供には無効である、ということだ。永遠ということの恐ろしさを子供は理解できない。それは第一に、子供の持っている時間の尺度を越えている。また第二に、子供の持っている人間の尺度を越えている。不定の未来に対してneverを誓い、その誓いを貫徹する(日々に実行する)ことは、どだい不自然なことだ。その不自然なことを大人はあえてしえるのだ、そういう意思の力とか倫理というものが存在するのだ、という、なんというか人間の凄みとか狂気を、子供は知らない。知りようがない。知らなくていい。

第二に、子供の恐怖は、シンプルに尊重に値する。さっきの伝でいうと「子供の恐怖は大人の尺度を越えている」。で、とある自動心理学者が言っていたのだが、こういう場合に、子供の恐怖心(怖い、という申告)をむげにせず、それにきちんと向き合い、それを解消する一つの手立てとして、権威ある第三者に安全を保障してもらうというのがあるらしい。この場合でいえば、プラネタリウムの係員のところへ子供を連れて行って、改めて、今日の内容はどんなですか、怖いようなことがありますか、と聞く。そうして、怖いことはないよ、こんなことこんなことを話すんだよ、おもしろいよ、と言ってもらう。そんなテクニックにうったえてもよい場面であった。要するに私は、子供の恐怖を寛解するために、最善を尽くさなかった。非常に中途半端なところで諦めた、キレてしまった。

それで、上述の信頼する子育ての先輩から言われたことは、しかし何丘くんの両親が太郎くんの恐怖心に寄り添ってうんうん分かったよでは出ようねと言ってくれる人で良かったね、そうじゃなかったら太郎くんどんなに心細かっただろうね、ということで、これも大変に腑に落ちた。なるほどうちの親たちは、そこでお金が勿体ないから必ず見ていこうと言うような人たちでだけは、絶対にない。これを聞いて、親たちへの反発心も霧消した。

以上のような反省を得てから、壁の見えるところに貼ってある例の張り紙「二度とプラネタリウムには行きません」が、大変に醜悪に見えた。太郎は太郎で、なんであのとき怖いと言ったのかを、自分なりに説明した。そんな筋も通ってない説明なのだが(直前に館内展示で見た火山の噴火に関する展示と、前の晩にママと読んだ宇宙創成時の大爆発(ビッグバン)のことがリンクして、プラネタリウムでもそういう爆発とかマグマとか怖い話が展開すると思った、らしい)、もしかしたらこれが結構そんときの自分の恐怖心を言い当てているのかも?しれない。

とりあえず今月一発ジブリ美術館があるので、その映画館で様子を見よう。ジブリ美はそれこそ近所なのでこれまで5回くらい行っている、館内の映画館でも同じ数だけ映画を見ている。そこも一応上映前は暗転をする。そのときの反応をまず見てみよう。12/11

襦袢のはなし

襦袢、じゅばん、着物用の下着。とんと心づかなかったがこれ外来語らしい。例によってポルトガル語。長襦袢をナガジュバ~ンとフランス語ふうに言うというギャグがあるが(あるよね?)

で、妻によると、ウクライナ語とロシア語にも同語源らしい外来語がある。まずウクライナ語でжупан(ジュパン)というと割合に高価な上着を指すのに対し、ロシア語でзипун(ジプン)というと割合に粗末な上着を指す。ここで上着というのは上半身にまとうものという意味で、必ずしも外衣(アウター)を意味するものでなく、また下着(アンダーウェア)との含意を持たない。現代でいや「Tシャツ」か。ちなみに両者とも研究社の露和辞典に載っていて

・жупан ウクライナ人・ポーランド人の昔の上衣、カフタン
・зипун (昔・農民の着た)粗羅紗の裾長上衣

だそうだ。
同語源というが、必ずしも同じポルトガルが起源であるとは言わん、フランス語なのかも知らんし遠くラテン語なのかも知らん、そこまで掘る気はない。いずれにしろまず西側から入ってきた言葉なのだろうからウクライナ語の方が古い、とすると、はじめ輝かしき西方から伝来してきた何やら貴いもの有難いものが時間をかけて東へ伝播していくなかで陳腐化し野暮ったいものと化していった、と想像される。

みたいな誰にも面白くない話でひとしきり盛り上がったとある晩の何丘家であった。(そも襦袢が外来語であるという話は妻が日本語師範学校から持ち帰った)12/10

アマンちゃんとテュポンちゃん

太郎は一人では寝ない。これもそろそろどうなのかと思う、太郎4歳。そろそろ自分で自分を寝かしつけることを覚えるべきなのかもしれない。

とにかく現状、一人では寝ない。私か妻が夜伽をする。夜伽というとエロい言葉みたいだが、要するに、枕辺で、寝物語を聞かせてやる。子はそれを当然の権利と心得ている。

ママの日もあれば、私の日もある。私のときはだいたい受注生産というかご注文を受けてからお揚げします方式で、子が〇〇の話してーという、それは過去に図書館で借りて読んだ(つまり今は手元にない)本の話かもしれないし、全く存在しない話かもしれない、そのお題を受けて私が語る。

