50日後にウクライナから脱出する何丘とかいう奴の「手記」

その他

オデッサ住んでる何丘とかいうやつが1月19日に「手記」をつけはじめて、その36日後に戦争が始まり、50日後に一家は避難した。その50日をうっすらもう一度生きてみる。

※「手記」=ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

3月8日

1年前の今日脱出した。新たな地平に立った。ここでよく生きる。強き父親。「手記」最終章。

皆さまお気遣い・ご声援ありがとうございます。ご心配をおかけしました。8日付けで無事ウクライナを出国、隣国のモルドヴァに逃れ、これ書いてる今はキシニョフのホテルです。妻と子、すぅすぅ寝息を立てています。

出国はきわめてスムーズであった。外出禁止時間があける朝6時きっかりに出発、平時なら1時間の道のりを、ほぼ1時間で走破、一度も検問に引っ掛からずに(!)国境通過ポイントに到着。そこにはさすがに多くの車、だがほとんどは徒歩越境者の送り届けの車のようで、車列自体はせいぜい20台ほどか、徒歩越境者の列もそうさな20人待ちくらいか。ウクライナ国籍者であれば空港のパスポートコントロールの感じで首実検してぱっぱ通す、子供は出生証明書あればOK。私は外国人なので別枠で少し待たされたが、それでも8時前には私ら親子3人もう「向こう側」にいた。

振り返ると列はもう膨れ上がっていた。やはり外出禁止時間(19時~6時)というものあがあり、すなわち6時の声を聞く前の出発・19時を過ぎてなお移動中であることが許されていないという中で、19時にいったんそれ以上は増えなくなるその日の分の越境者が翌日6時までにさばき切れるくらいに僅少化・かつ処理速度が上がっていたために、あとは6時用意ドーンの勝負で、私らの居処が国境ポイントまでわずか1時間という距離のアドバンテージを有していたことが幸いしたのだろう。

やってみればどうということはなかった。もっと早くイケたのではないかとすら思った。でも生き直してみればやはりこれ以外にはタイミングがなかったことが確かめられるだろうと思う。

そこからも幸運が続いた。親切なボランティアの方が私らを含む3組合計8人をワゴン車に乗せて無償でキシニョフまで送ってくれた。Googleマップによれば平時で2時間の道のりを、まさに2時間でキシニョフ。国境で捨てていかねばならないだろうと思っていたベビーカーも積み込んでくれて、しかもホテルの真ん前まで私たちを送り届けてくれた。せめてガソリン代だけでもと20ドルを申し出たが拒まれ・・なんという奇特な方。別に組織に所属しているわけでもなく個人の善意でやっている由。同じことが自分にできるか?

心配していたホテルもちゃんと取れていた。フロントのおばちゃん、今回はとんだことで、大変だったでしょう、どうかゆっくり休んでねと、たいそう気遣ってくれる。

チェックインにはさすがにまだだいぶ早いので、大きい荷物だけ預かってもらって、近くの公園を散歩した。3月8日にはふさわしくない小雪舞う零下のちまた、だが人ら池辺をジョギングしたりコーヒースタンドでカプチーノ買って談笑したり。ここには戦争はないのだ、ここはもう安全なのだ、と思ったら、つーと涙が頬を伝って落ちた。

キシニョフは私は2度目であった。大きなお池の公園がある。不思議な感じであった。ここには戦争がない。さっきまで私たちを取り巻いていた戦争というものがここにない。小雪まうなか死への主権を奪われていない人たちがジョギングしていた。それを持つと持たざると、人間の状態の決定的な異なり。死というぜいたくひんを所持して平気な顔をしている人たちのあいだで、生しかない(そして生でパンパンの)私たちが戸惑っていた。

わが人は明るかった。笑顔であった。もうこの人には私しかいないのであった。立ち直れる、ここからまた始まるのだ、と思った。「心の傷は消えないと思うけど……私たち幸せになろうねぇ」。

散歩を終えて、宿に帰って、15時とかか、何めしだかわからないものを、義母が持たせてくれた弁当だ、たべて、人と子は寝た。私はこれだけはやっておかないといけなと思ってパソコンを出して、「手記」の更新にかかった。

これから
ルーマニアのブカレストまでまだ長い。長時間の飛行機も含め、先が思いやられる。日本に帰ってからもまぁ大変なことだ。И казалось, что еще немного — и решение будет найдено, и тогда начнется новая, прекрасная жизнь; и обоим было ясно, что до конца еще далеко-далеко и что самое сложное и трудное только еще начинается.「はじまる」という言葉で終わる、チェーホフ「犬を連れた奥さん」。本当の戦いはこれからだ。

子供
幸い、子供はこの「旅」をめちゃめちゃ楽しんでいる。私たちも笑顔になれている。戦争なんてものを自分の体験としては一度も知ることのない人生であってほしい、そうなると信じている。だが、今度の戦争のことは、いつか話さないといけない。きみは技術的にはロシア人になることも可能だ。母の言語であるロシア語を愛しなさい。おかあさんにとって大切なものは、きっときみにとっても大切なものになるだろう。

オデッサ
オデッサにはいまだ本格的な攻撃はない。だが基本的に皆さまも、もうオデッサが何もないで済むとは誰も思っていない様子だ。だがせめて私たちの村が最後まで無事であることは信じたい。

(中略)

チェーホフ、引用の箇所は「するとこう思われるのだった:あと少しで答えが見つかる、そしたら新しい、すばらしい人生が始まるのだと。二人には分かっていた、終わりの日はなお遥か遠いと、そうして、いちばん大変で困難なな日々は、いまようやく始まったばかりなのだということを」。逆説的に聞こえるかもしれないが、戦禍のウクライナを出たことで、私たちは安定を失った。新たな非常時であった。家庭内非常事態宣言Ⅱ。だがこんどの非常時は、自分で主体的に状況を切り開いていけるようなそれ。やったろやん。私は意欲に燃えていた。(思い出せ。)

ぼっちゃんが天下の奇書と呼ばれるこの何丘手記を読むことがあるだろうか。(いま立ってぼっちゃんの様子を見てきた。すぅすぅ寝ている。ほっぺがふくらんでいる。この子は戦争を知らない。この子の無垢は守られた。この無垢の寝顔のためにこれらすべての苦闘はあった)

謝辞
以上でこの手記を終わります。長らくお付き合いいただきありがとうございました。

この記事を読んで、何か得るものがあった、少しは心を動かされた、という人は、100円玉なりと「投げ銭」いただけると嬉しいです。

(先にメッセージ頂いた方、お返事たいへんお待たせしています。必ずお返しいたします)

ウクライナの街が、人たちが、守られてありますように。

戦争が一刻も早く終わりますように。

投げ銭の総計はまとまった額になった。それが日本への渡航について妻を説得する際の具体的な説得力になった。その意味では皆さんの投げ銭が私たちのエクソダスを可能にしたのだ。重ねてお礼申し上げる。コメントも胸に沁みた。


というわけで、「手記」を再読してきた。この再読とはつまるところなんであったのか。私がやったことは何だったのか?
・私のウクライナ戦争がどのように始まったのかを思い出してみる
・あの異常な50日間と1年越しにしっかり向き合いその1日1日を成仏させる
・説明不足の箇所など多々あるので、資料的価値のためにまだ記憶が新しいうちに自注をほどこしておく
・当時いただいたメッセージに「この日々をのちどのように思い出すのか知りたい」というのがあったので、いわば投げ銭への返礼として、未来視からのディアレクティークをやってみた。言わないと決めていることは言わないとも言っておきたかった、あまり空しく期待されても困るので。
・当時考え切らなかった部分を新たに一歩深く考え、当時出なかったような言葉も出してみたいと思った

これらを意図し、あるいはこうした意図が中途で発生し、それらをある程度満たすことができたと思う。作業は精神の集中を要し、なかなか骨ではあったが、完走できてよかった。この「二周目」に伴走してくださった方々、ありがとうございました。もう皆さんの声は聞こえませんけど。

私たち家族の出国後の歩みを知りたい方は、さしあたり「流亡の記(ウクライナ~モルドバ~ルーマニア)」を。

同じ言葉で結ぼう。

この戦争が、一刻も早く終わりますように。

3月7日

1年前の今日まだウクライナにいた。「手記」によれば、その日の私はこんな感じだった。

人生最後の5分間を3分割して2分を友人との別れに2分を自己省察に最終1分をただ世界を見渡すことに充てる、みたいな一日にしたかったが(ドストエフスキー)、そんな芸当が成立するためには少なくともその5分の間は殺されないという保証が必要だ。本日わが村は4度空襲警報が鳴った。心が壊れる。生活は無理だ。自分の心を落ち着ける一日、そんなものが持てるくらいなら、そもそも出国などしないでもよかった。

こんな小さいやつを連れて不確実・不透明な遥かの道のりを旅する。自分たちはなんと大それたことをしようとしているのか。

今の時点(7日21時)で大してひどいニュースは入っていない。これが「大してひどいニュース」ではないとすればだが↓
(ニコラエフ爆撃の報道)

情況に目立った増悪はない、ということは、めざす国境への車馬の流量は「激増」はしていないと見る。決行だ。明日行く。あらゆる不確定性:車列の長さは、越境の待ち時間は、越境した先にちゃんとキシニョフまでの移動手段はあるのか、その道の混雑は、太郎の辛抱は持つか、宿は本当にちゃんと取れているのか、すみませんが混み合ってますので相席よろしいでしょうかつって他人たちと同室ということになったりしないか。

これ書いてる今はしかし一種の躁状態になっていて、子供を連れての10日間の旅、実は全然大丈夫かも、もしかしたらむしろ超楽しいかも、など思ったりもする。ルーマニアは私も妻も未訪の地。ああ、今の抑鬱の反動で、マジでむちゃくちゃ楽しんでしまうかも。

この人生最後の5分の話は「白痴」に描かれてるやつだが、戦争の非情さを考えるのに良い参照項だと思う。すなわち、死刑においてさえ可能なこうした自己の始末、自己の生の物語にある種の主観的解決(結末)を与える特権が、戦争では否定されている。いわば、人みなが自己の<死への主権>を剥奪されている、そんな異常状態こそが戦争である。ドストエフスキーのこのロマンチックなエピソードの最もシニカルなヴァリエーションは、5分を待たぬ任意の時点で彼を背後から射殺するというものだろう。そのようなことが実際にウクライナのあらゆる場所で行われた。民間人の犠牲者8000人。どのひとつの命もその日そこで終わるべきではなかった。背後から、頭上から、あるいは彼が寝ている間に、彼の生は奪われた。生の物語は強制終了された。

とまぁそんな次第でウクライナで過ごす最後の一日、私はお世話になった義父母や、太郎の揺籃となったダーチャを心ゆくまで愛惜することはできなかった。気もそぞろに、あわただしく過ごした。「手記」の自分の気負い込んだ書きぶりに哀れをもよおす。大丈夫だよ。明日の越境はどってことない。そして、旅はとても楽しいものになるよ。……

小括
首尾よく国境突破できれば、この長い手記は明日8日付の記述をもって終わる。

この期間を通じて強く感じたこととして、いま頭にあるのは、人間てほんとうに孤独だな、ということだ。

心配だというから密にスカイプつないで日本の両親に状況を説明していたが、彼らはついに私の不安と恐怖と苦悩を理解しなかったと思う。Y(義父)やM(義兄)の言うことをよく聞いて行動しなさい、とばかり繰り返していた。状況に対する主体的な行動者・苦悩者としてはついに見てくれなかった。

その義父や義兄やの輪の中で私の世界観・現実感はずーっと異質で孤独であった。今もそうだ。

妻。おとといくらいか、「私たちは思ったよりも違う世界に生きているね」と闇夜に言い渡した。「私の世界では、今ロシアがやっていることは最低の下の下のことだよ」。互いの政治的立場などつとに知っていたし別にその種の話題をこれまでタブーにもしてこなかった。でも、この相違は決定的なことだ、これほど基本的なことで一致できないというのは深刻なことだ、と思って、深いため息が出た。

それを期待しなかった場所に優しさを見いだして喜んで、それがあると思ったところに優しさとは反対のものを見いだして落胆して、イシューごとにいろんな人間と限定的に連帯して、転戦して転戦して、そんで死ぬ。「独りで生まれて独りで死ぬ」という言葉の意味が少し分かった気がした。次に思うのは、ではわが太郎、彼も生きてゆくゆくはそれを知らなければならないか、ということだ。

さあ、明日だ。

だがこの孤独感については1年前の自分にかける言葉が見つからない。たぶん人間が孤独だというのは本当のことだから。私はロシア語でロシアを罵倒したかった。頭の中でたくさん作文した。でもそれら言葉は妻や義父母に伝えられることなく私の頭の中で扼殺された。言葉の死児たちの墓場という状態は健康ではなかった。

思ったことを思ったままに言っていたらどうなっていたか。A.妻や義父母の心を傷つけていた。それは私の望まないことだった……彼らを愛していたから。B.妻や義父母の感情を害した。それは望ましくないことであった……いまは連帯が必要であったから。自分と子供の安全のために、ウクライナを出て日本に帰るために、彼らの協力が必要であったから。

たぶん私はほとんど専らBのことを気にしていた。危機のときに私の心がこのようにふるまうのであれば、私にはすなわち全人的な愛は不可能であろう。「イシューごとにいろんな人間と限定的に連帯して、転戦して転戦して、そんで」死ぬ、それだけ。そんな荒涼とした人生の姿が見えた。寂しき寂しき荒野であった。(その荒野を前に立つ私の手を優しく握り返す小さな手があった)

3月6日

「手記」

マースレニツァの最終日「こんな私を赦してね、の日曜日」であったので、ブリヌィを食べて謝りあった。お義父さんお義母さん、こんな私を赦してください。愛しています。感謝しています。

「Xデー」を一日延期した。これを死ぬほど後悔することになるだろうか。当初予定の7日出発だとキシニョフの宿が確証的に押さえられなかったので一日ずらした。「確証的に押さえる」とはどういうことかというと、先にも書いたが今隣国モルドヴァはウクライナからの避難民で溢れ返っており宿泊施設が払底・また混乱していて、押さえていたはずの部屋が行ってみたら空いてなかったとか、一度成約したのに宿側の都合で(先客が継続滞在を希望した、等)後から断られるなどのケースが多発している由なので、Booking.comにて①前払いが完了している②宿と直接電話で話して予約が成立している旨確言を得る、の2条件を満たしていないと予約が成立しているとは見なさないことにした。それでいうと、7日はダメであった。8日はイケた。なので8日出発とした。

あわせてキシニョフからヤシ(ブルガリア)の鉄道便も押さえ、さらにヤシの宿も押さえた。飛行機を押さえるのは無事モルドヴァ入りが成ってからとするが、およそ18日ブカレスト発ポーランド経由東京ゆきの便に目星をつけている。計画のあらましを関係3カ国(ウクライナ、モルドヴァ、ルーマニア)の日本大使館にも伝えた。きわめて堅い予定。大分クリアになったヴィジョン。これで「旅行を楽しむ」テンションにもってける……か?

国境の通過待ちの様相については極めて楽観的な報せが入った。6日、日を同じくして知人2組が私たちと同一ルートでモルドヴァに入境したが、1組は朝6時にオデッサ市内を出発、ギリまで車で寄せて徒歩越境、12時には向こう側へ渡った。1組は悠長なことに9時オデッサ出発で14時半ごろの報告では「あと車18台で私たちの番」とのことだった。私は思った:「今日出てしまえばよかった!これが今後どうなるか……?」

がんばれわだくん。何丘くん。

私が今何より恐れているのは今日とかに黒海北岸へ本格的な攻撃があって、避難民のモルドヴァ国境への流量が爆増する事態である。そうなった場合には阿鼻叫喚のちまたと化した国境へ赴くよりも、オデッサやニコラエフへの侵攻によってただちに類焼するわけではないわが村にとどまることのほうが、消去法でいって好ましい。脱出計画は再度白紙、ということになる。そうなったらそれこそ、次出られるチャンスはいつになるかわからない。

けさ既に不穏なニュースはある。ニコラエフが砲撃を受け電気・水・通信が寸断(7日朝5時のニュース)。何もこういう直接的な攻撃には限らない、たとえばゼレンスキーが昨日の演説で「ロシアがオデッサ攻撃を企てている」可能性を強調(ニュース)、これなどはロシアの悪魔性を強調するレトリックという側面が強そうだしTimerの伝え方も扇情的に過ぎると思うが、大事なのはこういう報道が現になされたこと、これが読者にどういう行動を促すかということである。こうした全てがモルドヴァ国境へのいわゆる人流を増大させる。おそらくは、今日よりは昨日の方がよかった、明日よりはまだ今日の方がよい。「9時に出たのに車18台待ち」の6日が国境混雑の「底」であった、ということが後から(明日私たち自身の体験として)分かるのではないか。

といった気がかりで今日も四十夜めの不眠であったわけだが、どうせ今日一日は動かないのだから、もらいもんの一日を、大切に生きたい。

присесть перед дорогой (на дорожку) とか言って、ロシアらへんの人は、お出かけの前にあえて皆でテーブルを囲んでちょっと腰かけてお茶をすするなどして気を落ち着かせるということをする。今日(すみません、3月6日の項で書いてますが、本日7日のことを指しています)はそういう日になる。荷物はもう6割かたまとめてあるが、落ち着いて、パックして、うん、なにしろ落ち着く。落ち着け俺。

そうかそうか、俺。去年の今日はこんな感じか、俺。

私たちが落ち着いていて、これからの長い移動と環境変化についてなるべくクリアにイメージできていて、これを「旅」であると、これは「旅」なのであると自ら思い込むことができるようにならねばならない。子供にはまさにそういうふうに教えるのだから。太郎、ぷに郎、これはねニズナイカがしている楽しい「旅行」だよ、はじめて乗る乗り物に乗って、知らない新しい街を訪ねて、ついには飛行機に乗るんだよ、やったぜぇえ!!そんでいつもスカイプで話してる日本のじじばばに会うんだよ、ねこちゃんたちに会うんだよ、よかったなぁこどもぉ!ボーロも食べれるよ!

今日は、このもらいもんの一日で、義父母への感情を、ただひたすらの感謝によってすっかり塗り替えてしまいたい。

そうして、私たちが実に多くの時日を過ごしたこのダーチャの隅々を愛惜したい。猫の白ちゃんに別れを。飼ってるわけではない、出入りの野良に過ぎない、だが、愛着のある、古なじみのやつである。16年夏この村で私たちが内輪の「結婚式」を挙げたときにほんの子猫であった。野生の命は失われやすい。この2年半だけでも実に多くの命を見送った。そんななかで6年も相見ていられたのは奇跡であった。たぶんもう会えぬ。

名前をКозява(カズャーヴァ)という。くそ虫、はなくそ、みたいな意味だ。あんまりな名前だが、強く生きてほしいと願ってあえて悪名を付したものと解している(義父は自認しないが)。太郎とよく遊んでくれた。皆さま、こんな猫がいました。います。

その猫は今もいる。元気でいる。自分そっくりの子供たちと義母らの撒く残飯に群がってる。

2時は娘のファソリカだが6時と10時のどっちがカズャーヴァだかは正直こう見てもわからん。この二年こいつ自分のクローン生産に凝っててその精度がどんどん上がってるので。

3月5日

手記

埼玉県が帝都軍の侵攻にあっている。被害は浦和・大宮あたりに集中しており私たちは秩父郡小鹿野町にいて大概大丈夫だろうと思っているが近隣の横瀬とか長瀞にもちょいちょいミサイルが落ちてるのでうかうかしていられない、お百姓の皆さんの慰留を振り切って熊谷経由群馬に逃れようと計画中。だが熊谷=太田県境の現在の様子についてあまりに情報が乏しい。噂では、越境24時間待ちの長蛇の列だとか、苛立ち興奮した市民の怒号が飛び交うちょっとした地獄であるとか聞いて、そんなわけわからん場所に幼子と赴くよりは、今ここにある泰平にしがみつきたい気がしている。

(なお、帝都軍の狙いは、近年帝都を嫌って「北関東・東北大連合」への加盟を志向している埼玉政府の首をすげ替え、改めて帝都寄りの政権を樹立することだという。なぜなら「歴史的に帝都と埼玉は一体のもの」であり、「帝都市民と埼玉県民は(やや下に見てはいるけれども)兄弟」だからだ)

この箇所はウクライナ戦争初期珍言録中の傑作である。そんときたまたまオデッサ住んでた日本人の置かれた状況をアレゴリカルに表現したものとしてこれほど的確で分かりやすいものはちょっとない。ただ難点は、北埼玉に土地勘がないとこのニュアンスが伝わらないということだ。

鼻血

毎晩毎晩ペチカをかんかん焚きながら、思えば私たちは部屋の乾燥ということに無頓着であった。子供が朝から鼻血を出した。いやがる子供に綿を(豆知識。綿はロシア語でワタといいます)、その鼻の穴にね、ねじこみ、仰向かせて落ち着かせて、しかし止まったなと思っても油断するとすぐ自ら鼻をくじって凝塊のフタを外し流血再開さしてしまう、たりたり血が流れてくるのも鼻のまわりがカピカピなのも本人にとって不快なはずなのだが私たちのオペレーションがそれら不快を除去するものであることを理解せず、その上新たに苦しみを……鼻腔に異物を突っ込んだり冷たい濡れティッシュを当てたり……付加するものととって泣く、激しく抵抗する。

私たちは平らかな場所でもこのようにつまずく。まして私たちが今挑もうとしているのは悪路も悪路である。

子供が鼻血出したくらいでこんなにわたわたしてしまうダメな親。濱家が山内に「お前山内やからな、調子乗んな」というその感じ。冷や水を浴びせられた。なんかすごそうなこと言って、大それたことしでかそうとしてるが、ふと我にかえれば、この程度のもの。弱い人間。こんなやつがしかし、文字通り、大それたことをしでかそうとしている。大丈夫か……?

計画

モルドヴァ国境警備より新たな報。私たちがそこからのモルドヴァ入境を目指しているところの国境通過ポイントにおける5日昼時点の混雑は、「車列3㎞」「徒歩越境順番待ち200人」。希望が持てそうな数字だ。2000人と言われるよりはよっぽど。200人の入境手続き(非常時のため非常に簡素化されている由)にどのくらいかかるか? 4日の情報では車列1㎞の処理に8時がかかるとのことだった。計算では平均的な車長と車間を込みでほぼ静止した1㎞の車列には車200台くらいが収まることになるが、車そのものの入境手続きや順番送りのタイムロス、車1台に平均3人くらい乗ってるだろうことを考えると、列の消化速度は徒歩越境者の方が段違いに速いように思う。皮算用だが。

というわけで、きたるXデー、私たちの行動計画は次のようなものだ。外出禁止時間があける朝の6時に義父の車・義父の運転で出発する。平時なら1時間の道のり、まぁ(知らんが)2時間半くらいかかって、某国境通過ポイントの車列の最後尾につける。そこで私と妻と太郎は下車、トランク1つとベビーカーを押して3㎞の道のりを歩き、徒歩越境者の列に加わる。うむ・・? いまひとつ思ったことがあるがまぁいいや、で、数時間を待ち暮らして、モルドヴァ入境。ここまでが第一段階。(あ、義父はUターンしていきました)

第二段階はモルドヴァ編。国境通過ポイントからモルドヴァ首都キシニョフ(キシナウ)まで辿り着かなければならない。モルドヴァ側は難民支援をすごいがんばってくれていて、大量のボランティアが動員され、国境から首都までの無料輸送サービスも組織されている由だが、その運行頻度について情報なし。なお、平時なら国境から首都まで車で2時間の道のり(モルドヴァは小さい国です)。ここまで全ての移動が、Xデー同日のうちに行われねばならない。

その夜はキシニョフの宿で休む。だが、この宿というのがまたくせ者で、私たちは例によってBooking.comで宿を押さえておく考えなのだが、避難民たちのテレグラム(というこっちの方でよく使われてるSNSがあります)グループ見てると「Booking.comで押さえていたのに行ってみたら部屋がなかった」「予約時と全然違う金額を現地でふっかけられた」との声また声。最悪体育館みたいなところで雑魚寝(100ハイ以来の!)はさせてくれるらしいのだが、子供のためには大枚はたいてもせめてこの夜は穏やかな環境で寝かしてやりたい。この夜だけは。

Phase 3、ルーマニア編。モルドヴァは現在全旅客機の発着を停止しているので日本に帰るためにはいずれかの隣国に鉄路で移動しなければならない。あと、モルドヴァは何しろウクライナ人で溢れかえっていて宿もパンパン、「体育館雑魚寝」と「高級ホテルのスイート」に中間がない感じなので、早いとこ第三国に移ってしまった方がいい。「Xデー」の翌日ないし翌々日、ルーマニアへ発つ。おそらくはヤシで1泊、そこからさらに首都ブカレストへ。

ブカレストの日本大使館で妻のビザと、子供の旅券を手に入れる。あとは値段と日時の観点から合理的な飛行機を選んで、PCR検査受けて、乗る。

大事なことを言い忘れていた。いま考えているのは日本への帰国です。先日「キシニョフで2週間ほど待避して情勢が落ち着いたらオデッサに戻る」がプランAという話をしたが、その線は捨てた。今はほぼ日本への帰国一択で考えています。

Xデーは基本的に明日7日である。今日(今これ書いてる今日)たまたま妻の知人が私たちとほぼ同じルートで、同じポイントから徒歩越境する。その報告を待つ。その内容がよければ、モルドヴァ国境警備の情報とあわせて、それで「越境が子供にとってさまでに過酷でないことの確度高い情報」がそろったものとみなす。その他の不確定性はもう目をつぶって跳ぶ。

ここに書いてある通りのことを3日後にする。

思えば目まぐるしい。3月3日に出国決めた。4日の遠征で白紙になった。5日に再度出国決めた。ポイントは「確度高い情報」であった。3日の時点でネット上にそれはなかった。4日の時点でネット外(リアル)にすらそれがないことが確かめられた。5日になるとネット上の情報とネット外の情報(直接の知人の口コミ)が一挙に入った。この4日と5日のあいだにひとつ変わったことは、もう私のことがいい加減みなさん哀れになって、情報収集に本気で協力してくれだしたことだ。何より、妻がもう、諦めてくれた。私のがわに屈してくれた。日本への渡航に同意してくれた。

悪路も悪路、それでも跳ぶ、とか言ってるうしろで鳴ってたのは定めし鮎川信夫のこんな詩行であった。

いとしきひとよ
あそこまでは跳べる
ぼくらの翼で
試してみようではないか

(「跳躍へのレッスン」。『難路行』所収との記憶だったが『宿恋行』である由)

概して私のこの手記は、言葉がいかに生の杖となるか、のひとつのケーススタディになっていると言えるかもしれん。あるいは、「文学部というところは何を学ぶところなのか」「そこに学ぶことがその後の生にいかなる利益をもたらすのか」みたいなことの。

小さな修羅

この箇所182文字、削除しました(3/22)

3月1日に書いてるのと同じ理由でこの箇所を削除した。

3月4日B

手記

この長い長い手記が一両日のうち完結を見るとしたら喜んでくれ。

義父と膝突き合わせて談じ、ヴィジョンを擦り合わせた。こちらの懸念のすべて・早期出国の強い意向を改めて伝え、ともに出国をと迫ったが容れられず、だが車で国境まで送ってはくれるとの約束。あとはタイミング。最低限の条件は、国境通過の待ち時間(及びその前後)が子供にとってさまでに過酷でないことについて確度の高い情報が得られること。情報収集のために、ひとまず6日に2人で車で国境の方へ出かけて「偵察」してくることが決まった。一番近いモルドヴァ国境通過ポイントまで村からわずか1時間の道のりだ(平時ならば)。検問だの渋滞だので倍の時間がかかっても、それでも国境通過を待つ車列のケツにつけて1時間ほど並んでみて列の消化速度を体感してUターンするのであればきっちり外出可能時間内(6~19時)に帰ってこれるはずだ。

という話が一日の早い時間帯にまとまって、かなり気がラクになった。ところへ、先からフォローしていたモルドヴァ政府の特設テレグラムアカウントに、まさに求めていた「国境通過の待ち時間についての確度の高い情報」が。いわく、私たちがそこからの入境を考えている国境通過ポイントの4日現在の車列は3㎞。車列1㎞の国境通過に要する時間は8時間だそうだ。

これをどうとったらいいか。3㎞くらいならもちろん歩ける。義父に車列の最後尾まで送ってもらって、そこから3㎞の道のりを1時間か1時間半かけてやっとこやっとこベビーカーを押していけばもう国境だ。だが、車列1㎞の消化に8時間かかるというのは? 車ごと入境なら24時間待ちだが徒歩越境の列は別枠で、そちらは消化速度が全然速かったりするのだろうか。その点の情報が得られさえすれば、つまり、「徒歩越境の待ち時間が子供にとってさまでに過酷でないことに関する確度高い情報」が得られさえすれば、私たちはもう明日にも踏み切れる。

というわけで情報収集にいそしんでおります。

私があまり言い立てるので、この一人の哀れな人間・義理の息子を幸せにするために、人が動いてくれだした。話が進んでいく。脱出に向けて。解放に向けて。「二つの現実」やら、ロシアのウクライナ侵攻やら「ロシアの侵攻」観念による脳髄の侵攻やら、家長の重責、不眠、実の親からの心配の声、そういう全てのものからの解放。それを手繰り寄せていっている、という確かな手ごたえがあった。

生活
村ではじめて空襲警報を聞いた。16時15分から15分ほど続いた。窓から離れて太郎と遊んでいた。母屋には地下室もあるのだがそこまでは逃げなかった。ワレリアンカの錠剤とあったかはちみつミルクと赤ワインを同時に飲んでそのプラセボ効果によって平静を保った(メチャクチャ)。

あとで知ったがオデッサ市・州全域に警報が出ていた由で少し安心する。わが村だけの話であったら怖かった。

実はこれを書いている5日早朝も警報が鳴った。5時過ぎから20分ほど。私は例によって3時半とかに起きてしまってキッチン(珈琲)ドリンカーしてたので戦慄したが知らずに寝ている皆さまを揺り起こすことはしなかった。黒海北岸を代表するリゾート地であるザトーカが攻撃された(ニュース)、その関連でやはり市・州全域に警報が出たらしいです。安堵。(安心・安堵の水準が狂っている)

このザトーカについてはロシア軍が上陸を狙っているという報道が朝あり、悪天候のため上陸を諦めたようだという報道が夜あった(参謀本部、ニュースA、B)

あとこんなニュースあった。ウクライナでコカ・コーラ社製品不買運動の動き(ニュース)。同社がロシアでの販売を停止していないことがその理由という。侵略者どもをスカッと爽快な喉ごしで愉しませている悪徳企業にウクライナでまで金儲けする資格なし。「何かできること」をお探しの皆さま、ロシアをボイコットしない国際企業の製品のボイコットに参加してはどうですか。

全体的な情勢については私はもうすげー悲観的になってしまった。全部意味がない。次で3度目ですか、停戦交渉だが、全然期待していない。ロシアは米国との外相会談の前夜、米国との首脳会談さえ計画されている中で、またゼレンスキーはつとにプーチンに首脳会談を訴えていたのに、それでも侵攻してきた。そのロシアに何を期待できる。「ミサイルが飛んでる中での交渉など不可能だ」というゼレンスキーの言は至極もっとも。あと、私のある種のロシア性善説、大量破壊殺傷兵器の使用とか無差別絨毯爆撃とかそこまでのことはしない、「そういう種類の悪魔ではない」というテーゼも、撤回する。あと、ロシアの民衆がきっと止めてくれるさ私はロシアの民の叡智を信じる、というパセティックなパッセージも、今では恥じています。プーチン政権は異論の圧殺に本気を出してきた、これでは無理だろう。ロシアがロシアを止めてくれることへの期待感を失った。

制裁ねえ、支援ねえ。まのあたり行われている軍・武・戦の迫力に対して蚊の羽ばたきほどに非力で無意味で甲斐なきものに聞こえる。

とにかくもう何も感じず考えなくてもいいところへ逃げたい。という心境です。今日も天気が悪い(ただいま5日朝9時)

