三鷹会の活動報告

ウクライナの戦争

三鷹ウクライナ会という会を立ち上げてこれまで3回の勉強会を開いた。

序:なぜ三鷹か、なぜウクライナか

なぜ三鷹か。わたしが三鷹を巣としておるから。なんで三鷹を巣としおるか。そこをひとつお話しよう。私の妻はいわゆるウクライナ避難民である。私らは2022年3月に住み慣れたオデッサを離れた、ロシアがミサイルとか飛ばしながら土足で東から南から乗り込んできたので。それで日本に帰ってきたはいいが、さて妻と私と2歳のがきんちょ、住むところがちょっとないなあというところへ、当時そういう人向けに東京都が都営住宅の無償貸与というのをやっていて、これに乗っかった。五か所ほどの都営住宅を選択肢として提示された。台東区と、大田区と、あとどこかとどこかと、三鷹。23区外は三鷹だけだったと記憶する。それぞれの住所をGoogleMap(衛星写真モード)で調べたら、一番緑が多そうなところが三鷹だった。私は学校が早稲田で高円寺とか住んでたので沿線の土地勘もある。それで三鷹にした。

同じように(か知らないが)三鷹の都営住宅を選んだウクライナ避難者が30名ほどあった。それで三鷹市は、市区町村としては、日本有数のウクライナ避難民受け入れ先となった。私どもは三鷹市(そして三鷹市の国際交流協会=MISHOP)から有形無形の支援をいただいた、今も大変な恩顧を賜っている。その三鷹市に一種の恩返しをしたいと思った。

もともと三鷹市とウクライナは何の関係もない。横浜市とオデッサと姉妹都市であるように、三鷹市がウクライナのどこかの街と兄弟姉妹であるという事実もない。だがひょんなことから、こうして深いかかわりができた。そのかかわりを、自分なりに、もう一歩深めることができる。自分の持ってる(乏しい)体験知を共有することができるし、露文界隈のすごめの人も呼べないこともない、そのような形で、はからずも隣人となったウクライナ(人)について、皆さんの理解を深めることが、自分にはできる。

そういう思いとか、それ以外の思いとかあって、三鷹ウクライナ会という会を立ち上げた。前置き以上。

第一の勉強会

こんなようなチラシを、よくしてくださっている方に作っていただいた。

ここにあるように、第1回および第2回の勉強会は、和田という人間――その正体は実は何丘が操縦しているロボットなのだが――、そいつがオデッサについてしゃべった。

↑まず、オデッサの基礎知識みたいな話をした。いろんな縮尺とモードで地図を眺めながら、オデッサの位置関係を確認した。最低限の前提知識の共有。

↑続いて、世界遺産に登録されたオデッサ旧市街のヴァーチャル散歩に諸賢をお連れした。当時撮った写真をいろいろ見せつつ。

↑そのあと、テーマ別の話。たとえば銅像、特に銅像ドミノと呼ばれる(私が勝手にそう呼んでいる)現象について、その後の報道写真なども交えながら。ほか、公園についてもお話した。

「23年9月」にも一章を割いた。私たちは今年の9月に2週間ほどオデッサに帰省した。そのときの見聞を特にまとめて報告した。参照:わたくしの「絵日記」

ダーチャ(別荘)ライフというものをご紹介した。ウクライナ(ロシアもだが)の人たちの典型的なライフスタイルのサンプルとして。

以上は一生活者としての私に十分語る資格のある事柄で、ここからはややのりをこえるが、話さないわけにもいかない、その後のオデッサ。「ウクライナ戦争(オデッサ方面)略史」と題して、ウクライナ戦争の経過をオデッサの視点から振り返るということをした。

↑ターニングポイントとなった重要イベントをざっと振り返っていった。何丘ブログ「ウクライナ戦争側面史」の勉強の成果。

こんな感じで1時間半くらいしゃべった。

■開催概要
9月23日土曜昼。場所は三鷹市の生涯学習センターというところ、三鷹駅から徒歩なんと30分(バスで10分)。このアクセスの悪さが不評だった。
参加は7人。三鷹市民だったり、近隣の人だったり、遠方から来られた方も。

