新しい一年の始まり/あなたの愛した太郎

ウクライナの戦争

あけまして。

緒言

1月18日にもなって新年の挨拶もないようなものだ。だがしないよりはましだろう。しじゅうの峠をすぎて迎えるはじめての正月である。すでに新しい年をだいぶ汚してしまっている。しょうこりもなく、今年こそは、よい年にしようなど、あれこれ目標を立てている。どうせ実行しない・達成しないのだが、でも今年こそはできる気がすると、せめて正月くらいは思えるようでないと、本当に終わりだよ、とかいって、これも誰かの受け売りなのだ。

正月どう過ごしたか

とんだ正月であった。私のほうで厄を引き受けたので、せめて皆さん方の方では、よい新年のスタートを切られたものと思いたい。

何から話そうか。まず正月そうそう、親と大喧嘩した。小さいのがいるので、妻とその小さいのは三鷹に残して、私と太郎のふたりだけで、熊谷へ帰った。元日のことだ。兄も来ていた。それで夕食後、私が階上で何や自分のことしてたら、下がやけに静かだなと思って、降りたら、子供がテレビで映像を見ていた、それは、渡辺謙の出てくる、ゴジラの映画(比較的最近の)であった。私はすぐさま視聴を中断させて子供をお風呂に連行した。それで翌朝に父母と大喧嘩だ。私と妻が映像に関して(子供に何を見せ何を見せないかについて)かなり厳格なポリシーを持っていることは知っていたはずだ、自身のパソコンのネットフリックスをテレビの大画面につなげて直接それを見せ始めたのは兄なのであるが、兄はよい、だがその場に居合わせた父母が、なぜそれを看過したのか、なぜ私に一言言わなかったのか、夜の八時に、そろそろ就眠に向けて流れを作っていかなければいけないときに、自分が内容を知らない・自分が内容について責任を持てない・しかし恐らくは刺激的な、暴力的な描写を伴うのだろう映像を、いったいどういうプランで見せ始めたのか……と。

私の激詰めは、えぐい。母は可成りにエモーショナルな人間なので、私の鬼詰めに対し、キュウソネコカミ的に、絶叫を伴う、やぶれかぶれな反撃を試みて、私はそれを一つ一つ、冷静沈着に粉砕してゆき、終い、互い非常にいやーな気分でものわかれとなり、二日は夕方までゆっくり過ごす予定だったが、朝の雑煮をたべたらすぐ電車のって太郎とふたり三鷹さ帰った。

いろいろなことを思った。映像に関する自分の考え方は別に変わらない。だが母の言った、私(何丘)は人を緊張させるようなまなざしをしている、私がいると私に怒られないかと思ってびくびくしている、来てくれるのは嬉しいが、はっきりいってあんたらが家にいると、疲れるのよ!という言葉は、私にはぐさりきた。心あたりはありありだった。私は沈黙とか不機嫌を用いた人心掌握術に古くから淫してきた(わが旧友たちが証言するであろう)。その最新の餌食はわが太郎である。との自覚は半ばあったが、たらちねの母さえ私は、この不機嫌ですでに喰ろうていたのか。(私のまなざしに真っ向から立ち向かえるのは妻くらいである。妻がそのような人でよかった。そのような人でないと私の伴侶はつとまらなかった)

いろいろ考えるうち、たしかに私の根本的な属性に、傲慢ということがあるなと思った。それはこのブログにだってそこここに噴出している。七つの大罪、傲慢・貪欲・邪淫・憤怒・貪食・嫉妬・怠惰だそうだ。私は自分を久しく怠惰ポケモンだと思っていた。だが実際には怠惰と傲慢の複合ポケモンであった(※ポケモン知りません)! 私の傲慢は、たとえば、過去に書いた「子育て十戒」の記事に出ている。こういう主義思想ありげな奴が一番危ない、実は一番児童虐待に近いのではないか。また私の傲慢は、「私の好きな音楽ライブ映像10選」の記事にも横溢している(趣味自慢と知ったかぶり)。いろいろと大変に恥ずかしく情けなくなり、humbleでありたい、ビー・ハンブル。それが今年のテーマになるかと思った。(だが意固地になり、母にLINEで謝るようなことはしなかった)

これが新年の幕開けであった。壮絶な、と思った。
だが、あとに引き連れて起こったことに比べれば、何でもないことであった。

その数日後に、オデッサの義母が倒れた。このブログの例の記事にも出てくるあの義母である。脳卒中(おそらくは脳梗塞)だ。生死の境を彷徨うこと数日、意識は依然として不明であるものの、ひとまず容態は低位安定、私たちは初期の衝撃を抜け、新たな日常としてこれを受容しつつある。