村の防災無線はうちから遠く、窓は二重であるし、母屋にいると空襲警報は蚊のなく音ほどだ。だが苛んだ。生きてるのがやになった。無茶に酒をあおって馬鹿野郎、馬鹿野郎と心で毒づきながら、部屋のすみ一番窓から遠いところで太郎を膝抱きして、朗々と本を読んでいた。私は30代ももう後半だが耳がいい。モスキート音とかふつうに聞こえる。それが呪わしかった。不眠の早朝ひとりダーチャのキッチンでなすすべなくサイレン聞いていた。人生で最も呪わしい時間のひとつだ。

で、同じ蚊のなく音にたとえられている西側の制裁は、事実この1年、ロシアの社会経済生活を圧迫し国民世論を反戦になびかせるに、何らの力ももたなかった。支援だけだ。ただ軍事支援だけ。ウクライナへの侵攻を現実におしとどめたのは。

心の傷は一生残ると思うけど私たち幸せになろうねえ、日本に行ったら私がんばるよ、私たち幸せになれるって信じてるよ、と妻。

ああ・・

この一言をふたたび見出すためにながながと1年前の日記など読み返してきたのかもしれないな。

3月4日A

しゅ

子供にとって今いる家は生まれの家だ。馴染みのおもちゃ、馴染みの猫、わが庭、わが二階、わが離れ、そしてパパとママとじぃじとばぁば。戦争が始まる前と同じものを食べ、同じものを着、生活はなんら変わらない、ただパパとかママが変なvibeを放って寄越すことが増えました、てか大抵いつも放ってけつかります、あとパパとじぃじが気づくとよく怖い顔で難しい話をしています。

子供はまだ知らないが彼は大好きな海をすでに失った。あのビーチに降りることはもうない。ロープウェイ、アカシアの森、かささぎ、りんごの木の下にいつもいるベージュの猫、おともだちのソフィア、海は広いなの歌。それから、「まち」「だんち」「だーちゃ」3つあるおうちのうち、街のおうちをもう失った。サーキットのおもちゃも車に載らなかったから置いてきてしまった。トトロと名付けた猫いま何処。

子供はこの上大好きなおもちゃたち・ぬいぐるみたちと訣れて、生まれの家を離れて、じぃじとばぁばとも別れ別れに、長時間の移動、検問と国境で狭い車内でただ座っていなければならない何時間(十何時間)、人たちの怒号、乱脈、それを鎮撫するための時折の発砲、そこからさらに移動また移動、知らない街、多すぎる新しさ、違う家・違う道・違う食事、求めてもいまや得られないあの本・あのおもちゃ・人。このすべてのストレスに耐えねばならないか。

(そうならない前に出ろ、と言われていたではないか。出たくても出られないということになる、出られる今のうちに出ておけ、と「私たちは言っていたのに。バカめ。自業自得だ」)

翻って今のこのダーチャでの生活は、直接的には、なるほど戦争の影が薄い、ほぼないといっていい、私たちが心を強くさえ持てば、太郎の無垢は守られる、安泰の地盤を蹴って、などてせでもの不透明性への跳躍を、明らかに予見される困難への陥入を? との義父母・妻の論拠、もちろんわかる、もちろんだ。

だが私と皆さまで異なるのはそのダーチャの安全を静態(固定的なもの)として見るか動態(流動的なもの)として見るかだ。なるほどこの村には現状(近隣の・砲撃された)ダーチノエ村と異なり軍関連施設は存在しない、だが存在しはじめたらどうする。なるほどこの村はオデッサから十分離れている、だがそれゆえにもし子供が村の診療所で手に負えないような病気をしたらどうする。敵の狙いはどうもやはり北部と東部であってオデッサは二の次であるようだ? だがロシアとて初発の意図・所期の目標をただ機械的に遂行するのでなく日々刻々戦況を分析し新たに作戦を立て実行していくのだ、昨日の二丁目二番地が今日一丁目一番地に捉え直されない保証などどこにもない。また新たな懸念としては、もしウクライナで「第二のチェルノブィリ」が起きたらどうする。

これらは根拠のない懸念であろうか。でもげんに皆さまは戦争を予見できなかったのだし、戦争が始まってからというもの、状況はこれ悪化の一途をたどっているではないか、「待てばそのうち落ち着く」でなく、「待てば待つだけ悪くなる」のが今後もつづく傾向と見るほうがむしろ自然ではないか。皆さんはヘルソンがとられた百の理由を見いだせる。ハリコフがやられた千の理由を見いだせる。だがオデッサに関してだけは、それが金甌無欠のままでいられることのほうに百の理由を探してしまうのだ、それは何故か。わかりきった話だ、願望がバイアスをかけているのだ。

というような話を今日も今日とて義父母らにするわけだ。……

ぜんぶ書いてあるので付け加えるべきことがない。

これ書いてる今日、2023年3月5日、ダーチャの義父母とビデオ通話した。1年前の今日、みんなここ(ダーチャ)にいたんだよね、という話をした。最後にあなたたちを抱きしめてから1年が経つんだね、と義母は言って目じりをぬぐった。私も目頭が熱くなった。

1年か。太郎に関していうと、もう別の人だ。ダーチャでどのおもちゃでどんなふうに遊んでいたか克明に思い出せるが、それは今ここにある太郎とは別の人だ。あまりに大きな変化があった。違う惑星とはよく言ったものだ(日本について全然違う境域という意味でдругая планетаとよく言う)。ただでさえ長足の歩みを遂げる2~3歳児の1年に環境の激変という要素が加わって、あの太郎とこの太郎、もう同じ人とは思われない。

出国はもう既定路線になっていたはずなのに、なお出国の「是非」というゼロ地点から義父母と話さなければならなかったわけは、この前日の「遠征」の結果がかんばしくなく、振り出しに戻っていたからだ。

遠征
義父の車で街に出かけた。道はあちこち敵軍戦車の進行を阻むコンクリート塊とか「Ж」の字を立体化したような鉄塊(じっさい軍事ジャーゴンでёжハリネズミとか呼ばれてそう)が置かれてジグザグ走行で避けて行かなければならない。幹線道路はガラ空きだが、オデッサ市への入境の際に検問、ここに長蛇の列、武装した軍人たちが一台一台車をとめて身分証の確認、トランクの確認、どこから来てどこへ行くのか、何しに行くのか、お前(私)は何人だ。<おまえは何者か、どこから来てどこへ行くのか、何をしに行くのか>。べつだん高圧的ではない、丁寧な感じ、ちなみに都合10回このようなやり取りを繰り返したが全員ロシア語でした。

みちみち、また街中でも、Русский корабль, иди нахуй(失せろロシア船)とでかでか書かれたビルボードが目立ちました。放送禁止用語の公然使用が許される戦時。

街中は閑散、車少なし、ただあちこちに交通規制で大分回り道。人通りはそれなりにある。銀行・商店・薬局は閉めてるとこもあればやってるとこもあり。義母の煙草を頼まれてたが大きいスーパーは品切れ、むしろ小さい商店で豊富にあった。ガソリンスタンドは、これも開いてたり閉まってたり、開いてても満タン給油できない(一度の給油は20Lに制限されてるとか。でもそのへんはユルい感じ)。ただし行列はなし、スッと入れてスッと給油できた。

遠征の主たる目的①出国に関する情報収集。市内に二つあるバスターミナルはいずれも閉鎖されていた。一切発着していないという(それだけのことも現地に来ないと分からなかった、何しろ情報がない、ウェブサイトにも何ら案内なし、電話も通じない、知人たちの言や他人たちの報告はしばしば矛盾)。タクシーの運ちゃんたちに聞いてみた。何人か、ああモルドヴァ国境まで人を運んだよという人がいた。何しろ国境まで何キロとも分からない車列の一番ケツまでくっつけて、そこで客をおろして自分は帰るのだそうだ、客はそこから何キロとも知れない道をただ歩く、「こちら2歳半の子供いるんですけどね」というと「1歳だろうと知ったことかい」。先日書いたが今ウクライナ南部は天気が悪い、終日気温は0度前後、雪や雨も降っている、そんな中をいつ果てるとも知れない道をただ歩くか。それで料金はいかほどかと聞くと「1万グリヴニャ」(≒4万円)とのこと(こちらとしては大変強気な価格設定)。また、鉄道駅のところにバスが三台停まってたので確認してみると、Embassy of Israelと張り紙、何しろユダヤ人の方々のモルドヴァへの避難バスであった。満席の様子。運ちゃんに聞くも、一般向けのバスが走ってるかどうかは知らないとのこと。

遠征の主たる目的②アパートからの物の撤去。残していた食料、衣料、おもちゃ、その他細々したものをぼっさぼっさ袋に詰め込んで車に放り込む。ちなみにこちらの賃貸は基本的に家具家電付きなので、そんなに大きいものはない。それでも車はパンパンになった。鍵は義兄に託した。かくして「オデッサの街中に住むとこ探す。」の記事で紹介していた海辺の家とは別れることになりました。

なにしろ街は村よりは「いつ攻撃されてもおかしくない」度が格段に高いと思っているのでハラハラしてならない。いるだけでどんどん体力が消耗していく感じだ。遠征を通じて、軍人や軍用車、戦車、大砲などいっぱい見た。トーチカというのかな、土嚢を積み上げた、謎の構造物もちらほら。写真は一切撮っていない。よろず銃を構えた人の前で何か目立つこと・急激な動きをとることを慎んだ。自分が異国の外貌を提げてただ歩いていることだけでも不安を感じた(中国人に対する暴力行為の噂を聞く。ロシアに親和的な中国に対するアンチパシーが高まっている由)。

公共交通機関での出国を考えていた。すでにオデッサ発リヴォフ行きかな、西部に逃れる「人道列車」は始まっていた。1日1便程度。西部からむろんポーランドに逃れる人らのためのもの。だが私らはできればそんな回り道をせず、すぐ近くの外国モルドヴァへ、ミニバスでの出国を希望していた。だが「市内に二つあるバスターミナルはいずれも閉鎖されていた」そして「それだけのことも現地に来ないと分からなかった」。皆それぞれ自分と家族の生命・生活を守ることに、いわばマイクロ安全保障に汲々としていて、インターネット上にアクチュアルな情報つうものが存在していなかった。だから危険を覚悟で現地に行く必要があった。わからないけどね、うまくSNSとか活用してればそれでもどうだったか。だが少なくとも私には無理であった。で私に非協力的な、(あえて?)本気出してない状態の妻や義父母にも。

それでわざわざ乏しいガソリンを費やして街へ乗り込んで、頼みにしてたバスステーションががらんどうだったとき(氷雨ふってた)、タクシーの運ちゃんに「1歳だろうと知ったことかい」こちとら金さえ稼げりゃいんじゃいと冷たくあしらわれたとき、ユダヤ人の方々が安全圏への片道切符を手にほくほく顔で大型バスに乗り込んでいくのを見たときの、体を支える骨がだるま落としみたいに一本一本すこんすこん抜き取られていくような感覚。とはいえ、そのときその場では、落胆どころでもなかった。焦燥感のほうが勝っていた。やるべきことを片っ端からやって速やかに退散、そのことのみ頭にあった。今にミサイルが飛んでくる、という幻覚に浮足立っていた。

書いてあることに特に誇張はない。「Ж」の字の構造物は対戦車ハリネズミ(противотанковый ёж)という。片道40kmの道のりで都合10回の検問というのも本当だ。とりわけオデッサ市に入るとき(ダーチャの村はオデッサ州内ではあるがオデッサ市外である)網羅的な検問があり、ここに超長蛇の列ができていた。私らは叩いても何も埃など出ない、だがある車は指定場所への停車を命じられていて、あの人どうなるんだろうと胸中ざわついた。毎度毎度、すべての検問で同乗者全員の身分証の提示を求められた。日本国旅券(北斎の富岳版画が全頁に入っている)という場違いなものを軍服を着・火器で武装した無骨な手に何度も渡した。検問の軍人たちは若い人が多く物腰は丁寧であった。ヴェージュリヴイ・リューヂという語を不適切にも連想した。

検問の兵士のこちらに語り掛ける言葉が10人が10人ロシア語だったと言うのは今になると疑わしいが当時の日記にそうあるのだからそうだったのだろう。戦車とあるのは、やはり装甲車の誤りか。

生活
遠征から帰って遅めの昼飯くってブログ更新して仮眠すると大分気が楽になっていた。ワインを入れて(あ、オデッサでは昨日くらいからいわゆるсухой закон/dry law/禁酒条例が施行されていてアルコール類の販売が停止しています)、太郎と本読んで、街から引き上げてきたギターでがちゃがちゃBeatles全曲メドレーして、妻と作戦会議して、今一番気がまぎれるのが義父とのチェス、これに勝って。あとは太郎に強いていっぱいいっぱいの笑顔を。

この先
基本的に、基本的にだが、早期出国の意向を妻とは共有できている。だが今は時ではないということだ。道のりにかかる時間・モルドヴァ入境にかかる時間が私たちの許容範囲に収まったことについて確度の高い情報が得られ、また、せめてもう少しこの土地の3月らしい当たり前にもう少しだけ暖かい気候になってくれれば、オデッサ攻撃など待たずに(むしろそれがない、一番凪のタイミングで)即出る。あとは義父母を説得できるかだ。やはり義父の車でいつもの音楽を聞きながら、最低限の荷物、しかし少しはおもちゃも積んで、じじばばとパパママとみんなで出る、それが一番太郎にとってやさしい。環境変化の衝撃が少ない。

それまで私たちが不時の事象で死なないこと、これはもう賭けになってしまう。全くの運否天賦。(チェスでよくある自問……自分はどこで間違えた?どうしてこんな状況になってしまった? おそらくはそもそもの初めから間違い続けて、今も間違えているのだ。だが悔やんでる時間はない、今から考えられるだけのことを考えて、できるだけのことをするしかない)

妻と「作戦会議」ができるほどに妻が(私の目に)木石を脱していたことは重畳だった。

壺中天には琵琶がよく似合った。ギター。どこへか投げられて宙を飛んでいる壺の中の(しかしそうと知らぬ壺中の人らの)騒ぎ。燥ぎ。祭り。
〽Living is easy with eyes closed.. 〽Nothing’s gonna change my world..

3月3日

あと5日でウクライナを出国することになる何丘とかいうやつの手記

これ書いてる今はもう3日の15時半、日本時間で22時半だ。

この間何があったか。ごく簡単に報告だけいたす。2日は朝から晩まで難儀な交渉というかなんというか、現実感を異にする人間を3人も同時に相手どって自分の主張を押し通すというのは容易なわざではない、妥協に妥協を重ねたが、とにかく出国ということで妥結した。6-10日でキシニョフに宿も押さえた。つまり、6日オデッサを発って、その日のうちに隣国モルドヴァに入る、ほんで首都キシニョフに落ち延びる、そこで情勢を観つつ(宿とったのは10日までだが漸次延泊していく)、そうさな2週間くらいは様子を見てこれはもう確実に安全であろうとなったらオデッサに戻る、そうならなかったら日本へ帰ると。おおよそそういうことで。

何しろ義父からは怒りを買い義母には呆れられ妻にはしこたま涙を流させ、私自身もぼろぼろだったが、ついには6日出国という堅い予定を作った。妻の頭の中では「安全確認後オデッサ戻る」がAプランだが正直私はもうその流れで日本に帰ってしまいたい、ああ、本当に帰るのかも知れない、ついに、ついに日本に帰るのか、2年半ぶりの日本、このかん父になり戦争がありました(茶色い戦争)、空港の職員に「おかえりなさい」と言われたら絶対に泣く、などと甘い夢を一瞬描いた。

まずはおめでとうと言いたい。良かったね。予定が立ったのだ。40日間悩みに悩んだけども、ついに出国することが決まった。おめでとう。

だが、この時間感覚には驚く。隣国に落ち延びて2週間様子を見れば、その間に確証的な安全というものがオデッサの上に打ち立てられることもあり得ると思っていたのだ。可哀そうに。とんでもないでございますよ。2週間を2倍してまた12倍してもなお確証的な安全などウクライナのどこにも存在しない。

私はどうかこうかこの異国の人たちの中に家族として溶け込んでいた、調和的なメンバーへと化けおおせていた。それが、急にごつごつした異物になった。не нашのもの、異貌にして異心もつ、小邪悪(コジャアク)。何やら主張しだしたのだ。急に月へ帰ると言い出した。「いま泡食ってばたばたと動くことが一番あぶない」「しばらくすれば状況は落ち着くから」「パニックが一番いけませんよパニックが」だが私は落ち着いている。私の脳髄はもう45日間戦時であった。私は自分の考えをよく確かめた、だから、閾値というものがよく分かっている。今の状況はそれを越えている。だから出るしかないのだ。

私は4年半モスクワに暮らして帰国したとき空港で「おかえりなさい」と言われて泣いた。本当に泣いたわけじゃないけど。今回こそ泣くぞと思った。何しろ遠い帰国であった。理論上は選択肢としてずっと存在していたが、ずっと帰国という未来のありうべきことを身体的に予覚することはないで来た、それがようやっと走った。帰る? 帰国か、日本へか、日本! この俺が、あの日本へ!

そんでこれ書いている今日3日は、義父の車で朝から街に出かけた。侵攻開始以来一週間ぶりのオデッサ(※私たちの今住んでいるダーチャはオデッサ州内ではあるがオデッサ市外にあります。オデッサというときは通例オデッサ「市」を指します)。詳しくは3月3日の項に委ねるが、要点だけ記すと、何しろ街は異様な雰囲気であった。軍人だらけ・検問だらけで、往復で都合10回ほど車を止められ、身分証の提示を求められた。遠征の主たる目的①オデッサ→モルドヴァの道路そして国境の混雑具合についての情報収集(ネット・電話で埒があかない分の)。その上で結論:現時点で幼い子供を連れての越境は非現実的。昨日予約したキシニョフの宿はキャンセル。出国の計画は白紙。

遠征の主たる目的②一週間前まで住んでいた海辺のアパートを空虚化する。モノを一切合切車に詰め込んで部屋の状態を初期化した。鍵の返却は後日何らかの形で。つまり、私たちは街での生活を畳んだ。いずれにしろもう戻らない。

という具合に一日半過ごしました。(昼寝します)

とこういう次第で出国の予定は白紙になったのであった。このときの疲労感。ととのっていた。知らんけど「ととのう」てああいう感じのことを言うのでないの。いつミサイルが飛んでくるか分からないという(実際はそんなこともなかったのだろうけど)恐怖感・焦燥感につきまとわれながら数時間を過ごして安心・安全のダーチャに帰ってきて、遅い昼飯をたべてワインを飲んでブログ更新して……。やるべきことはやったが、そのかわり予定は全部パーになった。清々しいほどの空虚。くすんだフェリチタ。ととのうとはこういうことをいうのでないの。爆睡。

3月2日

1年前の今日、3月2日の日記を読み返してみる。この戦争が、私の2022年が、どのように始まったのかを思い出すために。すぐ6日後の3月8日にウクライナを脱出することになる。だがこの3月2日の時点で、そんな予定は一切立っていない。

3月に入った。ウクライナ語でберезень「白樺月」。白樺の樹液の流動が始まる月、つまり春のはじまりの月。現代的な感覚でも、ロシアらへんの人はわりと(情緒のないことに)かっきり月割りで季節というものを観念するので、3月1日は「春」の初日である。

だが春という語のあらゆる明るい連想を裏切って、終日気温0度付近、灰色の空、時折粉雪。この感じが一週間は続く予報だ。

これが精神に作用したのもあると思う。ひどい日だった。

近隣のダーチノエ村が白昼砲撃を受けた(ニュース)。爆発音は庭にいた妻の耳にも届いた。自分たちを落ち着かせるための根拠はこうだ:①わが村からは言うて距離がある、②標的となったのはダーチノエの軍関連施設である(記事ではガスパイプラインとなっているが。私たちはそこに軍関連施設があることを知っているし、在住の知人に電話して確かめもした)が、わが村にはそのようなものは一切存在しない。

だが、あまりに近すぎる。心理的には作用する。この一件を全体的な傾向というものの中に位置づけないではいられない。つまり、ロシアはダーチノエ村の標的を侵攻初日に(他のオデッサ市・州内各所の軍事拠点の破壊と同時に)攻撃することもできたのに、遅れて今になって攻撃してきたのは、すなわち攻撃目標を拡大しているということだ。比較的優先度が低かった標的にも手が回るようになっている。あるいは、誰が知る、ダーチノエのごとき寒村にそもそも軍関連施設というものが必要であったなら、その機能を今後わが村に移転してこないなどと。

子供が鼻風邪をひいた。病気と怪我。私たち家族の脆弱性。一応のおくすりは買い備えてあるが、もし誰かが重く患ったらどうする。いやでも街の大きい病院に行かざるを得ない。私たちの安全と安心の根拠は「街でない」ことである、その条件を破って。

私たちはもう長くないと思う。

ここで一息つこうか。

平たく言ってこの期間は私にとって(また多くの人にとって)戦争の規模の見定めの時期であった。この戦争はいつまで続くのか、どの地理的範囲に及ぶのか。また、ロシア軍は何をどこまで破壊するのか、その攻撃能力(精度)はいかほどか。しかし、見定めはもうついた、と言えそうであった。すなわち、もう確かに言える、この戦争は今日明日には終わらないし、その地理的範囲は全土網羅的であると。見よ、「そうはいっても本丸はキエフとドンバス」と言ったのはつい昨日のことだが、今日はこの通りオデッサの、それも内陸こんなに深くまで刺し込んでくる。そして見よ、キエフではテレビ塔が破壊された。破壊目標は軍事関連施設に限られない。あらゆる口実であらゆるものを叩いてくる、これはそういう侵攻なんだ。

とりわけ重要なのは、それらすべてが「変化」の相のもとに眺められたことだ。「予定されたことがバーンと実行されてそれで終わり」というイメージはハズれていた。いまやマスタープランなど誰の手にもない。ただカオス。カオスとカオスががっぷり四つ。私はダーチャを「予定されたことがバーンと実行」されて・され終わるまでついに安全な場所というふうにイメージしていたが、現実に出来したカオスの中で、それが永遠不変に安全な場所であり続ける保証など何一つないことを悟った。

私たちはもう長くないと思う。

基本的にはこの村は安全であると思う。昨2/28付け「情勢観」に別段の変更はない。だが、私には安全だけでは足りない。安心と幸福がなければ。はじめから自分のことは子供を守る壁もしくは布団くらいに考えている。自分の不安など本来どうでもいい、だがそれを子供に伝えないでいられる自信がない。私を支えてきたのは映画ライフ・イズ・ビューティフルのイメージと疾風に勁草を知るという言葉であった。だが今はもう、この不安と恐怖からの解放しか願われるものがない。皆さんと違って私には、日本に帰るという選択肢が現実的にあるのだから。(モルドヴァまでバスでわずか3時間、3/1の時点では国境の渋滞もかなり解消されてるとの報)

それでも私たちがここに留まる理由は。第一に、この不安と恐怖は一時的なものであるということ。安全なこの村で、ひとまず戦争の苛烈なフェーズをやり過ごせば、時節を合して春がくる。そうして実りの夏・秋を迎えれば、太郎は庭のイチゴやらマリーナ(ラズベリー)やら桃やらを採って食いして、虫取り網をふりまわして昆虫をつかまえて、白ちゃんの新しい子猫たちを迎えて、自由な、明るい毎日が送れる。第二に、この状況で義父母を置いて私たちだけ逃亡するのは、妻の不幸と不安をむしろ高める。義父母を外国へ引っ張り出すのはまこと容易なわざではない。私と妻の利害の背反。

だが再度、しかし、この冬を越えることの困難さ。今はこの状態だから大丈夫だが、この大丈夫の基礎を破壊する事態が出来したら。私たちの脆弱性……①子供がものすごく具合を悪くしたら街へ行かざるを得ない、知人たちの報告によると街では薬局も全然あいていない(品切れ)、②軍関連施設がわが村に移転してきたらどうする、③ロシア軍の作戦行動の拡大で民生施設にも攻撃が及び(今のキエフのテレビ電波塔のように)、わが村の鉄道駅のそばにある燃料タンクが爆破されたら、爆風でうちの窓も破れるかもしれない、④今この5人であれば食料は十分もつ計算だが、仮に街から義兄とその彼女、さらには義母の妹家族(4人)が避難してきたらどうするか。

そして、オデッサはもう海を失ったのだ。太郎の大好きな海浜に、このままオデッサに残って夏を迎えても、私たちはもう出ることはない。(敵上陸を阻むためと称してビーチに地雷を埋設、2/25の項参照)

というような話を、全部皆さまに話した。昼飯の食卓で。皮切りはつとめて明るく(だが私の「つとめて明るく」はまず成功しない)、では皆さん、日本へ飛びましょうか。お金も少しは残してきてますので、2週間か3週間くらい、これから桜の季節ですし、ぱーっと旅行しましょう。どうせ私たちの人生は奇妙な冒険と化してるのですから、同じことなら「明るい」奇妙な冒険にしましょうよ。第一、遅かれ早かれ皆さんは、日本を訪れる運命にあるのですよ。あなたの娘は日本人に嫁いだのですから、一度オデッサに集まった4人のじじばばは、今度は日本で必ず集まらなければならないんですから・・。

義父母を動かす説得はもちろん成功しなかった。だが私と妻と子供の3人の早期脱出の意思は明確にした。だがこれは現時点で私の意思であって、夫婦共通の意思ではない。妻は私の宣言を聞いた時点でもう不幸になった(私はあえて妻に先に相談せず両親のいる場で一挙に持ちかけた)。今の時点で妻は全然乗り気でない。私が一時の恐慌にかられて血迷ったことを口にしていると思っている。実際そうなのかもしれない。寝れていないので練れていない。

これ以上何を考えられるだろうか。

村は自警団を組織した。こういう社会状況なので気が変になる奴とか暴徒化する奴とか出るかもしれないので、村の男衆が5人組・交代制で昼はひねもす夜もすがら村を巡回することにしたのだそうだ。

本記事のURL「five-days-in-january」は岡田利規「三月の5日間」をもじったものだった。その3月に入った。この5日の間に私らがウクライナを脱出する確率、Q%。

あと何が言えるだろう。

(投げ銭、温かいメッセージ、ありがとうございます。お返事すみません、どうかいましばらくお待ちを・・)

基本的に私はもう出国の意思を固めている。だがそれを実現するには、少なくとも妻を説得できねばならなかった。妻の腰の重さは腹立たしいものだった。思い出すと、この間、たとえばダーチャの庭にいてダーチノエの爆発音を聞いた妻の姿など思い描こうとすると、そこに木石しか見ない。心の交流などまるでなかった。私にとって妻は人間ではなかった、石であった。(もちろん、すなわち、私の心こそが石だったのだ)

なお、私がここで岡田利規の名を出したので、私を岡田のファンと思った人がいるが、全然そんなことはない。2作読んで2作見たくらいだが、この人の書くものも作る芝居も嫌い。ただ個人的に思い出深い作品ではあるし、適切だと思ったから出した。引用したからって好きだと思わないでくださいね。

3月1日

「手記」

ルーシの地母神の沈黙がいぶかしい。と、15年前のただのロシア文学青年だった私ならおしゃれほざきしたであろうな。というのは実は照れ隠しで、私は半ば本気で、ルーシの聖堂という聖堂で同時に聖母マリアのイコンが涙を流す奇跡を待望しているのだ。

耐え難きもの3つ。①ルーシの地で兄弟が殺し合っていることそのもの。②この期に及んでロシアに心情的に加担しロシアを正当化する言説。③飛行音の幻聴。(思弁的→感覚的の順)

※この箇所1988文字、削除しました(3/22)

このへんのポエムは今では大分恥ずかしいが、そのときその場で書かれたということに価値を認めているので、原則的に一字一句修正しない。

とかいって1988字も削除している。この箇所に何が書いてあったかというと、自分の家族構成について書いていた。端的にいって、妻と妻の両親の親露的なヴズグリャドについて書いていた。異常な精神状態の中で個人の私秘性を犯してしまった、ことに後から気づいて削除した。それだけ。

私はこの頃からOFUSEというツールを通じて読者の感想を受け取っていたが、家族の思想信条について語ったこの箇所の記述は結構皆さんにはショッキングだったようで、のちのちまで「侵攻によってご両親の考えがどう変わったのか聞かせてほしい」とリクエストがあった。期待外れになって申し訳ないが、その話はしないと決めているので、しない。

情勢観
オデッサに対しては23日の侵攻初日に市・州内各所の軍事拠点へのミサイル攻撃が行われて以降は特段目立った軍事行動も見られない。25~27日付で紹介した地元メディアの報道に見られるような「工作員の暗躍」系インシデントがちらほらあるくらい。日本の皆さまも報道でキエフとかハリコフの名は耳タコでも、オデッサの名を聞くことは少ないのではと思う。

基本的には、ロシアが欲しいのは飽くまで東部とキエフなのだと思う。ハリコフもドンバスの隣接拠点として狙われている。単純に人口順でいけば「ウクライナ第二の都市ハリコフ」の次は第三の都市オデッサということになるが、あまりにオデッサ静かだなという気がしている。

オデッサが狙われる理由があるとしたら、やはり港であろう。であれば海からどれだけ離れているかという点が安全の尺度としては重要になる。村にいればまず大丈夫であろうと思えてくる。

だがプーチンが大量破壊兵器と絨毯爆撃に訴えてくるなら、こうしたすべてのケーサンはご破算だ。私は窓辺にたまたま立っていたことを悔やむことになる。誰かの言じゃないが、黄泉で。

さっき耐え難きもの③飛行音の幻聴と書いたのは、今日とか昨日みたいな風の強い日はペチカの排気筒が歌うのだが、それが爆撃機の飛行音に聞きなされてならんのだ。

報道
Timerの今朝(3/1)のニュースでは、悪天候のため数日は敵軍の黒海北岸上陸はないであろうとのことだ(ウクライナ軍部の観測、ニュース)。防衛側の海上戦力も整いつつあるという。

停戦交渉については、情報が断片的過ぎてなんかわけわからんので、沈黙。

(以下略)

23日とあるのは、24日の誤り。

「第二の都市ハリコフ」との表現は当時日本語メディアでよく行われていた。ハリコフを「ハルキウ」とか呼びだすのはもう1か月くらいしてからのこと。
オデッサは死神の注意を免れていた。「太陽にバレないようにうつむいて歩く」、太陽にバレていなかった。第1の都市キエフ、第2の都市ハリコフとのコントラストは激しかった。今度も(14年の、小泉さんの言い方によれば「第1次ウクライナ戦争」のときと同様)、オデッサは死地となることを免れるのではないか、と思われた。

2月28日

「手記」


報道によると27日、オデッサでは……

①州内某所(内陸部)でウクライナ治安機関が敵軍の先遣部隊を取り押さえた(ニュース)。オデッサ市そのものではこうした話はまだ聞かないが近隣諸都市・州内各所から間歇的に工作員暗躍の報。

②隣町のチェルノモルスクで銃撃戦(ニュース)。警官が一人死亡している。興味深いのは、はじめ当局は「ロシアの工作員によるもの」と発表したが、のち「工作員など市内には存在しない」と口中の雌黄を用いた。なんでもかんでもロシアのせいにしたいという力学と、状況はコントロール下にあると強調して市民のパニックを回避したいという動因。本当のところは分からないが、銃撃戦があり警官が一人死んだこと(そのようなことが起こるような状況であること)は事実。

③外国人部隊が創設される(ニュース)。外国人でも志願すればウクライナのために戦えるようになった。オデッサらへんで愛国心のない若者を強制徴用してもいざというときロシアに寝返るだけだと思うからある意味こっちの方が頼みになるかもしれない。

④27日、オデッサからリヴォフへ2本の「避難列車」が出た。運賃は無料だそうだ(ニュース)。

こうしたニュースをどんな気持ちで眺めていたのか、を書かなくちゃいけないよな。それが「再読」の意味だろう。形だけ更新しても意味がない。

状況の推移を見守っていた。何がどうなり、どこにどう決着するか。相当な急スピードで事態が移ろっている、という感覚だったろうな。これがそのあと1年も続く、など思いもよらない。毎日毎日、未聞のことが起きる。戦争だもの。当時はまだキエフ陥落含めあらゆるシナリオに未来が開かれていた。オデッサ上陸もあり得た。その意味で、半ば蜃気楼の町(安全圏からの観察)、半ばは脅威のもとでの自己の安全をかけた状況注視、両液体が混淆したカフェラテみたいな心情であったろう。