■自己評価
参加人数だけでいうと、もちろん、これで満足していい筈がない。なんでこうなるか。宣伝が下手、というか、これは私という人間のダメさで、宣伝というものが億劫で仕方なく、何もせぬまま気づけば本番二・三日前とかになっていて、慌てて何かするのだが忙しい大人はそうホイサと集まれない。
だが、他面、よき参加者に恵まれた。人数が少ないなら少ないなりにインタラクティヴにやってこうと、質問や突っ込みは随時受け付けた。したら何名か(基本的に皆さん)大変積極的に発言してくださり、助かったし、深まったし、広がった。
内容的には、まぁ面白かったと思う。というのは、私の話の持ってき方のうまさ下手さによらず、知らない街について色々写真を見ながら話を聞くというのは、最低限面白いことの筈だから。あと、この種の話は、わりと何度かしたことがあるから、多少は話もうまくはなっている。

第二の勉強会

第二回も和田とかいう人――その脳髄および肉体は非物質宇宙生命体・何丘に完全に支配されて久しい――が担当した。同じ話を二度するのか? んにゃ、「オデッサとわたし」を語るには違いないのだが、前回は力点が「オデッサ」にあり、今回はそれが「わたし」にある。私自身のはなしをする。

まず自身の避難について話した。あの2月24日をどのように迎えたか。迎えて、そのあと、どうしたか。

1月19日の「非常事態宣言」というのは何丘が勝手に家庭内で発令したそれで、有名な何丘ブログの「手記」はこの日付から始まっている。概して本章は「手記」をタネ本としており、以下、三つのシナリオとか二つの現実とか帰国/残留のメリデメ比較とか、内容的にはぜんぶ「手記」あるいは「手記Re:」に書いてあること、これをより図式的に整理しつつ。

で、私たち(というか、私)の意思決定を左右した外部事象というか歴史的経過を、より解像度高く眺めた。これこれの日にこういう事象が起こり、それについてこういうことを思い、で、これこれこういうふうに行動したと。そのことに何か普遍的な意味があるわけではないが、一例として、一体験として、こういうことを危機に瀕して一人の日本人がしました。という話。

おまけとして、ウクライナを出国した私たちが、どういう経路をたどって日本に帰国したか、また道中で見たものについて、若干お話をした。こちらは「流亡の記」に詳しいです。以上、「避難」のはなし。

次に「支援」の話をした。わたちたち自身がウクライナ避難民一家なので、支援の対象者として見てきた景色があるし、一方で、若干ながら支援の仲介とか提供にも携わり、他の避難者のことも間近に見てきた。そういう立場から、今日本でウクライナ避難民に対して行われている支援について、知っている限りのことをお話した。

最後に「保証人」の話をした。私が日本における父代わりをしているウクライナ少年「ジョニー」について。また、保証人とは何する人か。――私もよく知らんのだが、少なくとも私という一例は、どんなふうにそれをやっているか。

この話題に興味ある人、「少年ジョニー」という記事どぞ。

■開催概要
9月30日土曜昼。場所は第1回と同じ、三鷹市の生涯学習センター。参加は9人。

■自己評価
今回も質問コメント随時受付式でやった。非常に多彩な声を寄せてくださって感謝。中にたまたま天安門事件を現地で経験された方が2人いらして、避難の際の大使館の助力についてもやもやを吐露し合った。あと、皆さん避難民支援に関心をお持ちで、わがジョニー少年のことも心配してくださった。
というわけで一定の盛り上がりを見せたが、私自身はちょっと後味が苦かった。第一回はわりと充実感が勝っていたが、第二回は多く虚脱感を味わった。つまんねー話をしてしまった、ウケなかった、と思った。パーソナルなことを語った、語ろうとした、だがうまくいかなかった、……人の心には響かなかった、染みていかなかった。まず「避難」について、結局のところ、知らん奴の身の上話なんか面白くない。個別具体性の塊で、普遍妥当性がない。したがって、何ら引き出すべき教訓もない。たぶん「手記」は、このブログに乗っているままの形なら、心情の揺らぎと変化の詳細な記録として、価値があるし、面白い。だがあとから振り返って「二つの現実」とか「三つのシナリオ」とかと図式的に整理して語ることには、本質的に向かない話なのだ。
あとの「支援」「保証人」についても、なんか自分の苦労自慢を得々と人に聞かせてしまった感じがして、うそさむい。
単に私の状態がよくなかったのかもしれない。とにかく、率直に、右のごとく総括する。