私は祖母をひとり脳梗塞でなくしている。最初の一撃で精神は大きく毀損され、のちながいながい減衰の果てに、諸事わからずなり、玉の緒は、細り細ってふつり切れた。

こんご義母がどのような経過をたどるのか予断は全く許されない。急変もあり得る。面会は許されているので、義父は日に僅かの時間、義母に会っている。それで(私の)妻と子が吹き込んだボイスメッセージを聞かせている。太郎の声にだけ、少し反応を示すらしい。泣けてくる。業魔にも奪い得なかったもの、義母の魂の底にこびりついて残ったもの、太郎への愛、淵よりの愛。生きたいはずだ。死ねないはずだ!! 太郎と相見るために必ずや義母の精神は復興すると信ずる。読者の皆さまも義母の回復を祈ってくださると嬉しい。

(義母卒倒の報知に接したその日、私は自分の母に、和解を求めるLINEを送ったのであった)

このようなめちゃくちゃな状態のわがやに、さらに追い打ちをかけるようなことがあった。

その日私は太郎と一日江の島に出かけた。疲れ切って帰ってきて、晩方の憩いの時間、同じアパートのすぐ階上に住んでる太郎の仲良しのMちゃんが新年の挨拶に来てくれて、手土産にちょっとしたおもちゃをくれた。それを玄関先で子供が、箱をあけようと悪戦苦闘していて、で、背後に立った妻丘が、開かないかいどれちょいと貸してごらんと屈みこむのと入れ違い、子が振り返りざま勢いよく立ち上がり、刹那の交叉、おもちゃの箱の段ボールの突出部が、妻の眼球にもろにブッ刺さった。らしい。詳しい状況、どのくらいえぐいブッ刺さりだったのか、は聞くのも怖い、正確には知らない。春琴抄と緑川ショウゴのトラウマで眼球は私の精神の急所である。

妻の片目は一時かなり見えずらくなった。私はとても怖かった。失明、という言葉がちらついた。義母の急患により開闢した非常時のなかで、まだ「現実」は冷え固まっておらずアメーバように不定形であり、普通なら起こり得ないどんな恐ろしいことでも起こる気がした。魔の刻、こういうときはよほど気を付けてないといけないのだ。このうえ妻が片目を失う! 私は戦慄した。

結果いうと、本件は、杞憂であった。3日ほどで見え方は本復し、一応眼科にも行かせたが、「教科書の挿画でしか見ないようなきれいな眼球」と医者からお墨付きをもらった。人間の回復力。このことは義母についてむしろ希望を抱かせるエピソードとなった。

……という、正月であった。

2025年どうなる①戦争

私の願いは今は一つ、義母の回復である。

だが家のことを除けば、むろん願われるのは、ウクライナの戦火の終熄だ。1月20日(トランプ就任)以降の世界はわからない。わからないが、これほど戦争終結への期待が高まったこともかつてない。終わる、のかも知れない、マジで。領土の蚕食が止み、ウクライナの街々へドローンやミサイルが飛んでこなくなり、ウクライナの青年たちが戦場からふるさとへと帰還してくる。寿ぐべきことだ。だが正義は実現しない。夥しい殺人と破壊。地下に押し込められた子供たち。領土の四半分が奪われた。交渉で領土を取り返せるなど夢物語だ。露は返さない、謝らない、賠償金を支払わない。戦争を可能にした終身独裁・警察国家・収容所群島・プロパガンダマシーンはそっくり存続する。プーチンは無罰である。戦争を主導したエリートみな無罰にしてますます富み、満ち足りた老後を送り、やがて天国に迎えられる、地上には銅像が立つ。露は必ず経済的・文化的に復興してくる(そうしないにはあまりに豊かな土壌)。人たちはこれを容れる。やっぱり露なしのフィギュアスケートなんてねとかいって。肩組んで・既往不咎!の大合唱(五七五)。私ひとりすみっこで暗い目をしている。爪かみながらぶつぶつ「許さぬ」と呟いている。2025年どうなる。①戦争。こうなる。

2025年どうなる②オデッサ

今年こそはオデッサに帰らないであろう。驚くなかれ、2022年2月にウクライナを脱出して日本へやってきた何丘一家は、2023年の夏に里帰りし、2024年の夏にも里帰りして、実ににせんにじゅうと名のつく年でウクライナで数週間なりと過ごさなかった年は一年もないのである。

だが今年こそはオデッサに帰らないであろう。トランプのあれで、停戦がぐっと近づいて、ひとまずミサイルが飛んでくる危険はなくなったものとみなしてよくなったとしても、それとは無関係に。まだ体重をグラムではかるような小さいのがいるから。