村は平穏です。

義父と果樹の剪定したり母屋の上階で卓球したり(妻に圧勝、義父と一勝一敗)チェスしたりペチカ焚いたりトランプしたりしてた。

一件ツイートした。1か月ぶりくらい。「わたしの戦争」へのピエール・ベズーホフ的覚醒じゃないが、自分が死なない確率を0.0001%でも高めるために何かできることがあるんじゃないかと思って。ターゲットはロシア国民でありロシア人の琴線に触れることだけを目指して自分なりに文言を工夫したものなので、G翻訳で日本語化して読んである種の「感想」をお寄せいただいても、すいませんがちょっと。

「#ロシアのウクライナ侵攻に抗議します」を無意味だなどとは絶対に言わないが、ロシア語ができる人、ロシアに何らかインフルエンスを持ち得る人・団体は、どうかその力を日本国内にでなく、ロシアに向けて用いてほしいと思う。

ユーフォリア、壺中天。ダーチャの母屋の二階は卓球場になっている。昼からワインを飲み微醺していた。食卓はむしろ豪奢だった。太郎とたっぷり遊んでいた。生を楽しむ。私たちは生の営み、生の楽しみによって、自らの耳を聾する必要があった。

ツイートというのは、ロシア語で「私はウクライナに住む日本人です。ロシアが今やっていることにはいろんな理由をつけることができるのでしょうが、明白な事実として、ロシアの攻撃によって、私たちウクライナにいる人たちの生活は破壊されています。不安も恐怖もこの眠れない夜々も、ただロシアが攻撃をやめさえすれば止まります。ですからこの今まさに行われていることに対して否と叫んでください」みたいなことを書いた。ロシア人はそんなにツイッターはやらないということだったが、回覧され、伝播し、1マイクロミリでも状況を動かす力になればと思った。要するにこれはロシア語を解しロシア語人をフォロワーに持つ人を触媒としたロシア語セグメントへの拡散のみを当て込んで書いたもので、一般の日本人ツイッターユーザーはただ黙殺あるいは黙ってリツイートしてくれればよかったわけだが、これをわざわざグーグル翻訳にかけて腐れ日本語にしてくれる親切野郎がいて、それに対して「夜眠りたいから戦争やめてほしいとか日本人が言うっていうのはどうだろうな」などと様々な「感想」をつける人がいて、バァカ、お前なんかはなから眼中にねぇんだよ、と心で悪態ついてノーリアクションを貫いた。

今だから歯に衣着せずいうが、「ロシアのウクライナ侵攻に抗議します」とか日本語でハッシュタグつけてツイートすることは、無意味である。サムいし、無意味だし、にも関わらず何かした気にだけはなってしまうという意味でむしろ害毒だと思っていた。だが第二の思惟として、それでもそのように叫ばれることで醸成される世論というものがあって、その世論の後押しで政府の支援とかも行われるのかもしれないから、無意味と決めつけてはいけない、「絶対に」いけないとまでいってむしろ奨励しておこう、と思った。

無意味なジェスチャーがとりわけ憤ろしかったのは、プロのロシア屋どもである。ロシア語の使い手であり、ロシア語人のオーディエンスを持つ人までもが、日本語で何か反戦めいた言辞をぶにゃぶにゃ弄することばかりにカロリーを使っているように見えた。私は彼らに率先垂範してみせたつもりだった。たとえばこういうことだよ、こういうことをあんたがた声の大きい人が本気でやれば何か状況かわるかも知れないでしょ、と。のち私は母校の先生方ふくめロシア屋さんら(文化研究者)何人もと話したが、私が望むような積極関与はほとんど誰もしていない。それこそ無意味だ、というあきらめが、賢い皆さまには持てているのか。そういうことか……そういうことなのだろうな。

2月27日

「手記」

村で静かに暮らしてる。

街については色々怖いニュースを見る。Timerから26日のニュースをいくつか。

①オデッサ中心部で自動小銃ほか火器による烈しき発砲、治安機関到着時すでに射手(複数)の姿なし、警察発表なし(ニュース)

②市中の道路標識が撤去される(ニュース)

③市当局、市内の14階建て以上の高層建築の夜間照明を切るよう要請。侵略軍の航空行動の道しるべとならないように(ニュース)

④ウクライナ内務省、スマホのGPSを切るよう国民に要請。モバイルトラフィックの多寡がまた敵の軍事行動の指針として利用されるかもしれないと。のち内務省はこのメッセージを削除(ニュース)

あとトピックは、ウと露の対話をむしろウ側が拒否したとかいう話。露はこれでまたひとつ正義を得た、停戦のチャンスがあったのにウ側がこれを蹴った、だから以後の人死には全部ウの責任・・というわけだ。だが今のミンスクなんてモスクワみたいなものだ、どうしてそんなところで和平交渉などできるか。しかしまぁ既成事実を積み重ねていく露のしたたかさよ。

夜焚火してたら隣家の人に注意された。灯火管制知らないのか、闇夜にこの火で敵軍は標的みーっけと爆弾落としてくるんぞ、自分からここに標的がありますよと教えてるようなものなんぞ、焚火したいなら昼やりや、迷惑なやっちゃでぇ。あっすんませんすんませんと火の始末して、灯火管制て何の話だと義父らに聞いたが、どうも上記③のニュースのことらしい。皆気が立っている。

焚火してたら向いの家の兄ちゃんに叱られた話。村の人の口から「この焚火をめがけて敵が爆弾を落としてくる」みたいなことを聞いて、ああ、やっぱりこの村にも戦争は来ているんだ、と思った。当然に。

義父は合理的な人なので、「焚火が見えたくらいでこんな何もない村に爆弾なんか落としてくるかい!」と一笑に付していたが、それでもそれ以降、夜間に焚火をすることはなかった。理性も合理も物理法則もぜんぶご破算になっている、何が正しいかまるでわからない。新しくなってしまった世界の、皆迷える子羊であった。義父でさえ。

2月26日

「手記」

気にしてくださる方がいるのでやはり細々とでも更新を続ける。(お名前挙げませんが、感謝いたします)

平穏無事。義父と果樹の剪定などしている。私たちは基本的に現在また将来にわたって大丈夫だ(とこの状況で確信できないのであればそもそも留まるべきではなかった)。だが色々耐え難いことはある。私の大切な人にとって大切な人(もの、場所)はまた私にとっても大切だからだ。

ロシア(もはやその名を記すだけで虫唾が走る)もこれほどのことをしたからには国際社会の一員であることから得られるあらゆる便益から見放されなければならない。手始めに(未聞のことだが)国連安保理からの追放。(こんな悪罵がせめての気散じ・放鬱になる)

ダーチャは冬でも何かしらすることがある。また義父はじっとしてはいられない人である。義父の支持で庭仕事をする。厚着して庭出て、はさみでぱっちんぱっちん枝切ってた。うん、切ってた。でときどき母屋に帰ってニュースサイトとか見てどこで何がどうなっているか文字情報を追った。

「私の大切な人にとって大切な人(もの、場所)はまた私にとっても大切」だから「耐え難い」、このとき意味してたのはたぶんニコラエフのことだと思う。オデッサの隣まちのニコラエフは義父のふるさと。ぼかんぼかんミサイルが撃ち込まれていた。私のブログとかツイッターを追ってくれてた人は多分なんとなくご存じだ:私は義父のことがとても好きだ。ニコラエフの惨状を義父はどんな思いで見守っているだろうと思うと余りにも胸が苦しかった。(いま思い出してもつらい。ただ、その後ニコラエフは、ヘルソン解放とともに、爆発音なき日常を取り戻している。義父の肉親や友人たちも皆無事だ)

オデッサの状況その他は主として露字ローカルニュースサイトTimerで追っている。25日のニュースをいくつか拾う。

①ウクライナ軍、敵の上陸を阻止するためオデッサのビーチに地雷を埋設(ニュースA、B)。なんということ。オデッサから海をとったらもう何も残らない。こんなことがあってしまっては、さしあたり今次の危機が去っても、もう子供とビーチになど降りられない。謎すぎる:敵の上陸というのはビーチから行われるものなんですか?てか、これが報道されている時点で作戦としてはもうダメじゃないですか?

②オデッサの隣町のチェルノモルスクで蛍光塗料で路面に目印をつけていた親露工作員が拘束される(ニュース)

③オデッサ州当局「破壊工作員は爆発物を仕込んだ携帯電話・おもちゃを街路にばら撒く可能性あり、絶対に拾わない・手を触れないよう子供たちに警告を」(ニュース)

④26日早朝オデッサ市内各所で対空射撃によるドローン撃墜があり大きな爆発音で市民の眠りが破られたとのこと(ニュース)

上掲ニュースはすべてリンク切れしている。露字ニュースサイト「Timer」は3月に編集長が拘束され、閉鎖されたので。

ビーチへの地雷の埋葬は本当に早かった。オデッサを手もなくオデッサでなくしてしまう究極の一手みたいのが初手いきなりとられた感じがしてエッと面食らった。実質これもう海の失いじゃん。かつて一度でも地雷の埋まったビーチになぞ子供ともう絶対降りられない。この一件は残留or帰国の天秤に有意な重さの重りを置いた。先の話をすると、じっさいオデッサは、このあとの夏のビーチシーズン、海水浴・海浜バカンスが全面禁止になったのだった。

破壊工作員、диверсанты。オデッサは初日の攻撃を食らったあとはミサイル被弾の方はわりと間遠で、その点お隣のニコラエフと対照をなしていたが、かわりに工作員暗躍の報をよく聞いた。いま街は(自分は田舎に引っ込んじゃったが)魑魅魍魎うごめく魔境と化している、という印象だった。偵察ドローンもよく飛来し、これを撃ち落としたり、撃ち落とせなかったりした。

ゼレンスキーが露側に対話を呼びかけているが対話の成立は尚早と思う。ウそして米欧あらゆる対話の可能性を一方的に放棄して武力行使に踏み切った露が対話に応じるとしたら、それはウクライナにおける露の圧倒的な優勢が確立し、いまや自分に有利な新次元の交渉が可能になったというパースペクティヴが露に開けたときであろう。すなわちはキエフ掌握。その目処が立たない今プーが交渉に応じたとしたら、じゃなんでそもそも侵略なんか始めたのという話。

プーチンはロシア語でウクライナ軍に対し反旗を翻すことを呼びかけ(反吐が出る!)、ゼレンスキーはロシア語でロシア国民に対し反戦を呼びかけ(動画)。ゼレンスキーのロシア語を久しぶりに聞いた。КВН出身のゼレンスキーは勿論ロシア語を話す(どちらが第一言語かは知らない)。一瞬よぎった幻想・・この同じロシア語でゼレンスキーが、今度はウクライナ国民に向けて語る。ゼレンスキーの口からウクライナ現政権が、この8年間にわたるロシア語・ロシア文化弾圧の非を認め、寛容性の回復を宣言する。ウクライナの自浄。

だがその瞬間ゼはウク民族主義過激派に●されるのだ。これがウクライナの宿痾だ。

どうしてロシア語がここまで排除されるウクライナになってしまったのだろうか。不幸な過ちであったと思う。言語はパンドラの箱であった。たかが言語されど言語。言語の限界が精神の限界なのだから、一人の人にとって、言語はその人の世界の全てである。言語の抑圧と軍事侵攻はあまりに非対称・不均衡と言うは易しだが、抑圧される側の具体的個人にとってはあながち釣り合わないものでもないのかも知れない。

その後もゼレンスキーはたびたびロシア語を使った。だが彼自身の母語であるロシア語を、どうしてロシア国民向け演説でのみ用いなければならないだろう。どうしてウクライナ国民の中のロシア語話者に向けてロシア語でしゃべることがあってはならないだろう。でもどうも、やっぱり、あってはならないみたいだ。無理してそれをしようとすると、彼は(少なくとも)政治的生命を維持できないのだ。それが宿痾だよなと思う。

2月25日

「手記」2月25日の更新。

マイナス3度、うすく霜。

この日記ももう終わりにしようかと思っている。動く状況を内部から報告することにこの日記の価値のすべてがあったはずだが私はいわば状況の外に出てしまった。あとは政権転覆が一発いや三発くらい起きて起き終わるまで茶を飲み暮らすだけだ。この先特に面白い話ができるとは思わない。

ロシアが現政権を覆すことは確信している。西側って弱いねぇ、なんにもできないねぇ、というのが率直な感想です。

西側がかくも無力なら、ロシアを止められるのはロシアしかない。タフガイプーチンは正面から殴っても効かない。1億国民が背中から押して突き落とすしかない。だが……どうだろうな。テレビ見てる感じだと、いつもの言いくるめで、正義が成立しちゃう感じだな。

日付の混乱があって、「手記」ではこの記述は2月24日付となっているのだが、24日当日の記述とは思われぬので、たぶん、25日。いつもなら23日分を24日に記すはずが24日起こったあまりの事象のために23日がすっとんで、24日に24日のことを書いている。でもそれを誤って23日付としてしまった。だからここから、1日ずれていくのだと思う。? そしていつ、ボタンの掛け違いが解消されるのだろうか。メダパニ、メダパニ。

ダーチャは世界地図あるいは世界史というよりは私たちの心に属する時空であるので金属や火薬によって傷をつけることはできない。桃源郷に入り込んだ。胎内回帰した。そういう主観(幻想)にもとづく、第一段落です。

経済的な制裁によって国家の軍事的冒険を抑止する・あるいはその企図を中途で途絶させることが可能である、という考えが、いかに幻想に過ぎなかったかは、1年後のいま、改めて国際社会に突きつけられている。ロシア経済は、ロシアの国民生活は、戦争の1年をほとんど謳歌した。戦場でロシア人を殺すための、ジャヴェリン、ハイマース、スターリンク、バイラクタル、これらのものの具体的供与のほかは、すべて寒々しいジェスチャーに過ぎなかった。「というのが率直な感想」。

最終段落の「テレビ」というのは、ダーチャのテレビではとある特殊な方法でロシアのテレビ放送を見ることができたので、少し見たんだね。あまり具体的には覚えてないが、とにかく「特別軍事作戦」ということで。14年以降のプロパガンダからの自然な延長という感触で、14年以降の対ウクライナ政策を是認していた一般大衆は今度のことも是認するだろうなと思った。

前から思ってるのだが、プーチンレジームの破壊のために「ロシア国民の世論を善導する」という方向の積極的インテリジェンスを西側はもっと開発できないものだろうか。そのフロントを張るのはナヴァーリヌィとかサプチャクみたいな鼻持ちならない同国人よりも、まして仇敵アメリコス人よりも、箸にも棒にもひっかからないのっぺり顔の日本人とかがふさわしい。ヒラのロシア人にとって日本は政治的にほぼ無色で(領土問題の存在にも関わらず)、ユニークな文化と技術によって尊敬を集める国である。そんな日本人が、手先・尖兵・刺客といった外観を極力クリーンアップして、実にツボを心得た情報発信をロシア語で行って、プロパガンダの虚偽を「それとなく」是正する。これまで日本のロシア専門家というと基本的にはロシア語で情報をとって日本語で日本人に発信をするのだが、誰か出てこないか、ロシア語でロシア人に情報発信して隠然とロシア世論を動かす凄腕「日本人」エージェント。私には荷が重いが、太郎(わが2歳半児)、君どうやってみない?

たとえば今の状況であれば、誰かもっとロシアの民衆に(ロシア人の琴線に触れるような語り方で)言ってやってくれ、何もないところに危機を作りだしたのは他ならぬロシアであること、「自国内で軍隊をどう動かそうが自由」「ウクライナに侵攻しないしその計画もない」という言説が完全なブラフであったこと、進行中の外交交渉を蹴って自分から先に武力を用いたのであること、侵攻の直接の引き金となった今次のドンバス緊張はロシア側が作りだしたものであること、ロシアの攻撃によってすでに無辜が死んでいること。きみたちの国がいま嘘の国・暴力の国・同胞殺戮の国に堕していること。

身近なところでは「犠牲と戦勝」というロシア国家の統合神話から「南クリル問題」を切り離す世論工作によって北方四島返還が近付くのではないかと愚考したこともありました→ロシアとウクライナについて思うこと「5 北方領土」

以上の素人考えはしかしバカの考え休むに似たりという言葉のお洋服が最も似合う人体であろう(?)実際こんなことはガチで日本にいても語れたことに過ぎない。田舎に引っ込んでしまった私にもう地の利・位置エネルギーはない。I mean、「ならでは語れぬ」ことなど今後たぶん持たない。黙ろうと思う。黙って歴史の推移を見守りたいと思う。

いろいろ語っているが、一番思ったことは、ああ、あのとき太郎は「2歳半」だったんだなぁ、ということだ。ちっちゃかったよなぁ。ちっちゃくてよかったよ。今3歳半、言葉も達者で、いろいろよく分かっている。1年前が今の状態だったら、いろいろ分かってしまっていた。

「ロシア専門家」に対する不満は基本的に、今も持っている。ロシア国内に友人をもち、ロシア社会に何らかのテコを有している人は、それを使う努力をしろよ、とずっと思っていた。あなたのロシア語を何に使うのか。ロシア語で書いてあるものを読んで、日本語に訳して、日本人に伝えて、日本円を稼ぐ。それだけか。逆のことはできないのか。あなたのロシア語を使ってロシア社会に一石を投じることはできないのか。

2月24日(ハッピーバースデー、「特別軍事作戦」!)

「手記」2月24日12時の更新。

にゃあ。

ダーチャに逃げてきた。

この間あったこと:5時過ぎ起きる。ニュース見る。「オデッサで同時多発的に爆発、ミサイルの目撃情報あり、未詳」それだけ。6時を待って義父に電話、車を頼む。7時に妻を起こす。荷物とりまとめ。追報なし。子供のためのあるものが不足していることに気づき最寄りのスーパーへ。美しい朝焼け。レジ長蛇の列。グレーチカ(ソバの実)はや払底、買い物カゴ覗くと水・生理用品など目立つ。外ではまた銀行ATMに長蛇の列。8時やっと義父来る。下り(街から郊外へ)方向渋滞。ごつい銃を携えた兵士たちが半身を乗り出している戦車の列。用事を済ませながらだいぶ遠回りしてダーチャに着いたのが11時。で今はウクライナ時間の12時です。ネットも電気もぜんぶある。

こんなこというと武勇伝が過ぎるぞと言われそうだが、私は「最初の一発」をこの耳で聞いた気がするのだ。この「手記」を綴っていた50日間、私はずっと不眠であった。この日も早朝に目が覚めていた。そうして半覚半睡でドォンという遠雷を聞いた(信じなくてもよい)。

そっとベッドを置きだして、キッチン行って、コーヒー淹れながら、ニュースサイト開いたら、「始まった」ことが分かって、思いを巡らしながら、そのままゆっくりコーヒー飲んだ。何ができますか、朝の5時に。

6時に義父に電話した。義父は朝が早いのでことによったら起きていると思った。だが案に反して、寝坊の義母まで起きていた。ギンギンに元気であった。一番動顛してる人が「落ち着け!もちつけ!」と一番落ち着いてる人に言って聞かす漫画的滑稽が電話越しに演じられた。「私は落ち着いていますよお義父さん、わかりますね、逃げたいですから、車を寄越してください」そうしてダーチャから迎えの車が来るのを待った。妻と子を起こさないように物音に気を付けつつ、少しずつ出かける支度をした。

その待ってる時間。穏やかに妻を揺り起こし、びっくりしないで聞いてね、と話し始めた瞬間のこと。表へ出て見た「美しい朝焼け」。スーパーの店内の様子。すべてを覚えている。

義父が来るのは全く腹立たしいほど遅かった。しかも義父は、義妹(義父にとっての義妹。私からみると義理のおばさん)のとこに寄ってかなければとかいって、わざわざ団地に寄っていった。なお、訂正:道中見たのは「戦車」でなく「装甲車」だ。始まったのだな、こうして始まるのだな、と思った。

ダーチャに着いて、まず、気付けのために、ワインをあおった。ともかくも11時には私と妻と子、そして義父と義母、そろうべき人がそろうべき場所にそろった。完了した。(して私は心配しているだろう皆さんのためにブログを更新した)

政治と生活。政治については一昨日の予想を上方修正、ロシアはドンバスをとるだけでなく現政権を転覆して事実上ウクライナそのものを掌握する気だ。それに抵抗する牙と爪を折るために全土の戦略拠点をピンポイント爆撃してきた。だが「生活」についてはある意味で想定の範囲内というか・・こうなったらこうすると予め考えたいた通りに粛々とお籠り(お子守り)生活を送るだけ。

このようなことをあえてしてきた時点で十分ロシアは悪魔であるが、しかし「そういう種類の悪魔ではない」。つまり、同じ悪魔でも、ウクライナの市街と無辜を無差別に破壊・殺傷するような種類の悪魔ではない。飽くまでロシアはロシア的正義の中でしか行動しない。その正義は理解可能である。共感は絶対に拒絶するが。

ロシアの陋劣さを思うと怒りで頭に血がのぼって過呼吸になる。だがそうならないように気をつけてさえいれば、むしろ今家族で(義父母を含め)一番精神的にだいじょうぶなのは私だ。そんなことはあり得ないと一笑に付していた皆さんと違って、こういうこともあり得るという不安の中に1か月暮らしたのだから。

私のハズレまくっている素人未来予測については特にもう突っ込まないでおいてほしい。「ロシアの陋劣さを思うと怒りで頭に血がのぼって過呼吸に」のところは、あながち誇張ではない。落ち着いて書いているように見えるだろうが。

おっ死んだらごめんね。皆さん。寝覚めの悪い思いをさせてしまって。一応遺言を言っとこう。私に退避を促すことにつき大使館職員の皆さんは最善を尽くしてくださった。それを聞き入れずにウクライナに残ったのだから、もうこれは完全にいわゆる自己責任です。自己責任。

私はブラックジョークが好きなんだ。今はじめて認識した。わりとこういうことよく言いますね。(こうして私の2022年が始まった。今日まで続いている長いそれが)

2月22日

「手記」

2月22日

黒海やや波高し
(写真)

①オデッサのロシア領事館でも職員退避を前に書類の焼却が行われているようです(ニュース)

②ゼレンスキーは実に抑制的な国民向けビデオメッセージ。平静を保て、混乱の理由はない、ロシアの挑発的言動に惑わせれるな、国境線が変更されることはない、国際の協調のもと飽くまで外交手段で問題を解決する、「情勢に変化が認められ次第、危険の高まりが認められ次第、必ずお伝えする。現時点では血迷った行動をとるいわれは何一つない」「我々は飽くまで平和的・外交的解決を目指す、ただし、ここは私たちの土地である。私たちは何も恐れない。私たちは誰にも何らの義務も負わない。私たちは誰にも何も明け渡さない。そのことを確信している、なぜなら今は2014年2月でなく2022年2月であり、国も軍もあのときとは別モノだからだ」(動画、露訳全文)

③皆さまの心のうちなど知るよしもないが少なくとも指標のひとつとしての食料品の買い占め的なものは今に至るも全く起こっていないと証言す。
(写真)
コロナ不安が最も大きかった20年4月あたりはソバの実など大分なくなったものだった。

太字の箇所。この時点で当然ゼレンスキーはロシアの全面大規模侵攻が不可避であることを知っていた。よくもぬけぬけと言ったものだ。というのはしかし、酷な話か。何をどう言えたというのだ。こういうときどうするのが正解なのか。真実を伝えればもちろん大混乱であった。すべてはのちの検証に委ねられる。私はゼレンスキーが虚証に等しい沈黙を保ったことは咎められるべきだと思う。だが総体としては飽くまで彼は偉大な指導者であると思うし、掛け替えのないリーダーだと思っている。

2月22日に至っても(前日のプーチン演説で軍事の季節の始まりが明らかに宣言されたにも関わらず)買占めが起こらなかったという証言は貴重だと思うのでとっといてください。

なお、これがオデッサの海を見た最後。浜に降りた最後。

④例のプーチン演説に14年5月2日オデッサ労働組合会館焼き討ち事件への言及あり(動画)。反マイダン市民42人が焼死した凄惨な事件、今のウクライナで「親露である」ことは危険なことなのだと市民に知らしめ、震え上がらせ、その口を噤ませた象徴的な事件であるが、その犯人が処罰もされずろくに捜査さえされないままでいるところ「我々は下手人をその氏名まで知っている、必ず業罰を下す」とプーチン。有名な「雪隠詰めでぶっ殺す」(Wiki)を髣髴とさせるゴリマッチョぶりだが、これはオデッサの親露市民へのメッセージだ。再び街路へ出ろ、とは言わないまでも、ロシアを「公正」「抑圧からの解放」「親露市民の復権」と連想づけるもの。

しかしながらプーチンは、ここでまたしてもミスを犯した。Одессаを「アヂェッサ」でなく「アデッサ」と発音するのは典型的な外来者の徴表である。オデッサ市民の心に訴えるならここはぜひともアヂェッサと言ってほしかった、九仞の功を一簣に欠いたねプーチン君。(→オデッサか「アヂェッサ」か~ロシア語の≪Е≫の発音~

⑤危機の次元が「生活」から「政治」に移った感がある。こうなると辛いのは私より妻だ。妻は昨日から泣いている。несчастная Украина.

死者数は、正しくは48人。あえてオデッサの悲劇に言及したプーチンの狙いは、上の分析で間違いないと思う。プーチンはウクライナの特に東部や南部の親露市民が歓呼してロシア軍の侵入を迎えるというイメージを持っていたのだろう。それでこういうタネを撒いた。だが返ってきたのはGo fuck yourself Go fuck yourselfの大合唱だった。さぞ傷心したろう。珍老人よあなたは老いたのだ。あなたの愛は死のにおいしかしないよ。愛さないでくれ臭いから。愛を求めないでくれ私たちを殺しながら。

несчастная Украина(哀れなウクライナ)というのは、21日のプーチン演説を受けて妻がこぼした一言だ。妻はウクライナ軍がロシア軍の前に無力であることを確信していた。クリミアのときと同じように、ロシアが本気でとると決めたものは、ほとんど無障害にロシアの手に渡る、ウクライナは抵抗すら示すことができない、そう考えていた。すなわち、プーチンがあのように言ったからには、東部二州はもう取られたのだ。それを「かわいそう」と言っている。そこまでは分かるが、それで涙するというのは……妻のウクライナへの思いのほどは、私には推し量りがたい。そんなことすら推し量れないの(基本的なことでしょ)と思われるかもしれないが、私たち二人の関係のことだから黙っといてほしい。私はロシアとかウクライナへの思いについて妻に直接質問はしない。私自身が当事者的に両国に対して思いのたけがありすぎるので、けんかになる。戦争になり得る。だから片言隻句をとらえて創造的に再構成するしかない。それにはまだ成功していない。

危機の次元が「生活」から「政治」に、か。「ロシアの侵攻(あるかも)」という想念によるわが脳髄の侵略が、外化された。外部にその対応物を持った。それも、ウクライナ東部侵攻という矮小化された形で。……そう感じた。いわば、身近だった問題が、遠い問題になった。そのことをさして言っている、と思う。

2月21日

「手記」

2月21日

プーチンをリアルタイムで見ていた。要するにロシアはドンバスを取ることを決めたのだ。もうシナリオは明白になったように思われる。ロシアの正規軍がウクライナに入る。ドンバスが囲い込まれる。両人民共和国で住民投票が行われる。圧倒的多数がロシアへの編入に賛成する。ロシア議会上下両院もこれを受け入れる。ロシア連邦の構成主体がまた2つ増える。ウクライナ国内ではウクライナ国粋主義・民族主義過激派が各地で騒ぐ。しかしともかくも戦争は終わる。ウクライナはNATOに入る。

明日にもロシア軍は入るだろう。つまりは、西側の制裁が明日にもロシアを撃つ。ともあれロシアは圧倒的な軍事力で短中期的にはおもうさまの成功を、すなわちドンバス併合まではつつがなくやり遂げるであろう。ドンバス包囲の端緒としてキエフないし全土にサイバー攻撃を仕掛けて即応を不可能にしてくるかもしれない。その場合は私のこのブログも更新が止まります。というわけで普段この日記は朝方に前の日の分を記すのですが拙速にしたためておきました。

妻が私を呼んだのだった。もう夜だった。夜だっけ?外は暗かった。「プーチンが何かしゃべってる」。妻はふるえていた。2月21日、DNRおよびLNRの国家承認演説。見終わって妻が放ったのは「これで明らかだ。プーチンは東をとるんだ(Теперь всё ясно, Путин заберёт восток)」の一言。あとに述べられるが、私が覚えていた感覚はむしろ安堵に近い。14年からの紛争に決着がつく、それで終いだ。ロシア軍が本気で入ってくる。もちろん許されざることではあるが、それでグズグズの8年紛争は終わる。なぁんだ、結局それだけのことではないか。私はもともと東部が14年以来戦争中であることを承知で19年に南部に移住してきた。南部で穏やかに暮らしてきた。これからも穏やかに暮らせる。軍事優位の時間は一瞬で、それが過ぎればまた長い政治の季節となる。

翌2/22朝追記

ただいまウクライナ時間午前7時半。

プーチン演説の感想。「どっちの現実がほんとうなんだろう~(><)」「社会的現実と生物的現実」etc.の迷言で知られる何丘氏にこれを言う資格があるのだろうかと疑われるが、ひとつの、我々には共有しがたい奇怪な「現実」の虜囚となった、無残な、醜悪な老人を見た。私はたとえばTwitterをいまだ続けていたらTwitterではこのようなことはまさか言わなかったであろうが、このブログは私の庭であるから、言わせてもらう。私はこの老人の死を願う。(本来こんなことは誰に対しても言われるべきではないが)

私はモスクワが好きだ。そこで過ごした「第二の青春」を懐かしく思い出す。ロシアには多くの美しいものがある。でも、はじめからこれをしようと思って大軍を配備していたのかなあとか、侵攻しませんその計画もありませんという口八丁は全部ウソだったんだなあとか思うと、本当に気持ちが悪い。ロシア語を含め、自分の中の全てのロシア的なものを根こそぎ吐き出してしまいたいという14年の感覚を思い出す。

ぐっと話を卑近なところへもってきて私たち家庭の安全安心幸福という次元で考えると、これは想定していた「中程度の最悪」のシナリオというか、これがただちに私たちの出国の理由となることはない。ドンバス侵攻(※これは「侵攻」です。バイデン、何を寝ぼけたことを言っている?)とオデッサ困窮は接合しない。と今の時点では思っているのですが何しろ事態の推移を注視したい。

これもぶっちゃけてしまおう。もちろんこれはウクライナにとっての悲劇である。だが、家庭の安全安心幸福という次元では、シナリオがある程度見通せたことで、(こんなこと言うべきではないのだが)正直、不安の軽減を覚えている。ロシアに対してこうして怒りと嫌悪を覚えているのもそれだけ心がヒマになったからだと言える。そんな余地すらない時期があった。

(写真:ポチョムキン階段とオデッサ港)

言いそびれたが街に帰ってきている。米露外相会談が予定されている24日までは悪い方に情勢は動かないだろう、その先には首脳会談も計画されていて、いくらなんでもこの状況で軍を動かすほど外交信義にもとることはしないだろうと思って、その間にいろいろ用事を済ませてしまおうと。ナイーヴなことであった。写真は有名なポチョムキン階段、上から見たときと下から見たときと正面から見たときで印象がそれぞれ全然ちがう、今言った順にフォトジェニックでない、つまり一番ブスな顔のポチョ階がこれ。街も港も平穏そのもの。だがこれも今日を境に変わっていくのかな。

たまたま予想が的中して、予想的中というか、起こるぞ起こるぞといわれていた事象が無事想定の範囲内に収まってくれそうなことに、得意になったのだろうか。やたら賢そうに未来予想を立てたり偉そうに上から目線でバイデンに説教したりしている。未来予想の方は何ら軍事的な知識に基づくものでもないし、案の定見事にハズしている。このへんは素直に寒いとか恥ずかしいとか思っておいたほうがいい。