第三の勉強会

もともと私が話するよりは、人を呼んで話を聞きたかった。
とりあえず自分が発表者になって2回くらいやった実績、活動をしていますという状態を作っておいて、いよよ人呼んで話きくフェーズに入っていった。

まず、既知の林さんをお呼びした。2月24日当時、在ウクライナ日本大使館に勤務されていた方。

今回も少人数(精鋭)だったので、随時質問を受け付けつつ、下記のような構成で林さんにご発表いただいた。

chapter1:在ウクライナ日本大使館の基本情報
   ∟大使館てそも何するとことぞ・ウクライナ館の人員構成その他概論
chapter2:大使館における林さんの業務
   ∟「広報」の仕事とは。何をしたか、何を感じたか
chapter3:一私人として暮らしたウクライナ
   ∟ウクライナってどんな国だった?個人生活の面で何か珍体験あった?
chapter4:2/24周りのこと
   ∟いち大使館職員は”あの日”をどこでどのように迎えたか
chapter5:支援と広報
   ∟日本の対ウクライナ支援と、その周知のあり方を考える

私の方でざっくりその内容をかいつまむと(以下文責何丘、情報に不正確な点ありとも一義的には何丘を責められたし)

まず【chapter1:基本情報】について、戦争前のウクライナ館は大使以下10名前後の外交官+15名程度の現地職員で構成されていたそうだ。私が別の館員(複数)から当時聞いていたところでは、在ウクライナ邦人は全体で200人とのことだった。200人に対し25人というのは存外多いなという気がする。とはいえむろん大使館の業務は在留邦人の保護とか領事業務に限られるものではなく、ざっくり①政府との交渉に携わる部門②経済協力に携わる部門③情報収集に携わる部門④邦人の安全を守る領事や警備に携わる部門に分かれている由。
で、当時の大使館はキエフの準一等地の大きな建物の一フロアに過ぎなかったが、戦時下に豪壮な独立館が完成して今はこちらに移転している。林さん自身は旧館の方しか知らない(ちな私も)そうだ。

Wikipediaおよび大使館HPより

あと、戦争が始まってからの方が、大使館の人員は増大しているそうだ。在住者は10分の1くらいになっていると思うが、経済協力などで業務が増したためという。

続いて【chapter2:広報業務】すなわち、林さんご自身が担われていた広報のお仕事について。これは一口に言って、ウクライナにおける日本のイメージを向上させるお仕事。現地の大学と協力して日本語学習者を増やしたり何か日本関連のイベント(美術展、舞台etc.)を企画したり。ただ、ここでネックになったのがコロナ禍で、林さんの着任は20年7月、ちょうどコロナがひどいとき。イベントを開きにくく、また首都から地方へ出て交流の輪を広げるようなこともやりにくかった。(林さんは20年7月~22年7月という自身の任期を「コロナに始まりプーチンに終わった2年間」と表現されている)

仕事を通じて感じたのは、ウクライナの人たちの愛国心とか帰属意識(自分は何者か)の強さだという。だけに、お前は何者なのか、ということも強く問うてくる。結果、「自分は日本について何も知らないな」と思わされることが度々あったということだ。これは私も、分かる。
あと、ウクライナの人たちのある種の性根の良さというか、裏表のなさみたいなのも。たとえば、林さんは任期の終盤、SNSの運営(後述)にも力を入れられたが、TwitterやFacebookの大使館アカウントまわりの治安の良さには目を瞠るものがあったそうだ。すごい感謝してくれる。糞コメントが全然つかない。支援する側として大変モチヴェーションになったという。

続いて【chapter3:一私人として暮らしたウクライナ】。ウクライナのごときややwildな環境に2年も暮らせばおもしろエピソードの一つや二つくらい生まれたろうと期待して話を振ったのだが、期待の斜め上を行った。誤診で内蔵をとられそうになった話。おなかが痛くなって病院にかかったらこれは〇臓(何とかいう臓器)切除やむなし案件だねと深刻な顔で言われこわ~と思って別の医者にセカンドオピニオン求めたらこれは内蔵じゃなくて骨です、あばらが折れてるから中の臓器が圧迫されてるんです、ということで、それで一時帰国して骨の方を治療してことなきを得た、最初の医師に従っていたら悪くもない臓器をとられるところだった、ちゃんちゃん(笑えない)。他にもあるけど割愛。