それでしばらく前からシリーズ化してるのがアマンちゃんとテュポンちゃんの話である。ンな話はこの世で私と太郎のあたまの中にしか存在しない、〇〇〇と×××の話して、と不明瞭な発音でオーダーしたのを私がアマンとテュポンと聞きなしたのである。なんでも、アマンちゃんは赤い屋根の大きな家に住んでいて、毛並みの美しい大きな犬を飼っている。テュポンちゃんはアマンちゃんの家の前のマンホールの中に住んでいて、地下の水流で河童を飼っている。この二人が、互いの家に遊びに行ったり、本を読んだり、お菓子を食べたり、ときに旅行に出たりする。テュポンちゃんの家の方が話の舞台になってるときアマンとテュポンが何をしていようともその脇を全く我関せず焉とじゃぶじゃぶ河童が泳いでいく、そこで決まって子が笑う。あと、子が最近付け加えた素晴らしい設定:アマンちゃんの飼ってる犬の名は、「おーい、困ってるの、だいじょうぶ?」←名(抑揚たっぷりに)12/9

太郎の言いまつがい

太郎は子供だから言いまつがうのだが、明らかにこれはロシア語と混同しているのだよな、と思う言いまつがいが散見される。

たとえば、「ばっかり〇〇する」という。「ばっかり甘いもの食べちゃだめだよ」とか。これは、ロシア語で「ばっかり」にあたる語(только)が名詞に対して前置であることによる。

「倒れる」を「落ちる」と言う。どちらもロシア語だとупастьなので。

「寒い」「冷たい」をしばしば混同する。どちらもロシア語でхолодноなので。

「クリスマス」のことを「誕生日」という。ロシア語でクリスマスは「誕生祭」Рождествоなので紛らわしい。

逆に、日本語に引っ張られてロシア語を間違うこともある。ママこっち来てというときロシア語だとここへ「行け」という言い方をする(Мама, иди сюда)のがふつうだが、日本語を直訳して「来い」と言ってしまうことがある(Мама, приди сюда)
ほか、服のボタンのことをкнопкаという(正しくはпуговица)など、枚挙にいとまがない。日本語だと服のボタンもエレベーターのボタンもボタンというが、ロシア語だと前者はпуговица後者はкнопкаと全然ちがう語を使う、だが。

もちろん、全然ロシア語が関係ない間違いもある。かなり昔から、「うごく」を「おぼく」と言う。「はれつ(破裂)」を「はらぺつ」と言う(←私のすごい好きなやつ)

可愛いので、基本的にこういうのは直したくない。今だけのことと思えば、直すのが忍びない。ほっといても勝手に直ってくのだから、それまでは言わせておく方針。
(実は妻にも昔から同じ方針で、「にんにく」を「にんとく」、「目をつぶる」を「目をつぶす」、「セクハラ」を「セキハラ」と言うのをかなり多年にわたり放置して、後で真実を知ったときに「どうして直してくれなかった!」と怒られた)12/4

妻の日本語師範学校

妻はN1(日本語検定一級)保持者。オデッサ時代から日本語の個人教授を行っていた。それが今、ステップアップのために、外国人への日本語の教授法を教える学校に通っている。講師の中には高名な言語学者などもいて、かなり専門的な内容を学んでいるようだ。持ち帰った小テストというのを私もやってみたが正直全然わからなかった。

小テストの他にもいろいろ面白い話題を持ち帰ってくれる。こないだ、日本語には「〇っ〇り」という語がめちゃめちゃいっぱいあるんだね、とか言ってきて、なるほどたしかに。それで私と妻で「〇っ〇り」の言葉を出し合いっこしてみた。皆さんもどうぞやってみて。

そっくり、ぞっくり、ゆっくり、むっくり、びっしり、ぴったり、かっちり、がっつり、ひょっこり、ぱっちり、しゃっきり、のっそり、ばったり、ずっしり、げっそり、こってり、じっくり、さっぱり、ばっさり・・

驚くのは、ほとんど一つの意味にしか使わない語が多い。「むっくり」なぞは「起き上がる」という動詞のためだけに存在しているかのようだし、「もっこり」といえばほとんど被服ごしに男性器が存在感を放っているさまを言うのにしか使わない(そんなこともないか)。「ばったり」は「出会う」の、「ずっしり」は「重い」の、「ばっさり」は「切る」の、ほとんど枕言葉である。「ぞっくり」はワタシ的には「生えそろった(歯)」の専属表現(スメルジャコフ、『カラマーゾフ』原卓也訳)12/4

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