「ロシアに対してこうして怒りと嫌悪を覚えているのもそれだけ心がヒマになったからだと言える。そんな余地すらない時期があった」ここは少し面白い。怒りという感覚はその後、そうさな1か月くらいはつきまとった。だが今はない。1年後の今残っているのは侵略者に対する基調低音のような憎悪だけだ。で、自身と家族の生存のためにプラグマティックに思考し行動する者には怒りだの憎悪だのに気を取られる暇がない、という考察は、しかし、少し疑う。私の場合は自分の脳髄に対する「ロシアの侵攻(あるかも)」というひとつの”考え”の侵略と戦っていたのであって、この戦いには憎悪とか怒りを向ける場所がない。それが今、具体的な侵略者が現前した、それで怒りが湧いた。さしあたり、それだけのことではないか。別にヒマになったからとかそういうことではない気がする。

私たちは14日から20日までダーチャにこもっていた。そのままダーチャにいたらよかった。21日に街に戻ってきて、3日後に大規模侵攻があり、ダーチャに再避難することになった。ムダな行ったり来たりになった。あとからなら何とでも言える。

なんで街に戻ったのか。もともと現実Bの強化プログラムとしてダーチャにこもった。私が「ロシアの侵攻(あるかも)」という想念にすっかりオーヴァーウェルムされてしまった、コンクヮーされてしまったので、治療の目的でダーチャに籠った。もともと一週間くらいいれば治るかなという考えで、果たして一週間くらいで治癒は成ったので、それで戻った。あとは書いてある通り、米露の外交交渉が活発化したのを見て、当分大丈夫かなと思った。小泉さんがちくま新書の『ウクライナ戦争』で軍事屋としての自分とロシア屋としての自分、「二人の筆者」の間で揺れていた(何丘の「二つの現実」にインスパイアされたのですよね、知ってますよ)と書いてるが、まさにそれで、今は政治(外交)のほうが軍事的状況を動かす局面に見えた。

というのはしかし、20日時点の状況だ。21日のプーチンのDNR・LNR国家承認演説を受け、予定されていた露米外相会談はキャンセルされた。そのことをもって「ナイーヴなことであった」と言っている。もう完全に、軍事が政治を動かす局面に入ったのだ。

(そう分かってもなおこの時点でダーチャに引きこもる決心をしなかったのは、上述のように、これから行われるのは東部の局地的な戦争に過ぎないと思われたからだ)

2月20日

「手記」

2月20日

みずうみ。
(写真)
黒海北岸にはリマンлиманと呼ばれる湖が多数あって、たぶん日本語で潟湖と呼ばれるやつ、太古は黒海と水つづきであったが砂州の伸張によって鎖され内水化した。そのひとつ。
狭隘な陸地によって黒海から切り離された「湖」たち。オデッサ左下がドニエストル河口部のドニエストル・リマン、オデッサ市から直接北西方向に伸びてるのがハジベイ・リマン(今回訪ねた)、そのすぐ隣に灰色に見えてるクヤリニク・リマンは例外的に鹹水(通例淡水)、いくつか飛ばして東西方向に広がっているデカい黒々した水域はドニエプル河口部でこれも数千年後今のキンブルン砂嘴が伸張すればドニエプル・リマンになるはず。みたいな話は過去にも書いた→「オデッサ」に関する知識でWikipediaを超える②歴史編(前)
パノラマモード撮。(見えてるのは広大なリマンのほんの一部)
(写真)

地理について難しそうなこと言っているが詳しい人が言っていることではない。私は何にも詳しくない。バァカァでーす。馬鹿だよ。でも地学は好きだ、ブラタモリとか。ブラタモリを楽しく見れる、という程度の地学好き。

クヤリニクは団地からすぐ、ハジベイはダーチャからすぐなので、何度も訪れたことがある。ハジベイだのクヤリニクだのこれらエキゾチックな名前は多分クリミア・タタール語なのだと思う。クヤリニクはウクライナの死海と私は呼んでいて、極めて塩分濃度が高く、カナヅチでも体が浮く。これは自らの体で確かめた。夏に海水浴ならぬ、塩湖浴した。でもそれをやったとき(尾籠な話で恐縮ですが)私は切れ痔になっていて、切れたケツ穴に塩水がしみてもう痛ェのなんのであった。それでも鏡面みたいな湖水に夕日が桃むらさきに照って幻想的な美しさだった。イスラエルの死海とか、塩湖といえばのウユニ塩湖とか、世界の人に知られている。だがウクライナのこういう景勝地は世界にもウクライナ人自身にも全然宣伝されていない。ウクライナの観光ポテンシャルはとんでもなく高い。平和の空の下、世界遺産となったオデッサを多くの人に訪れてほしいし、オデッサにきたついでには、これらリマン(湖)にもぜひ足を踏み入れてほしい。

とはいえ、こういう道なき道をいく系の旅は、以後危険を伴うことになった。ウクライナはそこらぢゅう爆発物だらけだから。ロシアの侵略がウクライナから奪ったもの、今後長きにわたり奪い続けるもの。

18日のところに「ロシアとウクライナはもともとひとつのものだ」とかクリミア併合を正当化するプーチンみたいなこと書いてるが、えーと、私は何もウクライナ(の中・東部)はロシア主導で合併するべきだみたいな政治的主張をしているのではない。全然違う。もともとひとつのものであるという認定と、それがいまではふたつの国家にその統治を分け担われれているという現状の肯定は、何ら矛盾しない。同じ言語を話すひとつの民族が二つの国家に分かれ住んで善隣している実例などいくらでもある。私は近代国家の領土主権については健全に潔癖な感覚を持っている(と思う)。ロシアによるクリミア占拠を全く肯定しないし、ましてそれ以上のことなど肯定するはずもない。
というような話もどっかには書いてるはずなのだが今や長大なものになってしまったこの記事を(この読みにくい文章を)人が頭からケツまで読み通してくれることなど期待すべきでないし、最初の三日分くらい読んでいやんなるのが普通だと思うので、細かめに釈明を入れておいた方がいいだろうなと思った。

今も立場は変わっていない。このへんの立場が変わることは多分ない。「近代国家の領土主権に対する健全な潔癖性」は、私にあって根の深いものではない。若いころ国際法を学んだときに身に付いた感覚。それ以上のことではない。それについてものすごい深い思索を行ったわけでもない。

だがクリミア併合のときロシアが見せた許せないような醜さ。その後のロシアのプロパガンダが見せた、やっぱり許せないような醜さ。これは私が肉体的に、生理的に、それも長期間にわたって自らその感覚を生きたものだ。こちらの方はじゅうぶんに根が深い。

2月19日

1年前の今日はこんなこと書いていた。手記

2月19日

ロシアに爆撃されたなう。に使っていいよ。
(写真)
本当は老朽化したピオネールのラーゲリが自壊したもの。村はソビエト的なものが自然に褪色して「ゴーゴリのウクライナ」の地層が露頭しつつある。より永遠なるものは何か。

ゼレンスキーのミュンヘン演説見た。動画、露訳全文。ポイントは、①ウクライナの戦いは欧州ひいては世界の戦いであることを強調(だから支援は(感謝はするが)当然である、言葉でなく行動を)、②ウクライナのNATO・EU加盟への意思を改めて鮮明に、③東西いずれの軍事同盟にも参加せず「安全保障の真空地帯」になっている現状では核武装もやむなしと示唆(→ブダペスト覚書署名国の外相会議を呼びかけ)

基本的には8年戦争(現時点で)の延長線上に今次の危機をとらえており飽くまで目指されるべきは東部の平定とクリミアの奪還。国境周辺におけるロシアの軍事的圧力とドンバス緊迫化については強調されているが19分間の演説中に「侵攻(вторжение)」の語なし。正確には米国のレトリックを引用する形で一度、これはいわば侵攻予知言説への皮肉。ウクライナ大統領のこうした立場は(こんなこと言ってしまうのはもちろん不謹慎なことだが)私にとっては安心材料だ。

カーリング負けちゃった。妹、鈴木くん、ちなちゃん、フジ。ありがとう。その明るさに救われました。銀メダルおめでとう。

焚火した。
(写真)
「護摩を焚いた」。私が護摩を焚いたことを唯一の理由にウクライナは危難を逃れるであろう、感謝せよ民。(とかまで言い出したよ、いよいよやばいなこいつ)

少し前に村外れの廃屋が崩落していた。そこへ重機が来ていたのでそれを見に、子供と出かけた。

ゼレンスキー演説の③はこれから僅か数日後のプーチン演説でウクライナ脱ナチ化・非軍事化「特別作戦」の根拠の一つとして逆用されたのだった。ナチスウクライナは核武装しようとしている(から軍事介入してこれを無力化しなければならない)、と。

焚火は純然たる「用の焚火」で、庭の果樹という果樹がひと夏に茂らせた葉・伸ばした枝を全部落とし、ひとところに集めてうずたかの小山を作って、それを少しずつ燃やしていく。出た灰は肥料になる。この日も燃やしていた。Гори, гори ясно、薪を絶やすな、とか誦しながら。

2月18日

「手記」

2月18日

これ書いてる19日朝、NHKのニュースサイト開いたらバイデン閣下が「確信」してらっしゃって
(NHKニュースサイトのスクショ)

この種のニュースを見てもちろん私は体が震える。こういう現実は私の中にもまたあるからだ。そうして次の段階はこの現実に諸ミラー現実が対置されて、先の現実が窒息するかしないかという勝負になってくる(昨17日の記述)

機密情報をあえて積極的に公開することでロシアの機先を制するというのは巧妙な戦術だが、その戦術をあえて積極的に公言するところがまた巧妙なやり口であると言えなくもない。というのも、これで構造的に「アメリカが嘘をついている」という批難が不可能になるからだ。嘘をついたのではない、我々があえてそう公言したからこそロシアは出足をくじかれたのだ、「予定はたしかにされていたのだがその予定を我々が適示したことで予定が動かされた」と米側は常に言い抜け得る。

ロシア側はこれほど明確にウクライナに侵攻などしない、その計画もない、と公言している。一国の外務大臣や上院議長や他にもあまたの口がこぞってウソをついているだろうか、それほど厚かましいことが行われ得るか、仮にも国連安保理常任理事の責任ある大国に。だがこれも「その時点では嘘ではなかった」とは常に言い抜け得る。今次のドンバス赤熱を受けて「昨日までは確かにその計画はなかったのですけど今日計画しました」つって明日侵攻、それも「嘘ではない」。

やはりドンバスから始まるのか。だがよ、ドンバスでならそれは事は起こせる。でもそこから先へはどうやっていくのだ。「ウクライナ側の挑発によってドンバス緊迫化、化学兵器の使用により市民に犠牲、西側工作員の影もちらほら、すわ人道危機、介入せずんばならず」ここまでならロシア国民も納得する。あ、いつものやつね、それならGO!・・しかし、その先にはどうやっていける?

これ書いてる今も体震えてるのだが。現実性と合理性。合理性と現実性。

少し自己紹介をさせてほしい。私は早大露文でロシア文学を学んだ。人生の4年半をモスクワで過ごし、今オデッサに2年半住んでいる。この間ウクライナに親類知己をもつ多くのロシア人あるいはその逆、また旅行・留学・ビジネス等でロシアを体験的に知っている多くのウクライナ人に接した。オデッサその他ウクライナの諸トポスが登場し・また言及されるロシアの小説・映画・大衆歌謡・テレビ番組に夥しく接した。ロシアとウクライナは政治が邪魔しさえしなければもともとひとつのものである、ロシア人とウクライナ人は兄弟である、と私がいうとき、それは何もキエフルーシから説き起こしての理知的理解でない、単純な感覚的真実である。私は信じない。ロシアがウクライナの民衆の苦しみを肯定しうるなど。プーチンとその軍はウクライナを攻撃することはできる(能力的には)、しかしそれを事後的にもせよロシアの国民が決してがえんじないことを信じる。露ウ双方の民衆が互いをこれ以上憎しみあうことがないように、心から願う。

私自身の文章だからこのパセティックなパッセージに私は同情を寄せるが人が(特に今日の観点から)読むときどうだろうか。単にサムイだろうか。

界隈では必読書となっている奈倉有里さんのエッセイ集(夕暮れに)を先日やっと読んだのだがそこに出てくる一人一人が今どこにいて何を思っているだろうかということに思いをはせると、とても「戦争を支持する(黙過する)ロシア人」などとひとくくりにして何か非難めいたことを言う気にならない。

然り、私はロシアの民衆に失望した、絶望した、と言える。だがそれは、民衆を構成する一人一人にということでなく、民衆と権力の関係構造への絶望ということであるべきなのだろう。道徳的潔癖のために自らの国を脱出できる人は多くない。住む家、今ある関係、仕事、生活。人間は第一にそれらによって生きる。「全面侵攻。心理的に動揺した。だが結局は国内にとどまった。きっと誰か賢い人が必要とみて決行した、その判断を信じる。自分は自分と家族を養い小市民的娯楽に興じるまで。(そこへ9月の動員令。)徴兵はいやだ、グルジアへ逃げよう」以上ぜんぶ、人間的に理解可能なことだ。自分だってそうした。だいたいの人がそうする。

だが、にもかかわらず、この人たちに報いを・罰を・不幸を・災厄を願わずにはいられない、ウクライナの人たちの憎悪を私もともにする。他者への(あるいは隣人への、兄弟への)無関心という原罪に、応分の報いがあってほしい。「大学でロシア文学を学んだ」自分が、今やえげつないような未来をロシアに望んでいることを告白する。(詳細は自重)

2月17日

「手記」

2月17日

裏のだだっ原、夏は牛らがただ歩いて草はむ
(写真)
夕映え
(写真)
私たちのねこ
(写真)

ダーチャに移って基本的には心の平安を得ている。昨日今日は暖かかったのでペチカも焚かなかった。子供を庭で遊ばせていると然り子供の幸福のためにウクライナに留まっていると改めて強く思う。

リアルよりリアリティ、リアルよりリアリティ、リアルよりリアリティ、リアルよりリアリティ、リアル。社会的現実と生物的現実という対比を思いついた。私は、私だけでなく基本的には誰でも、メディアが言い、お上が言い、また父母が言い、友人たち先生たちが言うことは、正しいことなのだと信じる。彼らが一致共同して指呼するものの総体が「現実」である。そのように現実を構成することを社会的に訓練された。というか、それなしには生きていくことができなかったので、否応なく自己訓練した。社会的現実とこれを呼ぼう。

その社会的現実の中では私は、今にも外国軍の侵略を受けて破壊される国の、死傷あるいは不幸がほぼ約束された存在である。その現実が私に教えるところによれば、私はただちに妻子を連れて出国し、危難を逃れるべきである。なのにそれをしない。その矛盾から、私はふしぎに恒常的にダメージを受けている。毒の沼。そのために心は常に少し以上重く、暗い。

一方に、生物的現実と呼びたいものがある。<みんなが指呼するものはその指呼するように在る>という教えよりももしかしたらもっと根源的に、単純に<視え・触れるものは在る>という、これも無数の反復によって踏み固められた「現実」構成法だ。それによれば「ロシアによる侵攻」などは存在しない。こちらの現実は私を慰謝する。

上に描写した「社会的現実」にはさらに「社会的現実B」が対置される。露・ウ語による無数の言説を養分に私の中に構成される現実。このBによれば近い将来においてロシアによる侵攻はない。社会的現実Bと生物的現実の総合得点が社会的現実Aを上回っている、これが残留の根拠であると言える。用語を本質A、本質B、実存とそれぞれ置き換えても多分いい。

(多分ぜんぜんダメな考察、正鵠不的中感、気に入らないが一応残しておく)

読み返して、それほどダメじゃない考察と思われる。用語の整合でいうと、ここに新出の「社会的現実」は、これまで「現実A」と呼んできたものである。で「生物的現実」は「現実B」。前者を本質と、後者を実存と呼び変えることも正鵠を射ていると思う。

五輪
フィギュアをロシア語の有料放送で、カーリングを日本のNHKないし民放で見ている。実況解説の質は後者が段違いに高い。ルールとか戦術とか状況の丁寧な解説は日本の放送だと当たり前だがこちらでは全く行われない。あと、自国選手をろこつに応援したりする。んで相手方の失敗を平気で喜ぶ。見比べると日本のアナウンサーのプロフェッショナルぶりが際立つ。

しかしまぁフィギュア女子には一体何が起きているのでしょうか誰か教えてください。違う競技すぎる。坂本ちゃんの滑りでソチなら十分戦えた。トゥトゥベリッゼが4回転の秘法を独占していて、これを盗み出さなければロシアには永遠に誰も太刀打ちできない、そういうことで合ってますか。(ワリエワについては可哀想な子供という他に感想を持ちえない。大人たちの下らんゲームに巻き込まれた本当に気の毒な子供)

ちなみにロシアの実況解説は自国選手が滑ってるときは黙る。とりあえずジャンプエレメントが一通り済むまでは喋らない。сглазитьというやつ、何かしてる人に成功を願って変に言葉をかけるとむしろ失敗を呼び込んでしまうという一種の迷信から、事が終るまではなるべく口を挟まない。タラソワとかその典型であった。

それでいうとカーリング女子スイス戦の5エンド、ブランク狙いが外れて1点取らされる形になって、「1点とって同点で前半終了ということになりますね、まぁこの1点が取れればという話ですが」というアナウンサーのこの発言、сглазитьの観点からは最悪であった。

あったな、という感じだ。「手記」を再読している。読んだ。一年前の同じ日付のものをただ読んだ。「あったな」と思った。(こういう低シンクロ率のとき自分が一体何を何のためにやってるのか疑わしい)(単純な話。一年後の私に現実AだのBだのの相克はない。平和な日本でとても安定した状態である。たった一年後の自分からすら共感を得られない憐れな自分が「手記」の中に凍結されている)

2月16日

「手記」

2月16日

夕景。
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月。満月だったのかな
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подснежники待雪草。
(写真)

なんも言いたくない。二つの現実。私がそれを聞きそれを信じることで「現実」を構成してきたところの声を刻々否み続けることの苦み。あなたは苦しむことで罪の半分を償ったじゃありませんかと言っておくれソーニャ・マルメラードワ。

1年後の今日から振り返って、「このときはこう思っていた~」といくらでもそれらしい言葉を続けていけるのだが、向き合うということは本当はそんな簡単なことじゃないはずだ。いったん書いたもの全部消した。

深い沈潜には心的エネルギーを要する。今は私の状態が悪くてそこまで深く潜れない、ほどほどで止めておかねばならない。「苦み」というのがどういう感じだったのか、当時の自分に同調(シンクロ)してみようとして、なかなか難しかった。

私の状況は、「現実A」に圧倒された挙句、「現実B」のパワースポットに逃げ込んだのだと言える。だからその現実AだのBだのなんやねん、と読者もいい加減嫌気がさしてるでしょうが、こういう言い方を思いついてみた:現実Aとは、思い出というものをもたない、未来についての無責任なおしゃべり。そして現実Bとは、思い出と、今ここにこうしている、という感覚そのもの。私は未来についてのかしましいおしゃべりに耐えがたくなり、「最強の思い出」「最強の今ここ」にみちた場所、私たちのダーチャへと逃げ込んだ。スローガンは「よき思い出とよき現在とに満ちたこの地に悪い未来など訪れるはずがない」。これが私の最後の籠城である。私はいわば、このダーチャで、見え・聞こえ・触れられるものすべてを、自分に居心地のよいものばかりで固めてしまった。そういう時空へと自分を幽閉して、世界あるいは人類との関係を断った。人類から離反した。

人類を裏切ってあることは辛いことだった。人類はまだなんかかんか言っていた。「蜃気楼の町」にも電波は一応入ってきていた。「悪いなぁもう俺は関係ないんだよ」と言いながら、私の中のひとかけらの「人類」が、なお呼応し、疼いたり青ざめたりしていた。

2月15日

「手記」

2月15日

村道。
(写真)

別に言うことない。早く時が過ぎてしまえばいいと思っている。скумбрия、жаркое、ワリエワ重圧の中よく舞った、気の毒な子供。

バッツが勝つにしろエクスデスが勝つにしろとにかく早いとこ終わってしまってくんねぇかな、私らが歴史とか世界情勢とかと無縁の境涯に落ち延びているうちに。……というのが第一文。

скумбрия(スクンブリヤ)は鯖。жаркое(ジャルコーエ)は……一般には「ロシア風肉じゃが」とでも呼ぶべきやつだが、うちでは、スクンブリヤのジャルコーエといえば、コメと各種野菜(にんじん、玉ねぎ等)と大量の鯖肉を壺につめてチーズどっさりかけてオーヴンで焼いたの、まぁ料理名ふうに言えば「コメと野菜と鯖の壺焼き」。懐かしいな。義母の得意料理だ。多分だが、私たちのダーチャごもりの初日だけ、義父母も一緒だったんだと思う。義父は私にペチカの焚き方を教え、義母はスクンブリヤのジャルコーエとかボルシチとか多めに作り置いて、そんで去っていった。残された私たちが義母の置き土産のスクンブリヤのジャルコーエを食べていたのだ。義父の白ワインすすりながら。

そんで北京五輪見ていた。ウクライナのテレビは五輪を中継しないので(それ自体驚くべきことだが。ウクライナ選手自身も当然出場してるのに)わざわざ有料放送を契約した。冬季五輪は私たちにとっては特別なのだ。2014年のソチ五輪のとき私はモスクワにいた。そのためにわざわざ購入したテレビで、私のクヴァルチーラ(お部屋)で一緒にソチ五輪を見るというのが、のち妻となる人とのデートであった。そうしてこの五輪を機に私らは同棲を始めたのでした。真央ちゃん。ソトニコワ。カーリングという競技の魅力を妻から教わり、見事にハマった。女子の日本代表は当時すでに今でいうロコ・ソラーレであった。日本代表とロシア代表を同じくらい応援していた。ロシア選手が金メダルとったら喜んだ。表彰台で流れるロシア国歌もちゃんと聞けていた。かっこいい曲だよなとか思っていた。ユーロマイダンが進行していた。私にとってウクライナはまだ何ものでもなかった。ソチ五輪は2月23日に閉会。3月のクリミア併合で私はロシアを唾棄するようになった。

ソチ五輪はロシアをまだ好きでいられた日々の最後の花火であった。ロシアに対するあの純真はもう私の生涯で回復することはない。8年後の冬季五輪をオデッサ郊外のダーチャで見ていた。ロシア選手を応援することは出来なかった。国歌など絶対に聞きたくなかった。日本とロシアが戦うときは、妻の隣でロシアの惨敗を願う自分と戦っていた。日本の勝利よりロシアの敗北を願う。私の歪みはそれほどの域に達していた。もう真央ちゃん的なものの何もない、トゥトゥベリッゼの兵隊たちの練度比べと化したつまらない女子フィギュアをそれでも見て、ドーピングスキャンダルにあった最新型使い捨て天才少女ワリエワに「気の毒」という言葉を送ることが、私と(私の中の)ロシアの貧しき五輪休戦であった。

2月14日

「手記」

2月14日

ダーチャの朝。マイナス11度。
(写真)

20日まで世界史・世界情勢から隔絶されて過ごす。カーリング女子応援しながら。

率直にいってこの村が戦場になるなど考えるのもバカバカしい。でもたって安全だという根拠を示せとなら、オデッサから十分離れている。攻撃目標になり得るさしたる産業も工場もない。幹線道路・線路から離れている。こんなところでどうだろうか。あと、ダーチャの安全神話の根拠か。そうさな、インフラからの高い独立性すなわち水道・ガス・暖房が公共に依存しないこと、薪炭と食料は少なくとも一冬分の備蓄があり、冬さえ越えればあとは果樹・菜園に生るものを食べてればとりあえず死なない、夏過ぎて秋過ぎて次の冬に石炭をばはや積み果てつということになるまでは詰まない。このあたりでひとつ手打ちに願いたい。

内側からの声として、邦人保護に関する日本の政府、外務省、大使館のはたらきを賞賛したい。館員の皆さまは土日も休まず働いておられる。

(Sさんお読みでしょうか、お気遣い嬉しいです。お返事できなくてすみません。私たちは元気です)

2022年の2月は寒かった。せめて暖かくあってくれよ、と何度思ったか知れない。なんでよりによって(こんな気持ちで過ごさなきゃならない)今年の冬こそこんなに寒いんだよ、と。昭和20年の日本も悪天候つづきで自然災害も多かったとか何かで読んだ記憶があります。

追い詰められたな、と感じていた。一種の悲哀と安堵。これが自分たちの最終状態だと。追われて追われて、ついにもうこれ以上逃げられないというところにまで追い詰められた。そこまで追い詰められてしまったことはすでにしてひとつの敗北であったが、だがこの先これ以上の敗北はない、という確信に安堵を得ていた。世界情勢のエアポケット、うらがわの世界に迷い込んだ。もう何も考えなくてよい。バッツとエクスデス、どっちが勝とうが負けようが、「蜃気楼の町」の住人には関係ない――こんなたとえが誰かに伝わるだろうか。これは今思いついた比喩ではなく、当時そんな連想を持ったのだよ。

寂しかった。冬のダーチャは。内陸部にあるダーチャはオデッサ市内より気温も3-4度低い。オデッサの冬は3度目だったがダーチャといえば「夏の家」であって、冬場は新年祭をみんなで祝うくらいのことしか殆どしたことがなかった。義父母なしで私ら核家族3人だけで過ごすというのも初めてであった。初日に義父にペチカ(暖炉)の焚き方を教わった。あとは全部自分でやった。換気窓をあけ、種火つけ、薪、炭、火かき棒。たのしい労働であった。さびしかった。

2月13日

「手記」を再読している。1日1ページずつ。1月19日から初めて、いま2月13日まできた。

本記事2月24日の項にはこう記すのだろう、と思った:この日私の2022年が始まった。今も私は長い2022年の中にいる。

「手記」2月13日。

2月13日

大使館の人に叱られた。往復ビンタされた。

非常に厳しい口調で退避を勧告された。まだ戦争は起きないと思っているんですか、そこオデッサですよね、もうロシア軍はすぐそこまで押し寄せてるんですよ、砲弾が撃ち込まれてはじめて信じるんですか、でもそのときは死ぬ時ですよ、ウクライナ人と一緒になって戦うんですか、調査によるとオデッサでも市民の半数が「いざ戦争になったら武器をとって戦う」と言っていますよ、戦うんですか、(いや逃げます)、じゃ逃げてください。もう飛行機もどんどんなくなってますよ、逃げたいと思っても逃げられなくなってしまいますよ、電話も通じなくなるかもしれませんよ、大使館とも連絡がつかなくなりますよ、なんで逃げないんですか。(ハードルとして現実感を異にする妻の説得ということがひとつあります)奥さんの命が大事なら説得してください、二つにひとつです、奥さんの命を守るために説得するか、それともここに残って骨をうずめる覚悟をするかです。

私は愚鈍なので有効な反駁のひとつも口をついて出ず、サンドバッグ状態でビンタを8往復くらい食らい続けていた。電話を切ったら膝がガクンと落ちた。

この電話は効いた。先生が生徒を叱るような口調で諭された。この数日の、もう自分は一通り考え切ったのだから心配するのをやめて水爆を愛そう(という洒落はもう使ったのだっけ)、心おだやかに子供を、そして子供を中心とするわがオデッサの日々を慈しむことに集中しよう、と心の努力を傾けて、半ば成功しかかっていた、それが一発で吹き飛んだ。Oという大使館職員である。私の想像では、偉い人。中BOSS級の人。これまで私に電話をかけていた雑兵どもとは一味ちがう。この人には実は2度お目にかかったことがある。メールや電話のやり取りも多かった。割と互いをよく知っていた。その人に、「ロシアの侵攻(あるかも、怖い)」という我が脳髄にすでにして刺さった棘を、半ば引き抜くことに成功していたそれを、改めて深く深くブッ刺された。

この経験からOさんは私にとっては鬼門というか一種の仇敵だったのだが、のち私が出国したとき、私信にてねぎらいの言葉をかけてくれたのもこの人であった。

そうして筆弁慶の私が今になってこのブログ上で(相手に聞こえない声で)いや違うそれはそうじゃないこれはこうだと反論を開始するわけですか。卑劣だね。①それならこの点をどう説明するんですか②それでもロシアが無差別攻撃をするとは思えない=ウクライナ全土が「赤い」というのは過ぎた単純化である③私たちは大丈夫だ。

シンプルにシンプルに記したい。正直この話題はしんどい。①それならこの点をどう説明するんですか。つまり、当のウクライナ政府が今もってロシアによる早期侵攻の線を否定していることを。アメリカは超すごいインテリジェンスをもっているから遥か離れた露ウ国境の情勢についても誰よりよく知っていて、一方、当のウクライナは8年間戦争をしている同じ言語を話す隣国ロシアについてロクな諜報活動ができていなく、危機の実相が全然見えていないというわけか、そんな話があるか。そこで「ウクライナは魂胆あって糊塗しているのだ」と主張するなら、「米国こそ魂胆あって誇張しているのだ」とどうして言えない。オデッサが脅威にさらされているというなら、なんで今げんにオデッサの街中でウクライナ軍のプレゼンスが高まっていないのだ。

この筆弁慶という言葉は小さなファインプレー、良い語を思いついたもの。ふつの人は書くよりしゃべる方が得意なのですけども私の変態性:私はしゃべるより書く方でガチキチ。しゃべりの場ではとんと言葉が出てこないのだが硯をすって紙に向かうと中田敦彦です。

①については、ゼレンスキーに読ませたい。読んで、とある一人の日本人をミスリードしたことについて、謝罪してほしい。ここに書いてあるようなことを考えるのが自然であった。あの状況では人は当然にこう考える。

②それでもロシアが無差別攻撃をするとは思えない。砲弾が飛んでくるまで信じない、信じたときにはもう死んでいる、それはどういう想定なんだ、やっぱりロシアの軍艦が洋上からずどーんと街に撃ち込んでくるみたいなイメージなのか。そもそもロシアの今の国境緊張の創出はどういうモチーフによるものだったか。よくプーチン論文が引用されるが、「ひとつの民族」つまりロシアと一体であるべきウクライナがロシアを離れてヨーロッパに抱き込まれようとしているからそれは許さぬ、ということでこの全てが行われている。ロシア側のレトリックでは14年以降一貫して批判否定愚弄されているのはウクライナ政権(「米の傀儡」)であって、ウクライナ国民ではない。ウクライナの市街を破壊し無辜を殺戮すれば、ロシアは破滅的な自己矛盾をきたす。ウクライナ国民の感情は決定的にロシアから離反し、ロシア国民の感情さえプーチンから離反する。あまりに利がない。あまりにも。All is fair in war、戦争にテンプレートはない、プーチンの頭の中は誰にもわからない?「プーチンのあたまのなか」言説の嘘については下のどっかに書いたから繰り返さない(「脳髄」で記事内検索してください)。能力的にはすべてを行い得る、それだけの兵力火力が集まっている、とはいうものの、では突如ウクライナに核ミサイル100発撃ちこまれるということがあるでしょうか。「そうはいってもさすがにそのようなことにまではならないだろう」という条理による限定は、一切無効なのでしょうか。もちろん否。そうして、無差別絨毯爆撃とかいった可能性を排除するなら、ウクライナ全土が「赤い」(日本外務省による色分け、危険度レベル4(最高)、ただちに退避すべき)などということがあるわけはない。

③私たちは大丈夫だ。というのも、

とはいえ命とか死とかいう単語を交えながら大使館という私とっての権威(お上)から強い口調でいろいろ言われ、その内容を妻に報告したところ、妻も折からの諸々の報道(露語メディアの)を見てこれはさすがに何もないでは済まされないなという感じになっており、今はいったんオデッサから出ておこうかということで、

私らはダーチャに引き移った。とりま20日まで籠っておく。(理論的にはそのまま次の秋までここで食いつなぐことは可能である)

②のアーギュメントは途中までふんふんそうよねと読めるのだが「ロシア国民の感情さえプーチンから離反する」のところに完全な錯誤というか読み誤りがあった。こんなん指摘するまでもないか。