さて重たい話。【chapter4:2/24周りのこと】。2月24日とは言わずもがな、2022年のその日、ロシアがウクライナに攻め込んできたのである(どぶ畜生)。
まず林さんはその日、ウクライナにいなかった。すでに大使館機能の一部はポーランドに移転していた。要するに大使館は、ロシアが攻めてくる蓋然性にかんがみ、領事ほかエッセンシャルな機能のみキエフに残し、必ずしもキエフに留まる必要のないセクションについては先んじて外部へ逃がしていた。広報業務などはまさにそれにあたった。
で、けっきょく任期中、林さんがウクライナに戻ることはなかった。住んでたアパートに今も荷物とかある。大家さんに預かってもらっている。

林さん個人は「すぐにキエフに戻れる」と考えていた。要するに、戦争というなら2014年からもうウクライナという国は戦争をしているのであって(ドンバス紛争)、それでもキエフには日常があり生活があり、こう言って良ければ平和があった、その状態は変わらないか、あるいはすぐに回復されるであろうと。何丘ブログ「手記」の読者にはおなじみの光景である。
林さんの報告をきく限り、そうした展望について、大使館職員の間にコンセンサスはなかった。ポーランドへの先行避難の決定も、自分よりもすごい高いレベルで決められたことに従ったまで、とのこと。

業務に直接かかわるところでは、まず、予定されていたイベントが悉皆キャンセルとなったことにつき、関係者に連絡するので忙しかった。それから、在留邦人200名への電話による退避勧告(説得)、この人海戦術に、ほんらい領事は管轄外の林さんも加わった。

それから、広報担当の本領発揮、Twitterのアカウントを2つ作り、片や日本語で日本人向けに安全に関わる情報を発信、片やウクライナ語で日本からウクライナへの支援に関する情報をウクライナ語で発信しはじめた。林さんはまさにこの「中の人」であった。

左が邦人向け安全情報、右がウクライナ人向け支援等情報。23年12月4日キャプチャ

安全情報については、すでに役目を終えたとして、22年10月を最後に更新が止まっている。最大時は1万5000人もフォロワーがいたそうだ。
ただ、あえて厳しいことを言うと、成果指標はフォロワー数でなく、200人いた在留邦人の(退避なら退避という)意思決定にどの程度寄与したかということで定性的に測られるべきで、会でもその点をつついてみたのだが、その結果わかったことは、少なくともこの取り組みの効果について大使館あるいは外務省として組織的な検証は行われなかった。それでいいのかなぁ、そんなもんなのかなぁ。もしも行われていたら後のガザの紛争の際に役立ったかもしれないのに。
そもそもTwitterアカウントの開設じたい、上からお達しがあったことでなく、林さんの独断というか、ご自身のイニシアチブだったそうだ。外務省の在外公館向けの一般的なガイダンスとして(有事の際ということでなく一般的に)こういう手段でこういうことができますよというメニュー表の中にSNSでの情報発信ということも含まれてるそうなのだが、この時代にSNS戦略についてそんな温度低くて外務省だいじょうぶ?とか思っちゃうよね。

生きてるほうのアカウント、ウクライナ人向けにウクライナ語でやってる日本の支援等に関する情報発信も、正直、もっとやりようはないのかなと思っちゃう。おカタすぎなかな。いち意見です。こちら

最後、【chapter5:支援と広報】については、私の方で発表を行った。日本政府あるいは自治体⇒ウクライナへの支援の実例と、そのウクライナメディアでの取り上げられ方を紹介した。

その中で、最近ウクライナで行われた世論調査を紹介しつつ、日本はどちらかというと好感を持たれている国であるがお世辞にも支援国の筆頭に挙げられる国ではなく、もしかしたら実際に行っている支援の規模とウクライナの人たちの認識の間に(我々にとって)不幸なギャップが生じてしまっているのではないかな、という疑問を投げかけてみた。