だが、義母が倒れて、事情が変わった。

私は妻をオデッサへ帰してやりたい。そのときに、太郎を伴っていくことまで、最大、許容する。いま意識不明の義母が、ひとまず意識を回復したのち、その回復した瞬間をピークに、それから長い下り坂を下って、徐々に精神が衰滅していくのだとしたら(まさに私が自分の祖母について見てきたように)、妻と太郎はなるべく早い時期、少しでも義母の頭がはっきりしているうちに、義母に会うべきだと思う。

悩ましいのは、義母は州立病院に入っていて(まさに太郎が生まれた病院である)、その立地はオデッサ市内であり、海に近い。露がオデッサを攻撃するときに狙うのは基本的に港湾インフラ等「海のほう」でありこの州立病院や義父母本宅がある団地にもシャヘドは飛んできている(目と鼻の先で死人も出ている)。妻ひとりならまだしも、太郎もがオデッサの街なかにいるという状況は、私として許容しがたい。(※23年と24年に私が里帰りに同意したのは滞在先が内陸に数十キロ引っ込んだオデッサ州内某所のダーチャであったから。23年24年

たとえば義母の自宅療養が可能になり、二週間くらいダーチャに引き取ることが可能になれば、そのタイミングで、妻と太郎を行かせるのだろうか。分からない。私も行くことになるのかも知れない。主として義母の容態と、信ずるに足る平和の到来の有無また時期、このふたつのファクターでいろいろ決まる。

2025年どうなる③ブログ

とつぜんだが「12人産んだ助産師HISAKOの子育てチャンネル」ご存知か。先から妻がハマっていて、私もちょいちょい見ている。自身12人産んだママでありしかもプロの助産師。圧倒的な専門性と経験値、おまけにしゃべくり達者、驚嘆すべき傑物である。そのマタニティ・ブルーズの動画など見ながら、このHISAKOが「何丘ブログの読者である」という想念に駆られて、いや、そういうこともあるであろう、むしろそう仮定するべきなのだ、だって、人間のあらゆる部面で私に数層倍優れるHISAKOといえど、ウクライナ情勢については、私よりは明るくないであろうから……。それで改めて、ハンブル(恭倹)ということを思った。驕り高ぶったかきぶりやめよ、読者を敬え、HISAKOほどの人が読んでいると思え。どの人も固有の生を哀しく忙しく生きているのだ。その人たちの前に何をお前の乏しい知識や技能や趣味を誇るか!「今日あんたが右足から玄関を出ていったなら、左足から出るべきだったと、そう思いな」。

ライフワークの、戦争記事(現在更新中の「ウクライナの戦争いまどうなってる」を第10弾とする記事の系列)は、今年も続けるのだろう。同時代人としての私のモラルの最低線(現実線)は、ウクライナ戦争を「見続ける」、それについて何をか「語り続ける」、その語ることを通じて何事か「考え続ける」、その過程で何か思いつくことがあれば、情況に竿さして、何か「やってみる」。戦争記事の書き継ぎはそのすべての基盤である。やらないわけにはいかない。

関連して、休みがちプロジェクト、「1000万字」の更新も、続ける(意思はある)。改めてその企図をいうと、1000万という数字は、露軍の員数の比喩である。露の人口1億4000万。うち少なくない80万が既にこの戦争で死し若しくは四肢また五感の一部を失い退場した。が、そこは市民に一等二等の別ある<帝国>の強み、今のところB級市民ばかり投じて世論形成主体は実質ノータッチなので、政権支持は揺らいでいない。だが、この、集めて→送って→貨物になって帰ってくるというサイクルにA級国民(とは即ち、都市部、特にモスクワやサンクトペテルブルクに住む民族的ロシア人)が巻き込まれ出すと話が違ってくる。人間は数ではない、然り、だが戦争は一面で確かに数のゲームである。どんだけ死ねば露の政権支持がコラプスするか。それで仮に仮定された数が1000万である。1000万人を第200もしくは300貨物(※死体or重傷者の隠語)にすれば、あのゾンビどもも、ついに食人鬼政権を打倒するために立ち上がる(多数ゾンビによる少数グールに対する革命!)。1000万、途方もない数だ。だがこれをゼロにするためにウクライナ軍はがんばっているわけである。日に1500人を貨物にしている。それを模して私も日に1500字書く。

「何かやるⅡ」は、もう更新しない。まったく恥ずかしい。この記事の存在のお陰で、私はこのかん、ずっと恥ずかしかった。いわば、無為ざらしの刑に処せられていた。応分のことだ。この記事を立てた意義といえば、そのくらいだ。そしてその意義のゆえに、記事を立てたこと自体は、後悔していない。