Oさんからのこの電話は、直接には、この数日前に私が大使館宛てに行った照会へのアンサーであった。私は「ベラルーシとロシアの合同軍事演習が避難勧告の強化につながったものと理解していますが『合同軍事演習の敢行と危険の高まり』には論理的連関がありますか?」と聞いていた。質問のための質問ではない。自分にはそこのところのつながりが見えなかったのだが私に見えていないだけで実際に危険は高まっているといえるのだとしたらそれを教えてほしい、それを踏まえて出国の是非を再検討してみる、という極めて実践的な問いであった。それに対してOさんが書面ではなく電話で回答してきたかたち。「まだそんなこと言ってるんですか?」と。もう「出国の是非を検討」どころの段階ではない、一も二もなく出国だという。

いつの間にそんなことになったんだろう、と思った。ついこないだまで「日本の報道でいろいろ言われてますけどロシアの侵攻本当にあると思っといた方がいいでしょうか」とか突いても「メディアはそら騒ぎ立てるのが仕事ですから、外交交渉が続いているということ、それが全てですよ、心配には及びません」とかうそぶいていた、同じOさんの、この豹変ぶり。ずっと言っていた。ずっと門を叩いていたと思う。公開情報、つまり高官声明とか報道に依拠する限り私を説得することは不可能ですよ、私のようなやつをケツ叩いて立たしめるためには、機微な情報をください、私は何もそれをブログを通じて世間にチクったりなどしませんから、この一人の邦人(とその家族)の生命を救うために、外交上の秘密に属することでも、打ち明けてください、私にそっと耳打ちしてください、と。それが結局、独自情報なのか何なのかもわからない、恫喝というかたちに帰着するのか。

この電話の効果は2つあった。1つ:私は大使館に対して基本的に心を閉ざした。1つ:私の「現実B」は、完全に敗北した。

「ロシアの侵攻」という想念による、私の脳髄の侵略は完了したのだ。そうしてダーチャに避難した。私たちの2月24日以前の日々の(いわば「2021年」の)最終章がはじまる。

2月12日

「手記」によれば、こうだ。

2月12日

バスで隣町に出かけて人と会ってきた。
(写真)
オデッサの有名なポチョムキンの階段……を模したもの。本家より美しい。

ロシアの侵攻は空爆とミサイル攻撃から始まる公算が大だ(likely to begin with aerial bombing and missile attacks that could obviously kill civilians without regard to their nationality)とサリバン先生。ロシアのデモナイズが今回は過ぎたのではないか。どうしてロシアがそのようなことを行い得るか。プーチンとその軍がではない、ロシアがだ。一方的な攻撃により市街を破壊し無辜を死傷さすようなことがあれば、黙っていないのはむしろロシア側の世論だ。プーチン論文を待つまでもなくロシア人とウクライナ人は兄弟だからだ。空爆だのミサイル攻撃だのによる無差別破壊と殺戮をさえ正当化あるいは無かったことにできるほどロシアのプロパガンダマシーンは完成されているだろうか。その感化力は、市井のロシア人がウクライナに持つ親族や友人たちの直接の訴え(私の言葉では、現実B!)を凌駕し得るだろうか。思わない。あり得ない。

同様に、日本外務省がウクライナ全土の危険レベルを一律に引き上げ、ウクライナの地図を真っ赤に染め上げたのも、今回は単純化が過ぎたと思う。キエフとハリコフとオデッサとリヴォフが、あるいは私らのダーチャのある農村とかゴーゴリのディカーニカ村とかが、どうして同じレベルで危険ということがあるか。現実の地図はもっとよほど玉虫色だ。

こういう過ぎたメッセージというのはナラティヴそのものへの信頼を失わせる。このナラティヴにおいては現実直視よりもある種の魂胆とか事情といったものが優先されているのではないかと疑わせる。私は信じない:①サリバン先生のお言葉に反して、ロシアが同胞殺戮の蛮挙にあえて及び得るとは信じない。②日本外務省の色塗りに反して、我が住む街オデッサ、及びそこから内陸40㎞の農村に至る動線が「赤い」とは信じない。

さっきから頭の中で鳴ってるのは「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し」という言葉だ(日本国憲法前文)。こんなこというと平和ボケ野郎お里が知れたぜと言われるのだろうな。そう考えると私がこうして残留を決め込むのも、国家とか政治とかいった下らぬものが市民の生活と幸福という崇高なものを蹂躙するという現実を断固拒否する、一種の反抗の身振りといえなくもない。(※そう言えなくもないということと、それそのものであるということは違う)

あれは1年前の今日のことだったのか。マルシュルートカに乗ってチェルノモルスク(イリイチョフスク)に行った。日本人女性のMさんと霧の中を散歩して、グリズリーという店で昼からビールを飲み肉塊をむさぼった。オデッサにはない大きなビーチがあった。そしてオデッサのポチョムキンの階段を模して作ったという、本家より美しい大階段があった。

私において、空爆という言葉の連想は、小中学校の教育による刷り込みで、「B29による焼夷弾の雨」であった。Mさんもそうだったようで、「空爆が行われる」というニュースにビビりまくっていた。Who am I to say「なぁにメディアが騒いでるだけですよそんなこと起こりませんよたぶん」。言えるのはこれだけであった:自分がついに出国を決意することがあったなら、あなたには前もって必ず伝えます。

それにしても「ロシア人とウクライナ人は兄弟」というレトリックが好きだったことだ。世界が単純に見えていた。のち侵攻が始まってよく分かったことは、「兄弟」説に負けず劣らず、ウクライナ人への差別と侮蔑の意識もロシア人の中に相当根強いということだった。そうして人間というのはドナルド・カーチスが思うよりもう少し複雑で、同じ一人のロシア人が同じひとつのウクライナ人(※集合名詞)のことを時によって兄弟だから抱擁すべしとも叫ぶし、時によって辮髪族(хохлы)滅ぶべしとも叫び得る、ということだった。

2月11日

「手記」によれば、こうだ。

2月11日

オデッサ名物ロープウェー。子供と乗った。
(写真)
ひとつひとつの籠に可愛い塗装、カラフル、おもちゃみたい。3分間の空の旅、運賃は320円とこちらとしてはかなりお高い、移動手段でなくアトラクションという位置づけ。

今日の黒海。
(写真)
この海の向こうからロシアの軍艦がやってきて私たちは殺されるのでしょうか。「海は広いな大きいな、行ってみたいなよその国」とこの海へいつも太郎と歌うのですが。あの青い水平線へと私たちが漕ぎ出ていくのでなく、水平線の方こそ捲れ上がって私たちへと迫ってきて(進撃の巨人「地均し」)、街は不可避の蹂躙を受けるのでしょうか。

日本外務省はウクライナの地図を真っ赤に染めた。赤い字で「直ちに退避してください」と記された。「事態が急速に悪化する可能性が高まっています」(ウクライナの危険情報【危険レベルの引き上げ】)
大使館員から電話も来た。先月24日以来実に5度目。お互いすみませんすみませんと謝る。しつこく電話して済みませんご事情お立場は承知しておるのですが東京(本省)の方が言ってきてますものですから、とそこまでぶっちゃけてしまうのもどんなもんだろうか、対するこちらもすみませんすみません再三にわたりお電話をいただきお手数をおかけしまして。そちらお変わりないですか。「はいオデッサは平穏そのものです」「はいこちらキエフも」

わからないのだ。ヒステリックなバイデン米にかわって欧州の方が外交交渉の前面に躍り出てきた観があってマクロンGJ、これこそправильное русло、終末時計の針は少し巻き戻ったのではないかと思ったこのタイミングで危険レベルの引き上げ。このかん何があった。何がって、ウクライナ国境付近でロシアとベラルーシの合同軍事演習が始まりました、それ以外にない。だが国境付近で軍事演習が始まったから危険が高まる、というのが(一見したところのもっともらしさに反して)理屈として私にはちょっと飲み込めないのだ。これまでは底意不明に巨大な戦力が結集していたからこそ不気味で怖かったのであって、軍事演習という明確な外形的動作がともなっているのであればむしろ了解可能・予見可能性は高まったのではないのか。しかも一国でなく、外国との合同軍事演習なのである。いかにルカシェンコベラルーシ露傾化といえども外国同士、示し合わせて「演習と見せかけて攻め込んだろ」みたいな挙に及び得るものか。ベラルーシと組んでいよこそ世界を敵に回す?そのベラルーシはそれこそ西国境でNATOそのものと直接面接しているのであるが?まして五輪開催中に、中国のごきげんを損ねてまで。ワリエワのドーピングスキャンダルを挑戦状ととってперчатка брошена、よっしゃ西側やったらあと逆ギレか?

この「日記」おっと「虚構日記」に再三書いているように、私はロシアによる侵攻が行われないことに賭けているのではない。仮にロシアによる侵攻があったとしても私たちは残る。それについては一応考え切ったつもりだ。外務省が地図を塗る色をかえたという一事をもって翻意するようなことはない。ただし、理解はしたい。自分に多くの盲点がある可能性はすすんで認める。とりあえず外務省の今次の退避勧告強化の根拠になっているとおぼしい「合同軍事演習と危険度の高まり」の論理的連関について書面で問うてみる。

1年前の今日はロープウェイも動いていて、子供と浜に降りることができた。あの日々は失われてしまった。私たちがオデッサを後にしたから失われたのでない。すべての人にとって失われたのだ。(降りたいとき浜に降りることはオデッサの人の基本的人権であった)

在ウクライナ日本大使館から電話が来るのはもうルーティンであった。館員は職務としては危険が迫っているから逃げてくださいと言い、ただ生活者としては「何も変わりのない日常です」としか言えないのであった。

「わからないのだ」から始まる長い段落は私の悪い手癖(さかしら)が出ていて好きでない。だが言ってる内容は当時自分なりに考えたこと・感じたこととして尊重に値する。①米バイデンのお騒がせ声明でなく、仏独ら地域の安定に直接責任のある大国が交渉を活発化させた(いわば、局外者の空言から当事者の実務へ)という局面の変化を見て取り、これを歓迎した。②露ウ合同軍事演習に私は一種の安堵を覚えていた。この感覚は、のち出てくる2月21日ドンバス進駐宣言by頓風珍によりシナリオが明確になって「安心した」という逆説にも通じる。私の不安の淵源は「分からない」ことだった。「ロシアの侵攻」という観念によって(物理的侵攻に先立って)すでに侵略を受けていたわが脳髄は、その「侵攻」が脳の外部に部分的に具現化するたびに、奇妙な軽快を覚え……ていた……のだ。うん、そう言っていいと思う。もちろんその新たな状況の実現によって行為者としての私は新たな重荷を引き受けるのであるが。

なお、「西国境でNATOそのものと直接面接している」ベラルーシが、自身は決して参戦せず、ただ露軍に策源地(そして訓練場)を与えることで侵略戦争に寄与もとい加担したことはご承知の通り。いま噂されている1周年攻勢でも、ベラルーシの直接参戦はまずないだろうという見込みだ。

「合同軍事演習と危険度の高まり」の論理的連関について書面で、つまりメールで大使館に質問した。どう理解したらいいですか? 自分は合同軍事演習の開始によってむしろ不安の軽減を覚えているんですけども、この感覚まずいですかね? こうメールを投げて、その返事として、13日の電話で「往復ビンタ」されることになるのであった。

2月10日

「手記」

2月10日

旧市街にあるパサージュ
(写真)

ユダヤ文化センターで子供を遊ばせてきた。協調性が全然ない。自由過ぎる。無双過ぎる。(子供を折檻する母親見て暗澹、色んな親がいる)

朝一でフィギュア男子シングルフリー、羽生の入魂の演技、闘う男、鍵山君もすばらしい。ネイサンはなんか腹の立つ構成、前~中盤は低速かつ跳ぶぞ跳ぶぞでマイペースに跳びたいだけ跳ぶ、んで勝てるだけの点を稼いでもう勝負を決めてしまったあとに終盤まるでエキシビジョンかなんぞのようにはっちゃけてやりたい放題ダンスダンスダンス。しかも(実況解説によると)自分の本業はイェール大学における学業だとか心得てるらしい。まぁ欧米ではわりと文武両道オリンピアン珍しくないと聞くが。てか二足のわらじを履くことをなんとなく悪徳とみなす(逆に一意専心・全振り・背水の陣を美徳となす)日本が異常か。
それでお次は女子カーリング(そもそもそのために有料放送契約したところの)を見たかったのだが私らの加入した有料放送は女子カーリングに冷淡であることが発覚して愕然、2つある五輪専門チャンネルのうち今日明日明後日まで女子の試合ひとつも放送しない(男子はある)、急遽VPNでNHK見ることにした、そのためになんかいろいろ七面倒くさいことをした。

要はこれはどういう事態かというと、戦禍を逃れて今日明日にも退避するべき人間が、五輪(20日閉幕)を楽しむためにといって、有料放送やらVPNやら、せでもの出費をあえてしたということだ。さらに前段、子供の社会性強化も、近々幼稚園に入れることを見越してのことだ。その日その日を生きることはできない、中長期の残留を前提としたもろもろのことに手を染めている。

先ほど外務省からきたメール↓
(スクショ。割愛)

このころ私らは子供の社会性強化の必要性を喫緊のものに感じていて、というのも、どの子もそうだと思うが、2歳とかそのくらいでは公園で同年配と出くわしても相互反応を示さず、遊ぶといっても自分の世界で、「みんなぼっち」状態。それをあきたりなく思い、みんなで何かするということ、この世界には自分以外にも子供たちがいてその子らと共同して何かすることには一人遊びでは得られないような楽しさがある、ということを学んでほしく思った。目指されるのは保育園への入園で(2歳から受け入れてくれるところはわりとあった)、だがそれに踏み切る前に、1時間いくらで子供を遊ばせてくれるちょっとしたお教室に通わせることにした。評判のよいユダヤセンター(еврейский центр)がやってるそういうプログラムに、この日たぶん初めて、連れていった。

VPNでNHKに関しては、VPNでNHK見ながらお茶をVMP(вы-пи-ем)という洒落を思いついて一人で北叟笑ったが誰にも伝わるまい。ツイッターで呟いたら一人くらいからこいつめっちゃ面白いやつと思ってもらえるだろうかとかなり迷ったがけっきょくつぶやかなかった、のを覚えている。

2月9日

「手記」を再読しながら、ウクライナ戦争がどのように始まったのかを思い出してみる。1年前のこの日私は何を書いていたのか。

2月9日

nothing new under the sun
(写真)
泰平の惰眠をむさぼる猫寝子猫
(写真)

「ロシアによる侵攻」はまたとない今だ。その今をよく感じよく見ておかなければならない? だが我が子2歳半、これもまたかけがえのない今だ。「今が一番かわいいときじゃないですか」「よく言われる言葉ですけど、私の実感をこめて改めて言います、本当に一瞬ですよ」
どちらがより私にとって大事か。どちらに集中するべきか。分かり切った話だ。
もちろん、ふたつめの「かけがえのない今」の条件を破壊しかねないのが前者の事象であるからは、前者にも注意を向けざるを得ない。なるほどliving is easy with eyes closedというやつで政治一切に対して目をつぶり、それを主観の中で完全に消去したまま幸福な一生を送ることはできる、その人は黄泉で「政治というものは私に一指だに触れることがなかった」と誇語し得る。だが政治というものがいやおうなく個人生活に介入し本来神聖不可侵のはずの個人の内的宇宙にまで破壊的ゆさぶりをかける(ひどい場合にはこちらの存在の方を消去してくる)のが戦争という特殊状態であろう。それに対しては「目をつぶる」ことももはや有効な防衛手段にはなり得ない。
有効、なのである、ふつうは。見ないことでその存在を消去する、というみぶりは、実は国家だの政治だのという大きなものに対しても大抵の場合は成立する。しかし、それがもはや通用しないような極端な、例外的な状態が生起しかねない。「みんながないというから、ない」から、「みんながないといったのに、ある」への相転移。
……と、こうして語れば語るほど、むしろその語ることによって、いわゆる「現実A」に加点を施してしまう。観測行為が観測対象に影響を与える。ここで

(1時間が経過)

書いていたら子供が起きてきて全部バカらしくなった。おーい、がんばれ西側、私の「現実B」を防衛しろ。(というのは現実Bの側からの冗談)

nothing new under the sunは聖書の言葉だそうだが何からこの言葉を知っただろうか直接の出典は定かでない。私が失い、オデッサが失い、ウクライナが失った海と浜辺にこの日も平気で降りていた。相変わらず週に8回浜に降りて今日の海はこんな色かと眺めていた。太郎が一緒であったなら定めし海は広いなを歌ったことだろう。

いま2歳半ですか、かわいい盛りですね、でもね一瞬ですよその季節は、というこの言葉は、まさに前の日会っていた日本人夫婦から言われたものであった。この夫婦には男のお子さんが一人いて、ちょうど成人を迎えたと言っていたから、3歳(かわいい盛りの頃)はご夫婦にとってもはや遠い過去。だが「後悔はない」と言っていた。本気で向き合ったから、3歳の息子とも、4歳の息子とも、5歳の息子とも。ずっと本気で向き合って、一秒だっておろそかにしなかった。だからその季節が過ぎ去ってしまったことを悔やみはしないよと言っていた。(こうした言葉を今も拳々服膺しています)

同じように太郎と専心向き合うためには、「ロシアの侵攻」などいかにも邪魔だった。それが現実に起こることというより、この時点では、そういう想念。すでにして私をむしばんでいる、ロシアがいまに大規模侵攻をかけてくる(そうして私たちは運命を狂わされる、住居を破壊される、死ぬ、etc.)かもしれぬという想念。それがいかにも邪魔であった。

私は元文学青年で、これはまこと文学青年らしい手つきなのだが、政治とか国家とか、経済とかビジネスとかお金儲けとか、そういうのを言葉の上で見下してみせることが好きだし、実際どこか、今も本気で、高貴にして神聖なのは俺の魂ただ一つであってその余のものは悉皆下賤であると信じている節がある。自分の魂は世界を容れる器であってその逆では決してないと。ノリ・メ・タンゲレ、これも聖書の言葉だったよな、「私に触れるな」。そうだ、これはあるな。誰か他人(ども)のしたこと言ったことによって自分の精神がさざなみ立てられているという状態が、私には根本的に不快なのだ。ロシア軍だとかプーチンだとかいうゴミ粒のことをダシにやいのやいの人群が騒ぎ立て、それによって現に私の心にさざなみが立ってしまっている、それが不快だからこそ、私はたえず「現実B」へと送り返される、自ら進んでそこへ送り返されていくのだ。そういうところはあったろうと思います。何言ってるか分かりますか。

もちろん、それが「現実B」のたった一つの成立要件ではない。主たるそれですらない。「現実B」へと私が立ち返るためには、たとえば寝てた子どもが起きてくる、という一事で足りた。

2月8日

「手記」2/8付にはこうある。

2月8日

長くオデッサに在住しておられる日本人のご夫妻と夕食をともにした。「二つの現実」の話。しかも一つの現実が彼らの右足を引っ張りもう一つの現実が彼らの左足を逆方向に引っ張る力は私におけるそれの比ではない。要は彼らは両方の現実に(私と違って)たくさんの知友を持っていて、一方の「何してる、そこ危ないぞ、戦争が始まるぞ、早く出ろ!」という命令に近い勧告および泣き落としの訴求力と、他方の国境緊張なにそれ美味しいのという春風駘蕩の感化力が、私の計測だと1600メンサーハンほど乖離している。つまりは私のメンサーハン値の約7倍。
とはいえ実践的には自分の中でどちらか一方の現実に勝ちを与えて去るか残るか態度決定をしないとけない。ロシアに利を見込めない、ますます活発化している観のある外交交渉への期待、米には米の思惑(ネオコン陰謀説ほか)、日本は米に追随しているだけ(報道も、在留者への退避勧告についても)、万一何かあるとしてもドンバスであろう、最悪でもキエフであろう、最悪の最悪でオデッサにまで戦禍が及ぶとしても、自分たちには後退の道と防衛の構えがある……こういった諸アーギュメントによって弱体化した「現実A」に、「現実B」を改めて対置させてみたところ、申し訳ないけど「現実B」の圧勝、というのが、要は私とご夫妻の頭の中で演じられている角逐の劇の様相だ。
一つの現実しか持っていない人に二つの現実の話をすると「そのもう一つのほうは虚妄だよ(目を覚ませ)」という話にどうしたってなる。現実Aのほうはしかし伝播力があり、現実Bにのみ生きる人に改めて現実Aを教える(教えて、染め上げる)ことは可能だ。だが逆に、現実Aにのみ生きる人に現実Bを教えることはできない。現実Bは言葉での伝達に向かない。それは持ち運び不可能で、この土地から根を離れるとたちまち枯死する。

このご夫妻というのは、2月4日に出てきた人と、その奥さん。両方とも日本人。オデッサ中心部フランス大通りの中華料理屋さんで一緒にお食事した。チンジャオロースとか、豆腐を使った何かとか、いろいろおいしかった。厨房は多分中国人で客もみんな中国人で、ホールだけウクライナ人という奇妙な状況だった。(ちなみにオデッサには中華街はない。だが中国人による中国人のための中華料理屋みたいなのは街中にぽつぽつあった。ほんでオデッサには中国領事館があった。つまりそれなりのボリュームで中国人は存在した。通りを歩いていて「中国人!」と揶揄されるのは在留邦人のあるあるだった)

わりによく書けていると思う。「国境緊張なにそれ美味しいのという春風駘蕩の感化力」「こういった諸アーギュメントによって弱体化した『現実A』に、『現実B』を改めて対置させてみたところ、申し訳ないけど『現実B』の圧勝」「現実Bは言葉での伝達に向かない。それは持ち運び不可能で、この土地から根を離れるとたちまち枯死する」。やたら心配してるらしいわが実父とかツイッターで私ら在住者に中傷もしくはおためごかし言う人とか「手記」読者の皆さんとかはさしずめ「現実A」のみに生きる人なんだろうと想像していた。この人たちは私とかを見ていて大変もどかしいのだろうな、どうして分からないのだろうこんな明らかな危険が迫っているのに、どうしていちはやく子供を連れて逃げ出さないのだろう、と訝しんでいるのだろうな、ということも分かっていた。私に可能な反証は、しかし、ほらこれですよと掬ってみせたら霧消してしまう。提示できない。言葉にすると「街は平穏そのものですし、人たちも誰も『ロシアの侵攻』のうわさなど本当にしていませんよ」みたいなことになって、それは「そら正常性バイアス!」「過去のすべての戦争も天変地異もそれが起こる前日は平穏だったのだ」「今日の平穏はそれが明日も続くことをいささかも保証しない」とかいった強い言葉に簡単に搔き消されてしまう。だが……言葉にさえしなければ、ただ静かに黙って勝っているのであった。しか勝たん的な感じで勝っていた。このいわゆる「現実B」は。

2月7日

「手記」

2月7日

白樺と池の氷。
(写真)

飯時にジャンプ混合団体というのをやっていて日本の高梨沙羅を含む数人が失格処分で、実況はコスチュームがどうのといっていて、なんかいろいろちゃんと説明してくれないのでわけがわからなかった。あとでニュース見てようやく理解したのだが、要は……いや、いいか、こういう話は。
要はスキーのジャンプは空気抵抗のアートなのだ。葦のような人間が葦のような板を履いて、しかしそのトポロジカルには一本の棒が、可能な限り向かい来る風に対して面を開いて、いわば「帆を張って」、なるべく空気抵抗を多く受けて滞空時間を長引かせる=飛距離をのばす。足首をあんなに無理な鋭角に曲げて板を風に対して立てるのも、手の十指さえめいっぱい伸ばしてみせるのも、すべては人間というか細い葦が開かぬ帆を無理と開かせようとするいじらしき(いじましき)努力なのだ。「私は凧!」と念じながらジャンパーはジャンプするであろう。
だから想像するに、バスケとかバレーにはとにかく上背のあるやつが向くように、スキーのジャンプに向く体格とは、すなわち平たいこと、正面の面積が広いことだ。胴体の横幅が広く、上背もそれはあったほうがよく、手の平さえ広い方がよい。たとえばジャイアント馬場のような人が誰よりよく帆となることができたのではないか。もちろん一級の技術を身につけることを前提として。
でもあまり空気を含みすぎてイカロスのように舞い上がってしまってもいけないから、話は実はもっと複雑で、スキーのジャンプとは空気抵抗を極力受けつつ同時にそれを切り裂いていくという相矛盾するふたつのことを同時に行う複雑精妙なアートなのかもしれない、と呟いて私が通ります。

何も言うことがない。その日も池の氷は凍っていた。北京冬季五輪が行われていた。

2月6日

「手記」

2月6日

見よこの海の青。Ah, 美代子。
(海の写真)
晴れの日に何はなくとも海に出てくるオデッソス民。

北京五輪は昼飯時にアイスホッケーの日本vs中国がやってたので少し見た。延長で決着がつかずサッカーでいうPK戦みたいなのになり、それを中国が制した。サッカーはキッカー絶対有利で基本入る、それをGKがいかにセーブするかの勝負だが、アイスホッケーはどうやら逆で、何しろゴールが狭くて着ぶくれたGKがデカいからねえ、基本入らない、そこを攻撃側がいかにシャイバをねじ込むかの勝負であるように見受けた。

こういうときにしか見ない競技種目をこれ何だろうねあれどうなってるんだろうねと推理あるいは妄想しながら見るのが楽しい。(ロシア語の実況は初心者向けにあんまりルールとか戦術とかの解説はしてくれない、そこが日本の放送と違う)

いま(2023年2月のこの今)、ウクライナのメディアでは2月のロシア軍の大攻勢について様々な予測が出ている。ロシア軍が2月に大攻勢をかけることはほぼ確実視されていて、あとはそれがいつ、またどのように行われるかが議論されている。このような情報環境であれば、そのときにOh美代子の海とか五輪アイスホッケーおもしろいねとか言ってる在留邦人は、完全にバカであろう。まったく腹立たしいバカ。皆さんにはそう見えていたわけですか。このように皆さんには見えていたのですね、それでヤアヤア言っていたわけですか。今ごろ納得です。

だが言っときますけど、この2022年2月だって、私はウクライナのメディアで情報とってたのだ。それによればロシアの侵攻は規定の路線でもなんでもなかった。皆さんは日本語メディアだけから情報とってたからロシアの侵攻は規定の路線としきゃ見えず、それで私がバカに見えたんです。結果的に侵攻はあったし、ということは2月初旬の時点でロシアの侵攻は事実として規定の路線であったわけだが、でも「だからやっぱりお前はバカだったのだ」ということは言えないはずだ。もういいけど。

2月5日

「手記」

2月5日

バカの考え休むに似たり。それが今の私に一番似合う言葉のお洋服だ。おしゃべりもええ加減にせ。

猫(写真)

オデッサは猫の街で街にも海にもいっぱいいる。カリカリだの肉魚の要らない部分など誰彼撒いてくのでどいつもよく肥えている。

五輪
北京オリンピックでも見ますかな、と有料チャンネルに加入した。※日本人の感覚だとテレビつければ五輪くらいやってるのが当たり前という感じがするがウクライナでは普通のテレビでは五輪はやらない。自国選手だって出場してるのにと実に不思議な感じがするのだが、要はお金がなくて放送権が買えないのだと思う。東京五輪もEUROのときもわざわざ有料放送契約して見た。今回も。
目当ては10日からの女子カーリングとフィギュアの男子女子シングルだが飯時に(そのときやってるものを)ちょいちょい見る。この日は女子のジャンプを見た。実に不思議な種目。いろいろ全然わからない。でもそれがおもしろい。(誰が勝つとかはどうでもいい)

珍名五輪
(※割愛。)

「今の私に一番似合う言葉のお洋服」は、中原中也「今日の日の魂に合ふ/布切屑をでも探して来よう」(秋の一日)から。猫はうじゃうじゃいる。猫にだけは事欠かない街だオデッサは。今でも私らの住まうここ日本の東京の三多摩某市を歩いていて猫にいきあうと、妙な話だが、「あっあのオデッサにうじゃうじゃいる生き物が珍しくもここ(日本)にいる!」という感想が走る。

2022年! その2月に北京五輪があり、11月にサッカーW杯があったのか。到底同じ1年のできごととは思われない。北京五輪は私にはとてもありがたかった(それを見ている間は私が「ロシアの侵攻」を忘れていられたために)が、サッカーW杯カタール大会は私には徹底的に不愉快なイベントであった(それを見ている間は世界の人がロシアの侵攻を忘れていられたために)。

2月4日

「手記」にはこうある。

2月4日
とある日本人の方と会って親しく話した。ともすると話題は「ロシアの侵攻」に振れた。私と同じ温度感の人。気にする、大いに気にする、報道も見ている、その上で残る。一方には日本語メディア他の情報の棘、一方には全く平静そのものの現・地・人(その方は私の数層倍現地のさまざまな人と密な交流を持つ)。奇妙。不可解。じつに不思議な感じ。(そうそう、ほんとそれ)

二つの現実。米英日、露、そしてウ、すべての語りにつき、こいつはこれこれの理由でウソをついているのではないかと疑える。そんな中で何が確実に汲むに足る・考慮に値する事柄か。まず、ウクライナ国境付近にロシア軍の大勢力が結集していること、この事実は疑う必要がない。他方の秤に乗せるべきは、やはりロシアが大勢力をもって隣国に攻め込むことの合理性と現実性(の健全な理性による否定)ということに尽きると思う。私にはそんな合理性・現実性があるとは思えない。それが十二分に感得できていれば今頃本当に帰国してるだろうと思う。注1:そんなものはお前の揣摩など及ばないプーチンの脳髄の中の価値観・世界観次第ではないか、という類の「プーチンのあたまのなか(はわからない)」言説はミスリーディングな部分があると思う。プーチンはそんなになんでもかんでも専断できる権能を持ってるのでしょうか。絶対専制君主プーチンによる完全垂直統治国家というステレオタイプに反して、ロシアという巨大な国家の舵を取るのは複数(少数ではあれ)の脳髄と多数の関節であるはずだ。注2:ロシアの側に合理性と現実性がなくても国境に攻撃側のみならず防衛側の戦力まで集中してきている現状では「偶発的」衝突により大規模戦の戦端がいつだって開かれかねない危険があるではないか?はい、同意。だから国境付近への戦力集中は少なくとも確実に考慮すべき事柄だと言っている。

一方、これらことがらの内部にではなく、その大外から、この全構造を相対化(中和)しているのが、平穏しごくの街と人である。もう一度いう、内部にでなく、外部から。(これをもって前段落冒頭の「二つの現実」のカッコが閉じる)

先日ブラック何丘という人が「この日々、ウクライナ在住者なかまの存在様態を嫌悪していた、彼らのすること言うことに共感できるものが何もなかった」と書いていたが、ここに出てくる「とある日本人の方」は、その唯一の例外であった。

この「とある日本人の方」は50代の男性で、オデッサにもう20年住んでいる。私は数字に弱いので間違ってるかもしれません。ロシア語はペラペラ。現地にたくさんの友人を有している。これ以上詳しく言うのは避ける。

私がこの方を識ったのはオデッサ生活も本当に終盤になってからだが、もっと長く、深い付き合いをしたかった。この方との短い交際で私が得たものは2つある。ひとつは、同じ時空で同じ懊悩を抱えた人と親しく言葉を交わすことによる、大いなる慰謝。まことに得難い話し相手であった。たぶん互いにとってそうであった。いまも、「手記」上に残っている「二つの現実」をめぐる私の全ヴズドール(妄言)を完全な共感をもって理解できる人は、たぶん地球上にこの人しかいない。

もうひとつは、子育てのアドバイス。当時も今も私の最大の関心事である太郎育てについて、日本語で本質的なアドバイスをくれた人は私の人生でこの人が最初の人であった。その教えのいくつかは、折々思い出す、どころか、ほとんど拳々服膺している。たとえば、「子育てについて、夫婦でとことん話し合うこと」。言葉にすると何でもないようなことだが、それがどんなに大切で、また失われやすいことか。

ことばの注釈:平静そのものの「現・地・人」とあるのは、現在(時制)この地(場所)そして人たち、のこと。この現在は静かですし、オデッサの街は静かですし、人たちも冷静です、みたいなこと。妙な言い方をしててすいません。

この2/4の記述は、「二つの現実」というのが何と何のことなのか、はじめて示すことに成功していると思う。①侵攻あるか②侵攻ないか、この二つが対立しているのではなくて、①侵攻あるかそれともないかという議論②議論の不在(静穏そのものの日常)、この二つが対立している。あるいはこの二極に精神が引き裂かれている。

↓「手記」後半。

ぼくのこわいもの
こわいもの(こわい順)
⑴大規模戦争(核ミサイル、無差別爆撃、化学兵器の使用etc)
⑵局地的戦争(ロシア軍のオデッサ侵攻、両陣営によるオデッサ市街戦)
⑶暴動、騒擾(14年)
⑷生活インフラ麻痺(電気、ガス、水道、インターネット使用できず)
⑸出国したくてもできない

⑴の実現は信じない。実現したら基本的に死ぬことを覚悟するほかない。だが⑴を恐れて帰国する人は、同じ理由で、首都直下地震を恐れて東京に住むべきではない。

⑵ロシア軍は(もしかしたら一部の人が持っているかもしれない狂気の大量破壊者・殺戮者というイメージに反して)合理と規律に基づいて行動する。彼らの戦略戦術目標付近で抵抗ないし妨害的行動をとれば実力排除されるではあろうが、それ以外の理由で弾を撃たれることなど考えにくい(まして私たちは彼らの兄弟なのだ)。しかし両陣営がバチバチ砲火を交えるとなれば、がぜん流れ弾でおっ死ぬ可能性が出てくる。(オデッサがロシア軍とウクライナ軍の戦場に……考えるだに胸が苦しい。)何しろ私らは、そうした兆候をつかみとったら全力・最速でダーチャに逃げる。この「兆候をつかみとる」ことには最大限に感度を高めるべきだ。ただ現状、少なくともウクライナ軍のプレゼンスがオデッサの街中で高まっているという事実はない、と断言する。14年にはそれがあった。そのことがオデッサ市民の楽観(「緊張は14年ほどにも高まっていない」)のひとつの根拠になっている模様。

⑶軍人以外の人間がバーサク化してしかも集団化して暴れ回るという恐ろしいシナリオ。彼らは合理と規律に基づいては行動しない。おっ珍しき外貌のやつ、この中国人め、なんとなく死を!とて私に鉄槌が振り下ろされる可能性もある、なんでもあり得る。対策1:まず前提として、私たちはウクライナの独立と尊厳のためにであれ、解放者ロシアを歓呼して迎えるためにであれ(たとえばですよ)、政治的熱情にかられて街路に出るなどということは絶対にない。私にも妻にも政治的立場というものがなくはないが、そんなもの(国家だとか世界秩序だとかいう些事)よりも我が身と子供の安全の方が百億倍大事であるという点では夫婦が完全に一致している。対策2:外に一歩も出ないで沈静化を最大10日~2週間程度待てるだけの蓄えは私たちの今いる街中のアパートにもある。対策3:隙を見てダーチャに逃れることさえできれば一冬越せるくらいの蓄えはある。
なお、政治集会が開かれて、親露派市民と反露派市民の暴力的衝突が発生しかねないような場所には、ある程度の目星をつけることが可能だ。私らはそれなりにこの街の地理と地誌をよく分かっているつもりで、この近くで何かその種のことが行われるとしたらここあるいはここであろうという見当がつく。それらはいずれも陋居からそれなりに離れており、かつ、私らがダーチャへ逃れるための動線を外れている。

⑷インフラのダウン。これを想定した備蓄をしている。ただ、長期(たとえば1か月程度)にわたって生活・生命維持に直結するインフラが停止するというシナリオは排除していいと思う。インフラがダウンしたとして、ロシア側はもちろん関与を否定するであろうが、どんな否定の身振りをとったって、この状況ではロシアがサイバー攻撃を行ったということにどうしたってなる。真冬に電気やガスや温水パイプラインが停止することの破壊的影響をロシアはよく分かっているはず。分かっていてよくもこのような非人道的な攻撃を市民たち(お前たちの兄弟たち!)に対して行えるなと、国民感情は決定的にロシアから離反する。そのようなことがロシアの望みであるはずがない。ちなみに、万が一全インフラが一冬にわたりダウンした場合であっても、なお私らはダーチャで生き延びられる。

⑸航空便の欠航。大使館が「商用便が動いている今のうちに出国を」と訴える根拠だ。一時的に逃げたくても逃げられないという状況が発生することは折り込んでおかねばならない。だがそんな状況が永続するはずはない。ダーチャで耐久しているあいだに逃走手段は回復するであろう、と楽観している。

お前がそんなに頼りにしているそのダーチャの存する農村こそが川中島に、つまりは戦場になったらどうするんだ? ――そのようなことはおよそ起こり得ない、と思う。そんな予断が死を招くぞ、そんな無根拠な楽観なんかして、妻子に対する責任とか感じないのか? ――逆に問うが、君は外出の前に今日きみがおもてで気のふれた暴漢に刺されて死なない理由を10個数え上げてからでないと安心して靴も履けないのか?