というわけで、色々と新しく知ることが多く、また考えさせられる会とはなりました。なったと思います。

■開催概要
10月28日土曜昼。場所は変わって三鷹駅前コミュニティセンター。駅から近くて好評だった。参加は8人(リモート含む)。

■自己評価
一人でわーっとしゃべるよりは聞き役というものを立てて対話形式で話を進めていく方が話しやすいとのことだったので、そのようにした。それだもので「対話篇」と銘打った。2月24日当時の大使館員と一在住者、言ったら避難を勧告し・また支援する側とされる側、というある種の対決構図になるのも一興だと思った。ただ、事前の打ち合わせ(@カフェゴトー、早稲田)で3時間くらい話し込んでかなりのところまで話の内容を把握してしまったのと、大使館の色々な業務の中でも比較的私のような在留邦人には関係が希薄な部署にお勤めだったことの関係で、白熱対話という感じにはならなかった。
ぬるいことばかり言っても仕方ないので率直にいうが、発表者が意思決定~実行プロセスのかなり下流に位置したことと、またかなり慎重な物言いをなさることにより、隔靴掻痒の感もあった。ただ皆さん何かしらはお持ち帰りいただけたもようだ。大使館の業務について蒙を啓かれたとか個人的な話(誤診で内蔵をとられそうになった話、とか)が特に面白かったとかと感想をお寄せいただいた。
私が一番驚いたのは、SNSによるソフトパワー発信について外務省に事実上大綱というものがなく、SNSやるやらない・またどのようにやるかが各国の在外公館の裁量にほぼ一任されているという話。改めて、各館の経験を東京が吸い上げて各館に再分配するという還流システムが存在しない/脆弱なのではという危機感を覚えた。たとえばウクライナにおける危機の際の邦人保護・避難支援の経験が、ガザでどのくらい活かされたか。ほとんど活かされてないのではないか。
というわけで、私は私として、保護または支援対象者たる一在外邦人としてウクライナで経験したことを、きちんとまとめて外務省に書き送っておくべきだと思った。
(私の外務省に対するわるぐちが読みたい方は「手記」または「流亡の記」をどうぞ)

三鷹ウクライナ会の今後

とりま12月中はやらない。
1月に第4回をやりたい。
12月はその仕込みをする。

地道に周知し、
まともに宣伝して、
まともに人を呼びたい。

基本的に次回考えてるのは、
ウクライナからの避難者の方に、ふるさとの街について語ってもらう。
これを一人20分くらいで、3~4人くらいにやってもらうのを考えてる。

あと、宣伝。スピンオフなんだが、
すいません、先言っときますが、有償です。カネとります。
わたしがロシア語を教える、みたいな勉強会を1月から催す。ロシア語勉強会。
コンセプトは、ロシアの反戦知識人の声明の読解。
プレ回として、作家ドミートリイ・グルホフスキーの発言(ラジオ・スヴァボーダによるインタビュー)を読んでみた。

まぁ言ったら心あるロシア人の発言に知情意を尽くして向き合い、ロシアを再び信じ始めてみる(ロシアに絶望しない)ためのロシア語講座。
求めるロシア語レベルは別に高くもなく、自分で辞書引けて一通りの文法現象を知っている方なら誰でも。一通りの文法現象というのは、それを使いこなせる必要は全然なく、だがこれは否定生格ですよとかこれは被動形動詞過去短語尾ですよとこちらが言ったときに、ああ、そうゆうのあるよねとくらいは思ってもらえると助かる。全くピンとこないようだと厳しいと思う。たぶん。

初回を1月半ばに、一人の生徒とやることは決まっている。これに加わってくれるかた募集。イメージ的には、昔ロシア語かじったことがある人(おじちゃんおばちゃん世代など)、いままさにかじっているという人(学生とか)、のステップアップに良いと思う。「中級」。
料金は、これももうぶっちゃけてしまうが、その方とはひとまず一コマ5000円ということで約束している。わたしとしては、1アカデミックアワー(90分)で5000円いただければ十分なので、参加者が2人になれば1人からは2500円、5人になれば1000円いただければ足りる。
というわけでご興味の方、そうさな、ま、naniokaivanあっとまーくgmail.comまでご連絡ください。



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