結果的には、1月半ば現在、電気は足りている。何度か露の大規模攻撃はあったが、その都度エネルギーシステムは持ちこたえた、緊急/計画停電は、攻撃後一昼夜も続かなかった。たぶん、最大の要因は、暖冬である。キエフとオデッサの天気はいつも見ているが、下がっても零下3度ほど、このくらいなら乏しい出力でも、需要をカバーできる。他に、分散型Eシステムの構築をよほどがんばったこと、ウクライナの電力技士たちの復旧ノウハウが今や世界最高水準であること、防空システムとそれを扱う者の質/量的充実、色々な要因があるだろう。そうこうするうちモルドヴァのドニエストル左岸が露の悪辣なマニピュレーションのせいで電力危機になって、むしろウクライナが左岸に石炭だの送って電力助ける、という話になっている。この冬のこんな展開は誰も予想し得なかった。

とはいえ、2月はウクライナ語で酷月(むごつき)、まだこの冬のうちに、ひとさむふたさむは必ずくる。そこを狙って露は非人道ミサイルを大量に送り込んでくるはずだ。そのとき改めて私は自らの無為を呪うことになる。

結局この間、私のしたことは:某新聞と、某自治体と、某独立行政法人と、某メーカーと、某ボランティア団体に、一通ずつ長文のメールを送って、梨のつぶてを返された、それだけ。それら団体を私が恨む筋合いはない。だから名指しもしない。本当に人を動かすなら一度メールして返事なくても何度も何度もしつこくかけあってみるものだ。だが私はそれをしない。その熱量の乏しさが結局は、もとから閉まっていた扉の、いずれもこじあけることがなかった。

(一つだけ言い訳が許されるなら、11月の第二子誕生というイベントがなければ、さすがにもう少し、何かはしたろうとは思う。だが、どんな状況でも、やる人はやるのだ。私は、やらない理由を見つけるのにはしこいタイプだ)

それで最終的にけじめというのかみそぎというのか、去年も寄付したUNHCRに9万円という、私には大金だがウクライナにとっては路傍の小石ほどのものを寄付して、これでこの冬の私の貢献は終わり、と区切りをつけた。9万というのは単純な計算で、私らが24年の夏にそれがあったお陰で電力危機の中でも冷房と照明を使えたところの発電機、それと同等のスペックのものがウクライナで24000グリヴニャで買えることを確認し、それを円換算した。どんな電力危機でも価額9万円の発電機が一台あれば一つの家庭に確実に(露のミサイル攻撃の有無また苛烈さと関係なく)光が灯る。その一台分を寄付した。

みじめなことだ。未曾有の電力危機であったウクライナ24年夏、いわばこの冬の前哨戦を、実地で生活者として体験した、そうして一台の発電機という非常に分かりやすい象徴的なアイデアをこれも体験知として得た、その私の位相は特異なものだ。この唯一性をてこに、9万に100倍するお金を産み出せるとすら夢想した。だが何もやらなかったから、結果、ウクライナには腹の足しにもならず、私個人にとっては大出血、というさえない結末となった。これで今冬の「何かやる」は終了だ。イグ勲章を私に賜れ。

まとめると、

「何かやるⅡ」は更新しない。「1000万字」は更新する。戦争記事は続ける。

戦争の話ばかりだろうか。なんて暗い「何丘ブログ」だ。だが生活にあまり余裕がないので、最低限だけ更新していくのだろう。ある日突発的に全然戦争と関係ない記事を書いたりするかもしれない。その際は「ビー・ハンブル」を大切に。2025年③ブログ。どうなる。こうなる。

猫のやつは、内省の日に、少しずつ書き継ぐ)

2025年どうなる④生活、私

長くなってきた。まだ付き合ってくれてるんですか。悪いねぇ。巻いてくわ。

太郎はいよよ年長のとしなので、JRにただ乗りできる最後の年である。これで念願の福井・恐竜博物館!をついに訪ねたい。どうせ行くなら富山にも寄りたい(母方の実家がある)。金沢にも寄りたい。

私に関しては、今年こそ本を出すということと、今年こそ大金持ちになってみせるという、二つの大きな目標を、今年も叶えないのであろう。もっと低い次元では、私の内容を富ましめるという方向と、私の外皮を取り剥がしていくという方向を、二つながら追及するのであろう。前者の系列では、人とやたらに会う。後者の系列では、ノートとペンと俺、という時間を日に10分でも毎日(なるべく)持つということだ。すでに全然破綻しているが。

この巳の年が、家族喧嘩から始まった、ということを大事にしたい。そうして義母のこと。このブログには書かなかったが、私と太郎の関係は、台西が生まれてから、危機に陥った。私は男性なのに、異常に母性ホルモンが出て、台西に心がめちゃくちゃ集中し、太郎のことが疎かになった。今は少し、関係の取り方も、うまくなってきているが……。そんなこんなで、今年は大きなテーマとして、愛(家族の。親子の。)ということを、考えていくのだと思う。

・・

以上書いたところで、義母の訃報が届いた。


読者に請う、
今日は親御さんに、久しぶりのLINEをしてやってください。

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