(最後にもう一度言っておこうか、私の生活感情は、これらすべてのおしゃべりの外側にある)

このへたくそな乳くさい未来予想には、いろいろ突っ込みどころがある。在住者なかまの中で一番よくものを考えていたと豪語する人の未来予想力この程度であった。笑ってください。いやお前に笑われる筋合いねえよ。

⑴について。近い将来ほとんど起きることが予定されている首都直下型地震はしかし明日は来ない。まさか明日には来ない。いや、私もそう思うのですよ。明日来ると思えるようには脳ができていないのだ。このアナロジーは、あとで出てくる「気のふれた暴漢」よりは、よくできている。

⑵について。ロシア軍の能力にやけに信頼しているふうなのは、前に書いたように、リベラルぶってるのだ。「リベラルぶる」というのは、敵対者を前に対立を推し進めるのではなくむしろ敵対者を擁護してみせて道徳的高地を取得する(みんなちがって、みんないい、とか言って)という姑息な身振りのことだ。ロシア軍の実態について知識ベースで語っているのでなく、擁護したいという目的にリードされて書いている。

⑶軍人(軍隊)は調律された行動をとりその残虐性には節度がある、暴徒には規律がなく残虐性にも際限がない。前者はロシアからくるもの、後者はウクライナの内部から湧くもの。こういう整理であった。この語りの中で強烈に意識されていたのは14年である。前者のイメージはロシアの目覚ましいクリミア占拠電撃作戦、後者のイメージは5月2日のオデッサ労働組合会館焼き討ち事件=ウクライナ民族主義過激派の凶行に、直接的に由来している。親ロシア的な家庭に属し、親ロシア的な言説に浴した私の、これが限界であった。言うまでもなく、実際に私たちが目にしたのはこれと全く真逆の光景である。

⑷額に入れて飾っておきたい。「真冬に電気やガスや温水パイプラインが停止することの破壊的影響をロシアはよく分かっているはず。分かっていてよくもこのような非人道的な攻撃を市民たち(お前たちの兄弟たち!)に対して行えるなと、国民感情は決定的にロシアから離反する。そのようなことがロシアの望みであるはずがない。」

そしてこの日の記述のMVPは末尾の一文である。「私の生活感情は、これらすべてのおしゃべりの外側にある」。山どりの尾のしだり尾の長い長い妄語に対してもう一つの現実を屹立させるためにはただひとつ、語ることをやめればよい。

2月3日

「手記」

2月3日

ふつーの日。公園。

この日も終日氷点下、ヒートテック必須、お池の水もぱきーんと凍ってる。

(え、そんだけ?)

そんだけ。多田尊々=ただ・そんだけ。⇒ 珍名辞典

2月2日

「手記」

2月2日

非常に大丈夫な日だった。(以下、ごくふつうの意味での「日記」)

妻と子とトロリーバスで中心部に出かけた。とあるショッピングセンターにキッズランドみたいなものがあると聞きつけて行ってみたのだが営業していなく、営業していない理由もわからない。手がかりになる掲示物が何もない。ショッピングセンターのインフォメーションスタンドも二度通って二度無人。ウクライナ生活でよく経験するのだが、たとえば事前にHP見ていても電話で確認していても、実際に行ってみると休みだったり、あるはずの場所にそれがなかったり、ああその件ならここじゃなくてどこそこだよと全然違う住所を教えられたりする。「本当のところは実際に行ってみないと絶対にわからない」というのが私らの中での格言である。事例:某役所手続きにはその役所のウェブサイトからの予約申請が必須であり、そのウェブサイトに掲載されているとおりの書類を一式用意して予約の時間に出向いたところ、書類の種類が全然違うと言われ、「でもウェブサイトにはこう書いてあった」と抗弁すると「サイトはうちの管轄じゃない(Сайт мы не разрабатываем)」と言われた。この言葉、ウクライナ生活を象徴するものとして忘れがたい。

と、なんの話だったけ。妻と子とトロリーバスで出かけた。とあるショッピングセンターのキッズランド的なやつが謎に休業で落胆。だがその隣の本屋がすごいいい本屋で、ロシア語のいい本がいっぱい置いてある。ウクライナはロシア語の/ロシアの出版社の図書の流通にけっこうな制限をかけているので、ロシアの出版社の良書がこのように大量に集積しているさまは壮観といってよく、あれもほしいこれもほしいと目移りした……が、まぁ出費は押さえておきたい時候だったりするので我慢。そこはおもちゃ屋さんも兼ねていて、ご自由に遊びくださいのコーナーで太郎は夢中で遊ぶ、そのかんに私と妻はゆっくり物色、小さい店だが珍しいものが多く、店員にいろいろ聞いたりしながらものの1時間も過ごしたと思う。なんかサーチライトにセル画のカセットを嵌めて壁に図像を映写するやつを買って、これはすごいおもちゃだ、これは絶対よろこぶぞ、早く日が暮れないかなとわくわくして、暗くなったら待ってましたとそいつを出して、消灯して壁に照らしつけてみたのだが、図像、ボヤケまくり。子供もなんのこっちゃわけがわからず(そらそうだ)不興がってしまって、わたくしは心底落胆した。

でまた時制が戻る。妻と子とトロリーバスで出かけて、ショッピングセンターで本屋兼おもちゃ屋を見たあと、近くのお店でお昼を食べた。子供が遊べる4畳半くらいのスペースが設えられてる、こういう飲食店はままある。子供にとっては家にない珍しいおもちゃで遊べるチャンスであるし、私らは子供が夢中で遊んでる間ゆっくり茶話できるし、なんならPC持ち込んで仕事もできるし、有難いことだ。

秋になったらオデッサでの生活を畳んで日本に帰国する予定である。もともと出産と子育ての最初の数か年、目安として子供が3歳になるくらいまでを妻の親元でということで移住してきた。秋は遠いようで近い(ようで遠い)。帰国までにやっときたいこと・やっとかねばならないことなどを話し合った。妻の描く明るい未来が一瞬あまりに明るきに過ぎ、それを眩しく感じた瞬間気づくと私、声を上げて笑っていた。こんなふうに笑ったのなんかすごい久しぶりな感じ。妻よ、今の話はちょっとあまりに最高すぎる気がするけど、そうだね、そうなるといいよね、そうなるようにがんばろう。

私たちは生活していた。

2月1日

「手記」は運命の2月に入った。

2月1日
ウクライナ語で2月は「酷月(むごつき)」という。ウ表記лютий、露表記лютый。лютый мороз厳しい寒さとかいうときの「厳しい」という形容詞。

ウクライナ語は月名にスラヴの古色を残していて美しい。ロシア語はたぶんピョートル大帝の時代か何かに欧州スタンダードの「ジャヌアリィ・フェブラリィ……」式に変えてしまった。

【月名】
つまらない:現代日本(1月、2月…)
ふつう:欧米露(ジャヌアリィ・フェブラリィ…)
おもしろい:和月名(睦月、如月…)、ウクライナ(薪月、酷月…)

いきなり何の話を始めたんだと言われそうだが、全く穏やかな一日でしたので、せっかく本記事訪れてくれた人に悪いなと思い、せめて何か持ち帰れるようにと思って書いた。

子供と大きいおもちゃ屋に入っていろいろ見た。これちょっといいなと思った。モザイク、色石を板絵の穴に嵌めていく。帰って妻に写真見してどうと問うたらいいんじゃないというので多分こんど買う。

これから数日、一種の壺中天的ユーフォリアが続くのだろうか。記述は落ち着いている。考えるべきことは一通り考えたし、やるべきこと(備蓄)も一通りやった、あとは状況の変化を見守りつつ生活を営むだけ、というところか。

酷月は、2023年のそれも、順調に寒い。オデッサ2月1日から10日間の予報↓

同、キエフ↓

今日あたりはまだマシであったが、二三日すれば終日気温が0度を上回らない冷凍庫の中の日々が始まる。寒さと暗闇。2月がこれほどムゴいものであったことはこの30年(独立ウクライナ史上)なかったであろう。

1月31日

「手記」によれば、こうだ。

1月31日(なんかムキになって出国の線を否定しているようだが)

晴れ。子供と近所の遊園地へ。大観覧車。青空スケートリンク。
(写真)
名もなき水兵たちに捧げるオベリスクと久遠の火、海。
(写真)

朝から色々読んでしまって暗い気持ちになりそれを「地に足のついた生活」によって一日がかりで払拭した感じだ。

「戦争が始まるかも知れない場所に幼い子供がいるのに留まるなんてどうかしてる」「万一の事態に備えるべきだ」「万が一のことも考えておくべきだ」・・言うのは簡単、そして言ってみればいかにももっともらしいことだ。言葉のこの粗さにおいては、はい、完全に同意。だがもっと解像度を上げて、何がどのように始まるか、それが始まる公算をどのくらいに見積もるか、これがあるいはそれが始まるとして、そのことが超個別具体的にこと私たちの家庭に対してどのようなインパクトを持つか、幼い子供にこの地とかの地で何がいかほど損か得か、備えるとは具体的に何をすることか、考えるとは具体的に何を考えることか、ということに自分の中で一々答えていくと、いつか最初の大きな問いは解体され無効化している。

ある人へ:明々白々な脅威にも関わらず身の回りの人間がその脅威を脅威と認識しないことによって私自身も認識を曇らせ判断を誤らせている、という構図は当を得ない。あなたのそのようなナラティヴが生れてくる背景の現実感・世界観そのものが相対化されているのだ。

ある人へ:国境付近に未曾有の大戦力を集めたロシアは今「やろうと思えばなんでもできる」だから「万一の事態に備えるべきだ」という、でも物理的・能力的な可能性の話ならロシアはいつだって核ミサイルを撃てたし、撃てるではないか。そうはいってもそこまではしないだろうという合理的推論による限定は飽くまで有効であるということだ。つまり「やろうと思えばなんでもできる」のうち、軍事専門家のような人たちは「なんでもできる」の方に重きを置くが、「やろうと思えば」の方への働きかけ、すなわち外交的努力が継続しているという事実も、決して軽くない。それだって在住者の残留是非の判断材料に「なる」のである。

外務省=大使館ラインの出国勧告を(大使館職員への満腔の尊敬にも関わらず)重く見ることができないのは、それはあくまで東京の外務本省の決定であって、現地の機微なる情報に基づく在ウクライナ日本大使館の決定などではないのだろうなと思うからだ。それが米国の同様の措置の模倣に過ぎないことを、第一にタイミング、第二には某大使館職員の言(1/26の記述参照)から信じる。また、思い出すのは昨年12月、コロナウィルスに関する新たな水際対策としての、外国人配偶者向けビザの発給停止措置だ。在外邦人の生活と幸福なぞに洟もかけない非合理な施策により岸田内閣は支持率を高めた。今回の退避勧告発出決定もやることはやってますよという国内向けパフォーマンス、失点回避のアリバイ施策に過ぎないのだろうなぞと、どうしても疑ってしまう。(とすれば振り回される大使館員こそ気の毒だ)(3度の電話会話の印象では大使館には本当に報道以上の情報がない)

なんかムキになって出国の線を否定しているようだが、実はそんなことはない、と思う、何かあればもちろん出国を検討する。その「何か」というのは、しかし、何度も書いてるが、必ずしも侵攻が行われ、あるいはインフラがダウンすることではない。想定している範囲であれば仮に侵攻があったとしても水道ガス電気が止まっても、私たちは残る。私たちはそもそも19年、ロシアと現に戦争中であることを承知で、ウクライナに来た。今また、侵攻の危険があることを承知で、また侵攻があったこと(未来完了形。не дай бог)を承知で、私たちはウクライナに残る。ポイントはことこの他ならぬ私たちの生活に影響が及ぶかということであり、それでしかない。

だから拙文をもしお読みの在住者があれば、私は何もあなたに残留を勧めてるわけではないです。「一般に」ウクライナ在住者が残留すべきかどうか、という話はしていない。「超個別具体的に」私と妻と子は残るべきか・残って大丈夫かどうかということしか考えていなく、その話しかしていない。

……というような妄想を続けるのが楽しくて仕方なく、せっかく帰ってきた日本での生活がなんかこう浮足立っちゃってしっくりこない。ソワソワしてしまう。私はウクライナに残してきた自分の影への共感力がめちゃ高いらしい。影をなくした男、シャミッソー。こたつと湯たんぽと猫とお風呂のある生活はいいね。水がうまいのが何より有難い。6か月かけてゆっくり体の全細胞を入れ替えていったろうと思います。なお、写真は義兄に現地から送らせてるやつで、私が撮ったものではない。(私が結局ウクライナを出国することにした経緯については1/24の項を)

妙な感想だが、「よく書けている」。言葉がキレている。これは精神の緊張と無関係でないと思う。その後の私の千言万語は比べると大分ぶよぶよしてるのではないか。

多分この「ある人へ」「ある人へ」というのは、ツイッターで目にした意見について陰で反論しているものと思う。あるいは私個人について言われたことへの反論だったかもしれない。私は表向きにはウクライナから日本に帰国したことになっていたしツイッターも居留守を決め込んでたのでツイッター場裏で反論とか論争とかすることはなかった。てか、それをしないためにこそ、帰国しましたとウソをついたのだった。でも一応見てましたよ。ぜんぶ見てました、自分について言われてることは。おーい、でも、私を愚弄したあなた。あなたごときのなまくらが私の魂に1ミリでも傷をつけることができたと思わないでね。

このままブラック何丘でいかせてもらうが、私は危機に際しての在住者なかまのふるまいが好きでなかった。同じウクライナにいる同じ日本人という連帯感はゼロであった。むしろ嫌悪感の方が大きかった。直接知ってる人、ツイッターで知ってる人、ともに何人かいたが、その人たちの心的態度、危機のときに何をし何を言うかということに、共感できるものがほとんどなかった。嫌いであった。具体的にか。たとえばある人は私と違ってツイッターで身辺のこと発信することを続けたがそれも違うと思った(なんでだよ!別にいいじゃんか!)し、あなた正常性バイアスですね死にますよとご親切言われたのに対し「いやバァカ、こちらは平穏そのものですから!」と現地マウントとる人も嫌いであった。懊悩とか少しはあれよ、知能低すぎだろ、と思っていた。また逆に、現地語できないので専ら日本語でそれも煽り記事ばかり読んでアワアワしてる人もいて、お前はお前で少しは真理探究しろよ、とまた自分を棚に上げて思っていたんだなぁ。この人に対しては少しは自分も責任を感じ、多少言葉をかけたりもしたが、少なくとも共感はできなかった。

200人いたという邦人の、横のつながりはなかった。一部ゆるやかにつながっていた部分も、危機に際して意味のある結束はしなかった。私は自分と家族の心配で精一杯だったし、多分みんなそうだったんだろう。(※私から見えた範囲について言ってるにすぎません。と一応、断っておこう)

このあたり、ほとんど間然するところがない:「言葉のこの粗さにおいては、はい、完全に同意」「『やろうと思えばなんでもできる』のうち、軍事専門家のような人たちは『なんでもできる』の方に重きを置くが、『やろうと思えば』の方への働きかけ、すなわち外交的努力が継続しているという事実も、決して軽くない」「私たちはそもそも19年、ロシアと現に戦争中であることを承知で、ウクライナに来た。今また、侵攻の危険があることを承知で、また侵攻があったこと(未来完了形。не дай бог)を承知で、私たちはウクライナに残る。ポイントはことこの他ならぬ私たちの生活に影響が及ぶかということであり、それでしかない」。本当にその通りだ(った)よなという感じ。

1月30日

「手記」によると、私は鬱の森を抜けたのだそうだ。

1月30日(鬱森抜けた)

黒海。ウクライナ。オデッサ。雪の浜辺。

穏やかな一日だった。鬱森抜けた。(と断定する)

この鬱の森を抜けたというのはどういう状態を指すのだろうか。たぶん、ひとまずやりきった、考え切ったから、もう心配することをやめる(やめて水爆を愛するようになる)と、そういうことだったろうと思う。つまり、侵攻があったとしてもまず大丈夫だろうと見切りがついたので、ひとまず侵攻はないものとして生活を続けると。こう方針が立って、気づけば鬱の森を出ていた。

1年前のこの日ビーチは雪で覆われていた。今年の1月30日もオデッサは雪に覆われている。ダーチャの義母から寒薔薇写真が送られてきた。

1月29日

「手記」によれば、こうだ。

1月29日(義父とダーチャ行って/私は楽観する)

義父とダーチャ行ってやることやってきた。なだらかな起伏の続く南ウクライナの丘陵地帯、夏場ウシだのヤギだの放牧で草食む野ヅラも斜面も冠雪して寂しき美しきブリューゲル的自然美。はなくそ、という名の私たちのネコ、飼ってるわけではない、を膝に乗せて掻き抱いた。要するに自分を安心させ安定させるということをしてきた。食糧庫や薪炭のうずたか山の目視確認も義父とのチッターチャットも全て私一個の魂を慰安するために行われた。

義父は私の心配に半ば呆れている……というよりむしろ今のいわゆるинформационная война情報戦争(内実を伴わぬ、空虚な)に焚きつけられて私が浮足立っていることに嫌悪を催しているらしかったが、それでも黙って私に付き合ってくれた。

義父母も14年はダーチャで備蓄をしていたそうだ。ユーロマイダンに類する騒擾がオデッサで生じる、というシナリオにリアリティを感じた理由として①現に武装した軍人が随所に配置されていたこと②現に人たちが食料を買い込みに走っていたこと(※供給は十分だったにも関わらず)、を義父は挙げる。翻って今この22年の緊張が「実は大したものではない」と考える理由は、ざっと言って⑴14年に見られたような兆候が今は一切見られないこと⑵ロシアにとってウクライナへの侵攻が非合理であること⑶ロシアにとってウクライナへの大規模侵攻・ウクライナでの大規模戦争が非現実的であること。

義父の盲点はサイバー攻撃による国家機能・国民生活・情報空間の壊乱またはジャックというシナリオであろう。だが、①小泉さんのいう情報空間の一時的占拠と偽情報の拡散による騒擾の惹起というのが、今ここオデッサでどのように実現しうるのか、はなはだ疑わしく思う。親露成分の濃いオデッサだが、たとえばこの街でトリコロールのロシア国旗を目にする機会は絶対にない。一つにはそれが法律で禁止されてるから(ソ連・ロシア的なものは14年以降徹底的に抑圧されてきた(お目こぼしは5月9日の小規模な「不滅の連隊」くらい))で、一つには、市民自身が抑圧を内面化し、政治的立場の表明を忌避しているのだ。14年5月2日の労働組合会館焼き討ち事件に象徴されるウクライナ民族主義過激派の暴力行為はいまだ市民の記憶に新しい。内外両面からの強力な抑圧に8年の長きをかけて馴致せしめられたこの人々が、不時の扇動を真に受けてひょいひょい街路になど出るだろうか。あと②(←本段落一文目からの続き)私らのダーチャがインフラの麻痺寸断というシナリオにおいて高い耐久性を持っていることは再三言っている通り。

こちらの人たちの未来予想を聞くときに、14年の経験がむしろ思考の枷になっている、という可能性は考慮する必要がある。14年がいかに驚天動地であったかを妻も義父母も口を極めて語る、いわく「あのときほどひどいことは起こり得ない」「まして何ら取るに足る兆候も見られないではないか」。同様の事項に、「外国メディアはすわ戦争だ戦争だと叫ぶが、戦争ならこの8年ずーっと続いているんだ」というのがある。だがこれら主張は国境周辺に未曾有の戦力が集中しているという現実に対してむしろ積極的に目をつぶるものだ。西側も着々と対抗戦力を集めつつある。緊張が高まっていることは厳然たる事実と思う。(でなければ皆さんのお好きなプーはなんでこんな忙しく各国代表と折衝を繰り返しているのか)

それでも、とここで本項冒頭のテンションに戻りたい、いつまでも不安に青ざめていたって仕方ない。結局は家族とりわけ子供そして他ならぬ私自身の幸福のために残留を決めている。アホらし、戦争なんか起こるかいな。起こったってどうにかなるわい。蓄えは十分じゃ。

自分の心理状態とか当時自分が考えたことに補足とか注釈とか再解釈とかはしない。

ダーチャで具体的に何をしたのかだけ書く。まず、自分ち(私・妻・子の住むオデッサ中心部のアパート)にため込んでた食品の一部を移管した。米とかパスタとか缶詰とか、あとペーパー類。そんで、水をしこたま溜めた。あちらは飲用水は5~6Lサイズのペットボトルで売られていて、ダーチャの屋根裏には空き6Lペットボトルが無造作かつ大量に転がってるので、それにゴバゴバ水道水を溜め込んでいった。妙なことをするやつだなぁという目で義父から見られていたのを覚えている。200Lほどか、溜めた。

あとは、何がどれくらいあるかを「目視確認」した。石炭室を見せてもらって「一冬分はある」と義父に言われてまぁこれだけあればそうなのかなと信じた(あとで後悔)。キッチンのガスについても、最近満パンにしたからまぁ大丈夫だということだったので、まぁそうなのかなと(これもあとで後悔)。薪はいくらでもある。1000Lの天水桶も健在。地下室にはワインや自家製レチョ・アジーカ・各種ジャムと一緒に玉ねぎジャガイモあたりの根野菜も相当量保存してある。まぁ大丈夫なのかな、と思った。

何よりも、仮想の避難先に指定していたダーチャに実際訪れてみて、ここなら大丈夫だ、と確信できた、安心できた……のは、多分こういう一々の要素の総和として大丈夫だと思ったのでなくて、つまり石炭と水と玉ねぎがあるから大丈夫なのではなく、まぁ言ってみれば、猫が一匹いるから大丈夫だと思った。ダーチャは私たちの幸福の日々の記憶とあまりに深く結びついていた。オデッサの最もよき季節である春から秋にかけての時日の多くを私たちはこのダーチャで過ごした。由来からいってもこの18m×90mの土地は義父母が20年かけて手づから耕し、果樹の一本一本を植え、この立派な二階建ての母屋も離れも文字通り義父母が手づからレンガを積み上げて建てたものである。16年の夏に私と妻はここで結婚式を挙げた。すべての明るい思い出。子供の成長。猫たち。スピリチュアルとかそういうのでなしに、感覚的真実として、ここは聖域であって、邪悪なものを寄せ付けない、一種の結界であった。このダーチャを侵攻とか戦争とか黒い想像と結びつけることは私にはほとんど愚弄と感じられた。

あり得ない。ロシア軍であれサタンの軍であれ、これに触れることなどできるはずがない。(ブチャ、マリウポリ、バフムート、すべての人にとって生活とは日常とはそのように神聖にして不可侵のものであった)

大使館から電話
賞賛の意味で記しておきたい。24日以来もう3度目だ、大使館から電話がかかってきた。土曜日だというのにご苦労様だ。懇々とお立場を説かれ(必ず戦争が起きるという話ではない、だがいつ何が起きてもおかしくない状況ではある、だから商用便が飛んでいる今のうちに出国するよう「お願い」したい)、また外国人配偶者・子の査証発給手続きが簡易なものであり出国の際の障害にはなり得ないことなども懇切にご説明いただく。アホらしいといえばアホらしいことだ。26日に1回、27日に1回、29日にもう1回。状況が変わったとか新情報をつかんだとかならわかるが、毎度ほとんど同じ話。頻繁に電話を受けたからといって立場が変わるというものでもない。だが安否の確認を兼ねているということであるし、思えば有難いことだ。

少し自分の考えというか立場というか状況を、話してみた。話しても良さそうな雰囲気だったので。日本語メディアは今か戦争と書き立てる、大使館は帰国をと訴える、でも一方には妻とかその家族というものがいて、いま物理的に一番身近なのは彼らで、一番密にコミュニケーションをとるのも彼らである、その彼らが今の状況に全く危機感を感じていない(この点に関して電話口の館員の方も激しく理解と共感を示される)。そして私はどうしたって、彼らの方により強く影響を受けるのである。一方に子供を連れて家族総出で帰国して日本で生活を打ち立てることに伴う明らかな困難というものを置いて考えてみると、帰国に踏み切るということはなかなかに難しい。とはいえ、帰国という選択肢を全く排除するわけではもちろんない、今後も状況を注視する。また、最悪(中程度の最悪)の事態に備え、むしろ自分主導で自宅とダーチャに食料・物資の蓄えを整えている。

その館員の方からは「もしもオデッサで何か危険な兆候が見られたら連絡をください」と言われた。そのときハッとしたが、キエフの大使館員もオデッサの私も、先行き不透明なウクライナに暮らしている日本人という点では、全くひとつのものである。兆候(必ずしも軍事侵攻のということでなくても、社会の騒乱・無秩序化等の)がキエフよりオデッサで先に現れるということもあり得る。連絡を取り合い、情報を共有し合い、ともに助かるということを目指すべきだ。最後の船に全員が間に合うように、私もできることをする。

私は楽観する
日本語の論考等でもそうすぐに侵攻ということはないのではないかというのが目立ってきた気がする。外交交渉も継続している。中国に配慮して北京冬季五輪中はプーチンも事を起こさないのではないかという説にも個人的に説得力を感じている(もう開会一週間前という時期に入っている)。私は楽観する。私は忘れる。この問題をすっかり忘れる。いま擱筆する、するとアアラ不思議、自分がさっきまで何を書いていたかもうまるきり覚えていない!……

あ、てか俺、日本に帰ってきてるんだった。

大使館が最優先の領事業務である邦人保護の目的でとった主たる戦術が電話による説得であったことは明らかだ。かけてくる人は毎回違った。こんなに人いたんだ、と驚いた。領事部外のスタッフも含めて人海戦術でやっていたのだ。この人たちとの関係を「保護する・保護される」でなく、ともに助け合うべき日本人同士というふうに捉え直したのはなかなかよかったと思うが、結果的にはわりと早い船で大使館はポーランドに移転した。そのことを責めるというのでは全くなく、単純な事実として。

何しろダーチャを訪れたことで私は心を強くした。憑き物が半分落ちた、半分落ちてぶら下がって歩くのに邪魔だが払いのけながらなんとか歩いていける・生きていけるという状態になった。アアラ不思議のこのアアラというのは言文一致の先駆けといわれる二葉亭四迷『浮雲』冒頭「アアラ怪しの人の挙動(ふるまい)」からの引用。どうでもいいね。日本、帰ってきてるのだしね。

1月28日

昨年の今日、自分はこんなこと言っていた。「手記」1月28日。

1月28日(どっちのみんなを信じたらいいんだろう~(><))

視野狭窄に陥ってる気がする。こういうときはIQをぐっと下げてめちゃめちゃ身もフタもないような言い方で自分の心を言い表してみよう。

ぼくは戦争はないと思う。みんながないっていうからだ。(みんなというのは妻とか義父母とかそれに連なる人たちだ)。でも別のみんなが戦争はある・あるというから、やっぱり戦争はあるのだと思う。(そのみんなの中には外務省や大使館や専門家と称する人たちや、実父らが含まれる)。

けっきょく私みたいな学者でも専門家でもない非・真理探究者は、身も蓋もない言い方をすれば、みんなが言ってることを信じるのだ。賢いふうを装っても仕方ない。それが私の正体だ。私なんかそれ以上のものであるかよ。

だが今のケースで問題なのは、その「みんな」が二群に分裂していることだ。一方のみんなは戦争が始まるぞそこから逃げろ!と叫ぶ、他方のみんなはいやに落ち着いた様子で戦争なんか始まらないからここにいときなさい、と慰留する。

どっちのみんなを信じたらいいんだろう~(><)と思い悩んだあげく、窮余の一策みたいにして思いついたのが第三の道というか折衷案というかなんというか、まぁ例の備蓄というやつだ。「戦争は始まるかもしれない、そしたらみんなは死ぬ、でもぼくたちは備蓄をしてるから助かる!」

備蓄こそが当地に留まるにもかかわらず戦争によって死なない唯一の道である(正解を見つけた!いちはやくぼくだけが見つけた!)とでもいうかのように備蓄・備蓄と、タヴリヤを巡りシリポを巡り、水だの紙だの乾麺だの買い集めて、買えば買うほど安心した。

私が従うべき「みんな」の分裂と矛盾に際して、一方の「みんな」に恣意的(内容は実は何でもいい、いかにもそれらしいものとして自己を納得させうるものであれば)加点・加重を施すことで、そちらに主観の内部で勝利をもたらしてしまうという、詐術。自己欺瞞。

愚か。こう言ってみると、マジでヤバいほど愚か。(だが俺などそれ以上のものであるかよ?)

私が二重拘束にこれほど苦しんでいるのは私がいやしくも家長として自己一身のみならず妻と幼子の命に対して重く責任を感じているからだ、と理解していたのだが、フタを開けてみればなんのことはない、無責任と判断中止と詐欺、そればかり。こんな奴に家長張られてる太郎とせき子こそは哀れ。

ただし①14年を(さらには91年を)経験した義父母たちの抱懐する「およそ起こりそうな/起こりそうにないこと」の感覚は、一概に正常性バイアスなどと呼んで軽んじていいものではない(正常性バイアス……下らん言葉だ。言葉ひとつ覚えてそれ一つ分馬鹿になるという類の)

ただし②オデッサ内陸40㎞にある私たちのダーチャの安全神話に対して、しかし、疑義を挟むことができない。激動の20世紀・21世紀四半を経てなお「ゴーゴリのウクライナ」の息づく鄙の里、あの閑村が戦場になる? どう考えても考えなくても、荒唐無稽な想像だ。

村はいわゆるダーチャ村(ダーチャの群落)ではなく、ふつうの村である。村人は通年で常駐していて、菜園・果樹園のほか畜産を行い肉・卵・乳製品まで自給自足している。村の一画をダーチャとして主として夏期のみ使っている私たちは畜産こそ営まないが、蔵には交換価値の高い自家製ワインが200リットルほどある。最悪の事態が出来したとて、その最悪より一日長く、どうしてここで生き抜けないことがあろうか?……

こんな「ただし」を延々つけていける。だがベースは言った通り、「みんなの言ってることに従って」残留を決めているに過ぎない。手のかかる置物ジジイ、こいつは結局人に動かしてもらわないとどけないのだ。(これが俺の底だ、認めておけ)

驚くほどよく書けている。蛇が出るのかなぁ鬼が出るのかなぁ(それとも何も出ないのかなぁ)とこの後も「手記」にはうだうだ色々書かれるのだが、そのたぐいの中でベスト記述ではないか。IQ下げて1年生のさとるくんになったらよく見えたのだ、そして喝破した。みんなのいってることをしんじる、それだけのものだよあなたは、と。自分がもし真理探究者であればガチOSINTしただろう。今ごめんそれどころじゃないつって子供の世話を妻に預けて、1日10時間OSINTして、これはマジ死ぬなと見極めて早期出国したのかなぁ(どうかなぁ)。でも私は詩人だった。悪い比喩として、詩人だったのだよ。空気を読んだら甘かった、乾いてた、だから残るよ。みんなも言ってるし。それだけのものでしかなかった。

とはいえ待て、事実として、備蓄はのち役に立った。当時の私の心的態度には一応擁護に値するところもあるのではないか。さとるくんにはわからない苦悩、5年生の省吾くんくらいの知能は一応あったと言えるのではないか。「どっちのみんなを信じたらいいんだろう~(><)」のドッチというのはロシアが攻めてくるか来ないか、ゼロかイチかの二択であって、そのどちらにも与しがたかったから、だからその枠組みで問うことをそもそもやめたのだ、そうは言えないか。ロシアが攻めてはくる、だが私たちは大丈夫である、そう言える根拠を探る、そう言える形をつくる。その取り組みの一つが備蓄であったし、地図を凝視して自分たちの3つの拠点(私と妻と子供が住むオデッサ中心部、義父母が住む団地、私たちの最終防衛拠点であるダーチャ)のロケーションと拠点相互間の動線を確認した、と……そう言ってやれるのではないか?

だがもう一度厳しく採点しよう。「ただし①」は、むしろその予断がアダとなった。「ひとつ経験してその経験ひとつ分バカになる」とはさすがに酷か、だが経験によってかえって盲ることはある、その好例。「ただし②」は、これは全くの妄想であった。ブチャのあとでもう何も言えない。「ただし③」、ダーチャにいれば少なくとも飢えないという点に関しては、まぁ、確かにその通りだと思う。今でもそう信じているし、信じたい。

1月27日

さて「手記」とかいうやつ取り出した。なんて書いてある。

1月27日(団地の義父母宅に義父母・私ら3人・義兄で集まって)

団地の義父母宅に義父母・私ら3人・義兄で集まって、もしゃもしゃ肉など食べ葡萄酒など飲んだ。もともと1月25日のタチヤナの日・МГУの日に集まる予定であった(我が家はタチヤナという名またМГУモスクワ国立大にえにしが深いので)が義父のコロナ罹患で後ろ倒しになった。

大好きなじぃじとばぁばとおじちゃんに会えて太郎は大喜び。でもたぶん誰より助かっていたのは私だ。ここにはたしかに「ロシアの侵攻」などはなかった。懐かしい温かい団欒。親愛と信頼を寄せる人たちの笑顔とさざめき。昨日のたとえでいえば、私の現実を構成する二本の根、情報空間から伸びるそれと実生活から伸びるそれ、の後者から栄養がごくごく吸い上げられて、私の「現実」が浄化されていくのを感じた。

それだけに、肉と葡萄酒はもうこれくらいにして茶ァでも飲みますか、とて第二部が始まるタイミングで、義兄が「取引先のイスラエル人たちから大丈夫か大丈夫かとやたら心配されてるんだけど実際どうなん」と例の国境付近の緊張を話題にのぼして、口々に意見が言い交わされ出したとき、心底耐えがたいものを感じ、然く申した。もうやめてくれ、聞いてられんと。日本のメディアもまさに今か侵攻と書き立てている、それを私は日々刻々見ている、大使館からも毎日電話がかかってきて出国を促す、なるほどお義母さんの仰る通り米英は自らの利益のために架空の脅威を創出して空騒ぎしてるだけかもしれません、またお義父さんの仰る通り本気でウクライナに攻め込むためには軍10万じゃ話にならない50万はほしいところかもしれませんよ、ですがこれはもう理屈じゃなくてただ私一個の安心のために、何も言わずに備蓄に協力してください。備蓄にだけ協力することを約して、もう何も言わないでください。

それで土曜に私と義父でダーチャに行って予備のガスボンベと石炭を買い込むことが決まった。義父母と義兄には感謝しかない。(世のタチヤナよ遅ればせながらおめでとう、学生たちよ未来は君らの肩に)

……と、(略)

そうかこの日か。よく覚えてるよ。めっちゃ助かるなと思っていた。義父母も義兄も元気な人たちなので一緒にいると楽しい。気がまぎれる。皆で歌うたったりトランプしたり色んな話してまー盛り上がる。気がまぎれる。ほんっっと助かるな、今日だけは「ロシアの侵攻」のことなんか考えてなくて済むのかな、と思ったところへ、義兄が無造作にその話題を持ち出して、ぎくっとした。言うんや。

義兄はざっくりIT屋さんでイスラエル政府を顧客にびじねすしてる。イスラエルは言うまでもなくアメリカとずぶずぶである。そのイスラエルからおいウクライナ大丈夫なのかとえらく心配されてるらしい。

義父母は一笑に付した。まず義母がいう、「米英は自らの利益のために架空の脅威を創出して空騒ぎしてるだけ」。義父がいう。「本気でウクライナに攻め込むためには軍10万じゃ話にならない50万はほしい」。それぞれこのテーマに関心をもち何がしか読んだのだ。人は自分の信じたいものを信じる。インターネットの中から自分の世界観にそぐうものを探してきてたべる。身に纏う。

それで私は、耐えがたいものを感じて、義父母の長広舌を遮ったのだ。そこまでは確かだが、そこからどう備蓄の話につながったのか。多分、私は皆さんをシラケさせたのだと思う。皆さんとしては陰謀論でもう少し盛り上がりたかったところへ水をさされた格好。私は一応、なんというか、一種の腫れモノなので……というのも変だが、やはり一人だけ血がつながってないし、一人だけロシア語ネイティブじゃないし、一人だけ違う世界観に生きてるらしいことは皆なんとなく分かっているので、だけに大事にしてくれる。私の言葉はある種の重さをもつ。「まぁそんなら……それでこいつの気が休まるなら、備蓄とやら好きにさせてみるか?」ということで、義父が週末クルマを出してくれることが決まったのだと思う。

I mean、私の安全保障構想の中核はダーチャであって、街の寓居にはそれなりに備蓄したが、有事の際には街の寓居には実は長くいない、早々にダーチャに引き込む。その際に、肝心のダーチャに備えがないのではお話にならない。それなりの量の食糧を運び込み、井戸水をため、んで暖房用の石炭を一冬分買っておく。あと、冬ぢゅう台所で火が使えるように、ガスボンベも一個備えとくべきだと思った。それを週末、義父としようと。そういうことに決まった。

※念を押すが、義父母は別に私に説得されたわけではない。「ロシアの侵攻」あるかも、とか私に思わされた、というわけでは全くない。ただ私のために私の気のすむようにさせることを決めた、義父は義父で、どうせダーチャにいけば何かしらやることはある。それだけ。

1月26日

「手記」にはこうある。

1月26日(大使館から電話/父に心配される)

しんどい。

が、平穏な日ではあった。翻訳の仕事が一件入ったので集中してやって5万円ほど稼いだ。Twitterをやめたことが明らかに心の平穏に寄与している。ベンチマークしてる数人の専門家のアカウントを日に3度ほど訪ねるほかTwitterに関しては何もしない。これも心の安全保障だ。Twitterやってれば少しは有益情報に触れるし楽しい・笑える・癒しの動画にも出会うし、交流の喜びといったものもある。だが今はそれ以上に、間接直接に状況にタッチするあらゆる言説が私の神経に触る。私の不快や不安や怒りが第一閾値を超えるとそれは妻に伝わる。第二閾値を超えると子にまで伝わる。今は非常時だ。私は私の心を健全に保つ努力を払わねばならない。Twitterの薬と毒を衡量して今は毒の方が強い。だから見ない。(極めて限定的に見る)
プロフィールも改めた。なんかもうほんと、さよならって感じ。小泉さんに絡んでから一気に増えた200人ほどのフォロワーよ、解散。私はもう発信しません。
ロシアへの批難とか幻滅とか、「プーチンのあたまのなか」への揣摩とか、ウクライナの問題はすなわち台湾の問題である(他人事ではない)という話でさえ、正直、ひまな人がやっといてくれという感じだ。自分の家族の存亡に関係のある情報かどうかということにしか興味がない。
それでも一言だけ私の立場(というほどのものでもないが)を表明しとくと、これは領域国家というものを巡る二つの世界観の闘いであって、この闘いでロシアは絶対に敗れねばならない。ロシアを理解することはできる、共感することさえできる、だがその上でなお、我々はこれを峻拒しなければならない。NATOに入る入らないの決定権は主権国家であるウクライナに絶対に留まるべきだ。

この前日、25日の記述にもよく表れてると思うが、私は外層とか内層とか、一種の層構造というものを思い描いていて、それが外側から順に突破されていくというイメージであった。安全と安心と幸福。安全を脅かすためにはロシアが現実に侵攻してこないといけなかったが、私の安心と幸福はロシアが実際に攻めてこない前にすでに浸潤されていた。んで、私の安心や幸福を守るいろんな壁がこの先なお次々突破されていくと、ついに影響は妻、さらには同心円の芯央である子供の幸福にまで及ぶだろう。そうならないように、私は私の心の平安を脅かすTwitter内の蛙鳴蝉噪にぱったり耳を塞ぐことを決めた。私がアクションするとリアクションが返る。だから何もアクションしないことにした。この人とこの人とこの人のツイートを3時間に1回確認する、所要3分、それでおしまい。そう決めた。いろいろ切っていくことにした。「ウクライナ危機が日本にとってもつイミ」とか考えない宣言もそのひとつ。

「手記」によれば、この日はのち大使館のルーティンワークとなる電話による説得の第一回が行われた。

大使館から電話
大使館が在留邦人各人個別に電話をかけているらしい、私にもきた。24日付けで退避勧告が出たわけですが帰りますか、帰る気ありますか。「家族でよく話し合って”残る”ということを決めました」
何か質問ありますかと聞かれたので「皆さんどうお答えですか」と聞いてみた。「多くの人が帰国を”考える”とのことでした」。ちなみに今日本人どんくらいいるんです「200人ほど」オデッサは「オデッサ州で……10人弱くらいですね」
23日までは退避勧告みたいなものは出ていなく、24日になって出たわけですが、23から24にかけて何か情勢の変化がありましたか?「直接的には、やはりアメリカ大使館職員に退避勧告が出ましたので、これを重く受け止めて、ということです」(正直に有難う)
米国政府高官は臨界近しと警戒を呼び掛け、ウクライナ政府高官は臨界なお遠しと鎮静を呼びかけるというちぐはぐな状況と認識しております、どうしてこういうことになるでしょうか、どちらを重く受け止めるべきでしょう?「それはウクライナ政府としてはやはり国民に平静を求めるという必要がある、ということもあるのだと思います」(不得要領)

200人の在留邦人に手分けして電話していた大使館職員のひとりが明日発表でご一緒する林さんである。皆さん聞きに来てください。
ロシアによるウクライナ侵攻に関わる特別追加講演のお知らせ(2022年度早大露文会秋季公開講演会終了後)

私もこの間何度もこうした電話をかけさせてしまったが、そのどの声もよく覚えている。今度の講演会のことで林さんと電話で話すという機会があったときに(彼女は私のだいぶ後輩なので面識は多分ない)、声を聞けばあのとき自分に電話をくれた人かどうか絶対わかる自信があったが、知らない声であった。果たして「オデッサ在住者は自分の担当ではなかった」ということだった。何しろ人生のこの妙な季節における大使館職員との一連の電話は印象深い。私に電話くれた4人くらいの人の声、今も耳に近く思い出せる。

内容の話をすると、このとき私が探りを入れ、知り得たことは、在ウ日本大使館はロシアの侵攻について重大な情報を独自に入手したからこそ昨日までの沈黙を破って今日退避勧告を出したのか、いやそうではない、ということであった。

「手記」によれば、この日は埼玉の実父からも電話をもらい、帰国の是非について千度目自問した。

父に心配される
実父がひどく心配している。スカイプで話した。かなしくなる。私は父に心配をかけている。息子とその嫁と初孫の身を案じさせてしまっている。それひとつだって十分重大なことではないか。本当に帰国しなくていいのか。

なぜ帰国しない
毎日同じようなことを書いてる気がするが、みたび言い直してみる。私は2つのものを比べている。一方に、2歳児を抱えて20時間を旅して新天地日本で新たな生活をイチから樹立することからくる、当然に予想され・ありありと想像される苦労。他方に、想定内の最悪のシナリオ即ち、水道ガス電気インターネットが全て止まった真冬のダーチャで1か月籠居する苦労を、そのようなシナリオがそもそも実現しない可能性によって希釈したもの。前者の中でより、後者の中でのほうが、子供の幸福は大きい、と、(言ってみれば)こういう計算をしている。
どういうシナリオが実現しそうか、に対する感性、昨日の言葉で言えば世界観は、二本の根をもつ。一本は軍事外交政治状況に関するメディア経由の理知的インプットで、一本は、日々の生活、散歩、近しい人たちとの交流からくる、感覚的(肉体的)インプットだ。このふたつの根から養分をくみ上げて私の世界観ができる。妻やその家族は今も、現在のこの状況は8年続いている戦争がちょっとこじれた程度のことに過ぎないという考えで、破局的事象の予言には全くリアリティを感じない、という。14年を、また04年を、さらにいえば91年を経験した義父母たちのその感覚に、私も少なからず影響を受ける。どうしてもそこから養分を組んで、自分の世界観を形成してしまう。
もうやめよう。なんか全然うまく言えてない気がする。4時間しか寝てないからか。
とにかく身の振り方については毎日(3時間ごとくらいに)考えている。考えはもちろん変わりうる。明日またそのとき思ってることを書こう、おおよそ同じ内容を違う言葉で言うだけかも知れないが。今日はもうよす。

……というようなことを、私は語ったのではないかと妄想する、もし私たちがオデッサに留まっていたならば。

このとき私が言っていた「最悪のシナリオ」がまさに実現しているのが今である(電力危機の中の越冬)。

なお、14年とはユーロマイダン、04年とはオレンジ革命、91年はむろんソ連崩壊を指している。

4時間しか寝ていないとはご苦労なことであった。目をつぶって横たわれば、ほんのひとかけらの日本語文を一瞬見ただけで最愛の猫を世界から追放してしまった自分には、日本語でこれだけ言われているロシアの侵攻は、もう確定的に起こるのであった。だが目を開けて暗い部屋うちを見渡し、隣で寝ている妻と子をうち眺め、身体を起こす、ギシィとベッドが軋む音、寝室を出て、キッチンでコップ一杯の水、なんなら表へ出ようか、外には雪が積もってる、トトロと名付けた黒い猫、足元にすり寄ってくる。このどこに「ロシアの侵攻」などあるか。「それがないのは、それが未来に起こることだからです、そこはまだ現在なのだから、そこにそれがないのは当然です」ちがう。現実だから無いのだ。これが現実だからそれがないのだ。「ロシアの侵攻」は虚妄、昼みた悪い夢なのであって、ここは現実なのだから、夢の尾の、尾羽一枚落ちていないのは当前だ。<と、ここで目が覚める。>私は身を起こす、ギシィとベッドが軋む音、私は寝室を出て、居間でパソコンを開く、「ロシアの侵攻」今日か明日かと、日本語メディアは大盛り上がり。

……みたいな。

精神は今も容易にあの部屋に、2022年の1月26日に還ることができる。

1月25日

1年前の今日(侵攻ひと月前)、自分はこんなふうに書いていた。

1月25日(私らは侵攻が行われないことに賭けているのではない)

オデッサ15㎝の積雪。フワッフワの新雪を太郎と妻と3人で踏み分け、中庭で戯れた。……筈だ、もしオデッサに留まっていたならば。
ニュースを見ていると、不思議に、米国は侵攻の危機を声高に叫び、ウクライナはむしろ早期侵攻の線を否定する。そこが一枚岩でないのが不思議。それぞれどういう利益を追求した結果この乖離が生れるだろうか。後者のモチベーションとして、今ウクライナから外国資本がどんどん引き上げていっていて経済危機の兆候があるらしいので、国民向けと見せかけて実は諸外国向けに、事態が急迫してないことをアピールして資本流出をとどめたい、ということがあるのかもしれない。知らない。

ニュース①ウクライナ安全保障会議書記「ロシアがウクライナに大規模侵攻をかける条件は整っていない」(24日晩)
ニュース②米大統領府報道官「(上記声明に対し)否、ロシアはウクライナ侵攻の準備を整えつつある」(25日晩)
ニュース③ゼレンスキー大統領、国民向けビデオメッセージで「米国をはじめとする一部外国の大使館職員退避命令は繊細複雑な外交ゲームにおける一現象に過ぎずただちに状況の悪化を示すものではない、恐慌をきたすには及ばない、EU諸国の大半は大使館の稼働を続ける」(25日晩)

私らは侵攻が行われないことに賭けて当地に留まるのではない。仮に侵攻が行われても、そこからくる衝撃が私らの、言ったら縦深性……昨1/25の項に書いたようなこと……によって十分受け止め切れるものにとどまる、ということに賭けている。賭けてるというか、そう見越している。これは、今日明日に巨大隕石が降ってきて地球は滅びることはないだろうみたいな、不可見事象の蓋然性への感性、つまり世界観の話でしかない。私の不安は、しかしそうはいっても隕石は降ってくるのではないか、すなわち、私らの家庭に内設されている緩衝材が全くものの役に立たない想定外の事態がもしかしたら出来するのではないか(そうしてそれに気づいたときにはもう手遅れなのではないか)という考えからくる。だがその漠たる不安は、今のところ、先ほど言った世界観を覆い尽くすほどのものではない。
同じ事を言い直す(自分の整理のために):私らは侵攻が行われないことに賭けているのではない。だから、仮に侵攻があったとしても、それのみを理由に逃亡を考え出すことはない。むしろ私らは、①侵攻が行われない、あるいは②侵攻が行われてもその衝撃は私らの家庭に内設の緩衝材によって十分吸収可能なものに留まる、というより太い線に賭けている。もしも賭けが外れる、つまり、脅威が私らとりわけ私らの家庭の最内層である2歳児に及ぶ、という兆候が認められたら、私らは最善を尽くして最速で逃げる。だがそういうことは起きないであろう、という世界観である。しかしそうはいっても起きるかもしれない、という不安がある。だが今のところ後者は前者を駆逐するほどのものではない。

……というようなことを、もし外務省の勧告を聞かずにオデッサに留まっていたなら、思っていただろうなあと思います。

――手記

この7か月後くらいに例のワシントンポストのインタビューでゼレンスキーが「露軍の侵攻の可能性について米当局から情報は受け取っていたがそれを国民に知らせることによってもたらされる経済的な損失を考えてあえて国民には知らせなかった」と述べて波紋を呼んだが、この当時すでに私程度の頭にも「ゼレンスキー政権による早期侵攻の否定は経済的なモチヴェーションによるものではないか」ということが考え得ていたということは結構貴重な証言だと思う。情報はあった。考える材料はあった。それでも残ることを選んだのだ。人のせいにはできない。

「私らは侵攻が行われないことに賭けているのではない」というのも、お気に入りのテーゼだ。というか、愛着のあるテーゼだ。何百回唱えたか分からんからね。ここで言いたかったのは、自分は「ロシアが侵攻してくる」あるいは「してこない」の間でゼロかイチかの賭け事をしているのではないのだ、ということだ。ロシアのThe man aboveが一朝トチ狂って数千発の核ミサイルをウクライナ全土に撃ち込んでくる、その場合には、なるほど私たちには即死以外の道がない。だがそうでない大抵の場合には、私らには行動と選択の余地があって、行動と選択の余地がある限り、私らは必ず生き延びられるだろう。みたいに考えていたと思う。

この考えを今日の見地から「答え合わせ」してみると、……半分正解で、半分の半分は間違い、最後の四半分はやっぱり正解であったと思う。まずの半分というのは、その後激戦地となった東部のどこかの街を見てもばかすか砲撃を浴びたニコラエフとか見ても、市民の脱出さえままならないというのは本当に例外的な場合だけであった。アゾフスターリくらいまで押し込まれるとさすがに出られなかったが、うっかりそこまで追い詰められなければ、脱出それ自体は大抵の場合可能であった。かつてのマリウポリとか今のバフムートとか見ていて「もし自分がここにいたら」とか考えるのであるが、まぁ逃げるよな、といつも思う。

だが半分の半分は間違いだというのは、私らが行動と選択の余地を発揮する(たとえば逃げる)より早く飛んできたたまたまの一発にたまたま殺されるという可能性は常にあった。近いところではドニプロの集合住宅(1月14日、ドニプロの9階建てアパートに空対艦ミサイルが直撃し46人死亡)の一件、あの一発がたまさか私たちを見舞っていれば即ちそこでジ・エンドであった。その危険に自己と家族をさらした罪、というものがもしあれば、私はそれに問われることになる。

だが最後の四半分、やっぱり自分は間違ってもなかったんじゃないかと思われるのは、こと戦争最初期に限って言えば、「たまたまの一発」がオデッサの私たちのもとへ飛んでくる可能性は、やはりほぼゼロだったのではないかと。というのも、知られる通り、当初ロシアは非常に短い期間で「特別軍事作戦」にカタをつける考えであり(Киев за 3 дня)、攻撃は今日のような糞ミサイル下手撃ちではなかった、精密誘導弾による軍事目標のピンポイント爆撃であった。だから、敵の作戦が十分に合理的であり敵のミサイルが十分高性能であるならば私らは大丈夫だ(なぜなら私らの住居の近傍およびダーチャへの避難経路上に敵の攻撃目標になりそうなものは何もないから)という読みで、ひとまず当たっていた。

無意味か。こんな「答え合わせ」は。私の在りし日の一日一日の不安と対話し、成仏させていっている。

1月24日

1年前のこの日、オデッサ在住だった私は、在ウクライナ日本大使館から「退避勧告」のレターを頂戴した。潮目が変わったのを感じた。これにも関わらずウクライナにとどまるということは、これはもう明確に一つの立場を選ぶことだった。そうでないもう一方の立場と対決することだった。精神の緊張に拍車がかかった。

「手記」にはこうある。まず前半。

1月24日(帰国勧告)
今日のトピックは大使館=外務省ラインからの帰国勧告である。①フェーズが変わった。②だがある意味では何も変わらない。③私たちはここに残る。④だがしかし……

①フェーズが変わった
こうなると私がウクライナに残留して何かあった場合にいわゆる自己責任ということになる。戦禍の異国に在住していることで「同情」されるのでなく、むしろそのことで「叩かれる」存在となる。公の言に従わなかった愚か者が悲劇的末路を辿ることを人らはむしろ積極的に待望する。たぶん私は自己の精神を防衛するために、Twitterアカウントを凍結したり、そうしないまでも、発信を大幅に削減する必要があるだろう。

②だがある意味では何も変わらない
しかし昨日と今日で、退避勧告という現象の他に、本質的な状況の変化が何かあったか。私らは初めから公の勧告など待たずに状況を見ている。見たところ状況にはさしたる変化がない、そこへ(べつだん頼みにもしていなかった)公からの勧告が出た、その一事をもって態度を急変させるべきだろうか。

――手記

ただでさえTwitterではバカにされてた。頭が悪くて感性が鈍磨していて自分の家族の生命安全幸福に対して責任感のない奴だ、とか色々言われていた気がする。このうえ日本政府から公式に帰国勧告が出たとなれば、それを無視して留まっているやつにはいよこそ嘲罵の矢が降り注ぐ。と思った。そういう人には日本人はとても厳しい、「自己責任論」、少なくともネットの声はとても厳しい、という理解ですが間違ってますか。

実際この日ただちに私はTwitterの更新をやめたのだが、やめなかった何人かがその後やっぱり何やかや言われてるのは目にした。ある人は中傷と戦っていた。よくやるよ、と思っていた。戦いたい人は戦えばいい、俺はムリ、そんなことにかかずらってる余裕はない、て感じだった。

「手記」にはこのあと、なんか大使館批判みたいなことが書いてある。

こういう際の公のふるまいについて、興味ある人もいるかもしれないから、ちょっと経緯をさらってみる。はじめ私は公を大いに頼りにしていた。昨年12月半ばに在ウクライナ日本国大使館に宛てたメール。

(略。私の大使館に宛てたメール。在留邦人が「ロシアの侵攻」をめぐる報道に不安を覚えているため安全情報を発出してほしい、と願い出た)

これに対しては領事部職員の方から懇篤なお返事をいただいた。そこには「当館もメディアのみならず、あらゆる方面から情報収集を行っているところ、特に皆様の安全に関わる重要な情報に接した場合は、その都度迅速に領事メールや海外安全情報(スポット情報や危険情報)の発出を通じて、また、状況によっては在留届等に登録されている皆様の電話やメールに直接連絡する等して情報発信をして参ります」との文言があった。
しかし状況の明らかな悪化にも関わらず、その後1か月、公から何の音沙汰もなかった。それでまた突いてみたのが今月19日のことだ。

(略。私の大使館に宛てたメール。報道はさらに過熱しているが今に至るも大使館から安全情報がない、さすがに必須の状況では、と指摘)

これに折り返し電話があり、領事部職員(前回メールをくれたのと同じ人)いわく、報道に一喜一憂するな、そらメディアはセンセーショナルに書き立てるけれども、大事なのは外交交渉がしっかり行われているということだから。ポイントはそこだから。で要望の安全情報については、いま外務省の方でスポット情報というのを準備中である。
それで同日午後に外務省からスポット情報というものが発出された。「平素から不測の事態に備えた準備を怠らないよう」とのことだ。あまりにお座なりではないか?

(略。外務省発出の簡略な一斉メール)

それで半分ほどはまぁそういうものなのかなと安心しつつ、もう半分はやっぱり何か腑に落ちない感じというか、外交当局がそれは外交交渉に特段の重きを置くのは分かるけれども、外交交渉の継続にもかかわらず事態が急激に悪化するということもあるのではないか、要するにこのチャネルからの情報はあまり頼みにしても仕方ないのではないかと思い、私らは私らできちんと考えて判断して行動しようということで、妻とよく話して備蓄のことも決めたし、帰国の是非についても一応検討して、結果「帰国はしない」ことに決めた。
そこへ今さら、米国の同様の措置に追随したとしか思えないタイミングで退避勧告のようなものが出て、それひとつをもって翻意する理由になどなるだろうか。外交交渉なら今だって続いてるじゃないですか?

――手記

いま読み返して、特段付け加えるべきことも、訂正すべきことも見当たらない。大使館に対しては二つの相反する思いがある。業務の質量に対する敬服は当然ある。だが、肝心なときに助けになってくれなかったという恨みもある。

大使館への思いについてはのちに流亡の記と題する記事にも綴った。追ってまた語る機会もあると思う。

この退避勧告に先立って、確か在ウクライナ米国大使館の家族に対する退避勧告が出されたのだと記憶する。その翌日に日本大使館が追随的な措置をとった。大使館、というのは畢竟外務省ないし政府だが、のやることが米国の追随であるということは、のち二、三のケースで確かめられた。米国で何らかの動きがあるとその翌日に大使館ないし外務省が同様のことを言ってくることはほとんど予言できた。

で、当時その在ウ日本大使館に勤めていた人と何丘で今度トークイベント的なものがある。今週日曜、1月28日に。→ロシアによるウクライナ侵攻に関わる特別追加講演のお知らせ(2022年度早大露文会秋季公開講演会終了後)

さて「手記」1月24日の項、後半。

③私たちはここに残る
私らはこれで現実的に考えているつもりなのだ。社会に激震が走っても、こと私たちの家庭に関しては、ショックアブソーバーシステムは十分であって、少なくとも衝撃を子供にまでは及ばせないことができる。そうしてその限り、いま2歳の子供が楽しくのびのび遊んで成長するためには、日本よりまだこちらの方が好適な環境である、と考えている。
まず前提として、侵攻してくるかもしれない人たちは、憎悪に燃え・血に飢えた殺戮者などではない。私たちのことを兄弟と思っているらしい人たちだ(だからこそ攻めてくるのだ)。彼らは原則的に、その戦略戦術目標を果たすべく統率された行動をとる。その中で市井のウクライナ人を殺傷するようなことがあれば、それは彼らの目的にとって、プラスどころかマイナスである。(知らない中でも特に知らない人は、核兵器を持っていて悪の皇帝プーチンが独裁支配している極悪暗黒帝国おそロシアが攻めてくる、イコール大量破壊と大量死は必至、みたいに思ってるのだろうが、それは虚像だ)
だから私たちは、ロシア軍というよりも、ロシア軍の侵攻ないし政権転覆企図に触発されて起こるウクライナ民族主義過激派の暴動とか、社会の無秩序化の方が恐ろしい。cf.14年5月2日、オデッサ労働組合会館。
それで私たちは、今住んでるこの街中のアパートの周囲を見回す。私らは街の地理を相当によく知っているつもりだが、このあたりにロシア軍の戦略目標になりそうな施設・枢要な地方行政機能・集会だのデモだのが起きるような開闊ないしシンボリックな場所は存在しない。商店街すらない。一言で特徴づけるなら「ビーチに近いエリア」である。港湾からも離れている。
さらに具体的に、地図に即して考えていくに、私らの住む場所から内陸40㎞のダーチャに至る道筋にも、まぁポロシェンコのチョコレートプランテーションとかはあるが、軍事行動の標的になりそうな施設はない。経路はオデッサーキエフの主要幹線道路を一部に含むので、道路自体が封鎖される可能性もあるが、いうて40㎞の道のり、最悪の場合はベビーカーを押して朝から晩まで歩いて歩ききったるわいと思っている。見かねて誰か拾ってくれるだろうと、女子供にやさしいこの国の民のメンタリティにも若干期するところがある。
そうしてダーチャに逃れさえすれば、そこには菜園・果樹園のひと夏ぶんの収穫を瓶詰めにしたものをはじめ、大量の保存食がある。それから千リットルの天水槽と井戸水がある。ガスも独立している。ストーヴは薪である。電気だけは供給だのみだが、最悪の場合は日の出とともに起きて日没とともに寝るわい。
今住んでるアパートの方にもすでに一週間や十日分の食料・水その他の貯えはある。これをさしてショックアブソーバーは十分ではないかと言っている。少なくとも今しばらく状況をうかがう猶予はあるように思う。

――手記

はしばしの記述に私が家族の(つまり妻やその両親の)親露的なナラティヴに汚染されていた様子がありありと見てとれる。知的に怠惰な自分はさして自ら知ろうともせず、14年5月2日の悲劇は「ウクライナ民族主義過激派」によるオデッサ労働組合会館「焼き討ち」だと思い込み、諸説あるという考えすらなかった。市民にとってはよりヤバいのはロシア軍でなくウクライナ民族主義過激派である。そういう世界観だった。

自分の一種のバランス感覚ということでも説明できる。私は14年から明確にルサフォブであった。過去記事「ロシアとウクライナについて思うこと」(2021年10月付)に詳しい。クリミア併合の絶対的な反対者でプーチン独裁の絶対的な嫌悪者で、そこには妥協の余地というものがなかった。だが妻の夫として、妻の両親の義理の息子として、彼らの信じる世界にとっての絶対的な異者ではありたくなかった。どこかに一致点、そこについてなら話もできるという点を残しておきたかった。意思してそうしたのでなく、一種のバランス感覚、心理的機制が働いたのだ。それで、せめてユーロマイダンは非合法暴力革命であるということにしておいた。ゼレンスキーは自身ロシア語話者であるくせに権力愛のために本性をいつわってロシア語弾圧を行っている道化であるということにしておいた。とくに調べもせずに。

ロシアは、プーチンは、そこまでの悪魔ではない、という奇妙な擁護は、これからも繰り返し出てくる。それらはこのバランス感覚ということから出てくる。好きな人を好きでいることと、その好きな人が好きなものを徹底的に憎むということは、たぶん両立できないのだ。

なお、後段に書かれている、自分の生活圏と避難動線がなぜ安全だと言えるのか、の考察については、今日からもほぼ間然するところがない。この時点としては考え切っていると評価する。

さいご。

④だがしかし…
とはいえ胸は騒ぐし、絶対にこれが正しいと自信をもって言うこともできない。正確には、考えて、いや今はこれが正しいとひとたびは絶対の確信をもって言うのだけども、いろいろな情報に接してるうちすぐまた不安が萌してしまう。
ともあれこれが私たちの解答だ:外務省=大使館の勧告には応じない。帰国しない。私たちはだいじょうぶである。
言葉にするといかにも愚かしい頼りない葦のような「解答」だ。死亡フラグというやつか。叩かれそうだから、やはり金輪際、Twitterの発信はやめようと思う。ブログの更新は粛々と続けるが、これはもはや虚構と位置づけよう。私たちの肉体はやはり公の勧告に従って帰国したのだ。この日記は以後、実は日本に帰国した何丘が、現地の生活と心情を妄想し、あたかもウクライナにとどまっているかのようにして書き綴る、虚構日記となる。

――手記

実際にこの日ただちにTwitterの更新はやめて、プロフィール欄に「帰国しました」とウソを書いて、「手記」のタイトルも「虚構日記」としたのだった。面白いことに、本当に多くの人が何丘は帰国したのだと思った。ウソつきますと宣言してウソついてるし、その宣言を見逃したとしても、読んでりゃウソと分かりそうなものなのに、まー誰も何丘なんぞの書くものをそんな注意深く読まないよな、他人の運命に興味ないよな、と身の程を知った。(だので、そんな中でも何丘は帰国したテイでやってるだけで本当は現地にとどまってるのだと適確に認識していた人の存在はありがたかった)

ちなみに帰国しました宣言は、所期の狙いを達したと思う。これをやっていなかったらもっとつまらん中傷を受けたと思う。

1月23日

「手記」によれば、こうだ。

1月23日(日本に帰りたい!!)

わりと大丈夫な時間帯の多い日だった。夜などは「あ、俺、超えた!突き抜けた!」と思うた。(これ書いてる今1/24朝は再びどす黒い不安に苛まれてるが)
妻と子供と公園へ、その名も戦勝公園、お池の水が凍って・・いるのは知ってたが、それが十分安全安心な厚みを持っていることを誰かが最初に確かめたのだ、それからわらわら人が出て、用意のいい者はスケート靴を履いて滑る・ホッケー楽しむ。私たちも氷へ降りたよ。太郎(2歳児)の銀盤デビューは青空天然スケートリンク。
その流れで日用雑貨の店入って、こんなのは餓鬼道だと思いながら、貯え十分な筈のToペーパーとTiペーパーを1コずつ買い足す。しかしこんな餓鬼みたいなふるまいが、少しは心の慰安になるのだ。「そのために何かをしている」ということが。
何が目に触れるかわからないと思いながらニュースサイトを開きツイッターを開き、いつ水が止まるとも分からないからと食ったそばから皿洗い、早めの行水を済ませ、大便一発済ませて「よかった間に合った」など思い、またトコヤ行くことも散歩することも「一朝事あった際に身軽に動けるように」という文脈の上に一々自分の行動を置いて考えてしまう・・人生は妙な季節に入ったものだ。
神経がたかぶってるのはビタミンDが足りてないんじゃないのか、私も飲んでるこれを飲みなさい、と妻に促されて、掌に一錠を受け、諾々とこれをはみ、水で流し込みながら、「日本に帰りたい!!」と一瞬、強く思った。あまり里心というもののない薄情な人間だ。移住2年半で二度目に(だけ)思った。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

日本に帰りたい、と思ったのだそうだ。なら、帰れば。そう言われそうだが、帰る理由がなかった。帰る理由が満ちていなかった。私の感情・気分は黒々と侵略されていたが街は(季節は、城は)無傷なままだった。私において既に行われている侵略は妻の目から見て「ビタミンDの錠剤」を飲むことで解決可能なものにしか過ぎなかった。

備蓄。不定の未来への滑稽な蓄財だった。死ぬのが怖くてつい平等院鳳凰堂など建ててしまった。それによってワンチャン助かるなど思いながら。建てているときせめても心が安らったろう。建ってしまえばまた何か作りたくなっただろう。毎日毎日両手に大きな買い物袋下げて家路を急ぐ不幸な日本人男に今ならなんと声をかけようか。意味ないことすなと言っても無理だろうし無理せんと帰れといっても聞けぬであろうし。その現在をよく感じとけ、とかか。「余計なお世話だ」、既にこの上なく鋭敏に歴史的現在を感じていた。

これらTペーパーは結局、私らでなく私らのアパートにのち住むことになった義兄らに僅かに役に立った。

1月22日

「手記」によれば、こうだ。

1月22日(「ロシアの侵攻」はインターネットの中にしかない)

相変わらず「ロシアの侵攻」はインターネットの中にしかない。不思議だ、不思議だ、不思議だ。そんなものは私がインターネットを見ている時間を除いて今日一日の生活の中のどこにもなかった。
子供の散歩で(犬の散歩みたいに言うが)遊園地に入った。いつもの土日の賑わいだ。観覧車も回ってる。全く馬鹿々々しい。何がリアルか。俺と妻と子のこの生活こそがリアルだ。それ以外の空言、仮象が・・しかし、こんなにも俺の心を曇らすのは何故かよ。なるほど見える世界のうわべの泰平の方にもまた真実はないのかもしれない、コロナウイルスもこの国の人びとはなきがごとくに振舞った、そのくせしっかり蝕まれたのだ。この国の人の世界史からの奇妙な切断感。それに染まりすぎないようにとコロナについても気をつけていたではないか、今も同じことではないのか。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

「ロシアの侵攻」はインターネットの中にしかない、の一文は完全に当時の状況を言い当てている。ツイッターとか日本語ニュースとかそういうものをネットで見ている時間にだけ自分の気分を暗黒に塗り込めるものがあり、それに1日1時間耐えて、あとの時間は解毒であった。

私が思い出していたのは猫のことであった。私がオデッサ住んでた2019年夏から2022年冬までの間に私は愛猫を亡くした。その日私はダーチャにいた。10月だった。昼過ぎメールを確認すると母から一通のメールが来ていた。件名なしのメールだったので受信トレイに本文の最初の一文が見えていた。その一文に猫が死んだことを示す文言があった。それが一瞬目に入っただけだ。私はすぐさま目を背けた。メールを開きもしなかった。

猫の死は私にとってこの世で最も受け入れがたいものだった。私は自分が見たものを否(なみ)しようとした。なぜといって、シュレディンガーの猫じゃないが、私はどうせ遠いウクライナにいて、それこそなきがらだとかを確認することは物理的にできないんだから、私がこの目で一瞬見てしまったほんのひとかけらの日本語文を否認することさえできれば、猫はまだ死んでいないことになるのであった。この世界にまだ私の猫は生きていることになるのであった。私の意識にそれが可能であるかを懸命に試した。滑稽なと思われようが、格闘した。……だがそれには成功しなかった。ほんの一瞬、この目が走り読みした日本語文によって、猫の死は世界の事実として確定してしまったのである。

私の脳髄が受容したほんの一滴の日本語が容易に世界の事実を構成する。1日ほんの1時間接する「インターネットの中の」日本語の猛毒は「ロシアの侵攻」がそこにしかないところのインターネットの外で過ごす残り23時間をもってしても中和しがたいのだった。

ツイッター
ツイッター見ていて大概軽蔑と嫌悪と怒りしか覚えない。怒りというのはたとえばこういうのからくる。
(とあるツイートの引用)
ロイターの糞切り抜きからの伝言ゲーム。下に書いてる(1月21日の記述)がゼレンスキーは「最悪の場合というものを想定するならば侵攻はどこからどのようになされるか」との質問に答えただけだ。それに歴史お宅か軍事お宅か知らないが「すわ第5次ハリコフ攻防戦!」とか嬉々として反応して、それがやたらに回覧される。逆にその前のゼレンスキーの国民向けビデオメッセージ「侵攻なんかないから落ち着け」みたいなのは全然周知されないのだ。Kがいかにも楽しんでるふうなのもそのKが楽しみながらする情勢案内を3.5万人だかが見て戦争脳に染め上げられて、おそロシアによる新次元の蛮行・戦火と流血と涕泣を期待しているのだろうなどという想像が走るのもひたすらに不快で、ひたすらに胃に悪い。とりあえず近い将来の夢は、この冬が過ぎたらKのフォローを外して「フォロワー一人減らしてやったぜざまぁ!」と青空に叫ぶことだ。実際いまKにこれほど精神的に苦しめられている日本人が他にいるかな。とはいえその能力は買うし新刊が出れば必ず読む。対照的なのはたとえばHで、文章が下手・要点抽出が下手・一方全肯定一方全否定で硬直、要するに能力精神両面で3流ジャーナリスト、こんな奴がのさばってるのは奇観。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

こんなことも書いていた。Kというのは小泉さんで、Hというのはウクルインフォルムの平野さんのことだ。精神相当参ってる奴がほざいたこととして大目に見てほしい。小泉さんのフォローは結局外してないが意味は全くない。億劫だから外していないだけ、今はほぼ見てもいない。

新聞
オデッサライフという露字ローカル紙を購読してる。その最新刊に「ロシアの侵攻」のロの字もなし。10ページしかないぺらぺらの週刊紙だが市民の生活に密着した情報がみっちりいろいろ詰まってる。今号は市内某主要道路の修繕工事が遅々として進まない問題、南ベッサラビア料理の紹介、2022年はコロナ禍収束の年となるか、ウクライナの乳製品メーカー各社のプロフィール紹介(謎)、「今週のアネクドート」などなど。

義父オミクロン
義父がコロナに罹患した。オミクロンというやつ。幸い症状は軽いようだ。義父は前の冬に一度罹患して、その半年後にはワクチンも打ったが、こうして今またやられている。義父はリヴァイとエルヴィンを足して2で割らないほどの豪の者で、何があっても最終義父と合流しさえすればプーチンが攻めてきても勝てるというくらい頼りにしてるので、今このときが私たちが一番脆弱なときだ。おーいプーチン、チャンスは今ですぞー。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

購読してたローカル紙「オデッサライフ」はその電子版にいまだにお世話になっている。

義父のコロナ罹患は私たちの安全保障にとっての脆弱性だった。私たちが街からダーチャに疎開する際も義父の車が頼りの綱だった。今プーチンに攻めてこられると困るなと思った。そんなことは一家で私だけが思っていたのだ。オデッサ生活で私は義父に頼りっぱなしだった。だが危機管理については完全に私が主導した。義理の家族における私の主体性獲得のドラマであった。この侵攻前の日々は。

1月21日

「手記」によれば、こうだ。

1月21日(美容院に行ってまたゴリみたいな髪型にしてもらった)

やっぱ睡眠大事だな。よく寝たので一日全然大丈夫だった。
今日も泰平の海。

トコヤ政談
美容院に行ってまたゴリみたいな髪型にしてもらった(ゴリにしてくださいと言うわけではないが結果的にそうなる)
相客もなかったので「ロシアが攻めてくるんやないかとかいうニュースについてどう思います」と聞いてみた。その美容師は歳の頃わたしと同じくらいで10歳の子をもつ女性、生え抜きのオデッサ民。「まぁ不安がないとは言わないけど正直わが国民のメンタリティとして政治ってのはどこか遠くで偉い誰かが自らの利害関係のために演じる角逐の劇であって我々庶民にはその趨勢に寄与することもできなければその内幕を知ることもできない、だから要するに興味がない、政治は政治・生活は生活、何がどう転んでもなるようになるさって感じでもう久しくTVも見ない」私「その政治的アパシーみたいのは14年以降強まった感じですかね、それとももっと根の古いものですか」「どうだろね。何しろこの8年間さんざ聞かされてきたからね、戦争だ戦争だって、もう慣れっこになってしまいました」私「今何か起こるとしてもご自身の生活にはそんな影響がないだろうというお考えですか」「ロシアが取るとしても東の方だけだと思う。ああでもオデッサも取るかもしれないよね、リゾートだし、港があるし」私「食料の買いだめとかは」「してない」

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

トコヤ行って髪短くするのも変な話「いざというときへの備え」の一環だった。いざというときのために――その意識は生活の全局面で通奏されていた。水道から水が出てこない環境で一定期間、街ないしダーチャで籠城するというときに、髪が長いと不快だろう、一度の洗髪により多くの水が必要になるだろう。妻に髪を切れ(そして尼寺へいけ)と言うわけにもいかないから、では自分が切る。行けるときに行っとく。できるうちにやっとく。その意識でトコヤ行った。

この美容院は今も同じ場所でやってるのだろうか、あの姉さんは今いずこ。「街はロシアの侵攻などという(荒唐無稽な)観念に汚染されてはいなかった、侵入され蹂躙されているのは私の脳髄だけで、外部世界は白無垢であった」と私はいうのだが、このトコヤの姉さんの話ぶりからも分かる通り、国境にロシア軍が集結していること、アメリカとかがすわ戦争かと言っていることくらいは、人たちもふつうに知っていた。知って一笑に付していた。当時よく聞かれたのが「戦争?そんなのもう8年続いてるよ!」という言い方だった。確かにドンバスを戦場にロシアとは14年以来「戦争中」であった。西側が「すわ戦争!」とか言うのを聞くと「何を今さら!こちとら8年戦争中よ!」と妙なマウントをとりたくもなるのであった。だが、そこに罠があったかもしれない。ウクライナの人たちは(ロシアとの)戦争というものに誰より詳しい気になっていた。ロシアとの戦争ときいてなまじイメージできるもの(遠い東部でのドンパチという)があってしまった、のでそのイメージに固着した。「何かあったとしても東部が取られるだけ」。「戦争」の矮小化が起きていたのだと思う。

「手記」1月21日の項には今のオデッサ(ウクライナ)現地報道まとめの先駆けみたいなコーナーもあった。

ニュース
①ワシントンポストによるゼレンスキーへのインタビュー:⑴(最悪のシナリオとしてどこかへ攻め込まれるとしたらどこだと思うか、との問いに対して)たとえば歴史的にロシアと関わりの深いハリコフであろう。クリミアの伝で「ロシア系住民の保護」とか称して入り込んで、しかし100万都市ハリコフを丸ごとどうするとかではなくて、そこを端緒により巨大規模の戦争を展開していくのであろう。⑵(今年はプーチンが郷愁を覚えるところのソ連邦の設立100周年の年だが、プーチンはその記念碑的事業としてウクライナ吸収を図っているのではないか、との問いに)老い先長くないプーチンがレガシーのことを考えるのも分かるがウクライナの占領は短期的勝利に終わるだろう、14年以前の友が14年以後は敵になってしまった(=そんなことをすればポストソビエト空間の真の意味での統合はむしろ毀損される)⑶(軍事侵攻の暁にロシアに対して発動されるという西側の制裁について)なぜ制裁が必ず侵攻の後でなければならないのか、なぜ今発動しないのか。予防的制裁ということもあるのではないか。

最後の点に関しては、技術的に難しいのかもしれない(それによってむしろロシアの行動が刺激されるという危険と、ロシアは制裁への耐性が異常に強いという点で)が、私も激しく共感同意するところで、なんか侵攻するもしないもロシアの匙加減・ロシアにとっては良くて勝ち悪くてもノースコアドローみたいな空気になってるが、今のこの状況そのもの、すなわち隣国との国境に10万もの軍隊を置いて圧力をかけ、その主権的意思決定に対する甚だ厚顔な容喙(NATOに加盟するんじゃねえ、とか)をしていること自体に対する懲罰というのを、どうして西側は行えないのか?

②オデッサ市長、市内の防空壕を視察(露語):オデッサ市内にはなんでも353の防空壕があるんだそうだ。基本的に全部使える状態らしい。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

そうか、2022年はソビエト連邦成立100周年だったんかい。老人が何を夢想していたのであれ結果は御覧の通り、ロシアはポストソビエト空間秩序の最悪の壊乱者となった。

制裁について自分が書いてることは、実際当時よく思っていたことだった。というのも私の脳髄は露軍の物理的侵攻に先駆けてすでに侵略されている、この侵略の分をすでに賠償してくれと。私という一人の人間がすでに若干不幸になっている、私に類する少なくない人がそうなっている。実害はすでに生じているのだ。ていうか、ロシアは攻めてくるのだろうかそれとも思いとどまってくれるのだろうか、じゃねえよ、なんで全部向こうの胸先三寸なんだよ、是非ともそうさせないために先んじて何かしろよ。少なくとも恫喝をすでに行っている、それに対して発動しろよ何かを。

オデッサ市長が見回りした防空壕というのは、これはいわゆるカタコンベというやつだと思う。いまソレダールとかバフムートの坑道が話題だがオデッサの地下にも長大な地下通路網があって地元の人はこれをカタコンベという被迫害時代のキリスト教の地下墓地の名で呼んでいる。одесские катакомбыで画像検索。オデッサらへんの地質は多孔質で貝殻交じりで加工しやすい石灰岩で、露土戦争で獲得したハジベイ村をロシア帝国随一の港湾都市オデッサに変貌させるに際し建物の資材は足元から取った。地下から石灰石切り出しては地上に建物を建てた。そういう次第でオデッサの地下には延長莫大な通路網がある。その一部が先の大戦では対独パルチザンの基地として利用されたし、そのほんの一部が今日では観光地として整備されていた。これのことを言っている、と思う。

1月20日

「手記」によれば、こうだ。

1月20日(圧倒的一人相撲感/備蓄)

4時台に目覚めてしまって寝不足。朝のニュース巡回で昨晩ゼレンスキーがビデオメッセージ出してたことを知る。苦手なウクライナ語だががんばって見た、7分半。
(動画)
内容はロシアのウクライナ国境付近での策動が報じられていることを背景に国民にパニックを起こさず静穏に日々を送るよう呼び掛けるもので、個人的にはまぁ驚いた。いつものやり方ならウクライナとしてはここぞと騒ぎ立ててロシアをデモナイズし内にあっては政権求心力を高め外に向かっては自国の窮状をアピって有形無形の支援を取り付ける。でも、今日にも敵が来るかもしれない早く支援を寄越せどころか、「早急かつ不可避の侵攻」の可能性を明確に否定してみせた。
もうひとつ意外だったのは、そもそも「国民を落ち着かせるための」こんな動画を必要と考える政権の国情認識だ。私の管見の外ではやはり国民の浮足立ちがちゃんと観察されるのか。不思議の念。ここオデッサは全く平熱である。少なくとも指標の一つとしての食料品の買い占め(を行わないよう動画でも呼びかけられてるが)は全く起きていない。昨日話した大使館の人もキエフは平穏そのものだよと言っていた。在住者Twitterも大体そんな温度感に見受ける。
それでも侵攻の脅威にさらされてる側のリーダーがこう明言してくれたのは大きい。安心の材料がひとつでも欲しいというなかで今度ばかりはゼレンスキーごっつぁんですと手を合わせた。

だが時系列的にはこのゼレンスキー動画の後に、例のバイデンの問題発言があったのだ。
(ニュース)
このCNNのニュース読んでがくーんとなってしまった。バイデンて何、ポンコツだったの? 当のウクライナが侵攻なんてないから落ち着けと訴えてるときにアメリカが「たぶんロシアは侵攻すると思う」とかほんと何なんだよそれ。しかも「先っちょだけならいいのではないか、という意見も我が陣営にはある」とか素人目にも明らかに言っちゃいけないこと言ってる。ウクライナが「おいおいアメリカさんよお!」と怒るのも分かるで。

ニュース大体見たあと見るのやだなぁ怖いなぁと思いながら小泉さん他のTwitterを見る。そこまでひどいことは起こっていない様子で安心する。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

ゼレンスキーは多分このときすでにアメリカからロシアの侵攻が高い確率で起こることについて情報を得ていた。波紋を呼んだ8月半ばのワシントンポスト砲によれば、ゼレンスキーは侵攻の可能性について米から情報を得ていながら「社会の混乱を避けるため」あえて国民に秘匿した。ここにはゼレンスキー個人の心情というファクターもあったと思う。彼自身、信じることができなかったのだ。彼の人性が「ロシアの侵攻」を真に受けることを拒んだ。それを誰が攻められるか、私たち皆そうだったじゃないか。

なお、このときのゼレンスキーは、髭モジャでもないし、カーキ色の服も来てない。スーツ。

「誰?」と思った人もおられよう。同じ人の今↓

それはともかく、ゼレンスキーおよびウクライナ政権の「侵攻とかないから落ち着け!」と、バイデン以下米政権の「侵攻あるぞ皆逃げろ!」の不一致は、私の困惑のタネだった。ウクライナの安全保障について米国が知り得た機密情報は当然ウクライナに共有しているはずだ。ではこの不一致は何。A、米側が誇張している。B、ウクライナ側が矮小化している。二つに一つだ、だがどっちかを信じるなら、やはりここはウクライナ側を信じるべきだと思われた。だって、ウクライナはただ米国から情報をもらうだけでなく、自らも情報をとっている。隣国が侵攻してくるかどうかという死活的な事項について、本気で情報を収集していないわけがない。ことウクライナ自身の国境の安全についてなら、米よりウクライナの方が情報量が多い。そのうえで大丈夫だと言っているのなら、大丈夫なのであろう。私のこの推論は病的ですか健全ですか。けっこう健全ではないですか。「正常性バイアス」?

あと、この日、在ウクライナ日本人会を開いた。「手記」にはこうある。

在ウクライナ日本人会
つながりのある在住者3人と(つまり私含め4人で)スカイプした。ロシアの話、コロナの話、ここが変だよウクライナ、ここがいいよね日本。私が呼び掛けて昨日の今日で実現した。ロシアイシューにつき私が各地・各家庭の空気感を探りたかった(というと言葉が悪いか)のと、大使館の人と話した感触を皆様にシェアしたかったのと、あと自分は一応万一に備えて非常食等の備蓄をしています(皆さんもどうでしょうか)という話を、自分の恐怖とか不安をなるべく伝染させないような形でする・・のが狙いであったが、全然思ったようにいかなかった。皆さんあまりに気にしていない様子なので毒気を抜かれてしまい、他愛もない話にずるずる付き合ったあと、最後にねじ込むような形で「あの、そろそろ刻限なんでしたかった話ひとつしていいですかね」とかいう切り出しで、自分はロシアがマジで攻めてくることもなくはないんじゃないかと思ってる、それで在ウクライナ日本国大使館の「安全の手引き」というのを参照しながらこれこれの備えをとっています、皆さんも一応どうでしょうか、みたいに話してみたのだが、その口調が自分でびっくりするくらい暗くて重たくて、なんかめちゃめちゃ変な空気になってしまった(と思う)。しかし幸いにというか私のご高説が終ると速やかにその話題は流れ去りまた新手の軽い話が盛り上がりの兆しを見せたので、じゃ私はこれでとかいってそそくさと退室。寂寥。圧倒的一人相撲感。やはり俺がおかしいのか。センセーショナリズムを旨とする無責任なマスメディアとマイクロメディアの言説に踊らされて一人きりきり胃を痛めていてイタいのは俺か。
それで交信のあと溜息ばかりついている私に妻が私たちはどだい大状況に働きかけることは不可能なんだし備蓄とかできることをしているんだから心配しないで、心を蝕むんならもうTwitterなんか見ないで、と慰めてくれる、答えて私、ほれ病原菌も寝不足だったりちゃんとごはん食べていなかったりして弱ったオルガニズムにこそつけ込んでくるであろう、今の私がこう凹んでるのも、たぶん単純に寝不足で、あと例によって朝飯を食ってないからだと思う、今晩よく寝たら明日は大丈夫だよ。あとTwitterはやはりこの状況に対する人々の発言とりわけベンチマークしてる数人の専門家の情報は見ておきたいので見る。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

4人の日本人でビデオ通話した。ロシア語できちんと情報をとって主体的に考えられるかでいうと、私以外の3人は正直、私から見て、こころもとなかった。だから私は、この日本人たちに対して、一種の責任を感じていた。侵攻あるかもしれないから備蓄を始めた方がいいかもしれないよ、ということと、侵攻ないかもしれないから怖がらなくてもいいよ、ということを、二つながら言おうとした。

だが、話してみると、皆さん結構大丈夫そうだった。心身とも健康に日々を送っているようだった。私にはそう見えた。「ロシアの侵攻」という想念に脳髄が侵されている人間はその場で私一人だ、という感じを強く受けて、孤独と寂寥を感じた。私はリアル侵攻に先立つ脳髄侵略で早やだいぶ疲れていて不幸だった。そんな私の憂さ晴らしが「備蓄」であった。

備蓄
水はとりあえず45Lほど浄水が溜まったのでひとまずよしとする。一通り見渡して、モノもまぁ当座これで十分なようだ。そら安心には限度というものがない、ちがうか、何といえばいいか、石橋を叩く回数には上限というものが設定されてないので、まだ足りないかまだ足りないかと米だのパスタだの幾らでも買い足していくことはできるわけだが、それも餓鬼道だよな畜生道だよなと思って足るを知っとく。

銀行行って現金だけ作ってきた。徒歩30分の大きい銀行、行きは公園を突っ切って歩き、帰りはトロリーバスに乗って帰った。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

ちびまる子ちゃんに遠足本編より遠足の準備が好きだという話があった。思い返しても、空の6Lペットボトルに延々水を溜めていく作業は、別に楽しくはなかった。脳髄を侵略してくる黒い想念に駆り立てられていて幸せではなかった。だが駆り立てられて何かしている状態の方が何もしていなくてただ脳髄侵略を受けている状態よりはラクであった。

1月19日

「手記」によれば、こうだ。

1月19日(非常事態宣言in my family)

この日がまぁ非常事態宣言in my family発令の日だ。発令はこのようになされた:妻に折り入って話がと切り出して「自分は専門家じゃないから究極的には分からない、たとえば兵器の移動を示す衛星情報とやらの検証もできないし、ロシアが今そんなことする必然性というのも自分自身完全には腑に落ちてないくらいだからその点であなたを説得することは不可能だけども、こうして米国高官の誰がまた誰が今か侵攻と発言したとかしないとか、そういうニュースに日々接して不安を覚えないということもまた俺には不可能だ」そこからもう一歩踏み込んで「さてそれででは何が起こり得るか何を恐れるべきかということについて俺の考えなんだけども、①ロシア軍を恐れることはないと俺も思う、俺とてロシアの軍人が市井のウクライナ人に対して銃砲を向けるなどということは考えることもできない、しかし②14年のような社会の紊乱(соц.беспорядок)こそは恐るべきと思う、それから③サイバー攻撃による社会・生活インフラの麻痺で⑴水道⑵電気⑶ガス⑷インターネット⑸決済システムといったものが使えなくなるということも理論上あり得ると思う」そこで私たちが具体的にとるべき方策は「何しろダーチャに逃れれば地球上そこより安全な場所はないだろうと思われる、しかし大渋滞だとか交通カオスが出来するかもしれないし、上述②③の状況下で数日はここ(※オデッサ中心部のアパート)で籠城できる態勢はとっとく必要があると思う、そこで水・食料品その他の備蓄を始めようと思うんだが理解・協力願えるか」「うん」

というようなことで買い出しやら方々への連絡やらをわたわたやりだしたのがこの日だ。

ロシアに侵略されてるウクライナに住んでる日本人の日常と心情

私の内心に限って言えば、これより早く、たぶん12月初旬にはもう非常事態であった。「ロシアによる大規模軍事侵攻あり得る」という思念に脳髄がすでに侵略されていた。だが日本語ニュースとかTwitterへの惑溺から顔を上げれば、見まわす世界は一ミリも暗い思念に侵略されてなかった。草は草の色、雪は雪の色でぴかぴかしていた。すでに侵略されてる自分と侵略されてない世界、で我が妻は明らかに後者の住人だったので、私は長らく自らの非常事態を自身の内心に飼い殺していた。それがついに耐えられなくなって、非常事態を外化した、非常事態に妻を巻き込んだ、のがこの日だ。

私が妻に語った「恐るべき未来」予測がことごとく的外れであったことはあえて指摘するまでもないと思う。①ロシア軍にとって、またそれを使役する者どもにとって、ウクライナの「きょうだいたち」は、神聖不可侵なものでも何でもなかった。②ウクライナ社会は混乱しなかった、むしろ団結した。③ロシア軍はウクライナのライフラインに何ら有効なサイバー攻撃は仕掛け得なかった。連中のできたことは侵攻8か月目に物理力を行使して(旧式ミサイルや外国製ドローンを大量投入して)電力インフラを滅多打ちすることだけだった。④私たちのダーチャの存する村が1年間無事を保ったのはひとえにニコラエフの英雄的防衛のお陰であって、もしニコラエフが落ちていれば次はオデッサであった。敵の進軍の通り道にたまたま選ばれていれば、私たちの村が第二のブチャとなったかもしれなかった。

1月19日の家庭内非常事態令で妻に請うたのは、なにも私と世界観・現実感を共有してくれることではなかった。買い出しとか、水を溜めるとか、そういう具体的な行動の次元での協力だった。世界観は共有してくれなくていい、ただパートナーである私の安心のために、私がこういうことをすることを許してほしい、そして、家の中にこういうものが置かれることを許してほしいと。妻も理解ある人だ。それが私の安心のためになるならば、と、快く受け入れてくれた。「どうせインフレだから、腐らないものを買いだめとくことに否やはない」←これが妻の自己納得の最有力根拠であった由だ。

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